ミトコンドリア1972
第4話 挑戦者カミカゼ(中)
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「ヒョエッ」バランスを崩して和夫が尻モチをついた。
 はずみで背負紐がゆるんでラジオがずり落ちる。
「あーあ、せっかくのラジオが壊れたらどうするんだよ」茂が大声をあげた。
「おおっ」カミカゼは、周囲の状況など無視して歓声をあげラジオに見入る。「これは逸品じゃないか」
 さすがはボンボン。若いくせにアンティーク・マニアなのだ。普通の高校生なら見向きもしない木枠の大型真空管式ラジオをつくづく眺めている。
「おい、俺のラジオと交換しないか。最新のトランジスタ・ラジオで短波も入るスリー・バンドの高級機だぞ」
 和夫にとっては渡りに舟だが、残念ながら自分のラジオではない。
「でも、これネリんちのだし」小さな声で口ごもる。
「いいよ。どーせいらないんだし」ネリは太っ腹、というより全然興味がないのだ。
 和夫の顔がパアッと輝く。
「よし、明日学校に持っていってやるよ」カミカゼは、ほくほく顔でラジオを背負う。
 やった。キング・クリムゾンに間に合う。これまでの不審な行動を忘れて、和夫はカミカゼがヒーローのように思えてきた。
「ところであんた何しに来たのよ」ネリは両手を腰にあてて、カミカゼをにらみつける。
 カミカゼは空色のコットン・シャツに濃紺のジーンズといういでたち。いったん自宅に帰って着替えたようだ。
「おお、忘れるところだった」カミカゼはハッとした様子。よっぽどラジオが嬉しかったらしい。マニアの思考は計りがたい。
「先ほどは急な事態で取り乱し、見苦しいところを見せてしまった」カミカゼは、コホンと咳払いしてみせる。「俺は!正々堂々と貴様に決闘を申し込むっ」ビシッと人差指を突き出した。
「ええっ、オレとやりあおうってのか」ネリは妙に嬉しそうな顔つきになる。
「ちがーう。根島を争って、俺とミトコンドリアが決闘するのだ」確かにカミカゼの指先はネリの隣にいる新一を指し示している。
「えっえっ、なんで俺が」寝耳に水の新一は、動揺を隠せずオロオロしている。とりあえずカミカゼの指先をそらそうと右に左に体をずらすが、無駄な努力。
「ええい、お前も男なら逃げ隠れせずに堂々と受けて立てっ!」カミカゼが苛立って目をつり上げる。
 そんなこと言われても身に覚えのない決闘などごめんこうむる。
「いやだっ、なんで俺が闘わなくちゃならないんだ」新一は、ひきつった声をあげた。いいがかりをつけられた気分だった。
 さてネリはといえば、一人でニマッと笑みをこぼしている。何か企んでいる顔つきだ。
「いいねえ。オレをめぐって二人の男が命を張る!乙女のロマンじゃないか」ネリは、ご満悦の表情。はてさて、どこに乙女がいるのやら。
 まずい!ネリが、このモードに突入すると誰にも止められない。新一はカミカゼに文句を言おうとするのだが、頭の中が真っ白になって言葉が出ない。
「よし、それじゃ今度の日曜、午前11時に大黒川の川原で決闘ってことにしよう」新一が口をパクパクしている間に、ネリがかってに話を進めていく。
 大黒川はネリの家がある駅の線路をはさんだ反対側に20分ほど歩いたあたりを流れている。名前こそ立派だが、最近は流れが細くなり水遊びや釣りに来る者はほとんどいない。
 休日の決闘騒ぎもここなら目立たないはずだ。
「おい、ちょっと待て」新一が、ようやくこれだけ口にした。
「いーから、いーから」ネリは新一の困惑ぶりなど意に介さない。
「よしっ、承知した」カミカゼはヒラリと身をひるがえして去っていく。どことなく芝居がかった動作だ。
「ネリ、何でかってに決めるんだよ。俺、決闘なんかやんねーぞ」ようやく口のきけるようになった新一が口を尖らせる。
「いーじゃんか。たまにはカラダ動かして発散させろよ。たまっちゃうぞ」脳ミソ筋肉質のネリは自分の基準でしか物事を考えられないのだ。
「何がたまっちゃうんだよ。だいたい奴と俺がどうしてネリを取り合ったりするんだよ」とにかく腕っぷしには自信のない新一は、なおも食い下がる。「万が一勝ってもネリと付き合う気なんかないからな」
「あったりまえだろ」ネリは平然と言い返す。「オレはモノじゃないからな。決闘の賞品になんかなるわけないだろ」
「ええっ、それじゃ上川先輩が勝っても」今まで道端で小さくなって様子をうかがっていた和夫が、うわずった声をあげた。ラジオの一件もあって、少々カミカゼに同情的になっている。
「そーだよ。あんなキザッたらしい奴と付き合うわけないだろ」ネリは涼しい顔だ。
 カミカゼも惨めな奴。新一も少し気の毒な気分になった。まあ、ネリの言い分も正しいし、ネリなんかに目をつけたりすること自体が不徳ってやつなのかもしれない。
 完全にカミカゼの一人相撲だ。それにしても一人相撲に付き合わされる俺っていったい。新一は、大前田先生にミトコンドリアよばわりされたときより情け無い気分になっていた。
「うーん、せっかくのイベントが、あんまり早く決着ついたら面白くないな」ネリが目を輝かせる。なにやら思いついたようだ。
 本来、新一が一番好きな表情なのだが、今日は妙に胸さわぎを感じる。
「よっしゃ、土曜日にオレが一日特訓してやろう」ネリは自分の思いつきに喜んで、固めた拳をぐっと上に突き出す。
 部活を止められてバンドに参加しているネリだが、この手の話になると血が騒ぎだして押さえられなくなるのだ。
「ひえっ」新一は悪化する一方の事態に思わずたじろぐ。
「まあ、がんばれや」茂はどうせ他人事と高見の見物を決め込む。
「友達がいがないわねえ。あなたたちも付き合うのよ」ネリは、きっぱりと言い切った。有無を言わせない口調だ。
「ふえ」和夫が泣きそうな顔になる。
 三人の中でも一番の運動嫌いである茂は、全身から力が抜けて、しぼみかけた風船人形状態。
「おっしゃあ、やるぞう!」青ざめた三人を尻目に、ひとり気勢をあげるネリだった。

 さて、いよいよ土曜日。新一たちはネリの家から少し離れた公園に集合した。
 なにしろネリは部活停止の謹慎中だから大っぴらに学校のグラウンドや体育館を使うことは出来ないのだ。
「じゃあ、みんな体が硬そうだから柔軟体操からいってみようか」ジャージ姿のネリは喜色満面。やる気のない三人とは対照的だ。
 言うが早いかネリは足を左右に 開いてぺったりと地面につける。いわゆる股割りというやつだ。さらに交互に 右左とつまさきまで手を伸ばして顎を膝にくっつけてしまう。
 あまりにもたやすくやってのけたので、茂は自分にも出来そうに錯覚してしまった。
 足を思いきり開いてみるが、180度どころか120度にも達しない。股間に痛みが走って、とてもじゃないが、これ以上は無理だ。と思ったのだが、うっかり足をすべらせて、さらに広げてしまった。
「ギョエー」激痛に見舞われて叫び声をあげたが、体勢を立て直すことは不可能だった。
 結局、前のめりに倒れてベチャッと地面につっぷした。まるでつぶれたカエル。手足をピクピクさせている。
「最初から完璧にはできないよ。できるとこまでやってみて」さすがのネリも茂の惨状に呆れ顔だ。
 ネリの言葉に新一と和夫がおそるおそる足を開く。
 和夫は、すっかり恐れをなしているので、大きめに足を開いた休めの姿勢ていどにしか見えない。
 昨日カミカゼが持って来たラジオは、本当に真新しい高級機だった。心はすでに今夜のキング・クリムゾン特集にある。という訳でトレーニングなんかに身が入るわけもない。
 新一は、とりあえず軽い痛みが走るところまで 頑張ってみるのだが、股間と地面の距離はまだまだ遠い。
「ほら、もうちょっとがんばって」いつの間にか背後に忍び寄ったネリが、新一の両肩をグッと押し下げる。
 腰の入れ方が違うのだろうか、小柄な少女とは思えないパワーだ。
「グギョエッ」新一が第二の犠牲者となった。股間が砕けそうな激痛に情け無い叫び声をあげる。
 恐怖のあまり和夫は地面にへたりこんでしまう。
「そろそろ準備運動も飽きたし、ひとっ走りといこうか」ネリは両手を高く挙げて伸びをしながら言う。ただ一人絶好調だ。新一たちの状態など考慮する気はない。
「あ、ああ」三人はヨロヨロと立ち上がった。走るだけなら、肉体的に少しは楽だろう。
「さあ、ちゃんとついて来るのよ」言うが早いかネリが駆け出していく。
 その早いこと。ピュンと風を切る音がしたように思えた。
 ボカンと口を開けている三人を残したまま、あっという間に後ろ姿が遠ざかっていく。
「おい、あれについてこいっていうのか」人一倍足には自信がない茂がボソリとつぶやく。
「まるでエイトマンかサイボーグ009だな」新一は、やけに古いアニメを引き合いに出す。小さい頃に見たやつだ。
 とりあえず三人は、えっちらおっちら走り出す。止まったままだとネリにどやされてしまうからだ。
 そこにネリが駆け戻ってきた。
「ったく、もう。遅いなあ」口をとんがらせる。
「お前のスピードについてけるわけないだろ」茂も負けずに口を尖らせている。
「そうかあ、そうだよなあ」ネリは他愛なく納得した。「じゃあ、オレはウサギ跳びでいくか」
 ネリはしゃがんでピョンピョン跳びはじめた。
 ウサギ跳びは、膝に負担がかかりすぎるとの理由から、体育の授業から外す学校が増えてきた時期ではあった。ネリは、そんな細かいことは気にしていないようである。
 慌てて三人も走り出す。なんと、これが追いつけない。
 いくらネリでも、ウサギ跳びじゃないか。そう思った新一がダッシュする。やっぱり無理だった。
 普段走ってないせいか、ほんの少しダッシュしただけで息が上がってくる。チラリと後ろを振り向くと、茂と和夫はすでにかなり遅れていた。
 体重超過の茂はハナから真面目に走る気がないし、和夫は明らかにスタミナ不足だ。とにかく猛スピードでウサギ跳びを続けるネリの後を三人がヘロヘロと追う。ハタから見たら、かなりヘンな光景に違いない。
 広いわりには人けの少ない公園で、あまり注目されていないのが幸いではある。
 公園の遊歩道を3周して約二キロ。ネリは一気に跳び続けた。
「ま、とりあえずこんなもんか」ネリはピンピンで、機嫌良さそうに手足を伸ばす。
 新一たちは、すっかりアゴを出してゼイゼイいっている。いったい次は何をやらさせられるんだ。三人は戦々恐々とした心持ちだった。