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November 2003
<11月分日記 01-10>
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1日(土)
文集

押入棚の上にあった袋を取り出し、整理するために中身を確認していた。
中身は小学校〜中学校の文集であった。
小学校も中学校もどちらもクラス数は一学年3クラスないし4クラスだったため、大概は一文集が一学年という形で作成されていた。

遠足や運動会、社会科見学の話。
国語で作らされた「浜辺の白いいす」の絵本。
新聞記事を切り抜いて、それについての感想を書かされているスクラップブック。
サッカー関係の資料。
劇の台詞集や楽譜。

自分の記憶に確かに残っているものや、それらに触れることによって思い出すことものなど、色々あった。
懐かしいなぁ。

ぱらぱらとめくってみると、誤字・脱字・ひらがな書き等あふれており、その辺りに「小学生らしさ」を非常に感じた。
中身を読んでみる。
・・・。
・・・。
あったなぁ、そんなこと。
あれ、そうだったっけ?

比較的自分と仲の良かった(と思われる)人の文章を読み、一人くすりと笑う。
さて、自分の文は、というと。

・・・「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもんだ。
俺、昔っからこうだったのか?
『9月30日に予定されていた運動会が雨で流れて、楽しみも流されたけど〜』
小4の運動会についての作文である。
なんとかわいげのない文であろうか。
読み返しつつ自分でつっこみが入れられる文章だ。
だが、これ以上深くは語るまい(まだ墓穴は掘りたくない)。

色々とものを減らそうと画策しているしている最近であるが、やはりこれらは捨てること出来無いなぁ。


2日(日)
改訂作業

トルコ旅行記の更新が全く進まない。
ネタはきちんと机の左に積んであるのに。
大量にあることを考えると、なかなか筆が進まないんだよなぁ。

そういえば、「サイト説明」とかその辺り、立ち上げ当初から全くいじってなかったなぁ。
この間Columnのマイナーチェンジも行ったことだし、ここらで少しばかり文言変えておこうかね。

・・・。
・・・。
・・・。

おし、これでいいか。
何処が変わったかと問われても、むしろ変わったところを探す方が難しいほど変わり映えの無い改訂になってしまった気がするが、まぁこんなもんだろう。

最近の日記同様、いまいち更新にも切れがないなぁ。


3日(月)
寝違え

数年ぶりに首を寝違えた。
左後ろの首筋である。

首を思いっきり前にしたり、捻る、後ろに倒す等という芸当ができなくなっている。
通常生活で上記に羅列した行動を起こすことはあまりないので、その点では良いのだが、困るのは「目薬を挿す」という様なときである。
こればかりは上を向かない限り、うまく行かない。

目が乾燥してぱりぱりなので、目薬を挿したい。
だが、上を向くと果てしなく首が痛い(というか、上を向くことが不可能)。
ジレンマである。

また、それだけではない。
首筋の痛みの延長線上の頭も痛いのである。
それも半周するくらいの部分全体が。
どちらかというと、寝違えそのものよりも、附属してきたものに悩まされている気がする。

早いところ治ってくれないと、かなり辛いかもしれない。


4日(火)
だからスペックにはこだわりたい

職場にて、パソコンでいくら作業を実行しても、その作業をアプリケーションに拒否される。
あまつさえ、ソフトを立ち上げて、一作業行おうとしただけで、ソフトが強制終了させられた。
最終的にはフリーズしやがったし。
ったく。

一太郎とロータス123とNetscapeとExcelを立ち上げておいて、ワードを使っていただけなのに。
流石にロータスとExcelの並行作業は重かったかなぁ。

Windows95でメモリは128MB。
CPUはPentium Pro(r)。
メモリが足りないのか、CPUが弱かったのか。

今回は幸いにして、そんなに非道い損害を受けはしなかったが、どちらにせよ、どんな作業をしていてもフリーズしないパソコンが欲しい。
少なくとも、普通文章作業で停まっては欲しくない。


5日(水)
試み、破れる

水面下で密かに画策していると、ダメなのかもしれない。
今朝方決心したことが、ものの見事に朝の内に打ち砕かれた。
・・・最近、何もいいことがないなぁ、と思う鬱期に突入中か。


6日(木)
忙日記

なにやらこのところ忙しい。
繁雑なときには、精神的にも苛ついてしまい、読みやすい日記が書きづらい。
まだまだ精神的修行が甘いな、ほんと。


7日(金)
金曜日

時間の過ごす場所によって、経つ時間の流れが全く変わるなぁ、と思った一週間であった。
他の働く人が聞いたら「当たり前だよ」と言うが、自分はさっさと家に帰りたい。
家でゆったりごろりと寝ころんで過ごすのだ。
そして今日も、また時間が過ぎてしまった・・・(謎)。


8日(土)
映画三昧

三昧、と言う言葉に因んで本日は映画を3本(違う)観た。
「ソフィーの世界」と「ぴんぽん」、そして「Dr.ドリトル」。

「ぴんぽん」
あのゆったりとした世界が好きだ。
高校生故にドラマ仕立てになるのが許される辺りが。
原作はもっとギャグに走っているらしいが、俺的には原作見ていないのでこちらで良し。
若さ故に燃えられるのであろう(遠い目)。

今回はHDDの整理のために見直していたのだが、見ていてあることに気が付いた。
とある一場面が、近所の駅前風景に非常によく似ていたのである。
思わず、通り過ぎた風景を再確認するためにもう一度巻き戻す。
・・・・。
間違えない。
あのマクドナルドの配置といい、その横にあるガラスのショーケースといい。
10円賭けてもいいぐらいに似ていた(謎)。

「Dr.ドリトル」
こちらは絵付きの原作を読んでいたので大まかの内容は知っている(というか、もともと要約してしまえば『動物の言葉が解るお医者さんの話』で、色々な動物を見るためにあちらこちら旅をしていく、というものなので話の筋も何もないのだが)。

原作を大幅にアレンジして感動ものへと変貌を遂げている。
まぁ、そう言ったところで主演がエディ・マーフィーなので、笑えるものには違いない。
また、見所はそれだけではない。
当然に動物達の演技である。
あの、子豚物語、もとい「ベイブ」のスタッフが担当しているため、それだけでも楽しめる。

「ソフィーの世界」
さぁ、みんなで哲学の世界に入り込もう。
そう誘いかける話だ。

哲学について学んでいると、その時代毎の哲学世界に迷い込んでいく。
そして、実体験と共にそれぞれ歴史に残っている哲学者の言わんとしていることを理解していく。
物語が進むにつれて、少佐、と呼ばれる人物(?)が明らかになっていき、その結末は・・・。

大学の頃に教職の哲学及び倫理で学んだ内容がフィードバックした。
ただ、一冊の原作本をまるまる一本の映画に縮めているので、「哲学について知ってみようかな」という内容には、少々(哲学それぞれのテーマ内容が)解りにくかったように感じた。

まったりと家の中で過ごしたい場合には、やはり映画に限るねぇ。


9日(日)
衆議院議員選挙

選挙、行ってきました。
とりあえず(精神的にはいざ知らず)選挙権を行使出来る年齢ではあるので。

いつもの如く昼過ぎにのっそりと近所の中学校に足を運ぶ。
卒業して早云年。
そう言えば昨日電話をくれた友人の話によると、中学の頃に社会を担当していたのっぽの先生は、今や教頭になっているらしい。
月日の流れを感じるなぁ。

さくさくと衆議院の小選挙区・比例代表及び最高裁判所裁判官罷免について投票し終え、会場である中学を出る。

選挙について思うことが2つばかり。
一つは、小選挙区で落とされた人が比例代表にて救われるのは詐欺だということ。
政治家個人として否定(というと言い過ぎか?)されたのに、「政党としての主張を行える人であるから」として、党として推すのは変だ。

政党に所属している人というのは、Aという主張に共感できるからA党というところに属している、という解釈がなされるのが普通である。
そのため、選挙等に出馬する際には所属するもの、またはその政党に共感できるものに対しては「党」としての後押しをしているのである。
比例代表はこの様な考え方に基づいているものである。

さて、それでは小選挙区の出馬人についてはどうか。
小選挙区に出馬する人は、「その人個人の考え方」という確固たるものが投票人にて問われるのである。
非常に明確な選出方法である。

だが、問題は小選挙区と比例代表の関係だ。
比例代表は「党」を選出するもので、小選挙区は「個人」を選出するものだ。
この両者が被らなければ問題はないのだが、被っているから問題なのである。
小選挙区出馬の人が落ちても、比例代表の上部順位にあるために、比例代表で救われる。
これでは、小選挙区の意味が半減するように思える。
選ばれなかった人が、党内の助け合いで議員に選出されたように見えてしまうからだ(実際のところはどうなのか、何とも判断つかないが)。
比例代表で選ばれた人は、「党」としての意見しか言わないというわけではない。
つまるところ、自分の意見だって(多かれ少なかれ)言えてしまうのだ。
うーむ、納得いかない現体制だ。

二つ目は、最高裁判所裁判官の罷免について。
投票用紙には各人の名前が列記されており、罷免したい人には「○」を付けるようになっている。
問題は方式ではない。
「誰が何をどのようにしていた(る)人なのか」
ということが全くわからない、ということだ。

議員の選出のためには、
「自分は今まで何をしていました。そしてこれからは何をしていくように画策しています。だから自分に入れて下さい」
という主張をすることが、一票獲得のために必要不可欠となる。
逆に、罷免されたくないためには、今までの所行をおおっぴらにしない方が都合が良い(悪い方向で考えると、だが)。
そのため、「罷免した方が良いのか否か」という考慮材料が全くないのである。
資料を自ら探し出せばないこともないのだが、ただでさえ投票に行く人が少ない昨今、わざわざそこまでする人はいないだろう。

そして、結果は大概「罷免者無し」。
納得がいかん。
大体、裁判所関係は戦前から厳保守体制のまま変わってないし(戦後のGHQによる再編成ここだけは日本側が手を付けさせなかったため)。

普段、政治やら裁判やらの社会的なことに対して全く考えないが、今日は少しだけ考えてみたりした。


10日(月)
年賀状

まだ11月に入ったばかりだと思ったら、既にクリスマス風景どころか年賀状の発売が始まっていた。
今年のお年玉付き年賀状の「お年玉」は、海外旅行がついていたり、年賀状発送者にも「お年玉」が当たったりするらしい。
「日本郵政公社」になってから始めての年賀状だからはりきっているのかもしれない。

「年賀状」というはがきの形態で自分から出さなくなって早2年。
今年はどうしようかなぁ。


2003.November
秋か冬か、11月

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