それでも、ツキノカゲを見たいと思うのです。

「この1987年度版NCRの一番の特徴は、リソースシアリーが可能であるという点です。これが1986年のNACSIS(ナクシス)発足と合わせ、書誌階層のある日本の目録規則を完成させたと言えます。この書誌階層と言うのがつまり、」
 ひたすら坦々と展開する朝一番の講義は、全体的に眠気よりも気怠さの方が先立っていた。やや低めのアルトで繰り出される講師の声に、ちらほらとメモを執る音が掠める以外は、只々湿気を帯びた空気が茹だった懈怠心を助長させている。
「このような基本記入制は現在、1987年度版の書誌単位と合わせて、基礎単位、つまり単行書誌単位を作成することによって、OPACでの検索がより明確化され、」
 取り落としかけたシャープペンシルを握り直すと、拍子に零れ出た片息がノートの表層を撫でた。ついで倦んだ感覚の中で必死に掻き集めていた平生をも手離しそうになり、慌てて己を叱咤する。
「また、書誌交換を行う場合の精粗を定めるため、ISBN、ISSN、ISBDの三段階に水準を定めており、」
 なにも、変わってしまったわけではない。
 そうとわかっているからこそ、湧き上がる虚脱感に蝕まれている。理解と自覚の狭間が、これほどのものとは思わなかった分だけ、その重みに耐え切れず……際限のない焦燥に似た妄執を持て余し、ただ手の中のペンを転がす。
「鞠明?」
 薄皮一枚向こうで、自分の存在がこの世界から希薄になり、完全に切り離されてしまえばいい。そう思うこと自体が、今まではっきりとはしていなかった何かが、カタチとなってしまったことの証明なのかもしれない。
「まぁりぃあ、あんたちょっと聞いてるの!?」
 くぐもった視界に、鮮やかな色彩が飛び込んで来て、と同時に両頬を抓まれた。
「はぇ? 授業は……終わっちゃったん?」
「何言ってんの、まったく。 終わったも何も、先生だってとっくにいないよ。この陽気だし、ぼーっとするものわかるけどさ。資料組織演習の講義で目ぇ開けたまま寝るのは、あんたくらいだよ」
 期末考査でどうなっても知らないよ、と続けられて、ほぼ白紙のままのルーズリーフ上に現実を思い知らされる。
「はいはい、おねぇちゃんがノート貸してあげるから、泣かない泣かない」
 ぽんぽんと頭を撫でられ、苦笑とともに丁寧に纏められたノートが差し出された。
「泣いてへんもん。ノートは遠慮なく貸してもらうけど」
 もう慣れてしまった、『友達』に対する無邪気を装った遣り取り。こういうキャラクターを演じるのは、それが楽だったからに過ぎない。――多分、最初はそうだったのだ彼の場合も。
「でも、あんた本当に泣きそうな顔してる……ううん、してたよ。さっきまで」
 遠慮がちに、けれど真摯な眼が自分を映す。欺瞞で塗り固めた、この身を剥されているような恐怖が浮かぶ。
「なんか、あった? それとも気分でも悪い? しんどいんだったら、帰った方がいいよ」
 ノートならいつでも貸すから、無理しない方がいいよ。そんな言葉の一つひとつが、酷く痛い。
「……な、なんでもないって。ちょっと寝不足なだけやから」
 手荷物を乱暴に鞄に突っ込み、席を立つ。これ以上、この真面目な視線に晒されたくなかった。
「あ、ノートのお礼にお昼おごるわ。これから図書館でゼミのレジュメ書くから、二限の授業が終わったら連絡するし」
 変わらない、少なくとも自分には変わらない笑顔を作り、調子よく喋る。その裏側で、苦渋に満ちた違和を押さえ込んだ。
「まりあ……」
「じゃ、ノートありがと。コピーしてお昼には返すから」
 表面上は元気よく駆け出すように、けれど実際は逃げるように、教室を出る。ひやりとした廊下の空気に包まれて、ようやく安堵とも憔悴ともとれる吐息が落ちた。
 わかっている、とっくに気がついている。だけど。

――だからと言って、どうすればいいというのか。



月影 〜ツキノカゲ


 地上五階、地下三階建ての私立文黎大学付属図書館は、未だ建て替えられて数年の新築の小奇麗さを有していた。学内の全学部・学科及び研究室の付属図書室・資料室の総元締めとしては手狭であったが、閲覧・自習用の机の多さが相し、学生の人気は上々だ。
 ガラスと人口大理石で彩られたエントランスを抜け、一階の軽読書用の雑誌や最新の新聞等が置かれたブラウジングルームの先の階段を二階分上がる。立ち並ぶ人文・社会系の書架の間を通り――そこで、中庭に面したガラスの壁に垂直に配された、キャレル席に空きを見つけ小走りに駆け寄った。
 タイミングのよさに、ふと顔が綻ぶ。二人掛けや四人掛けの閲覧席とは異なり、座ってしまえば完全に外界とは切り離される一人用のその机は、定期試験期間外であろうとも、常に塞がっている人気の席だった。朝一番の開館と同時に目星をつけた席に荷物を置いておく――所謂、席取りと言われる図書館利用規定違反行為が頻発するのも、この数席の机に多い。
 席に着くと早速、数冊の参考文献とコピー資料、そしてレジュメの原稿を鞄から引っ張り出す。
 肌に感じる、図書館独特の紙の匂いと清閑な空気。
 気がつくと、最近は此処に来ることが多い。一種の閉ざされた空間の趣が、不安定な今の自分を少しでも落ち着かせてくれるような気がするからかもしれない。
 カチカチとシャープペンシルの頭を押しながら、予めチェックしていた資料の付箋を頼りにページを(めく)る。原稿そのものはワードで打って仕上げているので、あとは注釈を示すだけだった。明後日という期限を考えれば、それほど急く作業ではない。――だが、それでも数文字を埋めるまでもなく、手は停まってしまう。

『じゃあ、先生は…――あたしがキスしてって言ったら、してくれるん?』

――どうして、あんなことを言ってしまったのだろう?
 少なくとも、自分はいつもの冗談のつもりではなかった。笑い飛ばせるほど、軽い気持ちではなかった。
――では、何故?
 それは、口惜しかったから。結局彼にとって、自分の存在もどうでもいいものなのだと、突きつけられたようで。

『別に。……どうでもいいさ』

 その言葉が、まざまざと現実を映していて。
 あの瞬間……唇を離した瞬間に内から湧き上がってきたのは、自分への嘲り。只、それだけだった。
 『友達』を装って、いい気になって浮かれて。自分にとって気持ちのいい対応と気遣いに、甘え頼って。優しくて都合のいいことばかり与えられるのが、近づいている証拠と勘違いして。どんどん深入りして、求めて求めて求めて……そんな、自分を知ってしまったから。
 ふと溜息を吐いて、そのまま机上に突っ伏する。
 本当に、馬鹿みたいだと思う。でもわかってしまったと同時に、それは抑えきれなくなって。
――だから、嗤った。
 自分に出来ることは、それだけだったから。そうでなければ、そのまま何もかもが壊れてしまいそうに思えたから。
 本当は、今でも期待している。あの優しさに、縋ろうとしている。今日のこの時間、いつも第五号棟三階の西側第一教室で行われる講義を聴講している自分がいないことに、気づいてくれるかと。そして、気にかけてくれるかと。
「ほんま、馬鹿みたい」
 それでも、『友達』をやめたくはないなんて。

『……私の講義で内職してた上に居眠りとは、大した度胸だな』
 初めて自分に向けられた言葉は、横柄で傲慢不遜この上なかった。

『――鞠明』
 そして、初めて『友達』として自分を呼ぶ声。

『ね、先生』
『ん?』
 そう反応が返ってくるのが堪らなく嬉しく思えたのは、いつの頃からか。

『誰にでもすぐ懐くだろ、お前。おまけに、まわりに溶け込むのも早いし』
『――鞠明は、すごいな』
 眩しそうに少し羨ましそうに細められた、瞬間瞬間で確かに自分を、自分だけを映している眼。

 聖夜の星空を二人で見上げた時、その距離の近さが妙に嬉しかったのは既にその時には自分の内の何かが、変わっていた証だろうか。
 本の貸し借りを名目に休日にも押しかけて来た自分を、文句を垂れながらも迎えてくれ、相手をしてくれた――それがたとえ気紛れだったとしても、あの充足感に変わりは無い。
 ほんの小さな関わりでいい、こちらを向いてくれるだけでいい。そのことの大きさを忘れていた愚かさに、求めた先の迂闊さに。

 込み上げてきた嗚咽(おえつ)を、抱え込んだ腕で押し殺す――その重みでシャープペンシルの芯が無残に折れ、紙面を転げ床へと消えた。


 時間の流れとは、時としてこんなに早くにも遅くにもなるものなのかと思う。結局、レジュメを完成させることは叶わず図書館を出た時には、既に二限目は終了し昼休みとなっていた。
 一歩外に出ると、昼時の賑やかさが塊となって一気に襲い来る。何かと狭隘な敷地内に、こんなにも大勢の人間がいたのかと驚かされるのは、この時間帯にはいつものことで。ふらふらとその流れに身を任せ、友人と待ち合わせをしている食堂の方へ足を向けて――思わず立ち竦んだ。
 学生の群れに紛れつつ、見慣れたスーツがしっかりとした足取りでこちらに向かって来ている。距離的に見て、もう避けられるものではない。況してや、気づかぬフリなど出来るわけがない。
 半ばパニックに陥りつつ、けれど無視できない現実に、思い切って自分から声を掛けた。
「――先生っ!」
 覚悟を決めて、出来るだけ自然な笑顔を無理無理浮かべながら、彼の前に立つ。
「これからお昼ですか?」
「いや、さっき済ませたところだ」
 相変わらず抑揚のない深い声でそう言って、彼はほんの少し目を伏せた。
「ふぅん。ついさっき休みになったばっかりやのに、早いんですね」
 こんな風に、まるで何もなかったかのように喋る自分は、何だか自分ではないようで。嫌悪感よりも、恐怖が湧いて出る。
「お前は、図書館で調べものか?」
 鞄に入りきらず腕に抱えていた資料は、本当はゼミの先生に借りたものだったけれど、何故か今はどんな小さなことでも否定してしまったら終わりのようで。
「そぉなんです。明後日までに仕上げなあかんレジュメがあって。……そやから緋川センセの講義モグリはお休みです」
 苦手な嘘を吐き、また笑う。耳で聞く限り、自分に向けられる声は平静そのものだけれど。――何かヘン。何処かぎこちない。
「三回生になれば、そんなもんだろ」
 そんな受け答えはいつもと変わらないのに、僅かに目線がずれている。……自分が意識しすぎているからだろうかとも思うが、そうでもない。いつもはいっそ憎らしいほど落ち着いているその口調が少し早く感じるのは、絶対に気の所為だけではない。
「いちいち言われんでも、わかってますよ」
 なんだか自分も、普段より笑ってみせる回数が多い。不審に思われていないだろうか、そのことが酷く気にかかった。――と、
「――緋川先生、ちょうど良かった」
 優しそうな顔つきの男性が、彼の後ろから声を掛けて来た。社会学部の先生だろうが、残念ながら見知った顔ではない。
「高塚先生」
 予想通り耳にしたことのない名を呼び、彼が振り向く。瞬間、その横顔にいかにも助かった、とでもいうような安堵の気配を見て――愕然とした。
……先生は、あたしを避けている?
 疑惑は、すぐに確信に繋がる。そう言えば、普段は真っ直ぐに眼を見て喋る彼が、先程から一度たりともまともに顔を見てくれていない。
「この前、依頼した原稿についてなんですが」
「はい、もう粗方は仕上がっています」
 さっきまで返事を返してくれていたのは、あたしへの気遣いだったの? 本当は、あたしと話したくもなかったの? ……あたしの存在は、貴方にとって迷惑以外の何ものでもなかったの?
「そうですか。実は、少し変更する点がありまして……おや? もしかして、お取り込み中でしたか?」
 男性が――高塚先生というらしい――不意に、少し申し訳なさそうにこちらを見た。
「いえ、ただ立ち話をしていただけですから」
 その言葉は多分、今の自分にできる精一杯で。何とか自然に、早くこの場を離れなければと、気持ちばかりが焦っている。これ以上此処にいたら、きっとどうかしてしまうだろう。今だって、彼の気遣わしげな視線を感じているのに。
「……それじゃ緋川先生、あたしもう行かなきゃならないんで」
 悟られてはいけない。これ以上、余計な気を遣わせてはいけない。
 だから出来得る限り普段の有村鞠明を掻き集め、笑顔を作って、そのまま背を向ける。多分、それでも気に病んでくれるだろう優しさの為に、いかにも気楽に手を振って。
 けれど、背を向けて歩き出した瞬間に涙が零れそうになって、慌てて少し上を向く。そしてそのまま、どんどん歩きつづける。
 角を曲がって、人気の無い校舎の裏側まで突っ切って……やがて、張り付いていた笑みが崩れ落ちた。ついで、ひくりと喉が引き攣り出す。
「嫌われちゃったんだ、あたし」
 そう言葉にすることで――頭から殴りつけられたかのような絶対的な絶望感が急激に襲い、反して足元がゆっくりと瓦解していくのを、鞠明ははっきりと自覚した。

「今日の学級会は、先生からお話があります」
 今年赴任してきたばかりの、そろそろベテランの域に達そうとしている中年の男性教師は、特徴的な細い目で教室内を見回した。
「先生は今日、とてもショックなことを聞きました。――皆さんの中に、けして許されるべきではないことをしている人がいるのです」
 総勢三十人のクラス員を順に見ながら、彼はゆっくりと机と机の間を歩き始めた。児童たちはそれが、教師がお説教を始める前のくせだと熟知していたので、皆一様に自然と視線を泳がせている。一体誰が怒られるのかと、好奇心と不安を織り交ぜながら。
 やがて教師は廊下側の並びを通り過ぎ、その一番後ろの机の前で徐に足を止めた。
「……ぁ」
 その席に座っていた年頃の子よりもやや小柄な少女は、びくりと細い背を震わせる。
「――有村さん、起立しなさい」

 油臭を放つ木製の床に転がった、赤い残骸。冷たい表面に展開する、白い断片。
 蹲るその温度を、忘れてしまったわけではない。只、どこかで消してしまいたいこと。

……ベキジャナイ


 眠れないまま絡みついた寝具を引き剥がし、そっと雨戸を開けて裸足のままベランダに出た。
「今日は、お月さんは見えへんのか」
 虚ろな夜空は、重く生ぬるい風に晒され、微動だにしなかった。

『普通に星を観る場合は新月から三日月くらい、天体望遠鏡で月を観るなら半月からそれより少し大きいのが、一番いい』

「……うそつき」
 くすりと、独り笑う。――たとえ新月であろうと、遠く離れた大阪の空は明るすぎて、月のない夜には、ほんの僅かな一等星しか天を飾るものがない。
「夏のホタル、楽しみにしてたのにな」
 けれど、それももう叶わない。原因は、自分が言ったあの言葉。そしてその根底にあった、自分の本心。
――何も、初めてだったわけではない。
 一応ファーストキスは中学の時に、高校の時には当時付き合っていたひとと、片手で数えられる程とは言えキスは経験したのだから。……けれど、あの時の口接けは、それまでのものとは全く比べものにもならなくて。

 一瞬のことなのに、ひどく長い時間。
 頬に添えられた、大きな冷たい手。
 近すぎて見えない、彼の表情。
 早鐘のような激しい鼓動、熱くなる体温。
――そして薄い唇の温もりと、微かな煙草の香り。

 もし、もう少し、後少しあの口接けが長かったら、きっと自分は抑えることが出来なかっただろう……あのまま、彼の背に腕を回してしまいそうになる自分を。
 怖かったのだ。そのまま、求めつづけてしまいそうになる自分が。
「なんで、今頃になって」
 出逢って、一年。長いようで、短い時間。
「だって、さ。三十一やで、三十一。オヤジやん。そのくせ、妙なとこガキやしさ。偉そうで、カッコつけで。愛想なしの不器用なくせに、くっさい台詞は平気で言うし。几帳面なんかと思ったら、だらしなくて。自立も碌に出来てない甘えたで、人のこと言われへんくらい我侭で。……甘党の上に、コーヒーに牛乳入れな飲まれへんような子ども舌でさ、大学の食堂でもハンバーグとかオムライスとかばっか食べてるし。ファッションセンスはマシにしても、乗ってる車はダサいし。なんかきっつぃ煙草吸うてるし、バクチは聞かへんけど女癖は悪そうやし。たまの休みは猫と一緒に寝るのが楽しみとかいう、つまらん生活してるし。ああ、ホンマ顔がええだけ救いやねって感じ……」
 何度もペンキを塗り直しているのに赤錆の浮く柵から、ボロリと塗装が砕けて足元に崩れ落ちる。
「けど、そやけど優しいし。やっぱり全部ひっくるめてカッコいいし、可愛いと思う。――だから……だからっ」
 音も無くその一言を漏らして、がくりと、手摺に凭れ肩を抱く。寒気に似た感覚が身体中を駆け巡り、足の裏のコンクリートを突き抜ける。
 まるで、暗闇の中に突然放り出されてしまったかのような、心細く切ない想い。告げてしまえば、楽になれるのか。そのたった一言を言ってしまえれば、どんなにいいか。けれど。

『どうでもいいなんて、可哀想ですよ』

 否定されて、途切れるのが怖いから。失ってしまえば、もうその穴を埋めることは出来ないような気がするから。
 声を聞きたい、聞きたくない。顔を見たい、見たくない。会いたい、会いたくない。伝えたい、伝えたくない。ココロというのは、複雑で。いつも思い通りにならない感情の糸に囚われ、悪戯に翻弄される。いっそのこと、昼間の講義のように、この身ごと単位別に階層化し分類できれば楽になれるのだろうか。相反する想いに疲れきって、そんな馬鹿げた希いすら想いたくなる。

 今宵は新月。
 月の姿も、影すらも見えない夜。薄ら闇の中にあるのは、蹲るその細い背を照らす、乙女星の寂しげに白銀の輝きだけ。
 貴方は、そして貴方を想うこの身は、見えない月の影のように。……見えなくて、届かない。

それでも、
ツキノカゲを見たいと思うのです。

To be continued"The moon in the daytime"
2000.12.10 / 2002.5.5.



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