――大嫌い。
 そう、あの子は言った。


 歪曲した視界に、(よじ)れた色相が混じる。
「……サイアク」
 大型連休明けの大教室の中空には、憂鬱(ゆううつ)感とそれに伴う無気力感を多分に孕んだ空気が漂っていた。しかも出欠は一切取らない方針の一般教養科目なので、その出席率と学習意欲は最低次にまで突き落ちている。
 かくいう鞠明自身もその一人で――ひたすら単調な講義の声は聴覚の刺激にすらならず、傍らに放り出された彼女のノートは白紙のまま、滑らかな表層に淡い陽光を映していた。
 吐き捨てるような嘆息を漏らし、かくん、と首を横に向けて窓を見遣る。 
 一昨日の氷雨が嘘のような、五月晴れの清冽な青。そこに所在なげに浮かんだ羽雲が、柔らかにたゆっている。それらを背景にして視界の大部分を占める化粧煉瓦の壁を、渦巻く倦怠を押し退けて眼だけを上に動かし虚ろに睨む。
 戦後まもなくの創立以来、徐々にその敷地を広げている私立文黎大学は、合わせて少しずつ校舎の増設もしている。今いる第六棟もその一つで、隣接する第五棟、続く第七棟、第八棟、第九棟と同時に建設された所為か、揃いの化粧煉瓦の外壁を有していた。
 ところがその当時、各学部学科に合わせて建てられた筈の校舎は、しかし第一棟以下第四棟までの老朽化に伴い、実際には聊か無秩序な様相を成していた。現に本来社会学部の校舎であるこの第六棟で、まったく無関係の教養科目の講義が行われていることからも、十二分に計り知れる。
 再び吐息を落として、薄く瞼を下ろす。内なる焦燥からは掛け離れた講師の声が、頭上を滑って過ぎていく。
 そう、いくら無秩序に使用されていようとも、元々は社会学部の校舎。その最上階たる五階には、教授・助教授の研究室が犇いているのだ。――それはつまり、つい一月前までこの授業の後には必ず訪れていた、かの部屋もということ。
 トータル六日間に及ぶ連休を挟んで、約二週間。その前の一週間と合わせて、一ヶ月近く。月の盈虚は裏切ることなく、長くもなく短くもない確実な時を刻んでいる。
「今やったら、ゼミやってんやろなぁ」
 この教室の天井から、ちょうど二つ階上。会おうと思えば、すぐにでも行ける。寧ろ、今行かなければ次の時間には出張に出てしまうので会えないのに。
「……しんど」
 幾度目かの重い溜め息を吐いて、鞠明は窓外に広がる蒼穹を、力なく睨みつけた。

ソレハ、真昼ノ月ノヨウニ



真昼の月 


 小娘のいわれなき八つ当たりに晒された天空は、その数十分後には更に十数メートル程近いところ、私立文黎大学第六号棟五階南第一室の片隅からも同質の視線で射られていた。
「んじゃ、次のゼミコンは来週の金曜ってことで」
「どうでもいいけど、また木屋町(きやまち)?」
「いいんじゃねぇの? どうせ後で新京極(しんきょうごく)のカラオケに流れるんだろ」
 私立文黎大学第六号棟五階南第一室の主たる緋川英彦助教授は、今年で就任三年目となる。通例なら助教授には相部屋が充てられる中、彼の場合は経常的な人手不足から学部事務主任を押し付けられた所為で、特別に個室が与えられている。その分自動的に仕事量は倍増するといえ、この件に関して言えば、講座制で縛られた国公立大学に比べ存分に恵まれた環境だった。尤も彼の歳で助教授に就任できたこと自体が、十分すぎる僥倖(ぎょうこう)だろうが。
「どうせなら去年みたいに三回生と合同でした方が、おもろくない?」
「でも、今から言って間に合うかなぁ」
 同室のほぼ中央に据えられたテーブルでは、午後一番のゼミ内での発表会とディスカッションを終えたゼミ生たちが、今日も今日とてお気楽な会話を繰り出していた。大学生活の総括たる卒業論文の題目提出締め切りを間近に控え、加えて折からの不況に煽られた切実な就職活動真っ盛りの筈の彼らは、しかし危機感や焦燥の片鱗もなく菓子なぞを持ち込んでは飽きもせず喋り倒している。そのあまりの暢気さに、彼らの指導教官は「後で泣きついてきても、知らねぇからな」などと年寄り臭いことを心中でぼやいた。
 とはいえ助教授本人も、最近頓に仕事の消化効率がよくない。相棒のノートパソコンも、過剰労働からか事あるごとに不調を訴えている。彼にとって今日は、偶々毎週この時間に非常勤講師として勤めている近くの女子大が、宗教的行事とやらで全面休講という折角の機会。滞っている仕事に専念できる、願ってもない好機だというのに。
「……畜生」
 ついにフリーズという罷業(ひぎょう)手段に至った相方に舌打ちして、ネクタイの結び目を軽く緩める。そうしてそのまま、溜め息とともに回転椅子の背に身を預けた。
 視界を占めるのは、突き当たりの窓とステンレス製の本棚によって仕切られ、まるで窖のようだと評される彼専用デスクスペース。普段は気になるどころか安堵さえ感じる閉塞感が、今は鬱積した疲労に追い討ちをかけている。軽く首を振って、大量の未開封メールを内蔵している傍らのデスクトップパソコンに手を伸ばす。取り敢えず件名だけでもチェックしつつ、乱雑に脱ぎ捨てていた上着を弄る。七件目までを削除した後、探り当てた先に目当ての煙草が無いことを知り、再び舌打ちを落とした。
「気分転換でもするか」
 自然と伏せかけていた瞼を押し上げて、這い出て来たアナグマよろしく席を立つ。コーヒーの澱が浮かんだマグカップを手に、書架の壁の向こうに踏み出し――途中、無造作に床に放り出されていたカバンに危うく躓きかけた。
「おい、誰の私物だこれは」
 未だ馬鹿笑いをしている連中に声をかけながら、いっそ蹴り飛ばしてやろうか、と大人気なく思う。
和基(かずき)のやつちゃうん?」
「ああ、オレのだ。サークルの」
「ええっ、お前まだ引退してなかったのかよ」
 テーブルを囲んでぎゃいぎゃいと煩い三名、その遣り取りを携帯にメールを打ちながら笑って見ている一名、そして独り離れた机を陣取って過去の論文を読んでいる一名、この総勢五名が今期の緋川ゼミ生だった。十名前後が平均の他ゼミと比較すると少ないが、総床面積20平方メートル程の学内でも一、二を争う狭隘なこの一室に、中身はともかく(なり)だけは大人の学生が一堂に会せば窮屈この上ない。
「まったく、いつから研究室は遊び場になったんだ」
 少なくとも自分の頃は違ってたぞ、と前者四名を冷たく一瞥し、彼らに占拠されたテーブルと壁の書棚の間隙を抜ける。大体連中は足掛け一年半もこの部屋に通っていて、余計な私物など持ち込めば正に足の踏み場もなくなるというのが何故わからないのか。主たる自分自身でさえ、あまり私物を持ち込まいように気を配っているというのに。
 勿論、自分だって必要な私物というのはあるし、ある程度の小物は致し方が無いだろう。しかし、それ以外の余裕なぞ欠片もないのが現実だ。とかく床面積が乏しい室内では、最低限の備品と書籍・資料類で埋まった書架を並べると、それだけでもう随分と手狭になってしまう。何しろ唯一休息のためにある、ドアから真正面の突き当たりの窓の下に置かれたソファー。これも実は、元指導教官が東京の大学へ栄転する際に、例の小型冷蔵庫と共に押し付けられた応接セットの片割れなのだから。
 もはや惰性の溜め息に似た嘆息を落とし、ドアの横にある水屋代わりの洗面台に、必要な私物のひとつであるカップを置く。一応洗剤とスポンジは備えているが、どうせ洗ってもすぐまた使うことになるのでお座なりに水で流すだけだ。
 指先の水滴を払いながら、ふと上げた視線の先――ちょうどドアに対して垂直の位置に、一枚の鏡がある。渇いた飛沫と水垢がこびりついた表層に浮かぶ、疲れた男が一人。お世辞にもいいとは言えない顔色に、張り付いたような薄い隈。よくよく見ると、右(こめ)かみ辺りに白いものが混じっている。身嗜みにうるさい大叔母のお陰で、清潔なシャツだけが唯一の救いだろうか。
 いつの間にか、けれど確実に自分は歳を重ねているのに。その分だけ、それなりに必死で生きてきたというのに。
 背後から、幾度目かの馬鹿笑いが響く。その声に、緩く頭を振って何かを塗り替えるように吐息を落とした。
 手にしたままの濡れたカップを、傍らのステンレス製の籠に重ねる。雑多に積み重ねられた食器類や、ゼミ生が勝手に持ち込んだ雑貨類。それらに混じって、ピンク色のマグカップが顔を覗かせている。もう一月近くも持ち主に使われないまま放置されたそれは、側面に描かれた擬人化されたウサギの白い色彩も、心なしか陰って見えた。
「……もしかしたら、もう二度と使われないかもな」
「はい?」
 自嘲めいたごく小さな呟きに、唯一邪魔者外の一人が読みかけの論文を手に顧みた。今期の受け持ちの中では彼だけが進学を志望しており、英彦の見る限りでも勉強量という点では学部内随一といっていい、近頃稀に見る真面目な学生だ。
「いや、ちょっと煙草を買いに出てくる」
 不条理な独り言に対する純粋な聞き返しには応えず、ただ上着を手にそう告げ、言外に留守中の電話番と来客応対を押し付ける。
「あ、先生、後五分ほどで僕も出るんですけど」
 バイトに行かなきゃならないんで――すいませんと生真面目に謝る彼に、
「ええっ、バイトしてたん?」
「接客業じゃないことは確かだなー」後ろのその他が、一斉に騒ぎ出した。
「か、家庭教師だよ。中学生の」
「カテキョーねぇ。らしいっちゃあ、らしいけど」
「中坊なんて、生意気盛りじゃねぇ?」
「もしかして、女のコってことはないよな」
 盛り上がる一団に呆れ半分、まぁどうせ誰かが残るだろうという楽観もあり、ドアノブに手をかける。他愛のない、いつものことだ。
「あの先生、有村さんは?」不意に向けられた透明な声が、背を抉る。
「そういえば、いつもこの時間の留守番してくれてたもんな」
 そう、例の女子大へ出かける直前にふらりと現れては「なんか秘書のバイトみたいー、時給無いけど」などと言いながら、妙に嬉しそうに留守番を買って出ていた彼女。
 貰い物のソファーの左端、テーブルの上で微笑むマグカップのウサギ、無邪気に振られる白く細い手。
「留守番、頼むぞ」
 背を向けて閉じようとした扉はいやに重く、堅く握り締めたノブに現実を突きつけられたようで、英彦は態と音を発てた。

「なんか完全にアホやん、あたし」
 黒鉛の臭いが染み付いた机に突っ伏したまま、低く呻く。 
 脳細胞に掠めもしなかった講義もとっくに終わり、また次の時間には使用されないらしく、教室内に己以外の気配はなかった。
「あーなんか、すっごい腹立つ」
 ぐらり、と視界に紗が下りる。そのあまりの緩慢さに、鞠明は唾棄したくなるほどの苛立ちを覚えた。
 一週間近くあった連休は、しかし友人達の誘いや、両親との外出、愛犬との散歩でも気を紛らわすことすら出来かった。寧ろ自分の不安定さをひた隠す為に気を遣った分、余計に疲れて終わってしまったくらいだ。こんなことなら大学に通っていた方がまだマシだと連休中は思ったが、実際に平日に戻ればこのざまで。その上今日は、調子が下降すると決まって早く来る、女性特有の月の体調不良が重なった。慢性的な痛みと貧血からくる断続的な眩暈は、ますます精神を疲弊させ滅入らせる。
「ほんと、たかがコイなのに」

あの子が、言う。
あなたは、嫌い。

◆◆◆

 受け口に落ちて来た煙草の箱を拾い上げ、身を起こした先の空の青さに目を眇める。
 天候に恵まれた昼下がりとはいえ、やはり連休明けだからか、構内を行き交う頭数は相対的に少ない。片手で足りる程の人数が屯う付属図書館や情報処理棟に面した中庭を抜け、英彦は校舎裏の木立に添う木製のベンチに腰を下ろした。
 気紛れに通り過ぎた風の光りを浴びつつ、仄かに陽を吸った背凭れに身を任せる。拍子に、おそらく実年齢より遥かに重いだろう吐息が漏れた。まったく、普遍的な重力に対して己の肉体を支えるのが、これほどまでに重労働だと感じていたとは。込み上げた苦笑は、しかし見上げた空の青さが辛うじて自嘲の苦味を打ち消した。
「……確か、一般教養だったか」
 一体、いつからだろう。
 無意識の内に、雑踏にその姿を探していたのは。ただでさえややこしい大学特有の変則的な時間割を、もう一人分覚えてしまったのは。――その姿を認めて、その声を捕らえて、その笑みを見たいと思うようになったのは。
 『現実』とは実に都合よく出来たものだ、とここ数日つくづくと思う。
 自分を取り囲む『現実』は全く変わりもせずに、毎日同じサイクルで同じことを繰り返している。否、実際はこの瞬間にも、変化は絶えず水面下で起こっているのであろう。しかし、その全ては自分の横を通り過ぎて行くだけだ。そのあまりの速さと激しさに、独り取り残されているのだから。けれども、それら『現実』は自分を放っておいてはくれない。気がつくといつも巻き込まれて、流されてしまっている。
 それが、今の自分にはとてもありがたかった。このまま流されるだけ流されて、その流れに乗って何かが消えてなくなってしまえばいいと思う。……たとえそれが、けしてあり得ないことだったとしても。
 無意識の内に封切った煙草を銜え、そのまま条件反射で懐から安物のライターを取り出す。そのまま意識せず火を点けようとして、指先に妙なぎこちなさを感じた。
 長年愛用していたフリントライターを失くしたと気づいたのが、三ヶ月前。いつか出てくるだろうとこの代用品を購入したものの、新しい相棒の使い心地は馴染んだそれとは程遠くて。今までなら当然に出来たことが、ここにそれがないだけで、うまくいかなくなる。
「いつも、そうなんだよな」
 今更自分の不注意を悔いても、失った後では遅すぎる。一度外へ零れ出た言葉は戻らないし、起こした事象も消せはしない。幾度も繰り返して、いくら拒んでも、気づいた時にはいつも手遅れで。
「……だから、逃げたかったのに」
 やるかたない子どもが落とすような細い呟きに、頭上の花水木が薄紅を載せた白い包を揺らし、傍らに咲く山吹の可憐な花と翠緑に優しい風を送る。
 元来は山の植物である山吹は、同じく春に綻ぶ空木(うつぎ)のように庭木として用いられることも多い。ただ、山野に自生するものの花は一重で、庭のそれは八重らしい。――そのことを自分に教えたのは、春といえば梅や桜という一義的な思想を(たしな)めた父だった。仕事柄かもしれないが、忙しい合間にも何かと学び諭すことが癖で、思えば初めて手にした人文学書も彼の蔵書だった。尤も、こんな過去形の言い方は似つかわしくないほど、彼の講義癖は未だ現役なのだけれど。
 活花の師範免許を持っている母の趣味なのか、詳細は知らないが、とにかく実家の庭はいつも何らかの花が顔を見せていた。半年弱前の正月に帰省したとき目にした、半分雪に埋もれながらも果敢に咲く寒椿(かんつばき)の赤さには、疎い自分にもハッとさせられるものがあったし、母もそれを大層嬉しそうに話していた。とはいえ、どちらかというと花や木よりも、星や動物の方に興味が向いていた子どもとしては、一体自分の家の庭にどれだけの植物が植わっているのか知ろうともしなかったのが実際で。

『わたしね、沈丁花(じんちょうげ)が好きなの。ほら、英彦くんのお家にあるでしょ?』

 そう言われて、植物図鑑片手に庭をうろついたこともあった。はじめて真正面から目にした露濡れた(がく)と、辺りに舞う香りに、何故今まで気づかなかったのかと笑いもした。だから次の年も、その次の年も花は咲くと思っていた。それを一緒に見られると疑わなかった。何も知らない、いや知らないことを知らない、無邪気という名の無知。その世界には、開かない蕾も伸びない枝葉も、守られない約束もなかったから。
「いらない筈だったのに」
 開かない蕾、伸びない枝葉、守られない約束。いつかはそうなるのなら、いらないと思った。
 特別は作らない。また自分の知らないところで、自分の所為で傷つけてしまうから。傷つけた事実に、そしてそのことで傷つくであろう自分に、耐えられないだろうから。
 卑怯だと思われてもいい、惰弱だと罵られてもいい――もう二度と、どうしてもわかりえない痛みを抱えるくらいなら。
「それでも、もう、遅い」
 眩しさに閉じた瞼の裏、そこに映る白い闇にすら求めたくなるなんて。
 耳朶の傍を掠めた微風に、傷つけないよう、傷つかないよう蹲った卑小な自我が、身勝手な慰みを乞う。


「どうでもいい、か」
 周りに誰もいない空間は、居心地がいい。それを知ったのは、もう随分前の事だった。
「シアワセやねんな、あのヒトは」

“どうでもいいなんて、可哀想ですよ”

 深爪のような、自分が発したその言葉。
 そう、せめて「可哀想」でいられたら、少なくとも優しい関係で居られる。愚かにも調子に乗りすぎない限り、そこから逸脱して拒絶の対象となってしまうことはない。

『有村さんって、いい人やね』
『鞠明はほんま、誰とでも仲ようなるなぁ』

 誰が?
 誰に?
 だってあたしは、そうしなきゃ、ここにいられないじゃない。ここで認めてもらえないじゃない。
 その為になら、なんだってするんだから。笑顔を浮かべて、コドモの振りして、何も知らないキレイでヤサシイ言葉で、いくらでも嘘をついてあげる。可愛い娘だって、人懐こい友達だって、元気なクラスメートだって演じてみせる。……今だって、ちゃんと出来てるでしょう?
 どうでもいいなんて言えるのは、どうでもなくなることを知らないから。どんなにもがいても、どんなに足掻いても、それにすらなれないことを知らないから。
 嗤いの一歩手前のような吐息を支えに、永らくへばりついていた机から身を起こす。乱雑に帰り支度をして、そのまま身体を引き摺るようにドアへと向かう。貧血だろうか、足元がふらついているのが自分でもわかった。
「コイ、レンアイ、……スキ」
 そう、たかがそれだけのこと。口に出せば、数音で済む他愛のない単語。
 別に、悲劇振る気はない。哀れというには、あまりにも自分は恵まれているから。只、幸せというにはうそ寒く、充足というには程遠い空虚が、自分の根底を支配している。
「でもそれを言えば、そうすれば、あたしを貴方の意味にしてくれますか?」
 あたしを拒まないで、認めてくれますか。

だから、大嫌い。

◆◆◆

 結局、気がつくと貴重な空き時間は残り僅かとなっていた。
 今日は出張がない分、夕刻からの学部会会議が予定に入っている。毎年この時期はどうしても学会やら会議に追われがちで、学会はともかく、会議が好きな人間など今までお目にかかったことがない分、その必要性をついつい疑いたくなる。
 手にしていた幾本目かの煙草を揉み消し、聊か緩慢な足取りで研究室のある教室棟へ向かう。
 記憶よりやや傾きかけた陽光が差し込む中央の渡り廊下と、それに結合した玄関、薄汚れた手狭なホール、講義の声が低く響く教室の前を抜け、最奥のエレベーターのボタンを押した。
 教授連の中には、健康の為と称して最上階まで階段を利用する面々も少なくない。英彦とて、別に五階分くらいの階段で息切れするほど運動不足ということはないが、流石に丸一日講義やら会議が続いた日には辛いものがある。況してや、これから気疲ればかりの会議があるのだから、無駄な体力の消費は正直避けたかった。
 幸い誰かが降りてきた後なのか、扉は意外なほどすんなりと英彦を迎え入れた。学内でも比較的広めのその内部は、身体障害を有する学生を考慮してというより、専ら上階の資料室への運搬を予想してのことだろう。床に残った幾筋もの台車の轍が、それを十二分に物語っていた。
 条件反射の如く回数ボタンを押して、傍らの壁に凭れる。中途半端な時間だからか、慌てて乗り込んでくる人間はいない。そのまま何の障害もなく扉は閉まり、英彦を乗せた箱は重力という普遍的な地球の半径方向の力に逆らって上昇を始めた。
 先程までの、己の内部を抉るような考察は敢えて避け――果たしてエレベーターの奥に鏡を配することにどれだけの付加価値があるのだろうか、などという埒のない疑問を脳裏に巡らせる。――と、
 ガクン、という衝撃とともに、不意に箱が停止した。やけに早いなとデジタルの階数表示を見遣れば、それは"3"を示している。どうやら、同乗客がいるらしい。このエレベーターは構造上、一度上に向かえば最上階まで上がりきらないと降りては来ない。下へ向かいたい者でなければいいがと他人事ながら思いつつ、礼儀として操作パネルの傍に寄ろうとした、その時――扉が開いた同時に、小柄な人間が倒れ込んで来た。
「おい、大丈夫か!?」
 慌てて咄嗟に伸ばした腕に落ちて来たのは、意識を失い、糸の切れた人形のようにぐったりとした鞠明だった。

「……一応、脈はしっかりしてるし、呼吸も正常だよな」
 うろ覚えの救急確認を施しながら、取り敢えず最悪の状況ではないらしいと安堵する。
 まったく、この娘にかかると何度、度肝を抜かれる経験をするのかわからない。倒れて来たのが鞠明だと判った時は、本当にひやりとした。たとえ廊下で擦れ違っても、態と無視して何とか距離を持とう、少しでも離れていなければならないとは考えていたが、そういう離れ方、失い方は望んではいなかった。
 とにかく、未だ気を失ったままの彼女を休ませなければならない。本来なら人を呼んで備え付けの担架を出さなければならないが、彼女なら自分ひとりでも裕に抱えられる。しかし問題は肝心の運び込む先である保健管理室が、ここから構内の正反対に位置しているということだ。大した処置が必要ないなら、下手に動かすより手近な研究室で休ませた方がいいか……などと悩んでいる内に、エレベーターの到着音が軽やかに頭上で響いた。
「大丈夫、だよな」
 小さく呟いて覚悟を決め、信じられないほど軽い身を細心の注意を払って抱き上げる。そのまま素早く研究室のドアを開けて、例のソファーへ寝かせた。こういう時に限って、肝心のゼミ生は一人としていない。留守番すら出来ないのかあいつらは、と一瞬思いはしたが、今はそれどころではなかった。
 半開きだった窓を閉め、シェードを傾ける。元は白だったそれは汚れでグレーに変色しており、白濁の蛍光灯と相まって、ますます鞠明の顔を暗く見せた。
 念の為、青白い額に被った前髪を払って、手を当ててみる――驚くほど冷たい。
「熱もないし……やっぱり只の貧血か」
 貧血ならば、そう遅くないうちに目を醒ますだろうが。そう願い、上着を脱いでかけてやりながら、そっと日向色の髪を梳くように撫でる。
 赤みが全く差していない頬は蒼白で、なんとなく実家の母が大事にしていた蝋人形を思わせる。
 渇いた唇と少し辛そうに顰められた眉が、幼くあどけない顔に心細い色を漂わせている。それと先程脈を診るだけでも戸惑わせた、その細さ。ほんの少し指先を伸ばして触れるだけで、冗談でなく壊してしまいそうな脆さ。それらが、果たして普段見られる自分にとって圧倒的な存在感や輝きを持つ人物と、同一人物なのかと疑いたくなる。
「大切、なんだ」
 自然と零れた言葉は、自分でも思わぬ声音だった。
「とっくに特別なんだから。……だから、もっと気をつけろよ」
 わかってんのか、おい。頬に落ちた一筋の髪を抓み、その存在を確かめる。
 もう随分前に認めているし、少し前からは馬鹿みたいに執着してる。だから恐れもするし、悩みもする。何よりも、今そこにあって欲しいから。
「心配してるんだぞ。――友達、だからな」
 その位置で、君が望む限りを尽くしたいくらいに。
「……ぅん」
 小さな呻きとともに、鞠明が微かに身動ぎした。暫しの間の後、睫が震え、濁った灯りに透けて榛色に映る瞳が弱々しいながらも光を取り戻す。
「やっと、気がついたか」
 ぼんやりと瞬きを繰り返す鞠明に、英彦は知らず笑みを漏らした。

嫌い、嫌い、大嫌い。
あたしのいない、あなたを含めた世界中のみんなが。
そしてなにより、あたし自身が。

 深い海から這い上がって、まず視界に入ったのは薄汚れた天井と蛍光灯の白い輝き。
――あたし、どうしたんやっけ?
 無意識に瞬きをしながら、今ひとつ前後がはっきりしない記憶を懸命に探る。
「やっと、気がついたか」
 しかし視覚で認識するより前に、その声にびくりとする。
「せんせ、なんで?」
 どうして、拠りによって。あまりのことに呆然と英彦の顔を見つめると、
「エレベーターに乗ってたら、急にお前が倒れ込んで来たんだ――もしかして、憶えていないのか?」
 そう冷静に応えられて、鞠明は初めて自分が寝かされているのが緋川研究室のソファーだということに気づいた。
「それより、気分はどうだ? どこか痛むとこはないのか?」
「……ん、大丈夫。ちょっとふわふわするけど」
 覗き込まれたそのあまりの近さに、慌てて額を押さえながら起き上がろうとして――斜め後ろによろける。
「馬鹿、何やってんだ!」
 そう咄嗟に差し伸べられた手から、逃れるようにソファーの背に凭れる。
 弱っている今頼れば、そのまま済し崩しに縋ってしまいそうだった。それだけは、そんな卑怯な逃げ口はどうしても避けたかったから。これ以上、耐え難い自己嫌悪と、それに伴う自己欺瞞に押し潰されそうになりたくはなかったから。――しかし身体に力が入っていない鞠明のその動きは、あまりに露骨だった。
 英彦は僅かに眉根を寄せたが、敢えて何も言わず行き場の無い手を元に戻した。そして態と少し微笑みながら、口を開く。
「お前な。ほんの五分程度とは言え、ついさっきまで意識を失っていたんだぞ。もう少し大人しくしてろ、落ち着いたら車で送ってやるから」
「でも先生、お仕事忙しいんでしょ? 毎週、この曜日はそうやん」
 少しずつ英彦から距離を取りながら、訴えるように言葉を紡ぐ。下手な優しさは、残酷なだけだから。
「目の前でぶっ倒れた人間を放っておけるか? 俺はそこまで人でなしじゃねぇよ」
「もう、平気やから! そやから、」
 気がつくと、頑是無い子どものように必死になっていた。けれど、今はそんな自分を顧みる余裕すら持てなかった。これ以上、彼の声を聞いて居たくなかった。いつ言われるかもしれない恐怖に、何も見えなくなっていた。
 その時、ふ、と深い嘆息が響いた。
「なぁ鞠明、俺を避けるのは構わない。……だけど、心配なんだ」
 いつになく真剣な表情で、英彦は続ける。
「わかるだろ? いきなり倒れた上に、意識が戻らなかったんだぜ?」
「…………」
「俺が傍にいるのが嫌なら、今すぐ出てってやるから。そんなに俺に送られるのが嫌なら、タクシーでも呼べばいい。――な? だから、もうちょっとゆっくりしてろよ」
 幼子を宥めるような、言い聞かせるような優しげな口調。普段の自分なら、おそらく嫌がりはしない柔らかな優しさ。けれど今は、その奥に別の陰が潜んでいる。
「違うのっ、そうじゃないの!」
 嫌なんかじゃない。嫌いになんてなれないから、だから。
 何故、彼の眼に寂寥(せきりょう)を感じるのかわからなかった。わかっては、いけないような気がした。だから只々焦燥感にかられて、幼児のように首を横に振った。知らず、じわりと目頭の辺りに熱を感じる。
 彼女のその様に、英彦は思わず再び伸ばしかけた手を……途中で止めた。簡単に触れることが出来る距離が、ひどく遠い。
「――鞠明」
「先生は、本当はあたしのことなんかどうでもいいんやろ? ……そんな、そうなんやったら、もうあたしのことは放っといてよ!」
 その瞬間後、鞠明の身体を衝撃が襲った。


――それは、忘れたくても忘れられなかった、覚えのある感触でした。

 唇に落ちる乾いた温もりと、微かな煙草の香り――先生の香り
「……ん…やぁっ……」
 抗おうとした腕ごと押さえつけられ、全身が軋むくらいに強く抱き込まれる
 顎を取られて無理やり上を向かされた反動で開いた唇から、彼の舌が入り込み、歯列をなぞって口腔内を蹂躙する
 溺れるように、刻み込むように求められる
 息苦しさに、縋るように彼のシャツを握り込む
 次第に酸素が足りなくなって、頭の芯が朦朧としてくる
 力が抜けて、崩れるように彼に体重を預ける形になる
 どちらのものともつかない唾液が、唇の端から溢れ零れて、顎を伝う
 逆上せるように、狂うように……

――それは本当に、貪るような噛み付くようなキスでした。

 唐突に始まった口接けは、終わりもまた、そうだった。
 漸く突き放すように開放されて、喘ぐように息をつく彼女。
「……落ち着いたら、タクシーを呼んで帰れ」
 そう言って、机の上に置かれた壱万円札。
 呆然と、それを見つめる虚ろな顔。
 潤んだ琥珀色の瞳と、艶かしく光る濡れた唇。
 親指で口元を乱暴に拭いながら、彼はそのまま彼女に背を向ける。
 そうして続けざまに響き渡った、ドアの音。

 静寂の中で、壁に掛けられた時計の秒針だけが無表情に時を刻んでいる――それは、静かに闌れていく時間。
 彼女の頬に、透明な雫がゆっくりと伝う――それは、壊れてしまった微妙なバランス。
 窓の外には、白くて淡い真昼の月――それは、儚く漂う想いの破片。


 結局は、自分勝手な弁解に過ぎないけれど

 理由になりたい、そう願うようになったのがそもそもの間違いだったのでしょうか。
 希むことばかりで、けれども鈍感な振りをしていたのは、全て自分の為でした。

 そこに意味を求めれば、全てが終わってしまいそうで。
 怖れるあまり篋底(きょうてい)に秘した想いは、堕ちるように空へと浮かびました。 

 ソレハ、真昼ノ月ノヨウニ



To be continued "Then, the full moon"
2000.12.13 / 2002.10.24.



ツキノカゲ へ  そして、満ちる月 へ