凍りついた空間に、行く宛てのない呟きが零れた。
「……どうして」
 季節外れに(かじか)む指先が、関節を歪めるほど強く、断片を握り締める。
「もう、わかんないよ」
 己の内へ続く隧道(すいどう)、その深奥に宿す対鏡に秘めた想い。

――そう、ただ
あの盈々(えいえい)たる輝きに願わくば……


そして、満ちる月

 

「やれやれ、どうやら人並みの時間には夕食にありつけるようですね」
 申し訳程度の配付資料を丁寧にファイルに綴じながら、隣席の高塚教授がそう安堵を落とした。親しみ深いその台詞に、テーブルの向こうで片付けに精を出す事務員らも、揃って同感の笑みを返す。
 こうも早く開放されたのは、存外集まりが早かったからであり、会議と銘打たれた内容が実は単なる報告事項のみに過ぎなかったからだ。
 そもそも今回の議題は、二週間前に二コマの講義と三回生と四回生のゼミを受け持っていた教授が、突然の発作の為に引退を余儀なくされた事から始まるもので。新学期が始まって既に一月が経とうというこの時期にそう都合よく講師が見つかるわけもなく、結局常勤の中で誰が後任を負うかで散々教務と協議することになったのが、つい先日。幸い、講義の方は高塚が、ゼミの方は学生側の希望を出来るだけ加味した上で各ゼミに振り分けられることとなり、今日はその採決を確認する為だけにあったようなものだった。
「会議による漸進主義、全くもって立派だね」
 高塚の向かいで、政治社会学の助教授が出された茶を一気に飲み干しつつ、妙な節で小さく口ずさんだ。意味不明なその台詞は、フェビアン社会主義の理論を(もじ)った彼女なりのジョークらしい。
「ウチに帰ればメシがある、いいなぁ高塚先生は」
 中堅の男性職員が、盆を片手に湯飲みを集めながら気安く笑う。
「独身者には羨ましい限りですよ、ねぇ清村(きよむら)先生?」
「その発言、セクハラですよ」
 私個人なら大歓迎ですが、と眉一つ動かさず政治社会学者は宣った。この学部内では馴染みの寛いだ遣り取りに、しかし当の高塚教授はらしくない曖昧な表情を浮かべた。
「……まぁ、清村先生はまだお若いから」
「ふむ、キミはもう手遅れだそうだ」
「それこそ僕に対するセクハラですよぉ――ねぇ緋川先生、そう思いません?」
 喋りながらも手早くテーブルの上を片していた職員の手が、この場で最年少の助教授の前でふと止まる。
「先生?」
 怪訝そうな彼の声音に、高塚も愛弟子の一人である助教授を見遣った。
 件の当人は突いた片肘の上に俯き加減に顎を載せており、一見すると居眠りをしているようにも思えた。しかし近づいてみると、その視線は重く鋭く眇められ、机上の一点に注がれている。何か気になる事でもあるのかと窺ったが、生憎そこには先程の会議資料があるだけで、更にいうと視線は紙面の何もない行間を刺していた。
「緋川先生……?」
 そっと呼びかけ、肩を軽く叩く。びくりと返ってきた反応は、意外と遅かった。
「何か、考え事ですか」
「…――いえ、少しぼうっとしていただけです」
 申し訳ありません、と続けた愁傷な言葉とは裏腹に、緩慢に辺りを見回す目は今になって会議が終わった事に気づいたようで。ぎこちなく席を立つ様相は、ひどく頼りない。
「目を開けたままで眠るとは、器用だな緋川くん」
 魚類の技を身につけるとは中々出来ぬぞ、という清村の作為めいた軽口も、「すいません、お先に失礼します」とすげなく告げられた退室の言に消える。気遣わしげに顔色を覗おうとした高塚も、全身で詮索を拒むその因を掴む事は出来なかった。
「どうされたんでしょうか、緋川先生」
 囁くような問いと、残された一口もつけられていない湯飲みに、清村は嫌味になる一歩手前のような自然な仕草で、緩く肩を竦めた。
「さてね。……でも、あれじゃあまるで」
 言いかけたまま口を噤むと、彼女は思い出したように指先で手元の資料を四つ折にし、上着のポケットに収めた。そうして己の動作を追う目が続きを求めている事に、薄く唇の端を持ち上げる。
「まるで、世界中の苦悩を背負い込んだみたいじゃないか」
 学内でも指折りの変わり者と評されている彼女にしては、いやに陳腐な台詞が、今しがたドアの向こうに消えた背をなぞった。


 ねぇ、壊すならどうして最後まで壊していってくれなかったの。
 あんなことしておいて、何故優しさなんか見せるの。
 どうでもいいくせに、なんで言葉なんか残すの。
――そんな考えは、ズルイ。だけどあまりにも中途半端だったから、


 熟んだ斜陽が、大気をゆっくりと染め始めている。
 最終の講義から開放された学生たちの声が、ひたひたと伸びゆく影に跳ね、鮮やかな晩春の夕刻を彩る。入梅には早く、しかし暦の上ではとうに夏を迎えたこの時期の風は、無邪気で気紛れな優しさを多分に孕んでいた。
 幾人かの学生が、擦れ違いざまに軽い会釈をする。それに惰性で応えながら――曲線を描いた煉瓦色の階段、(すが)れかけた躑躅(つつじ)の植え込みの傍ら、奥の学生会館を終点とするペーブメント――己の足は、通い慣れた通路を紛うことなく確実に辿っていた。
……帰りたくない。
 そう強く自覚したのは、とうとうあのエレベーターの扉を前にした時だった。
 何を馬鹿な自分の部屋に帰るだけではないか情けないと自嘲しつつ、しかし暗雲のように湧き上がり立ち込めた臆病な本心は、更にその色を濃くする。自室に残してきた仕事や置いてきた荷物を思えば、このまま帰宅することなど到底出来はしないのに。
 知らず落とした吐息は、怯懦(きょうだ)で姑息な自分に対する唾棄だった。
「何やってんだよ、俺」
 先刻の上司や同僚の眼に、今の自分はどんなふうに映っていただろうか、臙脂色(えんじいろ)のエレベーターのドアを茫洋と見つめ、おそらく気を悪くはしていないだろうけれど、やはり次の機会までに非礼を詫びなければと胸中で薄く呟く。
 何故そうなるのか、何故そうならざるを得ないのか――そういった(こな)れた筈の思考の手順が、明確な形を成す前に崩壊している。論理学でいうところの結論の根拠たる前提が、己が惰弱さに甘えて糊塗に走る。
 緩く首を振って、零れ出た溜め息を掌で揉み消す。同時にどうしようもない居たたまれなさが嘔吐のように込み上げ、耐えきれず英彦は(もつ)れる足でエレベーターホールから逃げ出した。
 『6号棟』と無機質に付された自動ドアを内側から抜け、先程より確実に高度を下げた日差しを細く映す外に出る。大方が薄闇に包まれつつある所為か、端から見れば十二分に不審なその行動は、幸いなことに疎らになった学生たちの目に留まることはなかった。
 脱力して脇の化粧煉瓦の壁に凭れると、無意識に左手が煙草を求める。が、そこで上着ごと研究室に忘れて来たことに気づき――そして、それに身を寄せていた存在に唇を噛んだ。
 眼窩(がんか)に焼きついた、蒼白の頬と恐怖に歪んだ琥珀色の水晶体。残された胸元の不自然に寄ったシャツの皺が、そのすべての断罪を突きつけている。けれども今自分の根底を占めるのは、後悔や罪悪感、或いは羞悪(しゅうお)といった感情だけでなく、純粋な混乱だった。
 かつて戯れにその額に触れたこと、先日の挑発されて重ねたこととは、決定的に違う何か。慈しみやいとおしさでは括れない、何か。そう、けして拾ってきた仔猫に感じるようなものではない、混沌とした……それでいて熾烈(しれつ)な。
「――緋川先生」
 不意に現実での通り名を呼ばれ見遣ると、続け様に見覚えのある学生が駆け寄って来た。
「今、研究室の方に伺おうとしたところなんですよ」
 ちょうど良かった、と息を整える彼女は、昨年入学した編入生の一人だった。彼女の場合は外部の短大からなので、四回生でありながら一、二回生の必修講義をいくつか受けている。あまり目立つ方ではなかったが、その所為か英彦も自然と顔を覚えていた。
「先日課されたレポートなんですが、私、就職活動でどうしても抜けられなかったんです……」
 そう、消え入りそうな謝罪の言葉とともに、件のレポートがおずおずと眼前に差し出された。
「受け取って、頂けますか?」
「本来なら、期日後は却下なんだが……それならしかたないな」
「あ、ありがとうございます」
 最敬礼並みに頭を下げる彼女に、おそらくこの気弱さと編入生という引け目から、他の学生に代理を頼めなかったのだなと容易に予想がついた。同時に、こういう気質は昨今の就職活動には不利だろうな、と他人事ながら思う。
「以後、気をつけるように」
 殆ど条件反射のような不出来な愛想に、しかし彼女はあからさまに安堵したようで、それまでより明瞭な返事で応える。余程気に病んでいたのだろう、辞した後の足取りは打って変わった軽いものだった。まったく、ウチのゼミ生もあれくらいだったら楽なのに、とつい苦笑を浮かべた――その時、
「へぇ、意外と優しいセンセェなんだね」
 背後から、妙に楽しそうな声が弾むように、それでいて突き刺すように響いた。


 もしかすれば、嫌いになれたかもしれないのに。
 切り捨てて、忘れてしまえたかもしれないのに。
 たとえそれが無理でも、閉じ込めて消してしまえたかもしれないのに。
――それも、もう遅い。だから、だからあたしは。


「わー、やっぱり大学って感じだねぇ」
 学内に三つある半地下の階段教室は、学部単位の収容が考慮している為、その床面積と天井の高さは中規模のそれとは格段の差がある。
「なんか、ドラマの世界みたい」
 音響効果を配慮した壁に、 軽快な声が(こだま)した。中央よりやや後ろの辺りで、褐色の眼が満足げに整然と列を成す机を見渡している。
「……で、一体何の用だ?」
 身勝手ながら、蹴り壊したくなるほど暢気な光景に、英彦は多分の苛立ちを込めて呻いた。
「そう怒らないでよね、せっかく忘れ物届けに来たんだから」
 言い放った彼女は、提げていたコンビニのビニール袋ごと肩を竦めて笑った。次いでこちらに駆け寄り、(おもむろ)に親指大のものを差し出す。
「これ、ベッドの下に落ちてた。気に入ってたんでしょ?」
 シルバーのフリントライター。その形も色も、磨り減り具合も、確かに失くした筈の愛用のそれに違いない。
「ベッドの、下?」
 思いがけず戻って来た愛着の品に、驚きとともに僅かに口元が綻ぶが、それでも紡がれた言葉は皮肉めいたものだった。尤も彼女自身も、年末でもないこの時期にそこまで掃除をするのか、というこちらの考えは十分に予想していたらしい。
「あーうん、あの部屋を引き払うから。振られたヒトの気配がするトコで生活するなんて、イヤだし」
「……そうか」
「冗談よ。単に、実家に帰ることになっただけ」
 けろりと吐き出される応酬は、互いに心地よいと感じる程度のもので。以前の、気紛れに繰り返された戯言にひどく似通っていた。
「あたしね、多分、ケッコンするわ」
「随分とまた、憶測なんだな」
「まぁね、まだ数えられるほどしか相手と会ってないから」
 まるでとっておきの玩具を取り出すようにビニール袋から缶コーヒーを二つ取り出し、彼女はまた笑った。それはけして幸福に眩んでいるようではなく、かといって卑屈にも見えない。
「なるほど、見合いか」
 押し付けるように渡された缶を反射的に受け取り、その温もりを掌で包む。
「そ、でもプロセスなんて関係ないでしょ。それに貴方には言われたくない」
「……悪かったな」
 くつくつと楽しそうに、本当に愉快で堪らないといったふうな笑声に、プルトップを開ける音が重なる。それを眺めながら、なんだか下手なままごとをしているようだと、英彦は思った。
 改めて窺った彼女は、以前の接していた頃よりずっと幼く見えた。給料の殆どをつぎ込むと聞いたブランドのスーツでもファッション性の高い外出着でもない、ごくありふれた薄ピンクのオックスフォードシャツに細身のジーンズという出で立ちは、まったく学生と変わりない。おまけに事の発端ともなった香水の気配もなく、化粧もほんの申し訳程度のものだった。
「そういえばさ、あたしが初めてセンセイ見たのも教室だったんだよね。――えっとウチの短大に非常勤で来てた、ホラ、あのカッコいいオバサン先生と一緒でさ」
「和泉教授のことをそう呼べるとは、大した度胸だな」
「そう? でもその教授の助手だったんでしょ、センセイは。……あの時、皆騒いでたもんなぁ。短大なんて学生は女ばっかだし、先生は男でも大概オジサンだしさ。でもそのお陰で、あたしも貴方の顔を覚えてたんだけどね。だってまさか、卒業して二年後にばったり逢うなんて思ってもみなかったし」
 センセイを絶対モノにしてやる、って豪語してたコもいたんだよ知ってた? まぁその二年後にあたしも逆ナンしたんだけどさ――などと軽口を叩きながら、コーヒーを呷る。ゆっくりと嚥下するそのすべらかな咽喉は、かつて薄暗闇で戯れに喰らいついたそれとは、まるで別物に見えた。知らず固定されていた視線に気づいたのか、合わせるように褐色の眼がふと和む。
「でもさ、あたしは貴方に逢えて変われたよ。イイとかワルイとかわかんないけど、多分これからのあたしに繋がるんだと思う。……貴方はほんの最近、変わったね」
 そう言ってこちらを映す光りは、撫ぜるような限りないやわらかさを含んでいた。
「センセイ、何かあった? 貴方があたしにこうもぽんぽん相づち打つの、かなりおかしいよ」
 からかいを載せた、けれども妙に確信めいた声音が、そのまま拡散して虚空に溶け込む。黄昏時の曖昧な空気に、それは何処か忘れていた憧憬のような、真っ直ぐな甘さを思わせた。
「ねぇセンセイ、ココロの声はちゃんと捕まえてあげなきゃダメだよ」
 カツリ、とスチール缶が机上に置かれる。もうあまり中身は残っていないのだろう、僅かに聞こえた音は感覚よりもずっと高く軽いものだった。
「センセイはきっとカシコイから、頭で考えちゃうんだろうけど……ホントに大事なモノと、ホントに望むモノを見つけるためにも、さ」
 手元のビニール袋をくしゃりと丸めながら、彼女は毛糸玉のような無心の優しさを滲ませた。
「だって、貴方は無意味じゃないんだから。せっかく変われたんだから、もう否定しなくていいんだよ」
 それはけして宥恕(ゆうじょ)ではなく、明らかに一義的な断定だった。とても拙い、彼女にとって都合のいい意識に過ぎなかった。なのに。
 言いたいだけを言うと、彼女はビニール袋と空き缶を手に早々に席を立った。じゃあね、とひとつ笑みを残し、そのまま机間の階段を上がって最後尾のドアに向かう。
「……祥子(しょうこ)
「なぁに?」
「お前に、何がわかる」
 焦燥に駆られて絞り出た言葉は、広大な空間で予想以上に低く澱んだ。そのことに自身がびくついていると、背後から擽るような小さな囁きが落とされた。
「じゃあ、もういっぺんあたしを抱いてみる?」
 思わず振り返った先に、ちょうど窓外から最後の一光が投げかけられた。朱を通り越したそれは黄金に煌き、一瞬辺りに鮮やかな彩が展開する。その中で、彼女は嫣然と立っていた。
 細身の、白くしなやかな影。陽に染まり、淡い茶色に艶めいたワンレングス。そして消え行く火を灯し、常よりもずっと黄みが勝った……そう、ちょうど琥珀のような眼。
「貴方のココロ、大切にしてあげてね。――今度こそ、ばいばい、センセイ」
 茫然と去りゆく姿を視界に映しながら、英彦は急速に明瞭となった自覚に、底知れない戦慄を覚えた。


 実らなくとも。
 手に入らなくとも。
 いっそ願えなくとも。
――心が震える、祈りよりもきっと深い希み。


 本当はずっと以前から、気がついていたのかもしれない。只、その通りだとすると、一体自分はどの時点から無意識下で彼女を求めていたのだろう。
――あの瞬間、俺は確かに、鞠明に対して欲情していた。
 激しく上下する細い肩と、白い項。騙し討ちのように手に入れた唇は、普段の幼さからは信じられないほどの色香を帯びた吐息を漏らしていた。それは、そう見て感じて掻き立て煽られた自分は、誤魔化しようのない事実だ。
 そして今、互いの需要を満たす為だけの関係であった筈の、あの女。彼女を選んだ自分の潜在的な理由もまた、疑いようのない現実なのだろう。

『先生は、本当はあたしのことなんかどうでもいいんやろ? ……そんな、そうなんやったら、もうあたしのことは放っといてよ!』

 そう思われても已むない、なんと愚かで下劣な己。くだらない理論や理屈を捏ねて、欺瞞と歪曲を繰り返し、挙句たったひとつの拒絶に理性を手放し我欲に走った。良識のあるフェミニストの振りをして、恬澹(ていたん)を望みながら、結局は醜悪な強欲を宿して彼女を見ていたのだから。――そう、これではまるで。

まるで、アイツと同じ
 ざわり、と内側から這い出る気配。脳裏を支配する漠然とした、それでいて鮮烈な輪郭。
お前だって、()りたかったくせに
「……黙れ」
 意味のないことだと理解していても、音声という外的な手段で、絡めとられそうな自我を抑えた。それでも一度現出した意識は、次第に火影のような虚像を生み出す。
 小柄な、どちらかというと、か細い手足。その成りよりも、やや大きめの漆黒の学生服。そして千切れるほど固く握られた、鈍色の刃。

だからこそ、終わらせなければならない
 その顔を、窺うことはことは出来ない。彼を視ることは自分には絶対的に不可能で、けれども自分は知っている。認識や理解を超えて、存在を確信している。
でもそのための、
 何故なら彼は、
僕には、意味がない
 硬質な音が、手元で響いた。知らず立てていた爪が、手の中の缶で擦れて僅かに捲れてしまっていた。気がつくと、自分でも驚くほど呼吸が乱れ、全身が冷水を被ったような感覚と痺れに襲われている。
「わかってる……だけど」
 堅く、その行為が滅私に繋がるかの如く強く、目を瞑る。閉ざされた常闇に、何もかもを押し遣り再び封じ込める。

『だって、それじゃああまりにも、英彦くんが可哀想じゃない』

「違う、そんな資格は僕にはない!」
 そうして、無音の裂帛(れっぱく)の向こうに浮かび上がったのは――真っ直ぐにこちら射る、琥珀色の微笑みだった。


 もう、すべてが遅いから。
 もう、可能性は望めないから。
 もう、これ以上耐えられないから。
――あたしは、覚悟を決めなければならない。


 それは、安堵ともとれるだろう。
 すっかり冷え切った未開封の缶コーヒーが、ゴミ箱の底に滑り落ちる様を眺めて、改めてそう胸中で吐露する。
 おそらく、もう二度と鞠明が自分の前に立つことはないだろう。たとえ何処かで擦れ違ったとしても、あの笑顔を向けられることはありえない。そう――何もかも、終わってしまったのだから。
 疲労と憔悴を引き摺りながら這い出た外は、夜の気配を濃厚としていた。もう学内に残っているのは、一部の真面目な学生かクラブやサークル活動の連中ぐらいなのだろう。構内に漂う空気は、昼間のそれとは別世界のように褪めている。
 ふと思い至って、上階の研究室の窓を見上げた。
 いくつかの仄かな光りの中で、部屋を出て行った時には確かに点いていた灯りが消えていた。どうやら、最後の言いつけだけは守ってくれたらしい。そのことに、知らず頬が緩んだ。
 それでいい。刻まれたであろう心の疵に対峙する勇気はないけれど、どうか身体だけはいとおって欲しいと願うことは、それだけは許されると思いたい。伝える術を今はもう持たない自分だからこそ、せめて。
 いつの間にか浩々と満ちた月に吐息を落として、六号棟の玄関を潜る。そうして愚劣な逃避に過ぎないと頭で理解しつつも、エレベーターを避けて階段を選んだ。
 一歩一歩踏みしめるように段を上がると、痛いほど響く自分の足音が、闇の狭間にゆっくりと堕ち込んでいく。けして不快ではなく、寧ろ静穏に組まれていく思考のピース。ぬるま湯に浸かったような奇妙な浮遊感と、内耳の奥を流れるさらさらとした縦波。――この感覚を、自分は知っている。
 それは、密やかに眠るような喪失。彼女と一緒に居た時間、無条件に無防備に向けられる信頼と好意は、信じられないほど自分を穏やかにさせた。それで、それだけで良かったじゃないか。今はまだ過去として据え置くことは出来ないけれど、その分……ココロの声として抱いていけるから。少しは、否定しないでいられるから。
 そっと半分降ろしていた瞼を上げて、眼前のドアを見る。堅く閉ざされたそれが普段よりも重く見えるのは、気の所為以外の何ものでもない。ほんの少し気休めのような苦笑を覚えて、英彦はノブを回した。

 室内は、異様に明るかった。
 灯りひとつ点いていない筈なのにと独り呟き、習性で伸ばしていた電灯のスイッチを押す手を止める。そうして光源の方を見遣り――息を呑んだ。
 ブラインドを全開にした窓の傍に、鞠明が背を向けて立っていた。窓から止め処なく差し込む月光を浴びて、その華奢な身体は蒼く縁取られている。
「……どうして」
 虚空に問う声が、掠れた。自分が、ひどく動揺しているのが手にとるようにわかる。
「お月さんを、見てたんやけど」
 女声の中でも高めの、やはりどこか幼さを感じさせる声が、静かに応える。けれどその身は、けしてこちらを振り向こうとはしなかった。
「どうして……何故、帰らなかったんだ!」
 思わず声が上擦るのを抑えきれず、英彦は激昂するように言い放った。
「ごめんなさい。でも、どうしても、先生に言わんとあかんことがあったから」
 細い肩が、僅かに震える。
「先生、あたしのお願い、聞いてくれはりますか?」
「お願い?」
 鸚鵡返しに呟くと、鞠明は窓の方を向いたまま小さく首肯した。
「あの――あたし、先生が好き、です」
 すうっと、そのまま彼女は視線を少し上げる。
「でも、先生にとっては、そんなん迷惑なだけですよね。……だから、もう少し時間くれたら立ち直るから、何でもないようになるから。そやから、」
 完全に色が失せて、血が滲むほどに強く固められた小さな拳。
「そやから……嫌いでもいい、優しくなくたっていいから。それでも、お願いやからそれでも、『友達』でいさせて下さい。あなたの傍にいることを、赦して下さい」
 言い切った後で、鞠明はがくがくと笑い出した己の膝を叱咤した。そうして、少しでも気を緩めたら最後だと自分に言いきかせ、唇をきつく噛み締める。
 泣いては、いけない。たとえ息が巧く出来なくて苦しくても、咽喉の奥が張り裂けそうに痛くても、絶対に泣いてはいけない。――涙で繋ぎ止めて、縛ってはいけないから。希求しているのは同情でも慰めでもなく、赦しなのだから。
 二人の間を埋める沈黙が、刺となって突き刺さる。
「やっぱり、あかん、かな。そんなん、ムシが良すぎるもんな。迷惑やん、な」
 覚悟していた筈の予感に、鞠明は身を縮めた。震えが、止まらない。歯の根さえも合わないほどの、重圧と悪寒。かの視線に晒された背が、自分のものとは思えないほど硬く重い。
「誰が、迷惑だなんて、言った?」
 ぽつりと、低くそして深い問いが、間隙に落とされる。その近さに、鞠明は耐えきれず振り返った。
「だって、先生はあたしのこと、どうでもええんやろ」
 思ったよりも詰められていた距離に、鞠明は俯き子どものように首を振った。
「誰が、どうでもいいなんて言った?」
「だって先生、あたしのこと避けてたし……それに、」
「鞠明」
 名を呼ばれ、抵抗する間もなく顎に手をかけられ――二人の眼が、合った。粛然とした黒曜と、朱に縁取られた琥珀色の水晶体。
「ったく、いい加減にしろってんだ」
「ご、ごめんなさ……」
「違う!」
 血を吐くような叫びと、反しておずおずと伸ばされる腕。それが鞠明に触れる直前で、怯えるように落ちる。
「傷つけたくなかったのに、そのために離れていようと思ったのに。――結局、自分を抑えられず酷いことをして、挙句に泣かせて」
「……先生」
「俺は、謝罪すら、望む資格がない」
 言って窺った彼女の顔が、心細げに歪められ、哀れなほど強張っていることに、英彦は己の惰弱さを悔いながらそっと囁いた。
――った、のに。
「えっ?」
 その意味が掴めず、鞠明は初めて自分から顔を上げて、困惑の眼差しを向ける。
「せんせ?」
 言わなきゃならなかったのは、俺の方だったのに。
「それって、どういう……」
 次の瞬間、鞠明はやわらかく抱き締められていた。
「――好き、なんだ、俺も鞠明のことが」


 (さん)として輝く白日に晒すには、あざましく。
 蒼然たる深更に漏らすには、あさましい。
――想いは、ただ一途に。


「おい、大丈夫か?」
 エレベーターを降りた途端、壁に手を突いた鞠明に英彦は少なからず焦った。
「ん、ちょっとくらくらしただけやから」
 ちょいと壁を押し、その反動で軽く頭を振った彼女は、そのままぱたぱたと駆けてドアを押し開けた。
「わ、真っ暗や」
 外に出ると、しんとした閑寂な世界が二人を包んだ。既に常夜灯以外の電光は見当たらず、どこかを巡回しているだろう警備員の姿も見当たらない。
「もうすぐ、九時だしな」
「えぇっ、もうそんな時間なん!」
 ほら、とばかりに見せられた腕時計の表示に、鞠明は頓狂な声を上げる。
「だから、送るって言ってんだろ――車出してくるから、ちょっとこの辺で待ってろよ」
「……う、うん」
 講義資料の関係で偶々車で来ていた幸運に感謝しつつ、英彦は急にらしくなく俯いた鞠明に背を向けて、薄く笑みを漏らした。
――先生が好き。
 いつから彼女は、そんな言葉を胸に抱いていたのだろう。まったく、自分たちはなんて多くの遠回りをして、無駄に思い悩んでいたのだろう。……けれど、それもまた必要だったのだと思う。わからなくて、わかりたいから、悩みもし苦しみもする。
 そして、これで完全に心が晴れたといえば、嘘になる。不安は、自分の内で今も渦巻いている。
 優しくしてやりたい。心痛める全てのものから、守ってやりたい。いつも笑顔でいられるように、その笑顔を一つでも多く見られるように。けれど。

僕には、意味がない
  いつか自分は、鞠明をまた泣かすことになるかもしれない。守るための手で、苦しめてしまうかもしれない。
 辿り着いた駐車場の前でポケットを弄っていると、あの銀のライターが滑り落ちた。月明かりを頼りにそれを拾い上げ、そっと、そしてしっかりと握る。
 見上げた先には、あまりにも遠い満ちた月。せめてあの輝きが届くまでは、それまでは。
 カローラのキーを取り出して、英彦は捧げるように笑みを残した。



――あの盈々たる輝きに願わくば、
漸く互いに寄り添い合うことを知った二人に、優しい今宵の夢を。


When you wish upon the moon.
2000.12.16 /2002.12.31.



First Step End
Continues to Second Step……



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