Sigh


出逢えて、想って、願いを叶えた
だけど、それでおしまいなの?

Act.1
 京都の(にしき)小路通といえば、古くは安土桃山時代から魚をはじめとする生鮮食料品店が軒を並べ、そこから形成された錦市場は「京の台所」として今現在も都人に親しまれている。かつて大和錦を織る者が住んでいたことから名づけられたこの通りの、中京区の寺町西入ルから高倉までの全長390メートル、幅3.2から5メートルの直線型の街区を歩けば、鮮魚や若狭の「ひと塩もの」、京野菜、漬物、惣菜等の食料品等々、一通りの日用品が手に入るといわれている。その謂われもあってか実際に週末ともなれば、地元は基より近隣都市からの買い物客や観光客、果てには各国からの旅行客まで訪れているらしい。
「湯葉が食いたい」
 そう言い出したのは、自分だった。
「だったら、一度錦市場に行ってみたい」
 そう提案したのは、彼女だった。
 このことは、別にいい。まったくもって、その事実にはなんの不都合もない。付き合いだして一年半、時に求めたり時に反発したりというそれなりの起伏を経験したカップルの、平凡で平和な買い物デート。この後は買い込んだ食材を自分の下宿に持ち込み、仲睦まじく調理をして平らげるという、簡潔且つ幸福なプラン。晴天と程よい気候に恵まれた、実に上出来な休日の過ごし方。――そこで思いもしないことなどあろう筈もないという慢心は、これら現実を鑑みればけして特異ではない。
「……と、思いたいんだけど」
 意識的に息を伸ばすように細く吐き、瞼を下ろす。コンマ0.5秒ほどで再び開き――それでも変わらずあるその光景に、俺は不本意ながら己が判断の甘さを思い知った。
「やっぱり、アレはそうなんだな」
「どうしたの(わたり)?」
 思考の大部分を占めていた情景を遮るように、千早(ちはや)ご自慢の黒髪がさらりと視界を撫ぜる。
「いや、ちょっと知った顔を見たような気がしたから」
 正直に、ああ本当にありのままに言葉を紡ぎ、心中で失笑する。知った顔、それで済めばどれだけ楽か。
「なぁんかアヤシイ、もしかして昔のカノジョとかいうんじゃないでしょうね?」
「まさか」
 心外だとばかりに米国人ふうの表現を示しつつ、寧ろその方が冗談になるだけ百倍マシだという呟きを奥歯で噛み潰した。
「じゃ、片思いだった初恋のヒトとか?」
「それも、ハズレ」
 苦笑いとともに、目下唯一の存在たる年下の彼女の肩に腕を回す。そして出来得る限り自然に、その現実から遠のくよう促した。
「あ、なら片思いだった初恋のヒトに似たヒト!」
「ブー。お手つき三回で、回答権アウト」
 他愛無い遣り取りを楽しみながら、俺は諦観にも似た境地を探る。今は忘れるべきなんだ――少なくともこの平穏な、そうあるべき休日を、そう過ごすためには。
 近年まれに見ない強い意志とともに、せめて週明けのゼミまではと、俺はただひたすらに忘却を祈った。


「京都では、鶏肉のことを "かしわ"という」
 次々と涌いて出るような人間の横を巧みに擦り抜けるには、いろいろとコツがいる。それは、幼い頃よりずっと平均以下の丈しかない身としては、ある種の死活問題ともいえる。
「そもそも鶏はインドシナやマレーの原産ではあるが、古くから日本にも入って来ており、やがて羽毛が茶褐色の鶏――和鶏こと、黄鶏が生まれた」
 特に、長身の連れがいる場合は要警戒だ。なにしろ何気なく振られた相手の肘が、不幸にして顔面に直撃する確率が非常に高いのだから。近年やっと認知されるようになった歩き煙草の危険性など、それ以前の問題だ。
「かしわという言葉自体は、天保以降に鶏肉の総称となったとされているが、正確にはわからない。ただ当時の資料に、文化の中心地たる江戸では "けしていはず "とあることからして、東部で発生した言葉ではないことは確かだろう。しかしながら何故、現代では京都にだけ残ったのかは一切不明である」
 それにしても今日は、やたらと日差しが強い。通り自体が鉄筋で支えられた赤、青、黄の三原色のアーケードで覆われている所為で、なんとか直射日光は遮られているものの、やはりその熱量は多少なりと感じられる。その最大の要因は、絶え間なく生み出されている人いきれだろうが……それでも、じとりと滲み出た汗が皮膚と衣服の間隙に(もたら)す湿気には、いかにくだけた状況でも不快感を禁じえない。
「かしわの語源にもまた諸説があり、羽の色が柏の葉の色に似ているとした説、黄足雌鳥(きあしめとり)黄雌鳥(かしわめとり)の意とした説などがある。――(ちな)みに "かしわ"は古くから盗賊の隠語としても使われており、捕縄や手錠、もしくは強盗や暴行の意味とされるらしい」
「……お前って、時々妙なトコで博識だよな」
 そう半歩ほど後ろから、感心するような、というよりは呆れたような声が投げかけられた。
「流石は、態々他学部の講義を聴きに来るだけあるってことか」
 その分、居眠り常習犯でもあるけどな――そう低く笑われてついそちらを、真後ろより右寄りの40度ほど上方を、顧みる。
「そんなしょっちゅう寝てへんもん!」
 咄嗟に普段の語調で言い返して、せっかく意識して標準語を使っていたのにと心中で舌打ちを落とす。こちらが知識をひけらかしてやるという、滅多とないこの機会を、より効果的にする為に力を入れていたというのに。
「ほう。一昨日の社会心理学の講義で、片肘突いて目ぇ瞑ったままノートに見事な前衛絵画をお描きになっていたのは、別の学生だったのか」
 席の位置からしててっきり誰かさんだと思ったんだが、と飄々(ひょうひょう)(うそぶ)かれ、続けて、まぁ優秀な他学部生の誰かさんには関係のない話か、などと実に態とがましく呟かれる。
「あ、あれはぁ、ちょっと気が抜けてしもて……」
「それはそれは――なにぶん教える身になってまだ数年の弱輩の身ゆえ、"ちょっと気が抜けて"しまうような拙い講義しか出来ず、学生諸君には大変申し訳ないと思ってるよ」
 まったくといって内容と合致していないおざなりな口調に、半睨みでもう少しばかり視線の角度を上げる。――と同時に、ちょうど鼻先に皺の寄ったメモ用紙が突きつけられた。
「次、野菜な」
「でも先生、このへん八百屋さんなんていっぱいありますよ」
 言ってから――この場にして実にミスマッチな対称だと、我ながら思う。もし誰かが自分たちの会話を耳にしていたら、こいつらは一体どういう関係なのだと訝しんだに違いない。
「店の名前もメモしてあるから、お前探せよ」
「えー、なんで?」
 コンパスの差ですぐに開いてしまう間を早足で逆転させて、上目遣いで相手の顔を覗き込む。先生は……そう、休日ということで自然に前髪を下ろし、洗い晒しのコットンシャツにジーンズという極めてラフな出で立ちではあるが、紛れもなく文黎大学の社会学部で教鞭を執っている緋川英彦助教授は、両手に白いビニール袋を提げたまま眉根を寄せた。
「荷物も碌に持たない奴が、文句を言うな」
「だって琴江さんに買いもん頼まれはったんは、先生でしょ。あたしは『どきどき! 英ちゃんはじめてのおつかい〜錦市場編』のお目付け役やし」
 ちょいと肩を竦めて言ってやり、次いで唇の端を持ち上げる。この小憎たらしいことこの上ない男は、しかし大叔母で家主の宮之園琴江には頭が上がらない。昨今急増しているらしい、それなりに給料は貰っているくせに自立していない典型的なパラサイト人種。更に彼の場合は、どこか年上の女性に弱い所為もあるのだろう。
「……一緒に行くって、駄々捏ねてたのはどこのガキだ」
「あ、八百屋さんはっけーん!」
 脳天の辺りに落とされた不出来な嫌味を無視して、我ながら大袈裟な身振りでそちらを示す。得意の『無邪気な有村鞠明』を全面に押して、本気半分はしゃぎ半分で軽くステップ。そうして溜め息交じりに、それでも追ってくる気配をそっと探る。――ほら、あたしはここにいるんだから、ちゃんと掴まえててよ。
 我が侭なのは、知っている。欲張りなのは、わかってる。それでも、好きだけじゃ足りないじゃない。
 そりゃ『傍にいさせてくれるだけでいい』と言ったのは、自分だし。そのこと自体は事実だけど――変化を求めることは、そんなにも贅沢な欲求なの? こちらから話かける前に、喋って欲しいとか。傍に行くんじゃなくて、呼んで欲しいとか。好きと思うほどに、好かれたいとか。……そういうことは、望んじゃいけないの?
 確かに、あの時の告白は自分からだった。それ以前から、逢えるは研究室か講義だけだった。それもいつも……いつもいつもいつだって、あたしが行かなきゃ成立しない。携帯の番号だってメールアドレスだって、こっちが言わなきゃ知ろうともしないし、勝手に登録でもしない限り残しておこうともしない。――ここまで来れば、疑うなという方がおかしいじゃない。
 もしかしてこの前は、その場を収める為に口走っただけなのかも。やるかたなくて感情をぶつけてきた子どもを、一時の同意で慰めたに過ぎないのかも。……興奮が一段落して時間が経てば経つほど、嫌な考えばかりが押し寄せてくる。せめてあたしが動く前に、少しでもこっちを見て欲しくて、ほんの一言でもかけて欲しくて――そう思ってもう三週間近く我慢してたけど。
「っのに、さ」
 知らず唇が尖らせて、呟く。自覚していた以上に、その音は湿っぽい気がした。
 不安と焦燥に居ても立ってもいられなくて、宮之園家の蔵書を言い訳に押しかけてみれば……顔を合わせるなり「休みの日ぐらい、おとなしくしてられないのかよ」と呆れ半分に言われ、続いて「買い物頼まれたから、留守番してろ」と背を向けられた。上がり框に腰掛けて靴の紐を結んでいる後ろ姿に、半泣きで同行を強請ったことは、けして単なる我が侭だけではない。
「全然、わかってくれてないみたいやけど」
 もしこの場で好きだと思いっきり叫べば、どういう反応をしてくれるだろ……そんな埒のないことを思い浮かべて、あまりの虚しさに嫌悪さえ覚える。まったくどうして、好きだけじゃダメなんだろ。
「――鞠明!」
 不意に名を呼ばれて、反射的に見開いた眼前に格子模様がくっきりと浮かぶ。と同時に、強い力で横に攫われた。
「何ぼさっとしてんだ、この馬鹿」
 ほぼ真上からぶつけられる悪態に、軽やかなベルの音が重なる。ああ、さっきの格子は自転車の前籠だったのかとぼんやり思う。……でもそれ以上に、いや何もかもが、耳元で煩いほどに響き渡る存在に消え失せる。
 低くて、けれども温かくて、そして驚くほど速い――先生の鼓動。
「ったく、ちょろちょろふらふらしやがって。状況判断も碌に出来ないのかお前は」
 刺々しく繰り出される言葉とは裏腹に、自分の肩を抱く腕は柔らかい。
 ねぇ先生、そんなに吃驚した? 冷静を装っているけれど、ずっと観察しているあたしにはわかる。だって、その声はちょっと掠れてて、その腕は少し震えてる。ねぇそれはあたしが、好きな人が、怪我をしてしまうと思った……から?
「センセ?」
 ゆっくりと、まるで惜しむように離される身体。確かめるように、全身を這って行く視線。
「……鞠明、コレ持て」
「え?」
 ぐいと押し付けられたビニール袋の輪を思わず握ると――ややあって反対側の手が包まれた。
「こんなとこで迷子になられたら、俺が困るんだよ」
 自分のそれよりも、ずっと大きくて固くて、ほんのすこしだけ冷たい、先生の手。それは握るというより、覆い込まれるといった感がある。
「荷物が片手で持てなくなるまで、だからな」
「うん!」
 大きく首肯して見上げると、真っ直ぐにこちらを、あたしを見つめる笑みにぶつかった。じんわりと指先から染み渡るように、伝わっていく気持ち。それを掴まえていたくて、覚え込んでいたくて、出来得る限り指を伸ばしてそっと握り返す。そうすると微かに、けれど確実に温もりが返って来る。
「……やっぱり、好き」
 結局、あたしは至極単純に我が侭で。多分貴方が思うほど無邪気でも可愛くもなくて、頭の中では小狡いことばかり考えてるから。
「だから、覚悟、してや」
「今、なんか言ったか?」
 ひょいと見下ろしてくる意外と澄んだその眼が、講義時のようにマイクを通さなくても響く歯切れのいい中低音が、どこかぎこちなく繋がった指先が……あたしが思う以上に、いつかあたしを認めてくれるように。
「ちょっと、自己確認してたんです。――そうそう先生、水菜と壬生菜(みぶな)の違いって、知ってはります?」
 再び舌をフル回転させながら、時々右良し左良し指差すように慎重に確かめて、その度にあたしは小さく嘆息を残した。


本当の気持ち、本物のこころ
だからこそ、どうすればいい?

Act.2
 頭が、重い。
 タクシー独特の蒸れたような、それでいて疎外感を凝縮したような空気が、頚骨の鈍痛を容赦なく刺激する。
 せめて座席に凭れることでも出来れば、まだ気楽なのに。忌々しい二重太鼓の袋帯に舌打ちしたい本音を、細い吐息で誤魔化しながら、そっと眉間を揉みしだく。
「ほんま、今日は暑おすなぁ」
 ハンカチで(こめ)かみの辺りを押さえながら、そう隣で伯母が宣う。その言葉と動作の割に、涼しい顔でのったりと言うものだから、妙に癇に障る。茶会だかなんだか知らないが、折角の休日を潰された無念は、必要以上にマイナス感情を増幅させるらしい。
「そんな気ぃ張らんでええんよ、(あおい)さん」
「いえ、そんなことはありませんよ、伯母さま」
 ちょっと本当だったら今頃はと思って、落胆していただけですから――とは胸中で付け足して、表面上は少しばかり口角を上げてみせる。
「久しぶりにお着物を着たんで、慣れないだけです」
 お陰様で、肌襦袢(はだじゅばん)が汗で張り付いて大変不快です――と笑顔の下で嘯く。
「振袖は、着れるうちに着といた方がええんよ。ほんま、あんたがこっちの大学に来てくれはって、よかったわぁ」
 折角のええ着物が箪笥の肥やしになるとこやったんえ、と笑う伯母はやたらと上機嫌で、これは今日一日いっぱいは付き合わされるなと、密かに覚悟する。まぁ週明けのゼミは発表の番でもないし、ここは大人しく引き下がるしかないだろう。……そう渋々諦観に達して、せめて気分くらいは軽くしようと車窓を見遣った。
 かつての皇居、御所の外苑である京都御苑の外壁に沿って今出川(いまでがわ)通を行くと、豊臣秀吉の都市改造の後に出来たといわれている河原町通に差し掛かる。この辺りは京の外れという意味で、出町(でまち)と呼ばれている。更にそこから安価な割に品揃えが豊富な出町商店街を横目に行くと、市内を東西に分断する鴨川(かもがわ)に出る。近年になって遊歩道が整備されたその周辺は、人工的な芝生が敷かれ、洒落たオープンカフェなどが軒を並べている。そしてこの北にあるのが流鏑馬(やぶさめ)で有名な下鴨(しもがも)神社で、三大祭のひとつである葵祭の社頭の儀が行われる上賀茂(かみがも)神社の、更に向こうから流れている賀茂川(かもがわ)と、八瀬(やせ)大原(おおはら)辺りから流れる高野川(たかのがわ)の合流点でもある。
「……あれ、って」
 今出川通から架かっている賀茂大橋のほぼ中央、ちょうど三角州になっている(ただす)ノ森と並ぶ形で、信号によりタクシーが停車した。眼下では五月最後の週末にしては鋭い陽光が、川面に跳ねて見事な綾模様を成している。
「あら、きれぇやなぁ」
 つい窓に釘付けになった肩越しに、覗き込んだ伯母が感嘆の声を挙げた。
「絶景、ですね」
 ある意味に於いて――そう唇だけで呟き、今度こそ心から口元を綻ばせた。ああ本当に、週明けのゼミが発表じゃなくてよかったと苦笑しながら。


「もー、まだぶつぶつ()うてるんですか?」
 観光客で溢れかえった市営バスを諦め、我が国の二大国立大学たる京都大学の前をのたのたと過ぎる。自家用車ならば、こんな時間の無駄は省けるのだが、ただでさえ駐車場が絶対的に足りない京都の市街では致し方がない。
「ゆっときますけど、あたしだって結構ショックなんですよ」
 かつてに比べると非常に下火になったとはいえ、校門の辺りには未だに政治的主張を表した立て看板が林立していた。近年の国政や外交の問題点を突き叫ぶそれらを、冷やかし半分に眺めながら更に坂を下ると、ややあって川端(かわばた)通に近づく。このまま真っ直ぐ川を渡って、河原町まで出れば別のバスもあるだろうし、最悪近くにある出町柳(でまちやなぎ)駅でタクシーでも拾えばいい。どうせそれでも衣笠の自宅まで、小一時間は要するのだから。
「ちょっとセンセー、聞いてはります?」
「……うるせぇ」
 一歩半ほど前方を、やたらと軽快な足取りで行くキャラメル頭を、半眼で睨み遣る。つい先程まで呆れるほど言葉を紡ぎ続けていた口は、駄賃代わりのアイスバーで塞がれていた。
「黙って食えよ」
「先生はいらんのー?」
 次第に溶解していく氷菓子を無作法に音を発てて舐めながら、折角貰ったのに溶けちゃいますよ、などと暢気に言いやがるこの小娘。ひどく滑稽なことだけれど、この他愛ない存在が今の自分にとってはかけがえのないものだったりする。
「まったく、笑えない話だな」
 溜まりに溜まった仕事にひたすら専念していたこの数週間、ふと気を抜いた瞬間に浮かんだのは、このお気楽な顔だったりするわけで。自分でもどうかしていると思えるほど、根付いてしまった解説の仕様がない感情を持て余している。
「センセェ、せんせー……もう、聞いてんのーぱぱぁ!」
「言っていいことと、悪いことくらいわかるよなぁ、有村くん」
「だって、聞こえてへんみたいやってんもん」
 頭ひとつ分以上も下で、反抗の意を示す顔を見下ろす。なにが、やってんもん、だ。――こっちの気も、知らないで。
 連日の徹夜が明けた、久しぶりのオフ。少しばかり不健全に惰眠を貪っていたって、誰に批難されようか。それを妙に浮かれた大叔母に叩き起こされ、そのきっちり半時後の玄関口にコイツが現れたとあっては、まさに仕組まれたとしか言いようがない。
「せんせぇ、アイスはー」
「欲しいんだったら、お前が食えよ」
 そもそもおつかいと称して強要されたこの行程は、北白川(きたしらかわ)に住む大叔母の知己に頼まれたもので。自分の足で行けないくせに、(こだわ)りとやらで錦市場の店でしか買わない人間らしい。何故それを自分が代わらなければならないのか、いまひとつわからないが、その辺りの事情は概ね大叔母の差し金という予想で事足りる。この種のくだらない策略は、彼女の格好の娯楽なのだろう。……それにしても、だ、

『あらぁ、琴江ちゃんのお孫さんもえらい大きゅうなったんねぇ』
『お父さんと一緒に、おつかいして来てくれたんやね』

 脳裏を渦巻くそれらの台詞に、思わず重い吐息が零れる。「お婆ちゃんやったし、細かいトコはわからんかったんやろ?」 と笑い話で片付けられるほど――正直、自分は割り切れていない。
 確かに、鞠明がその外見や仕草によって、実年齢より幼く見られることは否めない。けれども普段茶化してそう口にするほど、彼女は子どもではない。いや自分としては、心底から子どもだと認識したことは、実際には一度足りとない。何しろ思考という点からすれば、実は自分などよりずっと理性的で、論理性が高いとすら感じることがあるのだから。
 しかしながら現実的且つ社会的観点では、紛れもなく自分たちは異色であり、一般的といわれる範疇からすると異端である。少々大袈裟にいえば、戒めに似た表現で示される……つまり俗に『禁じられた』といわれるものでも、あるかもしれない。
「去年のクリスマスイヴで二十歳ってことは、足すところの11、か」
 もう一年遅かったら十二支が同じだな、などとくだらないことを思いつく。――ああ、本当に。どうしてこうも、自分は固執しているのだ。
「せんせ、せんせー」
「もう二本目も食ったのか」
「なんでやねん、そんな(はよ)食べれるかい。……って、そやなくて、そやなくて!」
「あーはいはい」
 律儀にも裏手でツッコんで騒ぐ、目下の課題であるお嬢。それにしても今日は、やたらと機嫌がいいようだ。
「もしかして、橋渡るん? それやったら、あそこ行きたい!」
 必要以上にばたつかせた手足、それに指された先は――ちょうど賀茂大橋と、賀茂川・高野川が鴨川に融合している地点の間だった。
「……はぁ? 鴨川では泳げねぇぞ」
「そこまでアホとちゃうわっ。ちゃんと見てってば」
 担ぐように腕をとられ、力任せに引っ張られて漸く見えて来たそれは、
「あんなものが、あったのか」
 つい、呆然と呟く。視界に映ったそれは、糺ノ森がある三角州の先端を挟んで両岸を繋いでいる飛び石だった。上洛してかれこれ十年以上になるが、一体いつからあったのだろう。
「もしかして、アレを渡る気か?」
 十中八九の予想はついているものの、それでもやはり確認してしまう。
「オフコース、レッツらゴー」
 少なくとも六年は受けてきた筈の英語教育を、無意味に振り上げた拳とともに根底まで貶めて、意気込みよく駆け出す後ろ姿。かの細い背に、どうやってあれだけのエネルギーが蓄積されているのか、不思議でならない。
 川端通を渡り高野川の端まで来ると、大阪と京都、滋賀を結ぶ京阪電鉄の最終駅であり、修学院(しゅうがくいん)宝ヶ池(たからがいけ)に向かう叡山(えいざん)電鉄の始発駅でもある、出町柳(でまちやなぎ)駅がある。凡そ鴨川に沿って走っている京阪線は、京都駅のほぼ真東にある七条駅の手前から地下に潜っている為、各駅の近くには地下に通じる口が通りに合わせて四方に開いている。その中の一番川に近い西口の傍に、河川敷へと続く階段が設けられていた。
「先生、こっちこっち」
 既にいくつか飛び越えた先で、白い手がひらひらと舞う。それに首だけでぞんざいに返事をしつつ――ふと、自分に対する彼女の提案が履行されなかったことは、今までに一度としてないことに気づき苦笑する。それがまったく不愉快でない事実など、まるで末期を裏打ちしている。
 実際に水際まで降りてみると、遠目では単なる石ににしか見えなかったそれが、存外巧く造られていることがわかった。古典にいう都鳥ことユリカモメとカメを模し、平たく加工されたその足場では、幼児でもない限り落ちるということはまずありえないだろう。三つほど前方を行く彼女の足取りも、飛び移るというよりは歩くように跨ぐといった感がある。
 踏み出して見渡せば、山紫水明とはよくいったもので、清冽とはいかなくとも、白日に映える水面は鮮やかで心地よい。
「知ってます? 糺ノ森の『糺』って、澄みきった水の湧くところって意味があるんですよ」
「俺は前に確か、川の合流点をいう只州(ただす)に由来するって聞いたぞ?」
「それが本当のところらしいんですけど、偽りを糺すという意味で潔斎(けっさい)に使われてきたんもあるからかなぁ。だって、ほんまに清々しいって感じやし」
 ね、とばかりにこちらを顧みる眼が柔らかく輝き、自分を映す。暑いからと脱いだ上着に隠れていた雪肌を、乱反射の光りが滑るように撫でる。……彼女は知っているだろうか、己の名にある一文字『鞠』もまた、偽りを糺すという意を持つことを。
 虚構に身を寄せて、その都合のよさに甘えてきた今まで自分。それがたったひとつ真実を知ったばかりに、途方に暮れている。
 傍に居て欲しい、そして出来れば笑っていて欲しい。その為に望むものがあるのなら与えたいし、届けたいとも思うけれど――実際にどうしていいのか、わからない。一体彼女は何を望み、何を求めて自分を欲してくれたのだろう。そのことが、駆け巡らし構築される筈の思考を、袋小路に追い込んでしまう。
 言葉は、多大な力を持つという。己が意志を或いは文字に託し、或いは音声に載せて……手段はいずれにせよ伝えることの重大さは、先日身をもって知ったばかりだ。そしてそれ故に、臆病にもなっている。
 考えれば考えるほど、妙に論理的に整理してしまう自分がいる。――所詮あの時の言葉は認知に過ぎず、彼女が望んだのは言葉通りの『延長』という意味でしかなかったのではないかと。

『友達でいさせて下さい。あなたの傍にいることを、赦して下さい』

 そう、只それだけを願った鞠明。それが、彼女の希みだとすれば。
「言葉だけじゃ、こんなにも違う」
 もっとずっと傍に、その熱や感覚すらも手に取れるほど近くに。浮かべた微笑みをこちらに、澱みないその水晶体をひたすらに。――自覚してしまった、自分の中の薄暗い澳火(おきび)。それは日増しに、確実に明瞭になっている。
 たとえば彼女が同年代だったら、もし学生ではなかったら……そんな愚かな想像は、浅はかな逃避でしかない。年齢や社会的立場の差なんて、つまるところ薄弱な自信に対するつまらない言い訳だ。多かれ少なかれ、自分でないものには違いというものが存在するであり、だからこそ人は他に惹かれて焦がれるものなのだから。仮定が現実であっても変わりがないのではなく、有村鞠明という大前提を構成する小事が、偶々そうであったに過ぎないだけだ。
 しかし、だとすればそんな彼女に対して、この十以上も歳が離れた助教授という些事を有する自分は、どうあればいいのだろう。彼女の言葉通りにある、満たされている筈の今に、望蜀(ぼうしょく)を抱くこの自分は。
「せーんせ」
 呼ばれて、ついつい足元に向いていた視線を上げた――その先に、いきなり人工的な蛍光色が差し出された。
「ほら、アイス溶けちゃいますよ」
「……まだあったのか」
 買い物の礼と勘違いのお詫びにと、老婆が彼女に与えた氷菓子。かつて盛夏が訪れるごとに愛飲していたサイダーと同じ、目が覚めるようなコバルトブルーの、それ。
「だから、ほら!」
 態々こちらの石まで戻って来て、手にしたそれを口元に突きつけられる。
「お前が食えばいいだろうが」
 なにしろ自分の両手は、自宅用に買い込んだ食材の袋で、完全に塞がっているのだから。
「あかんの! これは先生の分でしょうが。……さっさと食べんと、こっから蹴り落とすで」
 もったいないおばけの鉄槌や、などと続けながら、やたらと強気で迫ってくる琥珀色の眼。
 しかし、そもそも鴨川自体は京都を代表する川といえども、その水深は(くるぶし)ほどまでしかない。もし彼女が有言実行したとしても、自分が(すか)して避けてしまえば、逆に勢い込んだ彼女が落ちる確率の方が、ずっと高いのではないだろうか。――まったく、どうしてコイツは、こうも無用に気を揉まさせるのだ。
「早せんと、もう溶けてきたってば!」
 急かされて仕方なく口にした冷涼感と、次いで口腔内に広がった甘味は……それでも煩累(はんるい)とは程遠くて。間近にあるやたらと満足げな笑みに、ついつられてしまう。
 (わだかま)りは一向に解決せず、そのことに頭を悩ましている現実は変わりないけれど――この瞬間にこの空間を共有する充足感に、安んじているのも事実で。完全に破綻している自分の中の方程式に、俺は失笑交じりに嘆息を沈めた。




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