だから近くに、だから一緒に
さて、これからどうしよう?

Act.3
 文黎大学の構内には、二つの食堂がある。
 それぞれ別棟の教室棟の地下階に造られたそこは、共に総学生数の割に収容面積が狭く、正直、とても需要に適応されているとは言えない。まして今日のような比較的教養科目が詰まっている週明けともなれば、想像に難くないだろう。
 とはいえ、人間というものの順応力というのは素晴らしい。入学して一ヶ月の新入生でさえ、この熾烈な昼食戦線になんとか対処出来るようになりつつある今日この頃、最終回生の身ともなれば言うまでもない。
「お、今日は(あじ)のフライか」
 食券とプラスチックのトレイを手に、思わず頬を緩める。万年食貧乏の下宿生にとって、安値でバランスよく栄養が摂れる学食の存在は、神の恩恵に等しい。尤も慈悲深い女神様が一人でもいれば、話は別だ。たとえば同じゼミのある戦友など、暇さえあれば手料理を披露してくれるという、まさに奇跡のような天使ちゃんがいるらしい。
「そうさオレ様、独り身街道驀進(ばくしん)中」
 即興の歌を口ずさみつつ、顔馴染の職員にニコリとお愛想。盛りやおかずのサイズの差は、こういう些細な点で如実に表われるのだ。
「おばちゃん、ありがとー」
 そうそう、元気よく可愛らしくが基本だな――と頷きかけて、前方で響いたその声に、ふと小首を傾げた。
「およ、どっかで聞いたことのあるような」
 自然と追った視線の先に、割り箸やセルフサービス式のポットがあるコーナーに向かう、確かに見覚えある背中が映る。……ほらやっぱり、思ったとおりだ。
 午前の授業終了にはまだ僅かながら間があるとはいえ、次第に増加していく人口を巧く避けながら、どうやら己が身の幅の1.5倍はあるトレイの死守に、全力を賭けているらしい彼女。声をかけようにも距離があるので、そのまま何とはなしに眺めていると――思いもしない、いやある意味では期待通りの光景にぶつかる。
「ほお、なかなか……」
 待ち時間の格好の暇つぶしに、口角を上げる。こりゃ身内ウケに、もってこいのネタだな。
 もし一言で表わすなら、微笑ましいとでも言うのだろうが。相手が相手だけに、笑えるとしか思いようがない。まったく、天はその御使いを見事な具合に降ろさせるもんだ。なるようにしかならない、という言葉があるが、なるようにしてなったという現実もあるのだから。
「日替わり定食、出来たよ」
「さんきゅ、おねぇちゃん」
 次の時間が楽しみだ、そう胸中で笑いながら、ひとまず今は己の食物摂取に全力を傾けることとする。……けどなぁ、香の物までサービスしてくれなくていいんだぜ、おばちゃん。


「魚、大っきいのにしてもろた」
 端から見る分には面白いくらいに必死になって人込みを掻い潜り、ようやっと眼前に到達した鞠明は、実に嬉しそうに朗笑した。
「……にしても、それ全部食えるのか?」
 学生食堂は質より量とは世間の一般認知だが、少なくとも文黎のはその例に漏れない。一生の内で最も活動的とされる時期の人間が、何千と存在するのだから当然といえばそれまでである。……が、それを踏まえたって自分の向かいに置かれたトレイに載ったものと、その前で箸を振り回している本人とが、釣り合っているとは到底思えないのだが。
「だって、今日は一限からやったんですよ。おまけに寝坊して、ご飯一杯しか食べられへんかったし」
 もう、お腹ぺっこぺこ――という大仰なジェスチャーの前にあるのは、箸で掴むのには少々工夫を要するサイズの鯵のフライ、菠薐草(ほうれんそう)のおひたし、南瓜(かぼちゃ)とゆで卵のサラダ、豆腐と油揚げの味噌汁、そして白米。只でさえ豪勢な品揃えに加え、一品一品の盛りもけして少なくはない。
「ま、遅刻寸前でも朝飯を抜かない意地には、敬服するよ」
 ぽん、と景気よく両手を合わせて、食前の常套句と軽い一礼。柄にもなく映るかもしれないが、幼い頃から身についた習慣とは恐ろしいもので、いくら歳を重ねても捨て遣ることがなかなか出来ない。
「でも先生こそ、そんなんで足りるん?」
 通過儀礼の終え、嬉々として箸をとった顔が不意にこちらを向く。その眼は、つられて手にとったスプーンの先にある一品を、(いぶか)しげに捕らえていた。
「別に、これでも多い方だし」
「うそっ、もっと食べなあかんよ。晩までもたへんで」
 そりゃ燃費の悪いお前の物差しでのことだろ、と胸中で零して、皿の上に鎮座したデミグラスソースの代わりにカレーをぶっかけたオムライスという、いかにも学生向けのメニューをつつく。大体、研究や仕事が詰まっている時なら、一日一食なんてざらにある。元々食事というものに、さほど必要性を感じていないから尚更だ。
「よかったら、南瓜食べる? 卵もついているから、お腹持ちもするやろ」
「いいって、足りなかったら自分で買ってこりゃ済むことだろ」
 それでもと、妙に神妙な表情でサラダの小鉢を押し付けてくる手に、つい苦笑してしまう。
 彼女が、その見かけによらず呆れるほど強固な胃袋を持っているということは、先日でも証明されている。なにしろアイスバーを腹に収めたあの後、出町の銘菓である豆餅と下鴨の銘菓であるみたらし団子を、おやつと称してぺろりと平らげて見せたのだから。
「先生は、食べなさ過ぎ。そんなんで、なんでそこまで大っきくなれたんか不思議でならんわ」
「それを言うなら、お前こそそれだけ食っといて、なんでそこまで細いのか不思議でならないけどな」
 本当に、痩せの大食いとはよく言ったものだ。鯵の尻尾の先まで見事に咀嚼(そしゃく)し尽くしている様を、いっそ感嘆に近い気分で眺めて――世の肥満に悩む人間が聞いたら、激怒しかねない体質だなとぼんやり思う。
「ん、魚おいしー」
「そりゃ、そろそろ鯵の旬だからな」
 結局勝手にトレイに載せられたサラダに戸惑いながら、今日も今日とて上機嫌の彼女に合いの手を入れる。
「へぇ、鯵って一年中出回ってるから知らんかった」
 南瓜が夏で、菠薐草はが冬なんは知ってたけど、と続ける鞠明の眼は、新しい知識に輝いている。こういうところは、自分に似ているかもしれないと時々思うことがある。
「最近は、養殖ものや輸入ものが多いからな。それでもこれから夏にかけてのが、一番脂がのってて美味い」
「寒(ぶり)と同じやな。お刺身やったら、『はまち』の方が好きやけど」
「ああ、『わらさ』か」
 皿に転がったグリーンピースを掬いとりながら応えると、きょとんとした面にぶつかる。その意がわからず暫し思い巡らせて、
「関東では、『はまち』は養殖ものの鰤のことを言うんだ」そう、失笑半分に言い直した。
 割と有名なことではあるが、出世魚の代表とされる鰤は、関東と関西で各段階の名称が異なる。関東では、わかし、いなだ、わらさ、ぶり、となるのに対し関西では、わかな、はまち、めじろ、ぶり、となるらしい。上洛したばかりの頃、買い物ひとつに散々悩まされた記憶がふと蘇る。
「先生って、もしかして、関東の人?」
 らしくもなく、おずおずと訊ねる彼女に、今度はこちらが呆然としてしまう。
「……言ってなかった、か?」
「聞いてへん。そりゃ、イントネーションが違うから、そうかもなぁとは思ってたけど」
 はっきりと聞いたことはないと、琥珀の眼がぎりりと眇められる。これは、明らかに機嫌を害してしまったらしい。
「実家は、神奈川の片田舎だ」
「じゃあ大学から京都?」
「いや、高校は東京」
 ついでに院の途中で留学もしてたんだけど、と続けようとして――(うつむ)いた前髪の向こうの気配が、変わったことに気づく。午前の講義が終わり、今や猥雑の極みに達している食堂内で、突如現出したエアポケットのような気まずい雰囲気。一体、何が拙かったというのか、さっぱりわからない。
「鞠明?」
「――あたしって、先生のこと、全然知らんのかな」
 小さな、本当に呟くような声は、けれども雑踏の中にあっても、鋭い針のように鼓膜に突き刺さった。
「好きやのに、なんか、ヘン」
 自嘲のような、低い呟き。まさかこんな些細なことが彼女を傷つけるだなんて、思いもしなかった。
 自分のことを知りたいと、わかりたいと、簡単に口にする人間なら、今まで散々見てきた。その度に、言いようのない腹立たしさと、嫌悪感を覚えたものだ。お前なんぞにわかられて堪るか、そう心中で貶していたのも事実で。その時ばかりは、まるで自分が高尚なものにでもなったかのように、傲慢を貫いていた。
――知られたく、なかった?
 そう考えることは、ひどく自虐的な行為に思えた。それは何か、自分の中の根底を覆されるような、途方もない恐怖に近いのかもしれない。
「別に、何もかも知りたいってわけやないし。そんなん、あたしも嫌やから。だから、ちょっとしたいつもの我が侭で……」
 ごめんなさい――思えばいつも、鞠明はその言葉で本心を自ら否定している節がある。
 自重や反省とは違う、憂えるような諦観。そうしていつも浮かべる、まるでそうしなければならないと縛めているような笑顔。巧く(おお)っているつもりだろうが、時々見え隠れするその陰は、(かえ)って彼女の駆け引きのない無条件の切望を孕んでいるようにも思える。
「……俺は、学問関係以外で自分からどうこう喋らないし。どちらかというと、断片的にしか話せないけど」
 その願いを叶えられてやると言い切れるほど、強くはないから。すべてを過去のものとして言葉に表わせるほど、割り切れてはいないから。――だけれど、
「言いたくないことは、言わないでいいなら……訊けばいい」
 知って欲しい、そう口に出せないのは単なる狡さで。それでも驚いたように上げた面が、鮮やかに綻んだから。諦めの謝罪より、はにかみの感謝の音の方が、ずっと似合うと思うから。
 彼女について知らされた、幾つかの事柄――たとえば、家が酒屋を営んでいることや、一人っ子であること、柴犬を飼っていること、小学校の頃から国語が得意で、大学も最初は国文学科を受けたこと、なのに国文学科の入試に落ちて、何故かより偏差値が高い教育学部に受かってしまったこと、けれども今ではその方がよかったと思っていること。
 彼女について知っている、幾つかの事柄――たとえば、見下ろした旋毛(つむじ)がほんの少し左に寄っていること、大食いの割に好きなものは一番最後にとって置くこと、何か疑問を感じた時に傾げる首は、必ず左側であること、おちゃらけている振りをしながら、裏ではかなり真面目に勉強していること、そして独りで立っていられる強い芯を持っているくせに、ひどく寂しがりであること。
 ああ、結局自分もそうなのかもしれない。知りたい、わかりたい、もっともっと見つけたい。それはとても、とても自然な衝動だったから。
「じゃあ、じゃあさ、緋川先生に質問!」
「どうぞ、有村くん」
 直角に上げられた左手に、南瓜のサラダを抓みながら、講義時のように眼で促す。
「先生の、誕生日はいつですか?」
「……それは、パス」
「えーなんで、訊いてええって言うたやん」
 ずるいわ、と菠薐草の小鉢に割り箸が突きつけられる。
「言いたくないことは、言わないって言っただろうが」
「って、誕生日やで。そんなん、基本やん」
 生年月日とは言ってへんだけマシやろ、と唇を尖らせる。どういう意味だよ、オイ。
「なんの基本だ。履歴書じゃあるまいし」
 ここ数年手にしたことのない書類を挙げて、南瓜をもう一口。なかなか、味は悪くない。
「……だって、ほら、恋人同士なんやし」
「あ、一応そういうことになってたんだな」
 ゆで卵の白身を(さら)えつつ、安堵のように呟いた先で、固まりきった割り箸から鯵のフライが垂直に墜落した。


笑って、泣いて、その度に考えて
それでも、やっぱり自分がそうありたいから。

Act.4
 手元の冊子が崩れるように解けて閉じ、傍らの結露でしとどに濡れたグラスの中で、不透明の氷が涼やかな音を発てた。
「いつ見ても、興味深いな」
 ふむ、と僅かに頷きながら、グラスを手に取る。幾分温まったミックスジュースは、一般にジュースと呼ばれるそれよりも質感があって、そこがまた悪くない。
 学生会館のロビー横にあるカフェは、昼時であるのに、それほど込み合ってはいなかった。食堂に比べると少しばかり値が張るので、仕送りが底をつく月末にはいつものことでもある。
 通りに面した壁は、腰よりも低い位置から上がガラス張りになっていて、蕾み出したばかりの紫陽花(あじさい)の植え込みと、ちょうど向かいの校舎にある幾何学模様を成したタイルが覗ける。
 直角二等辺三角形。
 グレーとオフホワイトで染められたその図柄は、幾つもの角と辺で構成されているにも関わらず、すべてがそのひとつの図形に治まっている。どこのデザイナーが考案したのかは知らないが、研究室へ続くこの道を彩るものとして、専ら気に入っているのは事実だった。
 再び、冊子を繰る。数年前まで籍を置いていた韓国の大学、そこの友人から送られて来た研究誌。目次をざっと眺めただけでも、知った名前がいくつも目についた。
 自身の興味の赴くまま、気がつけば此処まで来ていた。これからも、疑うまでもなくそのままに、ありつづけるだろう。それが、自分の生き方だと確信している限りは。
 直角二等辺三角形。
 安定した形を求める気はさらさらなく、しかしどこかで絶対的な秩序を希求している。だからこそ、ひとつひとつの公式に満足するわけにはいかない。――そう、それは研究という果てないものに殉ずるという、ある意味では運命と呼べるかもしれない。
「……ん?」
 なんとはなしに見遣った先に、見覚えのある学生の姿を見つけ、つい、まじまじと観察する。
 彼女は、平均値から考えうるに小柄な手足を、器用にも真っ直ぐのまま歩を進めていた。その足捌きは幾分、いや、相当の早足で、自身の脚力に見合っているとは到底思えない。まるで針金を入れたマリオネットのようだ、と妙に感心してしまう。
 そのまま彼女が過ぎ、ややあって、今度は確実に知った同僚が、こちらもどこか堅い様子で眼前を横切って行く。先程の彼女に比べるとまだ自然だが、それでも普段の彼を知る目からすれば、かなりおかしい。前例と比較すると、それは怒っているというより、寧ろ拗ねているといった感がある。
「新しい遊びか?」
 なかなか愉しそうだな、と思わず組んだ腕に擦れた冊子が、また閉じてしまう。
「ふむ。英ぽんは若いな」
 あれは健康に良さそうだ、と薄く呟き、グラスを煽る。そうして三度、冊子を開いた。
 学内一の変わり者と称された、文黎大学社会学部助教授、清村(ひとみ)女史の日々は、今日も実に有意義だった。


「とにかく、ここいらで話を総合させようと思う」
 テーブルに両手を突いて、象原(きさはら)百夜(ゆや)はそう言い放った。
「――ゼミ長」
 すっと垂直に挙げられた、白い右手。「どうぞ、神薙(かんなぎ)さん」
織崎(おざき)くんがいません」
「あれは、ええねん。どうせ発表の資料をコピーしに行っとるだけやし」
 議長の実に緩いお言葉に、発問者の神薙葵は軽く頷き席に着いた。
「まず、観察対象エックスの行動について。宗方(むなかた)くんからの報告」
 どこか刑事ドラマの捜査会議を思わせる彼女の動きに、しかし居並んだ三名のゼミ生たちは至極真顔で応えた。
「俺が見かけたのは、錦市場のほぼ中央、富小路の辺りだったと思う。そこで……」
「観察対象ワイと、手ぇ繋いで歩いとったと」
 そう継がれた言葉に、宗方弥はフレームレスの眼鏡を軽く押し上げて肯定した。と同時に、(うめ)くような低い声が、三人から洩れる。
「その凡そ二時間後、更に衝撃の場面に遭遇したのが――」
「私。賀茂大橋のところで……橋の上から見たから、はっきりとではなかったけど。それでも、間違いなかった」
 普段おとなしい彼女が拳を作って力説する言に、他のメンバーも神妙な表情で受け取る。
「そこで、あの二人が、その」
「ワイがかのエックスに、まるで新婚夫婦の食卓の如く、『はい貴方、あーん』 そして語尾にハートマーク、みたいなことをしてたわけやな!」
 勢い込んで卓上を叩いた百夜に、葵はこれ以上ないというほど力強く首肯した。と再び他三名が、今度はそれぞれ自分の口元に手を遣る。
「――それから、ウチの友人から送られて来たメールによる目撃情報がある」
「高塚ゼミのゼミ長だな」
「ああ、下鴨の近くのケーキ屋でバイトしてる奴?」
 ぼそぼそと確認し合うゼミ生に応え、我らが緋川ゼミのゼミ長は重々しく腕を組み宣った。
「おそらく時間的に、葵ちゃんの後と思われるが。なんと両氏が和菓子の袋を提げて、下鴨神社の方へ入って行ったという」
「え、あの神社って確か……縁結びの御神木があるんじゃなかった?」
「そう。京の七不思議のひとつ、下鴨神社の末社、相生社(あいおいしゃ)連理(れんり)賢木(さかき)や」
「でも今更、縁を結ぶ必要なんて」
「アホ。あっこはなぁ、安産祈願もあるんや」
「……気ぃ早すぎ」
 でも、あり得ないとは言えないよな――と、思わず全員が各々の脳裏に憶測を描く。そう寧ろ、完全に否定できるという可能性の方が、限りなく低い。
「あー、やっぱりロリコンちゃうんか、あのオヤジ!」
「と、取り敢えずこの問題は置いといて。現状を把握する方が先決だろ」
 「可愛い後輩に何さらしたんじゃ」などと自分こそ何をどう想像したのか、疑念も甚だしい議長を無視して――残りの三名は、再び真顔で検証に執りかかった。
「オレがさっき見た時は、普通に飯を食ってただけだけど」
「普通の、先生と学生みたく?」
「いや、それよりはちょっと仲良さげな感じかな」
足立(あだち)くんから見て、なんか変わったとことかあった?」
「込んで来てたし、あんまり見えなかったな。此処に来る途中、喫茶のとこで清村センセがガラスに張り付いてたくらいだ」
 緩く首を振ってそう応えた足立和基(かずき)に、まぁそれはそれでいつものことだなと、全員が納得する。たとえ指導教官でなくとも、四年も通えば各教官の特徴や性格くらい一通り耳にする。それでなくとも、社会学部の助教授連は他学部に比べて若い分、何かと悪目立ちするのだから。
「眸ちゃんがヘンなんは、平和な証拠や。――それより、これらの情報から導き出される、最低限の結論はひとつ!」
 三度、しかも今度は握り拳で殴打されたテーブルが、鈍い音とともに大きく揺らぐ。
「観察対象エックスとワイは、間違いなく個人的に付き合っ」 「――ありえへん!」
 突如響き渡った異質な声と、ほぼ同時に蹴り倒すかの如く乱暴に開けられたドア。
「絶対ありえへんわ、なんでそうなんのよ!」
 麦藁色の髪を振り乱して叫ぶ方向は、その背後で。一拍置いて現われた、観察対象エックスこと部屋の主である緋川助教授にぶつけられる。
「ぎゃあぎゃあ喚くな、馬鹿。大体お前がはっきりしないから、ややこしいことになったんだろうが」
「はぁ? 普通ああ言うたら、そういうことやってわかるやろ、アホ!」
「あれは認識の話であって、具体的な関係の位置付けは定義されてなかった!」
「ややこしい言葉使(つこ)て、わけわからんくさせてんのは自分やんか、ボケ!」
 口角泡を飛ばして、恐ろしく低次元の口論を続ける二人に――完全にその存在を視界から排除された四人は、暫時をおいて漸く我に返ると、誰からともなく低い吐息を落とし始めた。
「……なんだかなぁ」
「見てるこっちが、恥かしいな」
「まぁなんというか」
「世間で言うところのアレやな」
 そうして……いつ果てるとも知れないまさに甲論乙駁(こうろんおつばく)を、半ば馬鹿馬鹿しい気分で傍観する者たちは、今日も互いに重ね合うように盛大な溜め息を吐く。
「――この、バカップルが!」
 それでも、ゼミの開始時間がとうに過ぎていることには、まだ誰も気がついていなかった。


出逢えて、想って、願いを叶えた
本当の気持ち、本物のこころ
だから近くに、だから一緒に
笑って、泣いて、その度に考えて

そう、いっそ溜め息が出るほど好きなんです。


2000.12.25 / 2003.3.2.




参考文献

・日本国語大辞典 第4巻  1972 小学館
・京ことば辞典  井之口有一, 堀井令以知 編 1992 東京堂出版
・毎日新聞 京都版 2002.5.26. 「京の水ものがたり 15 (糺の森 命生み出す緑の神気)」


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