いつだって、現在進行で試行錯誤な最終理論


 薄い隔壁の表層が、此処とは違う温度を思わせる。大粒の雫に引っ切りなしに打たれ、滲むガラスの世界は近いようでひどく遠い。
 気象庁の梅雨入り宣言から数週間、空はここのところ連日のように愚図ついている。夏至はもう二週間も前に過ぎたというのに、多分に湿気を含んだこの東洋の国特有の空気は、まだまだ太陽の匂いからほど遠かった。
 特に出かける予定さえなければ、雨はさほど嫌いではない。天の雫がこの世にある全てのものの上に分け隔てなく落ちる様は、その何もかもを清浄へと還元してくれるような気がする。尤もそれは押し付けがましい免罪でも、身勝手な憐れみでもなく、ただあるがままの現象に過ぎないからこそなのだろうが。
「鞠明」
 振り返るまでもなく、自分を呼ぶ声の主はわかった。
「何、先生」
 張り付くように凭れていたフランス風の窓から離れ、中央に鎮座しているソファーに腰を下ろすと、待ちかねたように僅かに眇められた漆黒の眼と合った。
「お前な、書かないなら片付けろよ」
 邪魔だと示された机上には、付箋で彩られた文献数冊と大量のコピー資料、あちこちに散らばった蛍光ペンと放置されてインクが乾き始めているボールペン、そしてまさに指摘通り書きかけのレポート用紙が数枚。
「書こうとは思ってんねんで。そやけど、どうもぴたっとくるビビッドな文章が思い浮かばへんの」
 取り敢えずボールペンだけは蓋をして、ソファーの背に全身を預ける。こうも悪天候では、いかに電光を灯していようとも、ゆとりの多い宮之園邸の居間はどこか薄暗い。
「概略はええねん、問題は考察部分やねんな。『情報の特性を挙げた上で、今日の高度情報通信社会における教育的意義を述べよ』ってゆう題でさ……どこをどう突けば、ああ持ってこれるかなぁ」
 脳裏を巡る種々の単語や表現を掴まえては放し、浮かび上がった文面を整えては崩す。抽象的な課題であればあるほど、その可能性は多元的で収集の余地がない。
「もっと狭い範囲の問題を出してくれれば、まとめやすいのにさ。ほら、『フェスティンガーの提唱した認知的不協和理論を元に、消費者行動のメカニズムを具体例を踏まえた上で述べよ』とか」
「そりゃレポートじゃなくて、試験の方だ。レポート課題は――って待てよ、どうしてお前が俺の講義の試験問題を知ってるんだ?」
 手にしていた学会誌を放り出し、強張った顔で詰め寄る相手に、にやりと唇を上げる。
「さっき机の上に落ちてましたー」
 辞書借りに二階の先生の部屋に行ったらあってんもん、とありのままを告げると同時に、右頬が重力とは反対方向に抓み上げられた。
「それは落ちてたんじゃなくて、置いてたんだ馬鹿」
 ぐにぐにと親指と人差し指で引っ張られる頬肉と、呆れ交じりにこちらを見据える半眼。
「絶対に、口外するなよ」
「いひゃい、ひぇんひぇ」
「お約束出来ますか、鞠明サン」
 こくこくと頚骨が鳴るほど首肯して、漸く解放される。
「まったく、女の子のほっぺに何するんよ」
 言って、違和感が残る頬を掌で揉みながら 「思うに、二年以下の懲役もしくは三十万円以下の罰金または拘留もしくは科料に値する、で」 と上唇を尖らせる。
「それならお前は、住居侵入罪と窃盗、及び信書開封罪か?」
 ついでに名誉毀損も加えるぞと、取り澄ました眼で剣呑な笑みを浮かべる加害者。封書ではなかったのだから、信書開封には当たらないのは自明の理で。こういう応酬を、互いに楽しんでいる証拠でもあるのだけれど。
「ふん、重要書類を等閑(なおざり)にしといた方が悪いんや。ばらされたくなかったら、もっと殊勝な態度で出るべきやろ」
「お、今度は脅迫か?」
 再び手にした冊子に付箋を貼りながら、尚も叩かれる減らず口。それを押さえ込み、逆に射抜くように指差してやる。
「と、いうわけで鞠明ちゃんに何か気晴らしになるようなことを提供しなさい」
「……どういう道理だ、それは」
 大袈裟めいた、溜め息がひとつ。
「だって文章出てこうへんし、ペン持ってる手ぇ痛いし、ほっぺたもまだ痛いし、独りでぼぉっとしてんのもいい加減飽きたし、なんか先生だけ余裕って感じで(おも)ろないし」
「なのなぁ俺だって、そのレポートと試験の添削に、本業の研究会の準備やら今度英国の学会に提出する原稿書きやらで、遊んでられねぇんだぞ」
 試験さえ終われば浮かれ放題の学生とは違うんだ、そう寄せられた眉間の皺が、いかにも相手との差を物語っているようで――益々もって面白くない。
「そやから、気晴らしってゆってんの。忙しさに埋没しそうな日常から、偶には飛び出してゴーっと!」
 勢いに乗じてぐいと掲げた拳に、先程よりも深い吐息が落とされる。これだからガキは、と小さく呟かれた言葉は気に食わないが、そこにある眼の彩はけして悪くは感じなかった。
「はいはい、まぁ雨が止んだら考えてやるよ」
 思わず諸手を挙げて満面の笑みを浮かべた――その鼻先に、ボールペンが突きつけられる。ぎこちなく視線を上げると、合格率30パーセント未満とも言われ、陰では『泣く子も黙る恐怖の単位落としまくり男』などと呼ばれている、私立文黎大学きっての若手助教授殿の御尊顔がそこにあった。
「但し、このレポートは仕上げること。わかりましたか、有村くん」



G l e a m



1

「人間やれば出来る、日頃の行いがよければ天も見方をする、ってことやな」
 あくまで独り言として声に出しながら、重々しく上下する顎。
「いるんだよな、こういう悪運の強いヤツって」
 そうやはり独りで呟いて、愛車のステアリングを握っている手。
 梅雨前線の気紛れか、はたまた気象庁に対する反抗か、フロントガラスから窺える天は幾つもの輝きを宿し、雨露で閉じていた空気を穏やかに招いている。路端に野生した紫陽花の一房が、一瞬ヘッドライトで白く染まり、驚いたようにその身を震わせた。
 運転手の大叔母に見送られること約半時、車窓を過ぎる景色には段々と文明の灯りが無くなりつつある。重なった悪条件に、しかし老体のカローラはものともせず、寧ろ主とその連れを気遣うかのように働いていた。
 幾つもの曲がり角と薄闇に融けたトンネル、次第に高度を増していく地表の感覚。
「――鞠明、お前大丈夫か?」
「へ?」
 唐突な、そしてどこか遠慮がちな低い声に、隣席を顧みる。メーターランプに照らされた横顔は、無表情な中にどこか揺らいで見えた。
「酔いそうだったら、早めに言えよ」
 言われて初めて、ここが半年ほど前のクリスマスに通った道だと気づく。確かに、先刻過ぎったやや傾いたカーヴミラーには見覚えがある。あの時と同じ対向車すら疎らなこの山道は、けれども以前の記憶とはまったく違ったふうに映った。
「うん、でも大丈夫みたい」
 自然と零れ出た笑みで応えると、是とも非ともつかないそっけない了解が返ってきた。ついでとばかりに点けたカーステレオから、ビートの利いたロックと共にハスキーな歌声が間隙に響き渡る。
 半年前とは違う何か、それについては考えるまでもなかった。そういう意味で、確実に自分たちは変わって来ているのだと思う。けれど。
――先生は、あたしのことをどう思っとるんやろ?
 所謂お付き合いと一般に言われるものを始めて、早くも二ヵ月。
 文黎大学の社会学部助教授だけではない、緋川英彦という人間を見て聞いて惹かれて……それからもずっと、追い続けている自分。言葉で縛るのは実のところ簡単で、けれどもそう口にすることだけが欲しい形ではなくて。自分の持つ想いと自分の持てる術がつり合わず、只々焦りと苛立ちばかりが募っていく。
 先生、あたしのこと好き?
 そう訊ねれば、きっとまた揶揄(からか)われるかもしれない。いや、もしかすれば馬鹿みたいに真剣に応えてくれるのかもしれない。
 言葉が、欲しいわけじゃない。どちらにせよ、自分のことを少なからず思ってくれているのは知っているから。意地悪や応酬の中にも、優しさや気遣いの存在を感じられるから。
――でも、先生はあたしに何も求めない。
 まるで過保護の仔猫が、何も危険もない居場所で転寝(うたたね)をしているような心持ち。大事に大事に真綿で包まれているような、柔らかな扱い。大切にされるのは嫌じゃない。元来自分は、我侭いっぱいに甘やかされることを望んでいる節があるから。
――だとすれば、先生にとってあたしって何?
 時々、自分という器から溢れ出すくらい好きだと思う。優しくされる度に、喜びに心が躍る。そして、だからこそ途方に暮れる。
――貴方にとって、有村鞠明はどうあるべきなのですか? 有村鞠明に何を求めているのですか?
「それとも、もしかして」
 不意に思考上に飛来した予感を、慌てて打ち消す。そんな刹那の想像ですら、指先から痺れるような戦慄を覚えている。
「……鞠明」
 名を呼ばれて気がつくが早いかとばかりに、カローラが一時停止する。
「やっぱり無理か?」
 バックミラーのライトの下、気遣わしげに顰められた助教授ではない、自分だけに向けれた緋川英彦その人の顔。緩く目を閉じて、それでも感じる確かな気配。
「ごめん。さっきのレポートで気になったとこがあったから、つい考えててん」
 そやから、ほんまに大丈夫――そう再び笑ってみせる。いつかのような牽制ではなく、ひたすらその心配を取り除きたくて。
 ゆっくり吐き出される息と、ややあってぽんと脳天に載せられた掌。無条件に齎された、心地よい質量と感覚。
「頼むから、そういうことで嘘は吐くなよ」
「うん、わかってる。心配かけて、ごめんなさい」
 前に貧血で倒れたことがあるからか、そういう点でひどく気にかけてもらっていることはわかっていた。そうと知りながら、ついつい由のない思案に嵌ってしまったのは自分の迂闊さで。まるで自分の気持ちが、自分の実体によって裏切られているようだ。
 再び動き出した車体の揺れに身を任せ、やるかたない我が身に自嘲していると――ふと聴覚を聞き覚えのあるメロディーが擽った。物思いに陥る前に流れていた派手なロックとは異なり、淡々としたピアノのイントロで始まるバラードのようだ。
「この曲……確か、この前のしゃぶしゃぶの帰りに聴いたような気がする」
「ああ、一周したんだな」
 音飛びが目立つカセットテープに、そろそろこいつも寿命だな、と苦笑で返される。
「そういえば、ノーマ・ジーンっていうアメリカの女優を知ってるか?」
「え、んっと……有名な人なん?」
 よもや女優などという俗な話題が飛び出るとは思いもよらず、質問の内容以前に戸惑いを覚える。
「じゃあ、マリリン・モンローは?」
「あ、その人は知ってる。スカートがひらぁんってなって、いやーんってやってる人やろ?」
 乏しい知識を掻き集めてそう答えると、途端に吹き出された。ステアリングを握ったまま、不自然な姿勢で肩を震わせている。
「……いや、間違ってはないんだけどな。ノーマ・ジーンというのは、彼女の本名なんだ」
「へぇ、なんか本人に似合わず地味な名前やね」
 あからさまに笑いを噛み殺している声音が癇に障り、そう硬い声で応える。暫時を置いて漸く落ち着いたらしい隣席は、しかし瞬間前とは真逆の表情を浮かべた。
「そう、人々が求める彼女には似合ってなかった。だから彼女は、ハリウッドのアイドルという地位の代償として、ノーマ・ジーンという個で生きることを否定されたんだ」
 曲が巡り、ピアノのリードに寄り添うようにギターとベース、ドラムがサビを彩る。
俗物主義(スノビズム)の象徴、性的好奇心の偶像として、死した後も生き続けているのは、彼女ではない造られた彼女。この曲はその孤独を嘆き、ノーマ・ジーンという一人の女優の死を悼んでいるんだ」
 尤もこの歌い手が物心ついた頃には、とっくに彼女は亡くなっていたんだけどな――そう付言して、薄く笑む。ちょっとした雑学程度にはなっただろと続けた声は、普段より数段穏やかに聞こえた。
「なんか、奥深い曲やな」
「まぁこの曲に関して言えば、ってとこだな。他の作品は殆どの場合……おい、鞠明」
 突然名前を呼ばれるのも三度目で、流石に振る向く速度だって落ちもする。けれども、
「……あ」
 ふわりと中空に鮮やかな軌跡を灯した、それは。
「一応、約束だったからな」
 呆然と見開いた視界の先は、見事な光りの乱舞で満ちていた。



2

「……ホタルや!」
 感嘆に息を詰めたまま、鞠明はやや掠れた声で叫んだ。
「もう少ししたら川べりに出るから、そこで降りようか」
「すっごい。ほんまに、あんなふうに光るねんな」
 地道のカーヴを曲がると、そこはもう淡い光で溢れていた。歓声を上げる鞠明を横目に、川沿いの地道に車を停める。エンジンを切ると、暗闇を照らすのは自在に飛び回る小さな灯火のみとなった。
「暗いから気をつけろよ」
 足元の砂利を蹴飛ばすように駆け出す背に、そう声を掛ける。
「うわ、こんなにいっぱい飛んでる」
 まるで走ることを覚えた仔犬のように駆け回る姿に、無意識に頬が緩む。喜ぶだろうと思って連れては来たが、往路の様子に不安があったのも事実だから。
 以前ここを訪れたのは、かつて自分もまだ学生だった頃。何かと祭り好きの指導教官と同級らに、脅し半分で付き合わされて以来だった。バブル景気の末期とはいえ、開発の波がこの片田舎にまで押し寄せようとしたあの頃と比較しても、この十年でそう変化はなかったらしい。今も昔も、田植えも終わり落ち着きを見せだした田畑や涼やかな音を奏でている小川が、この初夏の一時を演出するいたいけな存在を変わらず育み続けているのだろう。
「変わったのは、俺の方か」
 少し離れた所で、初めて目にしたという光りに夢中で戯れている存在に、そっと目を細める。
 最近気づいたことだが、彼女が自分に対して抱いてくれている感情と、自分が彼女に対して抱く感情とでは微妙なズレがあるように思う。それを一度は結論づけたような所謂『恋心』と呼ぶべきなのか、はたまた全く別種の『執着』と呼ぶべきなのか、自身の中にも未だ明確な答えはない。
 けれどもごく単純に事実のみを追求すれば――そう、たとえば今のように、彼女が笑ってくれればいいと思う。それが自分が齎した結果であれば、その対象が自分だけに限定されれば、それだけで自分はひどく喜べるだろう。それこそ、子どもが己の玩具を独占した時のように。
 勿論『欲望』が無いといえば、嘘になる。微笑みだけでなく、その身を手に入れたいと願う自分は、確かに存在する。感情だけでは括れない原始的欲求が、彼女を前にして襲ってくることも往々にしてある。つい先日まで躊躇(とまど)いなく行っていたように、剥いで奪って蹂躙(じゅうりん)して、刹那の満足を手にすることを。
 言ってしまえば、今まで女と関わる分には一抹の不安も感じなかった。結果として見下げられようが、否定されようが、生理的処理を効率的に行うという手段に過ぎなかったから。所詮、一過性のものであることは互いに承知していて――だからこそ、それぞれの目的が付随してただけだ。
「なぁ俺は、お前に何が出来るんだ?」
 見たいもの、聴きたいもの、行きたい場所……この身で叶えられることなら、いくらでも。もしいつかのように言葉が欲しいというのなら、まるで馬鹿の一つ覚えのように。
 だからこそ、伸ばしかけたこの手を引いてしまう。彼女が望まない限りは――もし拒絶でもされたら、きっとどうしようもないから。我ながら唾棄したくなるほど、情けなくて臆病だとわかっていても。
「――先生!」
 はっとして声の方を向くと、鞠明がいやに嬉しそうにこちらに駆けて来る。
「ほらほら、やっと捕まえた」
 そう声を弾ませると、彼女は胸の前で合わせていた両手を開き、差し出した。小さな掌によって構築されたごく狭い空間の中で、一匹の蛍が煌々と柔らかな光りを放っている。
「捕まえたって……お前、蛍は永く生きないんだぞ」
「えっ、そうなん?」
 動揺が即席の籠に亀裂を生み、その隙を突いた蛍は零れるように尾を引いて闇に逃れる。
「あっ」
 ぼうっとその行方を目で追った後、鞠明は恨めしげに軽く睨んできた。
「逃がしといてやれよ、下手すりゃ一晩の命なんだから」
 なんだか本当に小さな子どもを相手にしているようだと、心中で自嘲しつつ言いやると、
「だって、先生に見せたかったんやもん」
 そう、拗ねるように頬を膨らませる。
「態々捕まえてくれなくても、ちゃんと見てるって」
「でも、さっきまでなんか考えごとしてたやろ?」
 言って彼女はやるかたない子どものように、足元の雑草をガサリと蹴った。驚いた辺りの蛍が、一斉に空へと舞い上がる。
「――あのさ、もし仕事のこととかで迷惑やったら、ちゃんと言って。じゃないと、なんかあたしの都合ばっかりで、引っ張り回しているみたいやし。それに、その、もしかして先生はあたしとこんなことしてても全然面白くないんとちやうかな、とか思っちゃうし。でも折角の綺麗なホタルやから、一緒に見たいなってゆうのもあるし、」
 それに、それに、と続けながら、徐々に俯き、途切れていく声。
 闇に広がる強く儚い光の乱舞、その中心に鞠明がいる。どの明かりよりも強い存在感を持っているはずなのに、まるで必死にこの手で捕まえておかなければ、そのまま夜の狭間に溶け込んで消えてしまいそうで。
「先生?」
 次の瞬間、自覚するよりも早く、その両肩を抱いていた。弾かれたように上げられた面に、肉薄している深遠な水晶体と、そこを支配している自分。そうしてまるでスローモーションのように、一際鮮烈な笑みを残して帳が下ろされた。

 まず知ったのは――いつかの記憶を遥かに凌駕する柔らかな感触と、触れ合った部分から伝わる彼女の体温、そして馬鹿みたいに煩い自分の心音。
 ただ唇の表面を合わせているに過ぎないのに、まるで包み込まれるような感覚。その存在を確かめるように角度を変えると、僅かに洩れた吐息が身を震わせる。今までに経験したどの女とのセックスにもなかった、まったく未知の、それでいて妙にしっくりとくる静謐(せいひつ)な酩酊。
 そこにあるのは、かつてのような不意打ちではなく、まして陵辱でもない――圧倒的な充足感。
 ややあって詰めていた息を解くように、一旦温もりが離され、代わりに細い腕がおずおずと背へとかかる。瞬間合った眼は微かに濡れていて、それを隠すように再び伏せた顔が胸元に埋められる。
 どうしても離したくなくて、少しばかり力を込めてその身を抱き締めた。どちらのものともつかない鼓動が、早く、高く、痛いほど響く。手が自然とその髪を梳くように撫でる。指の間を滑り抜けていく、擽ったいような柔らかさが心地いい。
「……鞠明」
 恐る恐る名を紡ぐと、彼女は胸に顔を寄せたまま、くすりと笑った。
「わかった、ような気がする」
「何が?」
「ううん、なんでもない」
 緩く首を振って、鞠明はとっておきのものを見つけたように忍び笑いを繰り返した。
「なんだよ、気になるじゃねぇか」
「なんでもないってば。――ただちょっと安心したかもね」
 意味が掴めず、髪を撫でていた手を止める。と、拍子にこちらを見上げた顔は、まるで悪戯を思いついた子どものそれだった。
「三度目の正直、って言うのかな?」
 にっと綻ばせた口元に、その言わんとしている過去を思い知らされる。
「……いや、それは」
「ここで素直にごめんさいしたら偉いんやけどねー、英ちゃん?」
 だからといってどう言えばいいんだと内心煩悶していると、それが顔にも出ていたのか、腕の中の彼女はくつくつと声を上げて笑い出した。
「そりゃ前の時は、吃驚して嫌がっちゃったけどさ。ほんまにまるっきり、嫌やったわけやないし。――あ、でも相手があたしやったから許されるんやで。ほんまやったら、訴えられて馘首(クビ)になっても文句いわれへんねんからな」
 言って、彼女は再び胸の中へと落ち込んだ。その柔らかな震動と存在に、不思議なほど安堵を覚える。
 ああ確かに、自分もわかったような気がする。言葉ではない、証拠を。わかっていることと、わかってもらうことを伝える術を。独りでは叶えられない、ひどく貴い何かを。
 一旦蹴散らされていた蛍の群れが、ゆるゆると戻り、そこここで主張を繰り返す。美しくも妖しいその灯火に囲まれると、なにやら告発を叫ばれているような気もする。
「先生?」
――いいだろう、俺だって覚悟がまったくないわけじゃない。
 そう自分に言い聞かせ、もう少しだけそっと腕に力を込めた。



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