3

「いのち短し……か」
 老朽した冷房が効き出すのを待ちながら、フロントガラスを掠める光りを見ていると、ふと昔の歌を思い出した。
 本来の目的である蛍狩りを一通り満喫して、再度乗り込んだ車内の空気は澱み蒸れていた。害虫の侵入を防ぐ為に、すべての窓を閉めていたことが原因らしい。
「あ、それ知ってる。『ゴンドラの唄』やったっけ?」
 しつこく窓に張り付いてた鞠明が、助手席から身を乗り出して首を傾げる。
「そう。よく知ってるな」
「確か、ちっちゃい頃に童謡の番組で聴いたから。……でもそうか、蛍には明日がないんやな」
 歌詞の最後を思い出したのだろう、彼女は小さく吐息を漏らすと、ちらりと窓の外の小さな輝きを見遣った。
「しょうがないさ。そういうふうに生まれてきたんだから」
 そう肩を竦め、ハンドルを手にする。車体と同じく老齢の冷房に期待するより、少しでも早く走って風を入れる方が得策と判断したからだ。
「蛍を綺麗なものとして捉えるんは、人間の自分勝手に過ぎひんのかもなぁ。だって、蛍は何もひとに綺麗やと思われるために光ってるわけやないもん」
 遠ざかる光りを未練がましく眺め、シートベルトを引っ張りながら、鞠明は考え込むようにして静かに呟く。
「もしかして蛍は、見物に来るあたしらみたいなヤツのこと、嫌なんかもしれへんな」
 バックミラー越しに映る、夜の闇に融けた眼は奇妙に凪いでいた。自我を閉じ込めて、一切の干渉を拒否しているかのような横顔。こういった不意に見せる彼女の冷徹な面は、その分普段は隠されている本心が表われたようにも思えて、ひどく興味を掻き立てられる。
「なぁ鞠明。量子力学って知ってるか?」
 煙草を銜え、全開にした窓枠に片肘を突く。風に乗って細く伸びた紫煙は、蛇行をしながら背後へと流れていった。
「……『シュレーティンガーの猫』くらいなら、知ってるかな」
 でも説明せぇ言われら無理やで、と尖らせた唇に、薄く笑う。
「俺だって完璧な解説を要求されたら、一溜まりもねぇよ。まぁ『シュレーティンガーの猫』は、コペンハーゲン解釈に対する観測問題におけるパラドックスの代表だから、割と一般的な知識ではあるけどな。面白いのは、これの批判的立場にあったウィグナーっていう学者が考え出した『ウィグナーの友人』っていうパラドックスがあって……」
「あのさ、全然わからんねんけど」
「悪い、閑話休題ってことだ。俺が言いたいのはだな、『シュレーティンガーの猫』におけるパラドックス、っていうのはわかるよな?」
 自信なさげに眉をしかめ、いつものように首を左に傾けながら、その小さな唇が動き出す。
「んっと確か……箱の中ににゃんこと毒ガスの瓶を入れて、外にある放射線を検出する装置を中の瓶と繋げる。装置が放射線を検出すれば、瓶が割れてにゃんこが死んでしまう。箱を開ければにゃんこが生きとるか死んどるかわかるけど、開けへんかったらわからんから……それはつまり観測者が観測するかしいひんかで、にゃんこの生死が決まるってことやろ。でも箱を開けるという行為が、にゃんこの命に関わる筈がないから、理論自体が矛盾する……やったけ?」
「ちゃんとわかってるじゃねぇか。量子力学の世界では、そういう矛盾が常識として存在することになっている――まぁ正統派とされている立場では、だけどな。これがハイゼンベルクという学者が考え出した、不確定性原理だ。粒子の位置を定めるとその運動量が掴めず、逆に運動量を定めると位置がわからなくなる――それは観測者の主観的思惟が関係するからなんだな」
「うにゅー頭痛くなってきた」
 (こめ)かみのあたりを抑えて唸る頭を、ぽんと軽く叩いてやる。
「期末考査前の小手調べだ、もうちょっとだけ考えてみろよ。……何故俺が今、こんな話をしていると思う?」
「うー?」
「そもそも、この話の前にお前が考えていたことはなんだった?」
「えっと、蛍? ――あ、そういうことか」
 両手を打ち鳴らせ、理解の喜びに満ちた声が弾む。
「そう、たとえ人間が一切手出しをしなくても蛍は輝き続け、そしてやがては死ぬ。これが常識だ。しかし一方でそれを人間が綺麗だと思うことがまた、彼らにとって何らかの影響を与えている可能性は完全に否定出来ない。これが常識のパラドックスだな」
 珍しく素直に点頭する生徒を横目に、サイドミラーに宿った後方の煌きを思う。
「ここからは、俺の僻見に過ぎないが――影響なんて、必ずしもマイナスのものだとは限らないんじゃないだろうか? たとえば植物の花は、他人の力を借りて実をなす為に美しく咲くという。より効率よく受粉する為、よりその媒介となる昆虫の気を惹く為、より美しくより華やかに。……でもな、果たして本当にそれだけだろうか。存在なんて、そんな一義的に括れるものじゃないだろう?」
 気がつくと短くなっていた煙草を、備え付けの灰皿に捻り込む。
「何故、蛍は輝くのか? 科学的には、発光酵素のルシフェラーゼと発光物質のルシフェリン、一般にATPといわれるアデノシンシリン酸、マグネシウムイオン、酸素等が反応して起った複雑な化学反応だというメカニズムが解明されているが――それは所詮、手段に過ぎない。何故、という根本的な問題には、生物的本能に寄るものとしか答えられないんだ。種類に寄って発光パターンが異なるし、何しろ生殖本能に従っている植物の花と違って、(さなぎ)でも発光するからな。……だからこそ、俺は考える。或いはなんらかの第三者に綺麗だと思われること自体が、実は蛍が蛍としての所以のひとつになっているんじゃないか、ってな」
「でもそれって、蛍という位置を人間が勝手に蛍に押し付けてるから、ということはありえへん? あのノーマ・ジーンっていう、女優さんみたいに」
 そんな揺れる声音に、自分でも驚くほど穏やかな気持ちで応える。
「蛍は『蛍』だから、輝いているんじゃない。輝いているから、『蛍』なんだ」
 何しろ古代と呼ばれる時代にだって蛍は蛍だしな、いくら人間だってそこまでおこがましくはないだろ――そこまで言って、つい自嘲する。一体、自分はいつからこんな理想主義者になったのだろうと。
 実際のところ、こんな戯言に意味なんてない。口先八寸などと言えるほど鮮やかではなくとも、とんだ詐欺師には違いない。ただ不可解なのは、そんな詐術に自家中毒を起こしている自分自身だった。これではまるで、ミイラ取りがミイラになるのと変わらないではないか。
「恋せよ乙女、か」
 無意識で口ずさんで、異様なほどの居たたまれなさを覚える。かつてなら間違いなく愚かと評しただろう己の幼稚さが、そのたった一言によって、すべて筒抜けになってしまったような気がした。
 しかしながら、隣席からの反応はなかった。そのあまりの唐突さに不審に思い窺うと、これ以上ないほど項垂れた姿が視界に映った。慌てて一時停車し、真剣に向き直る。
「どうした、気分でも悪いのか?」
 少しばかり頭を使わせたことが、車酔いに拙かったのだろうか。取り敢えずシートベルトを外してやりながら、窄ませた双肩に不安が過ぎった……その時。
「な?」
 に、という続きは音にはならなかった。いや、正確には音自体が塞がれたのだ……そう、彼女の唇によって。
 柔らかなその感触は、しかしそれと理解するよりも早く、一瞬で離れていった。あまりにも突然で、続け様に凭れかかってきた身体をただただ呆然と受け留めるしかない。
「――あたしも、先生になんか影響してる?」
 静かな、そして必死に何かを押し殺しているような囁きが、聴覚よりも先に胸に木霊する。まるで砂地に染み込むの清水ように、一適も洩らさず取り込み満たしていく。
「何者にも影響を及ぼさない存在なんて、ない」
 言いながら、気の利かない自分に内心で舌打ちを洩らす。
「だけど、少なくとも俺にとってはマイナスのものじゃない」
「……ほんまに? あたしのこと、気持ち悪くない?」
 思いもしないその問いは、けれど引き攣った口元や盛んに瞬きを繰り返す両睫が、その哀願に近い重みを感じさせる。小刻みに震える背が、痛々しい。
「なんでそういう発想に至るのか、今までお前がどういう人間と関わり、どういうふうに影響しあってここにいるのか、俺にはわからないしわかり得ないと思う」
 最早そこに理論や公式を当て嵌める作業すら侭ならず、ただ不透明な予感に突き動かされた口が思うより先に動いている。
「大体、考えてみろよ。そんな否定的要素のある人間と、こんな暢気に蛍狩りに行けるか? 俺はそこまでボランティア精神に殉ずる気はさらさらないぜ」
 本当は、知っている。下手な影響を怖がっているのは、自分自身だということを。
 この世界は結局、すべてにおいて不確定で。その中でいつも何かしらに影響されて振り回されて、挙句に流されている。そうして気づいた時にはもう汚れてしまっていた手の中にあるのは、壊れた玩具の残骸や、自分本位な思い込みで出来た不良品ばかりだから。
「……そう、やんな。あは、なんか、すっごいアホなこと訊いちゃった」
 ふわり、とまるで目覚めたばかりのような(おぼろ)な輝きが、視界の端を過ぎる。ちらちらと明滅を繰り返す彼に、程なくして別のより強い光彩が寄り添い呼応する。それはまるで、単調な音色が旋律に、独奏がハーモニーに、小曲がソナタになるように。
「なんかさ、舞い上がってるんやと思う。だからちょっと()っこいこと言ったみたんよ。だって先生ってば、ヘンなとこ気障やねんもん」
 ほんま笑っちゃうわ――いかにも生意気な口調ととも上げた面には、ニヤニヤと浮かばせた子どもっぽい笑み。それはまるで普段通りの、彼女が望み作り出した彼女らしさ。
「……お前な、大人を揶揄(からか)うと後悔する羽目になるぞ」
 ちょいと彼女の顎を取って、冗談めかした口調とともに、そっと(わら)う。先の彼女の言ではないが、狡いとは本来こういうものだ。
「それって、どういうこと?」
 きょとんと見開かれた目と無邪気な問いに、はぐれ蛍の残り火がきらりと反射する。
「こういうこと」
 言い様、眼下であどけなく揺れている上唇をちらりと舐める。驚愕にびくりと退く身体を押さえ、下唇を軽く()んで、反射的に開いた口唇を割って内部に侵入する。
 歯列の裏をなぞり、上顎の置くから手前へ愛撫を施す。微かに高い温度と、甘味を含んだ吐息。戸惑い(うごめ)く彼女を誘い出し、怯え竦むそれを絡め取る。
 蕩けるように熱く、溺れるほど深く、痺れるまで永く。
 (うず)くような呻きと、肩甲骨の辺りに滑る指、切なげに(ひそ)められた眉。覚束なげに拙いながらも返ってきた応えに、恍惚とも呼べる陶酔を震わせる。互いの間隙で奏でられる湿潤音と、角度を変える度に伝い落ちるどちらのものとも知れない情欲の滴りが、鋭敏になった五感をより一層刺激する。
 臆病でちっぽけで、そのくせ無碍(むげ)にするには眩しい光り。捕らえてしまえば、握り潰すまでもなくあっけなく途絶える輝き。たとえ歳の重ね、醜悪なものを()り、挙句の妥協や逃避の代償として自身が忘れざるをえなかったとしても。
 今日は再び来ぬものを……微かに残る唄の記憶に、物言わぬ月が地上に遣わした分身が合わせるように、一際鋭く発光した。



4

「息詰まるかと思った……」
 自分でもかなりわざとらしい深呼吸を繰り返して、そう零す。「一瞬、お花畑が見えそうになったわ」
「あのな、そのやたら動く口の上についてるものの使い方ぐらい、考えろよ」
「そんな器用なこと、いきなし出来るわけないやん!」
「じゃ、これから嫌でも出来る様になればいい」
 何事も実践あるのみだな、などと飄々とぬかす横面をいっそグーで殴ってやろうかと思うが……それ以前に、先程ことでまともに顔すらを見れやしないのだから。
――いや、だって無茶苦茶吃驚したもん。
 自覚以上に熱が集中している頬に手を遣り、溢れ出た唾液の所為で違和感が残る口元をこっそり拭う。
 知識としては、勿論わかっていた。一人っ子とはいえ共学に通っていた所為か、世間でいうところの青少年の健全な育成の弊害される出版物だって、少なからず目にしたこともある。大体その手の話は得てして少女の方が鋭敏だし、同性同士での会話もあからさまだ。
――でも聞いたり読んだりするんと、全然ちゃうし。
 感覚とは恐ろしいものだ、叫びそうになっていた本心が一瞬にして引っ込んでしまう程、自分を支配し尽くしたのだから。
「あれは……やっぱ巧いんやろなぁ」
 経験上に比較対象がないからわからんけど。そう声に出るか出ないかで呟いて、誤魔化しついでに溜め息を落とす。
 そう、言葉が欲しいわけではない。望んでいたのは独りの『好き』ではない、二人の『恋愛』。そして好きという伝える術と、自分の位置に対する証拠と、相手の中の自分を確かめたかったから。
「おい、そろそろ見納めだぞ」
 勇み出したエンジンに、最後まで付近にいたはぐれ者の蛍も、漸く誘われるままに群れへと還っていく。あの川原の一部分が、彼らにとってはまさに全世界なのだろう。それを井の中の蛙とするか、それとも理想郷と崇めるかは人それぞれだとしても。
「ばいばい、また来年な」
 今はまだ見ぬ、彼らの子孫に。それがたとえ、あまりに不確定な約束だったとしても。
 徐行していた川辺の砂利道から、ほんの一時だけ世界を繋いでいた媒体が、元いたアスファルトの車道に戻る。
 自分たちの世界は、あそこじゃない。もしかするとそこは、あそこよりも尚、狭くて昏い場所なのかもしれない。けれど、たとえそうだとしても、自分たちはそこで生きていかなければならないのだ。
 だからこそ、独りではあまりに心細い。――そう、自分の存在を認め、想いの通ずる相手がいなければ。
「あのさ、今、気ぃついてんけど……こっちって、行きしなと違う道やない?」
「ああ、ここからが今宵のメインイベントだ。ご期待通り、忙しさに埋没しそうな日常から飛び出せるぞ」
「へ?」
 聞き返す間もなく、車体は一際暗くなったカーヴを過ぎる。
「夏に暗い田舎の山道、とくれば決まってるだろ?」
「もしかして、その、あちら側の方々に逢おうっていう……」
 僅かな月明かりさえも蔽う木々と、苦悶の呻きにも聞こえる蛙の声。
「この辺りは花脊(はなせ)峠っていってな、京都じゃ有名な自殺の名所なんだ」
 けして冷房の所為ではない、澱んだ寒気。ありもしない陰気な(こだま)が、絶え間ない囁きを鼓膜に宿す。
「知ってるか? 蛍ってのは、江戸時代の書物には化生類というふうに分類されてんだ。化生というのは本来、急激に顕著に成長するものって意味なんだが……そこから派生して化け物の意とも言われてる。たとえば蛍には、ゲンジボタルとヘイケホタルってのがあるだろ? あれらは一説によると、源平合戦の怨念や遺恨の魂が化生したものらしいぜ。ヘイケの方なんかは、宇治川の戦いで敗れて平等院で自殺した源頼政の無念が凝り固まったものだって話もあるしな」
 楽しそうに、本当に愉快でたまらないといった感で、ハンドルを握る手が憎らしい。
「……緋川センセは理論派やなかったんデスカ?」
「理論というのは常に反証されるのを待っているものなのだよ、鞠明くん」
 そして反証されそうで出来ない理論を確立させるのが先生のお仕事なのさ、と言い遣り、ニヤリと口角を歪める。
「……『フェスティンガーの提唱した認知的不協和理論を元に、消費者行動のメカニズムを具体例を踏まえた上で述べよ』は?」
「そりゃ、お前らの義務だ」
 明滅を繰り返す電灯、ヘッドライトに白く浮かび上がる廃屋、夜陰に紛れ寂れた墓地。
「ってゆうか自分、社会学者やろ!?」
「おうとも、だからこそ」
 突如として前方に口を広げたのは、暗澹(あんたん)且つ陰湿な回廊。テレビの心霊特集に必ずといって登場する、いわくつきのトンネル。申し訳程度に灯された黄橙色のナトリウムランプが、逆に不気味さを増長させている。
 脅された猫のように、声にならない悲鳴が口腔内で暴れる。少しでも外界から遠ざかるように身じろぎ――けれども哀しきかな、恐怖に潰されながらも残った一握りの好奇心が、瞼を閉じることを許さない。
「ほら鞠明、いかにもな所だろ」
 今までにないほど陽気な地獄への案内人の声に、ぴちゃんと遠くで水の滴る音が重なり、独特の薄寒い空気がどっと押し寄せる。先刻とは違った意味で速度を増す心音に、知らず運転席の袖を握り締めた。
「さてフィールドワークと洒落こもうじゃねぇか、有村くん」


確かなものなんてどこにもなくて、
どこからが始まりで、どこまでが結論なんて見えやしないから
ここにあるものは、いつだって現在進行で試行錯誤な最終理論

そしてそれを少しでも確かにする為
この深遠な闇の中で、ひとはあてもなく彷徨い続ける
只、強くて弱い輝き(Gleam)に追い縋りながら


 尚、上機嫌の助教授がこのかっきり一時間後に、半泣きになった年下の恋人に詰られ当分ちゅう禁止令を下された挙句、彼女が泣きついた大叔母にあらぬ疑いをかけられたことを付言しておこう。


2000.12.31 / 2003.8.15.




参考文献

・「量子力学入門 現代科学のミステリー(岩波新書 新赤版 210)」 並木美喜雄 著 1992 岩波書店
・「Aha! 量子力学がわかった!」 一石賢 著 2000 日本実業出版社
・「ヘイケホタル 可憐な人里の昆虫」 三石暉弥 著 1996 ほおずき書房

挿入歌及び歌詞引用

・「CANDLE IN THE WIND」 Elton John 1973
・「ゴンドラの唄」 中山晋平/吉井勇 1915


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