――ほんの少しだけ前に戻れたら、どんなに楽だろう。 「―― 呼ばれて顔を上げると、クラスでも比較的仲のよい少女が、なにやら束になった封筒を手にして机の脇に立っていた。 「これ、この前の社会見学の時のなんだけど」 そう渡された茶封筒には、写真購入用と印があり、写真番号と料金を書き込む表が張り付けられている。学内の年中行事や学校の特別活動の後日に必ずといって配付されるもので、四年目ともなればすっかり馴染みの存在でもある。 「ありがとう。……でも、わたし多分いらないかも」 「そっか。しょうがないよね、大変だったし花恵ちゃん」 曖昧な笑みととも告げた断わり文句は、しかし相手の返答よりも先に、隣席からの声が被さった。と同時に、周囲の目が一斉に件の封筒を手にしたままの花恵に集中する。 「内薗って、弱いよなぁ。アレくらいで気分悪くなるなんてさ」 「花恵ちゃんは、あんたと違ってセンサイなんだよ」 クラスで一番目立つ男子児童と、中心的な存在の女子児童。彼らが参加して来たのを機に、周りの友人――という名の取り巻きたちが、口々騒ぎ出した。 「オレは全然平気だったぜ」 「うそだろ〜お前半分泣いてたじゃん?」 「気にすることないよ、花恵ちゃん」 「そうだよ、私も怖かったもん」 そんな憐れみに似た励まし一つひとつに頷き返しながら、花恵はそっと吐息を漏らした。 総合的な学習の時間と社会科、そして特別活動を兼ねた学年の社会見学が催されたのが、つい先週のこと。そこで歴史教育の一環として連れて行かれたのは、太平洋戦争を中心とした戦争の写真展だった。 「ほら、腕がないヤツとさぁ、足のないヤツがあっただろ」 「火傷のアレ、凄かったよな」 「やめなよ、男子!」 「そうよ、花恵ちゃんが可哀想じゃない」 手元の作文帳が捲れ、癖がついたところで止まる。本来なら件の社会見学の感想が書かれているべきところは白紙で、ただ所見の欄に赤ペンで一言「気にしないように」とだけ書かれていた。 不意にノートごと投げつけたい衝動に駆られ、慌てて机に仕舞う。弱虫なのは自分なのに、モノにあたるなんて最低だ――そう考えるだけで酷く惨めな気分になり、花恵はそろりと席を立った。 「ごめん、ちょっとトイレに行って来るね」 「もしかして男子たちの所為で、気分悪くなった?」 「ううん、違うから。大丈夫だよ」 言いながら、ハンカチがスカートのポケットにあることを確認して、逃げるように教室を後にする。おそらく自分の所為でまた女子と男子の一悶着があるんだろうなと思い、また溜め息が零れた。 目を瞑ると、凄絶な写真の数々がフィルムのように流れ浮かんで来る。あの社会見学以来、幾度か夢で魘され碌に眠れない日々が続いている。昼間でもちょっとした瞬間に思い出されて、その度に恐怖に汗が滲む。まるで写真通りに自分の腕や足が切り離されるような、業火に全身を焼かれるような感覚が襲い、呼吸が乱れる。――それは、一度知ってしまったが故に、二度と忘れられない恐怖だった。 「どうして、わたしだけこうなんだろ」 写真展の後に倒れこんだ自分に、教師や両親を含むオトナたちは皆口々に「普通の人より繊細だから」だの「皆より、少しばかり気が弱いから」だのと慰めにかかった。このコは普通ではない、そう彼らの顔にはありありとあって――以来、学年主任の教師などは「問題児」という札つきで自分を見るようになっているし、何故か実の母親ですら、何かに怯えるように自分を躾ける言葉を模索している節があった。 「弱いから、悪いのかな」 知らなければよかった、社会見学以来そう何度も何度も思った。あんな怖いことが昔にあったなんて、そして自分がこんなにも弱かったなんて。 思えば、昔からそうだった。ぼんやりしてる時に、ふと他人の痛みを思って泣けてくることがあった。とても痛くて、痛すぎて眠れないこともあった。それは実際にいる人物に対してもそうだし、下手をすれば本の中の架空の人物に対してでもあった。ただ、怖かった。解決の糸口や自分の中での折り合いを見つける間もなく、一途に、ひたすらに怖かった。 「――内薗さん、ちょっとお願いがあるんだけど」 陰鬱な気分でトイレに向かう手前で、そう戸惑い気味に声をかけてきたのは、普段あまり喋ることのない同級生のひとりだった。 |