――さよなら、昨日。 「ずっと、こういうふうに過ごせたらなぁ」 思わず年寄りくさいことを独りごちながら、大きく伸びをする。関節が挙げた軽い鳴き声と、凭れた木製のベンチの軋みが重なり、傍らのタンポポがその微かな震動に合わせて、ゆるゆると子孫を新たな旅路に向かわせた。 「―― 「そういう貴女は、内薗花恵ちゃんだね」 身を起こして出来るだけ愛想のよく笑いかけると、その伏し目がちの少女ははにかむようにこちらを見、ゆっくりと頷いた。 仕切り直しとなった二回目の待ち合わせ場所は、彼女の家がある団地の中の公園だった。今度は土曜日ということを考慮して、というのは名目で、やはり前回の公園には近づきたくないという心理が双方にあったことは否めない。 「この前は……その、色々とありがとうございました」 「いや、お礼を言うのはこっちの方だよ。君がいてくれたから学校の電話番号がわかって、連絡できたんだし。あのままじゃ、いつまで経っても動けなかったからね。――それより、お友達の方は大丈夫?」 あの時の被害者、 「尚ちゃんは……まだ学校に来てません。なんか、わたしにも会いたくないらしくて」 「会いたくないって、そう彼女が言ったの?」 おかしな話だ。あれだけ庇ってくれ、必死になってくれた友達なのに。 「直接は、聞いてません。ただ、尚ちゃんが、わたしにだけは知られたくなかったのに、って」 「――わからない、かい?」 ふ、と花恵が顔を上げた。その先に、仏頂面のノウが相変わらずの黒ずくめで立っている。 「あんたは、人の気持ちがわかりすぎて傷ついてたんだろ。――だったら、わかるよな?」 突きつけるように、ノウは花恵を見つめた。その眼光に幼い少女が怯えてしまうのではと内心焦ったが、花恵は沈むように俯いて首を振った。 「わからないんです。――うぅん、この前まではわかってたつもりでした。戦争で苦しんだ人たちの痛みとか、悲しみとか、そいういうのを考えただけで胸が痛くて仕方がなかったから。……だから、だったら知らない方が良かったのにって思ってた。怖いことを知らなければ、わたしがこんなに苦しむことはないのにって」 虚空に投げかけるように、花恵は顔を上げた。ふっくらとしたやわらかな子ども特有の線と、ぱっちりとした瞳。僅かに突き出た唇は小さく、まるで季節はずれに紅梅の花弁を落としたようだった。 「でも、それは間違いでした。わたしは……結局わたしは、わたしのことしか考えてなかった。だから、わたしは人の気持ちをわかってたんじゃなくて、わかったつもりで勝手に考えてただけなんです」 きゅっ、と膝の上で握られた本当に小さな拳が、白く色を失い震える。子どもらしい濃い睫が、それまでより早く上下運動を繰り返した。 「わたしは、わたしは人の気持ちを自分のものにして、それで自分勝手に嫌だとか苦しいとか言ってただけなんです」 「そんなことだと思ったよ。大体、人の気持ちなんざわかるもんじゃない。自分の気持ちだって、わからない方が多いんだ。それをわかりすぎて傷つくなんざ……」 「ノウ、ちょっとだけ、黙っててくれないかな」 出来るだけ重々しく言った僕に、ノウは口を開けかけたまま不満そうに眉根を寄せたが、そのまま軽く顎で促してくれた。 「――ねぇ、花恵ちゃん」 唇を噛み締め潤み出した眼を必死に凝らして、それでも立ち向かっている彼女に、半ば感嘆を覚えつつ僕は胸の中で三つ数えてから言葉を紡いだ。 「ノウの言ったように、確かに人の気持ちなんて早々わからない。――でもね、わかろうとすることはけして悪いことじゃないんだよ」 わかって欲しい、この 「わからないから、わかろうとする。わからないから、わかりたいと思う。それはとても、とても正しいことなんだよ。……あの、お友達をいじめてた子たちなんかそうだろ? あの子たちはわかろうとしなかったから、あんなことが出来たんだ」 君には知らなかった昨日を突破して、知ったからこそ考える明日があるのだから。そう、信じたいのだから。 「知らなければ、傷つくことはない。でもね、それは知らないことで、考えることから逃げているに過ぎないんだよ。だって知らなければ、わかりたいとも思えないだろ?」 不安そうに――けれども噛み砕くように首肯を返す姿があまりにいじらしく、僕はそっと彼女の頭を撫でた。これは彼女のためではない、僕の、僕の信じる世界のためだ。 「君はとても頭のいい子だ。だから知らなかった昨日を失っても、考えることで明日を見つけられるよ。だから焦らないで、自分を責めないで……ゆっくりとでいい、時間をかけて自分が一番わかりたいことを、わかれるようになればいいんだ」 「知識なんて、あとからいくらでもつけられる。でも一番知りたいことには、一番時間がかかるからな」 心持ち声音を和らげて、ノウはまるで虚空に載せるように続けた。その眼はどこか、とても僕が知ることが出来ない程遠くを、茫洋と映しているように見える。 「知りたいこと、知っていくこと、知らされること――それを否定しちゃダメだ。それをどうやって自分のものにするか、どう考えて捉えるかが大切なんだ」 「だったら……だとしたら、尚ちゃんのこと、いつかはわかれるようになるのかな……?」 変わらず濡れてはいるけれど、その眼は強く、真っ直ぐに見果てぬ明日を指している。 「君が知りたいと思い、わかろうと考えれば。――尤も、もう君たちはお互いに大事な友達であることを、知っているんじゃないかな?」 「……え?」 きょとんと、何もかもが落とされた表情で、彼女は小首を傾げた。その肩に、やはり細く白い指が軽く触れる。 「あたしの知り合いの臨床心理士、あーつまりココロの先生が、富野尚子さんのカウンセリングをやってるんだ。で、本当は相談内容は教えられないんだけど、特別に訊いて来たらさ」 「尚子ちゃんにとって、君は一番大切な友達なんだって。だからもしいじめられていることを花恵ちゃんが知ったら、嫌われてしまうかもしれないって思ったんだって」 だから、ね。言ってあげればいい――あなたはわたしにとって、変わらず大切な友達だって。 今の僕にとって心から美しいと叫べる可憐な花が、鮮やかに綻んだ。 可愛らしい笑みを残して駆けて行った花恵を見送った後、ノウが珍しくなんの含みもない笑みを浮かべた。 「そうだね」 一点の迷いもなく同意を返し、また、伸びをする。僕らの上に広がる天はどこまでも遠く、その向こうにある明日に限りない可能性を予言しているようにも思えた。 |