――だからほら、耳をすませてごらん。

6.

「偶には、甘いものもいいかもしれない」
 公園を出て、なんとはなしに連れ立って街路を歩いていると、突然ノウがそう呟いた。
「もう少し行った先に、喫茶つきのケーキ屋があったな。あそこにしよう」
 言って独り頷くと、彼女はそのまま僅かに歩調を速める。僕がついて来るか来ないかなんて気にしない、というのはいつものことだけれど、こういった休息に対する積極性は常の彼女にはあまり見られない。妙な新鮮さを感じつつ――なんだか女子高生みたいだと思って、僕は込み上げて来た苦笑を抑え切れなかった。
「……何が可笑しい?」
「いや、なんか改めて再確認しただけデス」
 憮然と見上げてくるノウが、急にとても年相応に見えて、自然と僕の足取りも軽くなる。
 ノウの言う通り、ものの数分も経たない内に小奇麗な店が視界に入った。辺りは住宅街の中の小さな街といった感じで、目的のケーキ屋を含め、幾つかの小店舗が通りに面して軒を並べている。
 カントリー風とかいうらしい、西欧の牧歌的な雰囲気を纏った玄関口に並べられたプランターには、小振りのスイセンと赤とピンクのヒナギクが微笑むように揺れている。いかにもな少女趣味の雰囲気に、僕は内心少しばかり気が引けたが、妙に楽しそうに足を運ぶノウに、ある種の諦観を覚えた。
 まぁ確かに偶にはいいかもしれない、そう頬を緩め――不意に、意識を突き抜けたある感覚に、僕は思わず足を止めた。
『……丁目の繁華街で、通り魔的犯行が起り……』
 ちょうど前を通った電気店のガラスに、数歩先を行くノウの細い横顔が映っている。その店先に置かれたテレビから、女性キャスターの淡々とした声が響いていた。
『……駆けつけた警察によって確保された十七歳の少年は……』
 半透明の買い物袋を提げた母親と幼児が、テニスバッグを担いだ部活帰りの中学生が、携帯電話を傾けて営業中のサラリーマンが、杖を片手に独り言を洩らしている老人が――みんな、皆そのテレビの前を通り過ぎて行く。
『……少年によると、殺せるなら誰でもよかった、と……』
 ゆっくりと、ノウが画面を振り返る。その眼には無機質な、それでいて強い光を屈めたような彩があった。


内面的であろうが外面的であろうが、どのような事項であれ自分に関わる何かを知るには、なんらかで傷つくことになる。
けれど、知ることから逃げてはならない。わからなくても、理解できなくても、なかったことにしてはいけない。


 この世界には、なんて多くの僕の知らないことがあるのだろう。同時に、僕自身が知らず知らずの内に『なかったこと』にしてしまっていることが、一体どれくらいあるのだろうか。
 立ち止まったままの僕の傍を、大学生くらいのカップルが擦り抜けて行く。一瞬だけテレビの方に向けられた視線は、しかし面白おかしく作られたCMしか映されてはいなかった。
 優しくて都合がよくて、けして傷つかない情報なんて、いくらでもある。けれども――いや、だからこそ見失った無知でそれ故に幸福な昨日に別れを告げて、僕は僕自身が見て聞いて感じた明日を知っていかなければならない。目の前にある『ここにあること』を、まるでなかったことのように否定してしまわない為にも。
「……ユウ、行くぞ」
 促されて再び歩き出した僕の、その内耳の奥に、小さな、本当に小さな音が響く。
 忘れてはならない。僕が、ノウや僕以外のすべてが、そして『ここにいる』世界が、『ここにある』為に――知ることを、知っていこうとすることをやめてはならない。
 さらさらと、音が流れる。黒から白に、そして白から黒に。いつからか、どこからか、知っていたもの。けれども、これから知るもの。変わって変わらなくて、同じで同じでなくて。柔らかくて暖かくて、鋭くて冷たい。
 カウントダウンは、既に始まっている。それでもまだ、遅すぎることはない筈だ。



――そうして今日も、僕らは世界が壊れる音を聞く。



The missing yesterday is the beginning of tomorrow.
2003.1.21 / 2003.3.20(部分加筆修正)



後書きという名の弁解



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