旅の「寝」と「食」



 今回の旅も、こういう旅のしかたをどう呼んだらいいのかと自問自答してみた。旅というからには目的があり行く先があり出発点があって帰着があるように、旅立ちの日と旅を終える日があるのも当然なこと。いつものように旅程などたてないで旅立ちをしたかった。家族には三週間ほどで飛騨地方を回ってくるとだけ言って、家を出た。
 軽四輪駆動車に釣り用具一式に登山靴、美濃から飛騨あたりの地形図、あとは天幕、炊飯用具と食糧や衣類などの生活のための荷物を満載で、「遊・衣・食」を運ぶ。
ただ一般の釣り旅と少し違っていることは「寝」と「食」をいっさい他人に委ねない旅をすること。日々のすべての食事を自分でつくること。そして、宿を求めない、いわゆる野宿の旅をすること。
 旅の目的は飛騨地方の山中で渓流釣りと山の散策などの野遊びを気ままに、気のおもむくまま、気のすむまでやろうというもの。

 そんな旅を続けて一週間ほど経ったある日のこと。渓流釣りを終えて山里に降りてきたときに出会ったその里の古老と、永い間立ち話をしていた。やがて夕闇が迫るころになって、話が今夜の宿に及んで、「いやぁ、私の旅は宿などもとより考えていなくて、今夜も山奥の渓流のほとりにでも野宿するつもりなんです」
と、答えると、
「そりゃあ、あんたは釣り乞食をやっているんだな」と言う。
「そう・・・釣り乞食と言われてもしかたがないが、それも言うのやったら、釣り行脚とでも言ってもらいたいものや・・・」と、その言葉に応えて言う。おもわず、お互いに顔を見合って笑いあった。

 そんな会話をした日の夕べ、ひらけた山間渓流の河原で食事を終えたあと、こういう旅をいったいなんと呼べばいいのかといまさらながら考えてみた。
 古老が言うように釣り旅の宿なしでは釣り乞食だといわれても当然だ。古老は悪気があって言ったのではないのは判っている。まさにそのとうりで、うまいことを言ったものだなどと感心もしてみる。
 私の言った釣り行脚というのも、とっさに口に出たもののもうひとつ心に期するものがちがうようで、どうもしっくりこない。
遊行という言葉があるが、釣り遊行や遊行の山旅では遊びことばが重なり並んでいるようで不味い。行脚も、遊行も昔の修行僧の心象が強く感じられるので気に喰わない。
放浪の釣り旅とか、流浪の山旅というのもあるが遣い古された感が否めない。
 そこで、漂移と漂泊ということばが浮かんできた。
 渓流釣りの魅力にとりつかれて長年月、なかばそれにおぼれて、ながれに浮かぶうたかたが波間にながれ漂うように、今回も野遊びこころを抱いて漂移・漂泊の旅にいで立ったのだから、漂移の釣旅や漂泊の山旅でいいのではないか。
ひとり合点で悦に入ったりしている。しばらくして、いやいや、やはり釣り乞食でもいいようにも思えたりしてくる。それは、人に食や宿を乞うことはしないにしても、渓流魚や山菜などを自然の中に乞い求めて食の足しにする。夜毎の宿を山中や渓流のほとりに乞うたりしての旅なのですから「うまく言い当てて妙ともいえるなあ・・」などとひとりで感じ入る。
 そんなとりとめのないことを考えながら、焼酎を片手に堂々巡りの循環を頭の中で操っている。闇のなかの薄暗い灯火に寄ってくる虫たちのせわしない動きを見つめている。

 
すなどりの恩恵


 この釣り旅で消費する食糧のなかで渓流魚の占める度合いは、私が魚好きということもあって依存度はかなり大きい。釣った魚のうち、姿かたちの良い食欲をそそる魚体だけを選んで魚籠にいれ、その他のものはいくら釣ってもすべてその場で放流する。18から25センチくらいの渓流魚を日に5~6尾は食べる。渓流魚も春を過ぎれば良く肥えてくる。握っても掌に余るほどの肉厚豊満で食いごたえがある。

 渓流釣り師のあいだでは尺上(30センチ以上)の魚を釣ることがひとつのおおきな目標でもある。
岩魚(いわな)や山女魚(やまめ)、天女魚(あまご)は大きくなるに従って狡智にたけてくる。たやすく釣り人の手に落ちることはない。その巨大魚を智恵と駆け引きで喰わせ強引に耐えて釣り上げたときの喜びは、なにものにもかえがたいもの、至上のもので感激の極みというところ。
 ところが巨大魚は若い魚に比べれば食味の点ではもうひとつで、いわゆる大味である。私は尺上魚の幸運に浴したときはひとときの至福の感動を味わったあとは躊躇なく放流することにしている。
 もっともそれはここ数年来のこと、それまでは尺上魚にはなかなかお目にかかれなかったというのが有り体のところ。野遊びに有り余る時間をかけられるようになったことで、暇人につきあってくれる尺上魚の幸運に浴する機会が増えたことによるためです。

 食べかたは塩焼きやムニエル、アルミ箔に包んでの蒸し焼きや朴の木の葉に包んで蒸し焼きにする朴葉味噌焼き、身を開いての一夜干しなどが野外で手軽に調理できる。
 酒の友として最高の食味となる。毎日それらの食べかたを繰り返していても、決して飽きがこない。素材は淡泊で上品な美味なため、調理法でその個性を尊重して控えめの塩味や香味で、新鮮で素材のよさを味わうのがよい。なかでも私は、野外の即席料理としては朴葉味噌焼きが野趣に富んでいて、風味も気に入っている。

 そんなことで私のこの旅は渓流釣り師として大自然のなかで、言わばすなどりの恩恵に浴して、いや、すなどりのほんのまねごと程度ではあるにしても、「寝」と「食」を自然のなかにゆだねての旅、漂移の釣り旅を楽しんでいる。


御母衣湖に注ぐ渓流


 1997年の飛騨地方の山中は、梅雨の時期に台風がきたり、初夏から雨が多く降り、崖崩れなどで林道が塞がれることが多かった。また、積雪量が例年より多かったためか修復工事などによる林道の通行止め箇所が多くあった。林道を奥深く入っていても、天候がくずれるたびに崖崩れなどで閉じ込められるのを避けるため山を下りてきた。雨がふれば入浴や食料の買い出しをかねて里へ降りていく。
 御母衣湖(みぼろこ)の右岸の林道を岩瀬というところから入り、湖岸沿いの曲がりくねって荒れた林道を1時間余り走った。地形図によると、右岸の支流の六厩川と森茂川の下流部方面に行くにはトンネルを抜けてから、その先である。しかし、トンネル入り口上部の山土崩落により入り口が埋没して通行不能となっていた。このあたりは山土が崩壊しやすい地質のためか、その復旧工事中におりからの降雨で、さらにその手前で崖崩れが発生し、林道が塞がれた。私が引き返した日から4日後のことであった。手前の崖崩れを復旧させてからでなければ奥の復旧工事にかかれない、と言った手戻りを強いられるような状態であった。

 御母衣湖に注ぐ尾上郷川、御手洗川、庄川本流、六厩川、森茂川などは巨大魚を豊富に産する川です。御母衣湖に棲息する豊富な他魚種などを喰って肥大化した巨大魚が河川の流入部などにたむろし、時に増水に伴って流入河川に遡行しているものと思われるのです。これらの河川の流入部にはフライ師やルアー師の若者たちが引っ切りなしに攻めたてている、彼らが言うところの人気スポットとなっている。
 また、我が国に昔より伝承されてきた釣法を踏襲しようと、延べ竿による餌釣りや毛鉤によるテンカラ釣りを愛好して、それにこだわる私のような渓流釣り師にとっても、これらの渓流はあこがれの河川なのです。

尾上郷川

 尾上郷川は御母衣湖の中央部に注ぐ左岸の大支流で、国道脇にある樹齢400年といわれる荘川桜(ダム建設時に湖底となる箇所から移植した)のすぐ先の林道から入る。林道を行くと、まもなくの左側からの大黒谷を跨いでその先あたりまでは、湖水が満々と湛えていた。

 やがて尾上郷川の流れ込み地点が見えてくる。林道から水面まではかなり落差がある。林道から水中を見て驚いた。巨大魚があちこちに見える。ルアーを投げて攻めている若者がいる。ルアーが着水して引かれてくる周囲では、なぜか、すうーっと巨大魚の姿が消える。 さらに行くと発電所の施設を右に見て、そのさき、ひだりからのコブ谷をみてすこしのところから入渓した。広い川原である。長い瀬に、膝まで立ち込んだ。愛用の三間半のハエ竿で攻める。

 早い流れの中で大型がきた。軟調のハエ竿だからアワセで竿をあおるのは禁物。魚が餌をくわえて、異物の鉤に驚き逸走する。逸走すればするほど鉤かかりは確実なものになる。
アタリがあっても決してアワセない。竿先を静止させて魚の逸走を待つ。これが喰わせ釣りの要領。アワセるというよりも魚が逸走するのに応じて、静かにゆっくりと肘を延ばし竿先を持ち上げる、背筋を延ばし、握った竿を高く頭上にあげて耐えるのがよい。
 軟調の竿は逸走に耐えんと満々と半円弧を描く。姿勢は水面に対して直角になるよう保つ、ときに後ろに反ったり、前方に引かれたり、伸び上がったりの全身でやりとりをする痛快さに浸る。

 尾上郷川の上流部は、一帯の山林が皆伐後で山が無惨に荒れていた。大量の土砂が渓谷を埋め、敷きつめて押し出してくる。上流部では、瀬という瀬が土砂で埋まり、瀬ではもはや渓流魚が棲めない状態になっており、曲流部や落差の激しい荒瀬などの場所に追いやられている。
 渓流において最も水生昆虫を多産する瀬が土砂で埋まり、次々と乗り上げる土砂で川床が安定しない。減水すれば渓水は川床の下に沈流する。餌となる水生昆虫の再生産のしくみと棲処を絶つことが渓流魚の棲息に深刻な打撃をあたえている。
 流下する土砂の量が多いので、出水時に流速が強く当たる荒瀬や曲流部では土砂が滞留できないのでその下流側の瀬や淵、ゆるい瀬に滞留し堆積する。したがって、渓流らしい流れをみせるのは傾斜のある荒瀬や曲流部だけである。そこでは、中型の魚影があった。
 上流部では土砂が主人公の川であった。山林が治まれば大量の土砂の流出が止まり、川床は安定に向かいやがて水生昆虫の棲息がもどり渓流魚の回復が見込まれるのだが、広大な面積が皆伐されて、貧相な山容が痛々しいばかり。渓流魚の棲息を確認しただけで、持ちかえる気持ちになど到底なれなかった。今であれば、魚種が残っている。それとダム流入部の巨大魚が絶えないうちに、山が回復し安定することを願うのみであった。



山の天気


 御手洗川と庄川本流及びダム下流部の本流以外の河川は厳しい山間部に流路をもつため天候状況や林道の状況などでおもうように奥に入れず、入渓の機会が制約されることが多かった。それだけに条件良く入渓できたときは、尺上魚と対面できる確率も高いということになる。

 この地域では、一般車両の林道への進入禁止措置をしている林道が多くある。営林署に正式に許可を得たのではないが、地元のひとたちと色々と話をするなかで、地元のひとたちが慣行としている方法で入ってもよいということなので、その方法で林道を利用させてもらった。木材搬出などの邪魔にならないよう十分に配慮して、節度をもって利用させてもらったことは言うまでもない。

 山の天気は変わり身が早く、あっという間に土砂降りになる。降れば夏でも急に気温が下がる。ズブ濡れの上に気温の低下は身体に応えるので油断はまったく出来ない。
 自分が釣っているあたりは晴れていても上流部で俄雨や雷雨があって川の水が増水してくることがある。真昼間でも魚の食いが急によくなったのでおかしいなと思っていると、じわっと増水してきて、やがてささにごりになることで、それを知ることもある。

 天候状況や、それに起因する林道の状況などだけでも翻弄されっぱなしであった。飛騨地方の厳しい自然のなかでは人間がいかに無力な生き物かを思い知らされた。

雨の日

 雨の日は里に降りて、食糧の補給と温泉、情報収集で過ごす。さらに時間が余れば本が読める。渓流釣りは流れに立ち込むことが多いので真夏でも身体が冷える。

 日帰り温泉は実にありがたい。里に下りればなによりも先に温泉でのんびりつかり、土地の人や旅人と話をかわすのが楽しい。日帰り温泉も最近は数が増え、施設が充実して、仮眠や休憩の施設が利用できる。半日も過ごすことがある。

 日帰り温泉の気分のいい利用のしかたについては、次のようなことに留意している。土曜日や日曜日、祝日は混み合うので営業開始直後の一番風呂に入るのが清潔でよい。
平日であれば時間帯にこだわることも特にない。
もっとも、一番風呂も混雑するときは半時間ほどずらして入るとよい。一番風呂が混雑するときは朝から雨が降る日が多く、晴天であればさほどでもない。営業時間帯と休業日などの営業案内をこまめにメモするとか案内書をもらっておくなどしておくことも肝心。広い山間地域では、せっかく長距離を走ってきたのに休業日であった、さて、どこかに営業しているところはないか・・・では、無駄が多すぎる。


露天風呂


 奥飛騨の吉城郡上宝村(高原川本流や支流の釣り)に行けば入湯料金が寸志(清掃協力金)ないし無料の露天風呂が数カ所に点在して設けられている。朝起き抜けに湯に入ってから釣りをやり、夕刻にもう一度入ることのくりかえしで、今回のこの旅では一週間を過ごした。
それらの露天風呂のなかには、備付けの洗面器を失敬していく不心得者がおり洗面器の置いていない湯もある。そんな湯で、旅先のこと洗面器のかわりにアルミ食器の大きいのをもちこみ代用した。なんとも使い勝手が違うため、湯客の爆笑を誘ったこともある。洗面器のひとつも、車に積んでおくのがよい。

 湯好きの渓流釣り師にとってはこのうえない、うれしい土地です。温泉の恵みと自然の雄大さ、上宝村村民の度量の大きさに感謝するばかりです。
 甘えついでに、もう一つ欲を言わしてもらいたい。露天風呂は、雄大な大自然のなかに身を置いて、浮世のしがらみからはなれて開放感を満喫しきっての入浴だから、女男混浴の露天風呂にしたらどうだろうか。あの北海道の広大な景色のなか、のんびりと長旅をしている者や、地元のひと達にとってなんのこだわりもなく、女男混浴の露天風呂を楽しんでいる、そのよさをわかっているひとも多いとおもう。もっとも、大都市から飛行機でやってきていきなりの混浴では若い女性には抵抗があるかもしれないが、滞在がながくなるにつれて大自然の開放感に浸れば何のこだわりもなく若い女性も楽しむようになる。

 人間として、それが素直な感性を持っているひとたちのごく自然な姿ではないだろうか。老若男女みんな一緒に露天の湯を楽しんだらよいではないか。女男にこだわらないおおらかな開放感がよいのだから。それこそ、日本古来より伝わる湯の文化ではないのか。それを、アルプスの西麓のこの地なら存分に味わえる資格がある。それに、混浴はむしろ女性に賛同してもらえる。

 混浴の人気は女性でささえられているのだから。そのわけは、女性たちに反発されれば混浴そのものが成り立たないのだから。もっとも、こんなにもすばらしい大自然の開放感に浸っても素直に気持ちを解き放ち、心も素直に裸になれない人は混浴入らなければよい、ただそれだけのことである。しかしこれは、利用者側に作法や品性が確立しているかを問われることでもある。

第二部


保木脇の地


 御母衣ダム下流の平瀬温泉のすぐ近くに保木脇という土地がある。庄川本流のゆるい瀬がつづく川幅の広い釣り易いところで、土・日曜日などには平瀬か保木脇にかけて足場のよさも手伝って多くの釣り人で賑わう。
漁協も放流に力点をおいているようで、下流の鳩谷ダムで肥大した大物が遡行してくるためか、ときに尺上魚がきたりして喜ばせてくれた。
 その保木脇の地に国道156号線に向かって記念碑が建てられていた。その昔に帰雲城(かえりくもじょう)があったといい、この保木脇の地は飛騨から越中に抜ける山峡の隘路で戦国の世では戦略拠点として重要な土地であったのだな、などと勝手に軽く受け止めていた。

 ところが史実はあとで知ったのですが、地震を誘因とする巨大崩壊があった地で「帰雲崩れ」と呼ばれて日本の地震災害史上も類希な壊滅の被害を受けた土地だったのです。それは天正地震と呼ばれ、1586年1月18日午後10時すぎに起こり、北陸から濃尾平野までの広範囲に様々な被害をもたらしたとつたえられる。
 時は戦国の世で、越中の支配者であった佐々成政の盟友、内ケ島氏理が帰雲城を中心に奥飛騨白川郷を治め、金銀の採掘も手掛けていたという。秀吉の家臣の金森長近が内ケ島氏理の領内に乱入するなどの紛争の和睦が成立したため大祝賀会が城内で計画された。領民も含め一族郎党が集っていた大祝賀会の前夜のことだったと言う。
(『揺れる大地・日本列島の地震史』寒川旭著、同朋舎出版)
 また、「帰雲之峰二つに割、前之高山並大川打越、打ケ島打埋申候、人一人も不残、打ケ島の家断絶」(『飛騨鑑』より)の記録がある。

 この地は南から北へ庄川本流が流れて東は帰雲山(1622m)西は三方崩山(さんぽうくずれやま)や白山主峰群に挟まれた急峻の地である。地震を誘因として帰雲山が二つに割れて崩壊し巨岩二石が前の山と庄川を越えて襲いかかり、帰雲城と民家300余戸が埋没した。すべての人が消えて亡くなり、打ケ島家が断絶したというのですから悲惨このうえない話です。
 なんとも痛ましい災害の地であった。私は何も知らずに釣りに興じていたわけで、年月の経過とともに風化作用や河川の浸食作用などによって、今は、河川をみているかぎりは、その痕跡を残してはいなくて、静かに平穏な姿をとどめている。しかし、頭上を見やれば東の帰雲山には今日もなを崩壊跡が大きくぽっかり口を開けてのこり、西から迫る急峻の山々は三方崩山の名のとおり崩落の地肌が剥き出しになっていたりで、まさに崩山急迫の様相を呈しているのでした。


大白川


 平瀬温泉の近くで左岸から庄川本流に合流するのが大白川で、白山主峰群の東面の峪々の水を集めて流れてくる。白山の峰には崩壊の激しい山で、赤茶けた多量の土砂石が砂防ダムをいくら作ってもそれを乗り越えて累々と押し出してくる。雪解けの終わった渓水は、土砂石いっぱいの広い川原の中央を静かに流れ下っていた。
 平瀬温泉から大白川左岸の林道を40分も車で走れば、広大な緩斜面にブナやミズナラなどの巨木がおい茂る原生林のなかに野営場や登山施設、ダム管理事務所などが設けられている。

 その白水湖畔(大白川ダム)からの白山登山道は「平瀬道」とよばれる。登山口に設けられている大白川避難小屋にはいってみて、驚いた。小屋を支える頑丈そうな太い柱が何本も折れていた。各柱は同じ高さのところで折れ目をつけていて、同じ角度をつけて小屋をかたむけている。
積雪の重量に耐えかねての結果であるにしても、例年の積雪量を考慮して、それに耐えうる建築をしているのだから、今年はこの地にそれを上回るいかほどの積雪量があったのだろうか。

 あたりの木々は芽吹きの新緑のなかでにぎわい、地面からも映ずるはずの雑草はまだ芽吹きには早いのか、姿をみせていない。枯れた草や葉が雪の重荷に永い間押しつけられていた残渣はみてとれるものの、あたりの風景からは、今冬の積雪量を示す、なんの証拠も見いだせはしなかった。
 白水湖の湖面の色には興味深いものがあった。到着したときは快晴風光の中に濃青色から濃紺の鮮やかな輝きを見せていた。これでは白水湖ではなく紺碧湖とでも名付けたほうがふさわしいのではないかと白水湖の名を疑ってもみた。
   
 夕刻になって、山の端に陽が傾くと、雲が動いて、対岸の峰々からの吹き下ろしの風が吹いて、湖面はにわかに白波を運んで汀に打ちつけてくる。湖水はいつのまにか、いままでの紺碧の色に取って変わって、一様に真白く白波の鮮やかさに輝いた。白水湖の名のとおりに輝いて見せるのであった。
 翌日は白水湖のすぐ下流に合流する大白水谷に釣りに入った。鮮やかな、透明か乳白色に近い渓水が豊かに流れている。両岸と川床は白から黄土色、灰色から茶褐色などで個々の色彩の区切りを際立てている岩や石を散りばめて、敷き詰めたような渓間を流れる渓水のそのさまは何とも表現のしようのない美しさを写している。

 華やかな美しさという点では、いままで釣り歩いてきたどの渓よりも出色であった。こんな美しい渓に棲む岩魚は一体どんな姿だろうか。期待して竿を振ったが、渓流魚の姿は見られなかった。野営場の外縁を流れる小白水谷にも魚影はなかった。
 竿を置き、登山靴に履きかえて、野営場を貫いてワリ谷の方向にのびている遊歩道の散策に切り替えた。リュックを背負って両手にも山菜をもち遊歩道をくだってくる三人連れの中年女性たちが休憩をしようとしているところに出くわした。満足できる収穫があったためか快活な声がミズナラの樹間に響く。

見事なウドを持っているので、
「ウドとシシウドはどのように見分けているのか?」
聞いてみた。かねがねの私の疑問である。
「そんなもん・・・すぐわかる」
そっけない答えが返ってきた。
「いやあ・・・葉がのびて大きくなれば私にも見分けられるのだが、若芽のときの見分けかたを教えてほしいんや・・・」
と、食い下がると
「触れば匂いでわかるし、食べればわかる」
という。
「それはそうだろうけれど・・・外見からみて、区別できる方法をしりたいんや!」
その答えは
「そんなもん知らん・・・」
であった。
 そんなこと知らなくてもウドは採れる。ほら、このとおりや。と言わんばかりに両手の間で立派なウドを弄んでいる。どうやら愚問を発したらしい。みごとなウドを褒めて彼女等とはわかれた。
 ここの森のブナやミズナラの大木には圧倒されるものがある。ブナの巨木は他の地でも度々みたことがあるがミズナラの木がこんなにも巨木になるのをはじめて見た驚きもある。
手つかずの自然のよさを次々とみせてくれる。なによりも、ひとりで静かに巨木の森の奥に分け入ると、あたりの生き物たちと同じ空気が吸えて呼吸していることがわかるのが嬉しい。胸を張って鼻孔から思い切り吸い込む森の匂いと空気が清々しい。おおきな森は心を沈めてくれる。

 遊歩道はやがてワリ谷につき当たって夏草のなかに消えた。ワリ谷では天空をつく明るい階段状の滝壺の中に小さな岩魚の姿をみとめた。どうやら、地元の人が教えてくれたように、大白川の岩魚は間名古谷がいちばん魚影が濃いようであった。
 
庄川源流域


  庄川本流を御母衣湖から上流に遡行していくと荘川村の上流部は、一色川や庄川源流域など、急峻な山岳がないためか穏やかな渓間でのんびりと渓流釣りが楽しめるところです。また、渓流沿いの林道をゆっくり散策すれば清々しい高原の空気に包まれてなんとも気分のいいところです。
 このあたりの山林は関西の山々ではみかけない植生であり、なかでもカラマツ林の醸しだす乾いた明るい林間がめずらしい。松葉の敷きつめられた林床に平らな空間をみつけて、松葉のにおいや森のかおりの漂うなかで昼食を摂った。そのまま立ち去るのは未練が残るので、そこを今夜の宿ときめて天幕を張り一夜をすごした。

 カラマツ林の匂いが鼻孔にここち良い。夕暮れせまるころになると、そよと吹く冷気のなかに別の木々のにおいを運んできた空気がとおり過ぎると、そのあとはまた一段とカラマツの匂いに包まれる。そんな森のにおいは、朴葉味噌焼きにした岩魚の身をつつきながら飲む焼酎の味と良くあって、野営のひとりの宴には至上のものとなった。
 静かな至福の一夜を過ごした。

六厩川


 六厩川の釣りは、下流部へは御母衣湖右岸の林道が通行不能のため、源流部を横切る国道158号線で、軽岡峠下の六厩集落から林道を川沿いに下って入ることになる。
 六厩川の川底は特異であった。中流域では黄金色や赤茶けた粘板岩が剥き出しの川底で、その滑(なめ)のような状態が延々と続く渓流である。
 出水のたびに上流から押し出されてきた砂礫は粘板岩の川床を削りながらも、その粘板岩の川床では滞留できずに曲流部の下流の緩流部で堆積していて、石磔の川原と滑床の部分が明確に別れている。そんな特徴をもつ渓流ではあるが、ゆるやかな高原地帯から流れ下るためか、おだやかな、一見平凡な流れを見せている。しかし、渓流魚は時にはとんでもない大型が姿をみせる。中上流部が入渓し易い渓谷で、釣り人に人気を呼んで連日攻められている。

 こんなこともあった。前夜来の雨による増水でささにごりの状態だった。投入した仕掛けが深い底から吹き上げられて足元近く寄ってきた。そのとき二つの大きな魚影が走った。一つの餌を二尾の尺上魚が競争で追いかけてきて、餌の奪い合いを演じた。小さいほうが勝って餌をくわえた。私はあわてた。いつもの、軟調のハエ竿を使っているのでこんな足元近くではアワセが効かないし、喰わせ釣りの本領が発揮できない。窮余の一策で、魚が餌を吐き出すかもしれないがこれしかないと思った。竿はそのまま動かさないように、膝まで立ち込んでいる右足を大きな動作で魚めがけて蹴るように突き出した。驚いた魚はくるりと転回し上流の深みに一直線で突進した。幸いに餌は吐き出していない。糸が走る。竿は静止させたままで、魚が鉤に乗るまで待った。魚は深みへ逸走し竿に乗った。32センチのよく太った天女魚であった。餌の奪い合いで負けた大きいほうの天女魚はいったい何センチだったのだろうか。どうも、雨後の出水時には御母衣湖で育った大型が遡ってくるのではないかと思われる。

   

 その日は六厩川の川原で野宿した。夕食を終えて寝支度にかかろうとしているときに、真っ暗な渓間から二匹のほたるが飛んできた。灯火を消してみると、さらに近づいて顔前で二匹が呼吸を合わすように調子をとって舞う。漆黒の闇を見まわすとあちこちで小さな光が舞ったり止まったりしている。渓流の流れの上は上流から下流へ密かな風でも吹いているのか、そのあたりに飛んでいくと急に動きを早めて飛んで去る。
 心の雑念を取り去って一途にほたるの動きをみつめている。現実から序々に離れて幻想の世界へと歩んでいくようで、さらには、その先にある夢想の世界にふみこんで、かろやかにこころが遊んでいく。山中孤泊の幻想の夜を満喫した。

 翌朝は土曜日で、釣り人も多いだろうことを承知のうえで昨日の続きの地点から入渓した。案の定、一時間ほど釣り遡り、曲流部を過ぎたところで、長い直流部の百メートルほど前方に釣り人がいる。ゆっくり釣ってこの距離を保っていけば2~3時間は釣りになるだろうとおもった。しかし、彼は流れに立ち込んでいっこうに移動しない。よく見ると竿をもっていない。瀬虫でも採っているのか。

 釣り遡って、彼の元に着いた。彼はまるで、西部劇映画から抜け出てきたような牛飼いの服装で帽子も良く似合っている。丸い金属製の箕か盥のようなものを両手でもって一心に水面あたりで揺すっている。岸辺には大きな金網製のザルのようなものも置いてある。小さい流れが合流している川床の砂利を掬っている。

「なにを採っているんですか?」
「サキン・・・」
という。確かにサキンと言った。
「サキン?・・サキンってあの金の砂金ですか?」
そうだと言う。
 一瞬、彼の気は大丈夫かと疑った。彼の装束といい、執拗に一途な動作といい、どうみても異様だ。
 いや、・・・彼は正常であった。
 手を休めて、説明してくれた。
 今日はまだ採れていないが、ここ六厩川は砂金が、幸運なら採れると言う。
「そりゃあ・・・いい趣味やなあ・・・なんか夢があるというか、ロマンがあっていいですねえ・・・」
 彼の表情は屈託のないもので、この場の世界を錯覚させるような、砂金採り師にふさわしい雰囲気をもった男であった。
「夢を追う・・・いい趣味で・・・いいですねえ」
 素直に言った。

 ところが彼はなにを勘違いしたのか、こう言った。
「お宅のほうこそ優雅でいいですねえ・・・そこの別荘に滞在しての釣り三昧とはうらやましい限りです・・」
「とんでもない。・・・別荘どころか、私は野宿ばかりの釣り旅ですよ・・・」
たしかに六厩川の女滝の近くには別荘地がある。あとで知ったことだが、天正地震でお家断絶した内ケ島氏理はこの地で金銀の採掘をしていたという記録が残っている。
この六厩川は鉱物さがしの本にも砂金が採れると紹介されている地で、その趣向のひとたちには宝物に出会える渓流なのです。


小鳥川


 庄川村の牧戸あたりから軽岡峠を経て小鳥川上流部への国道158号線沿いは東海北陸自動車道の建設工事中であり、静かな山村が俄に建設景気で湧いていた。
 庄川村から清見村にかけて巨大な道路や橋脚が山を貫き谷を跨ぎ山を削って、ただ直線で問答無用とばかりに貫通させる工事が進んでいた。雨が降れば工事現場からは赤茶けた濁水で土砂があふれだし三谷川や小鳥川の上流部は土砂で埋まっていた。またまた渓流魚をはじめとする貴重な自然の宝庫が完全に破壊されている。 岐阜市内から来ていた釣り人の話では、国道沿いの三谷川は細流ながら昔から渓流魚の多い渓流で、なぜか釣り餌となるカワゲラが多産するところだという。事情を知っている釣り人はまず三谷川で釣り餌のカワゲラを採ってから庄川源流や六厩川、小鳥川へと散っていくのが常だったという。20分間も採れば一日分はあったし、それに小型だが渓流魚は踏んづけるほどいた。国道の軽岡峠がトンネル化されたときの土砂流出でほとんど壊滅の状態であったのがやっと回復しだしたところで、また今回の高速道路工事である。
「またダメになる。今度は工事の規模が大きい。もう絶望だ」
 と語っていた。


たわごとか?


 巨大な国家事業の前にはなんのたわごとをと言うのか?そんな一言で済まされていいものでしょうか。工事をするにしても極力周囲の環境に影響を与えない施工方法があるはずだ。先に環境への手当てをしておいてから道路建設をやればいいのだが、集落への配慮は多少はうかがえるが、環境への配慮は全くといってもいいほどされていない。
 いままで鬱蒼と生い茂る立木であった山林を予定ルートにそって幅広く丸裸にする。そこを掘りかえす。降雨のたびに工事現場から排出される土砂が既存の河川に流入する。源流部の小渓を埋めてしまう。それだけでなく次々と膨大な土砂があふれてくる。下流へ、下流へと押し出していく。
 時間の経過とともに次は河川管理上、堆積する土砂をこのまま放置すれば下流の下小鳥川ダムが埋まってしまう。土砂災害を防ぐには、新たな砂防堰堤を次から次へと作らざるをえなくなってくる。高速道路建設が残した新たな巨額の出費が必要になる。

 そうして環境破壊は雪達磨式に加速する。そのことを考えれば経費と時間がかかっても先に環境への手当て工事を施工してから道路建設をやればよい。そうすれば、環境の破壊も最小限にくい止められるし、結果として経費は少なくて済むことになるのではないか。
 住宅地で工事をして隣家の屋敷内に土砂を流しっ放しで工事を終える工事業者や発注者が社会的に許されるのでしょうか。

 それと同じことではないか。住宅地での工事ならなによりも先に隣家に迷惑を掛けないように養生を施工してから工事にかかるではないか。どうしてそれができないのか。
 人目の少ない山奥なら無責任な仕事のやりっ放しにして自然環境に多大な障害をおっかぶせてもそのまま放置する・・・その結果、人災であるにもかかわらず、土砂災害を防ぐ工事が防災や災害復旧という名目で至極当然のこととして施工される。
 こんなデタラメなことが、公の工事として、なんの疑問も抱かれずに当たり前のこととしてまかり通っている。


下小鳥川ダム


 小鳥川を下っていくと夏厩の地で国道とも別れて、さらに川沿いに下っていけば下小鳥川ダムに着いた。この間はすばらしい渓流が続いているのですが(先の釣り人は渓相と魚影の濃いさを絶賛していた)、高速道路建設で、もはや上流部は土砂流入で壊滅していたが、おそらく来年はみるかげもなくダム上流部はすべてが死の渓流となる(高速道路は小鳥川と平行に上流から下流までつくられる)のかと思うと竿を持ち出す気力もなく、貴重な天然資源が壊滅し、渓流に棲む生き物たちや渓流魚が哀れで、環境への配慮をしない野蛮な工事を旧態依然に繰り広げていく鈍感低劣な頭脳をもった当局には、全く怒りと腹だたちさを抑えかねるのであった。

 ダムの、流れ込み近くで土地の釣り人が三人で鯉釣りをしているのを、ただぼんやりと一時間もながめて、怒りを静めた。
 ダム左岸をさらに進んでいくと、左岸側から栗ケ谷川が流れ込むその先に湖畔公園が設けられていた。そこの記念碑によると、いまは下小鳥川ダム湖底になったが、縄文時代の遺跡があったという。
 その碑文を読んで、なんでこんな山奥に縄文人が住んでいたのかと唐突な感じを受けたが、よく考えてみるとこんな山奥だからこそ狩猟採取の生活が営めたのであり、遺跡があったということは長い年月に亘ってそこに人間と自然が共生できる生活が継続されていたということになる。
 狩猟採取の生活拠点は、稲の農耕なら平坦地が必要なのですが、それと違って獣や木の実や魚介類が豊富に手に入る山間地の河畔に求めたのは当然なのですから、このあたりは狩猟採取の生活に適した環境で資源が豊富であったことの証になるのです。


認識の差


 この旅が終わったあと、どうも我々の世代の歴史教育で習った縄文時代の認識が、考古学が長足の進展を見せたことや遺跡調査の結果が断片的に新聞に掲載される内容などからみても、大幅に段差があるのではないかという疑問を抱いて、書物を漁ってみた。

 根本的な認識の差は、縄文人の生活は狩猟採取のため食糧を求めて常に移動していたと教わり、定住の生活をするようになったのは、稲作をするようになった弥生時代からだと教わった。縄文遺跡の発掘や貝塚調査の進展によって、同一の箇所から五百年いや長いものは千五百年の間継続して生活が営まれていた証拠(青森県の三内丸山遺跡)が出て、縄文人も定住型の生活をしていたという動かし難い事実である。

 縄文人は湖沼や海岸、山間部では河川のそばで天然資源が豊富なところで定住していたし、弥生人は稲作のできる平野部に定住していた。
 いまや定住生活のはじまりは約八千年前からだというのが通説である、と言う。
 小鳥川上流域の東部、小鳥峠の先、清見村はつや遺跡で発見された土器には鮎や岩魚の脊椎骨を用いて「魚骨文」が描かれていて、注目されているという。
 (『はつや遺跡発掘調査報告書』吉朝則富著)

 縄文人が生活用品である土器に鮎や岩魚の骨を使って文様を描いていたというのですから、渓流魚も当然多く捕られ主要な食糧の位置を占めていたと言えるわけです。
 岐阜県が発行している『岐阜県遺跡地図』によると飛騨地方の旧石器遺跡から縄文遺跡の分布図は、庄川・宮川・高原川・飛騨川沿いの開けた台地や河岸段丘上に点在し、河川中上流部への依存度が大きく、河川がなければ狩猟採取の生活が成り立たなかったことを如実に示している。

 そのことは稲作が営まれる弥生文化では平野部に依存するのは当然で、山国である飛騨地方の弥生文化の遺跡数は73遺跡が確認されているという。それに対して縄文遺跡は約600遺跡で弥生遺跡の8倍である。山間地域にある豊かな資源への依存度がうかがい知れるのです。
(『飛騨・よみがえる山国の歴史』森浩一氏・八賀普氏編著、大功社) 


第三部


高原川へ


 小鳥川をさらに下ると、小鳥川が宮川に合流する地点の小さな町、河合村角川(つのがわ)に出た。
圧倒的に水量の多い宮川の右岸を高山市方面に走り、飛騨古川町の手前で左折し越中東街道と呼ばれる国道41号線に入り、飛騨数河高原の峠道を下れば神岡町に着いた。
 高原川の上流部へ入る前に、この町で食糧の補充をしておきたいので、この町唯一の大型小売店に行った。開店までまだ1時間ほど間があるので、店の広い駐車場に車を置いてこの町の散策に出た。
 高原川が神岡町の町域の中央を南から北へ貫いて、両岸の河岸段丘の上にひらけた町である。川面からは朝霧が消えいくなかに、ゴロタ石の累々と堆積した広い川原をみせて、釣り人にとっては好のもしい川相で静かに流れていた。
 街中は歴史の重みをみせて落ち着いた町で道行く人も少なく、街中が活気着くのにはもうすこし時間が早いのだろうか。散策のついでに漁業組合の事務所か遊漁券の取扱店があれば渓流釣りの状況をたずね、年鑑札の購入をしておこうと思ったが、それらしいものはなかった。人に所在を尋ねていくほどのこともないので、町の風情を求めて歩いた。
 10時過ぎに大型店の前まで戻って来た。おかしなことに、店が開店していない。店の入り口には午前10時開店、定休日は毎週火曜日と表示してある。今日は水曜日であるから定休日ではない。店前をゆく婦人に尋ねた。 「この店、10時開店じゃないのですか?」
 「ああ、今日は休みですよ」
 気安く答えてくれた。
 「今日は、水曜日ですから定休日は昨日ですよねえ?・・・」
 「ええ、今日はこの店の従業員さんの慰安旅行で昨日と今日の2日間お休みなんですよ・・・」
 と、教えてくれた。
あきれたものである。通常なら臨時休業なのだから、その旨の「お知らせ」なりの掲示をしておくのが当然である。なんのお知らせもお断りも表示していないとは。
 しかし、まてよ・・・もっとも、そんなことを知らない人はこの山中の小さな大都会ではいないのであろうか。
店長にしても、そんなこといちいちお知らせなど表示しなくとも店のお客に迷惑をかけることもないし、お客には口コミで伝わる、としたものか。町の人達もそんなことを咎めるぎすぎすさも必要性をも、もちあわせていなく、のんびりとおおらかに受け入れる土地柄なのだろうか。
 たまたま訪ねた旅人が、波静かな池に小石を投げ込んで小さな波を立てることもないことだ。その婦人に、「臨時休業のお知らせを掲示しておくのは常識ですよね!」と傲慢な顔をしてぼやかなくて良かったと思った。
 街中の酒屋で焼酎だけを補充し、神岡城址を見学してから高原川の上流を目指した。


荏のこと


 その途中で、国道脇の畑に野菜の無人販売所の小屋があったので車を停めた。
ひと山が百円の野菜を2つ求めた。
隅のほうにナイロン袋に入った灰色の採種の種子のようなものが両の掌にのるぐらいの量を入れて売っている。いままでに見たこともない実である。
(ひょっとしたら、昔なにかの本で読んだことのある荏(え)ではないだろうか?)
 小屋のうしろのほうで、農作業をしていた婦人のもとに袋を持って行って、尋ねた。
 「すいません・・・これ、ひょっとしたら荏の実ですか?」
 「そうですよ、ここらあたりではアブラエと呼ぶんですよ」
という。そうか、これがエとかエゴマ、アブラエと言う種子だったのか。
 食べ方を尋ねると、軽く炒ってからすり鉢ですって、胡麻と同じように和え物や御浸しにつかえばよいと言う。
ひと袋求めて、食べてみた。胡麻ほど特徴のある味ではないが、なにかさくさくとした油気のある、上品な味であった。
 あとで、調べてみると荏は、太古の昔から荏(エ)の一字で呼ばれ、日本人は大変お世話になってきた植物だという。荏はもちろん畑でもつくられるが、他の作物が育たないやせ地や焼き畑にも作られてきた。
 植物図鑑では、標準和名は「エゴマ」であり、「荏・胡麻」と書いても胡麻とは関係がなくて、紫蘇の仲間である。その種子は円くて粟粒よりは少し大きく灰色か黒褐色をしている。エゴマが実を付けている写真をみると、紫蘇と全く同じであった。
この実から油を搾って、もっとも昔から燈火用の油として用いられた。その油は空気中で乾いて固まる性質から美濃紙などに油をひいて雨合羽や和傘、油紙として、包装や湿布にも使ってきた。食用油としても用いられる、とある。

 飛騨や美濃あたりでは、油として有用であったところから「油の荏」として、アブラエと呼んで、地方名だという。 植物油として菜種油、椿油、胡麻油、荏油などのように油の前に植物名をもってくることでその油の種類を表すことは当然でよくわかる。だが、荏がなぜ油を先にもってきて油荏として植物名を表し、なぜそう呼ぶのだろうか。
 荏油といえば荏の実から搾った油の種類を言うのであるから、これは植物として扱っているときはエアブラとは言えないから、なるほどアブラエが正しいわけである。
 ちなみに、「菜」は「ナ」であり、おもにアブラナ科の植物をいうのであり、菜の花や菜種のことである。
 菜の花の種から油をとったものが菜種油で、植物として扱うときは油菜でアブラナである。アブラエと同じ用法である。一文字の荏にしろ菜にしろ花の種から油をとった植物だからアブラエ、アブラナなのである。
 名を付けるときに、他と区別して固有の名をあたえ、その特徴を表現できる名が万人に認められるのは当然であるから、アブラエがあったから、それから類推してアブラナなのであろうか。
 我が国に先住していたのはアブラエの方が先だと言うので、「菜」もそこに依拠して命名したのだろうか。

(参考、『山の味-山村の食制と山の植物誌』山村民俗の会編 〔アブラエの味-飛騨山村の食生活〕著者、青木自由治氏)


跡津川


 跡津川は高原川の右岸からの支流で、本流への合流点は神岡町から10キロほど下がった神岡鉄道の漆山駅ちかくの土という地にある。跡津川はその土から5キロほど遡ったところ佐古という土地で大きく二分岐している。 道路は左分岐の方面にだけあって、さらに10キロほど先の県境の大多和峠で、そのさきは富山県の有峰湖へと連絡している。跡津川の右分岐は佐古から上流の下之本までは大滝などがある狭隘な山峡の地で道路敷設が不可能なのだろう。
従って、その上流部へ行くには神岡町の神岡鉱山から山之村隧道を通って行くか、もうひとつ、今から行こうとしている神岡町から10キロほど先で高原川本流に注ぐ双六川を遡って山吹峠を越えていく二つの道がある。双六川を遡り、双六ダムの手前で左すれば標高差600メートルほどの高度を一気に稼いで、展望の良い山吹峠であった。
山吹峠をゆるやかに下れば、明るく空が広い高原地帯で、標高900から1000メートルぐらい。各支流の平坦地に村落は点在している。この時期はのどかな山村風景であった。
 この流域一帯は山之村と呼ばれる。山之村は山の村であり、高原の村でもあった。下之本集落あたりまで来るとすばらしい渓相である。釣り欲が一気に湧いてくる。
 遊漁券取扱所の派手な幟旗を立てている農家を訪れた。遊漁証(遊漁承認証)には本人の上半身の写真が必要だという。旅先のこと故、もちあわせがないし、証明写真を揃えるとしたらまた神岡町まで戻らなくてはならないし、写真なしでなんとか売ってもらえないか、と交渉した。(うっかりして、写真をきらしていた)
漁協の規則で写真を添付しない限り、売ってはならない。固い申合せ事項だから売れないという。
 目の前にすばらしい渓流を見せられて、釣りはお預けだというのか。野球で言うなら、早い直球でだめなら、ゆるい変化球を投げてみよう。身元をはっきりさせるつもりで、運転免許証と庄川や日高川など手持ちの遊漁証を取り出して見せながら「どうですやろう?今日と明日の二日間だけ、この山之村のなかだけで釣りをさせてもらって、明後日は神岡町に食糧を買い出しに行くので、そのときに写真を必ず貼るという約束で売ってもらえませんか?」
 おやじさんの表情が動いた。もう一押し
「おやじさんの顔でなんとかしてもらえませんか?おやじさんの名前を出せば誰ひとり、この村内で文句を言う者なんかいませんやろう?・・・必要なら誓約書も入れますし・・・」
「わかった。この村の中ならどうでもなるが・・・他の村の監視員のてまえもあるでな・・・村を出たら必ず写真を貼るという約束でええ・・・」
「どうも、無理言ってすみません。約束は必ず守ります」
遊漁証は赤紫の派手な腕章になっていた。腕章の余白に著名しておいてほしいと頼んだら、気持ち良く大きな字で書いてくれた。遊漁証に顔写真を貼って、遊漁のときの着用義務を負わせているのは、不正使用する不心得ものが釣り人のなかにいる限り止むを得ない措置ではある。
 好のもしい渓相の跡津川の釣りは夕刻になるのを待って、下之村集落からすこし下がったあたりから釣りのぼった。川幅は広いのだが両岸からびっしりと木々が水際まで生い茂り、岸を歩けないので川の中の歩きを余儀なくされる。
 魚に警戒心をあたえ、先々へと追い込みながらの釣りであった。魚資源のことを考えると、それぐらいで丁度良いのかもしれない。釣り人の間でヒラタと呼ばれているカゲロウ目の型の良い瀬虫で、瀬の上層を流せば、気持ちのよいアタリをみせてくれた。

 翌日は、さらに上流部や源流部の様子をみて歩いた。源流部の細流にはかなりの魚影があるとみたが、両岸から水面を覆う木々に阻まれて、おもうように竿を出せないところが多い。それが魚を守っているのだろう。
細流をかき分けて釣りのぼる二人組の釣り師に出会ったが、目がつりあがって血走っている。会釈も話もするゆとりのなさをみせて、釣り遡って行った。
翌日は昼前に跡津川をあとにした。



双六川


 北アルプスの山々の中心となる槍ヶ岳から北西側に分岐して延びる山稜は樅沢岳でさらに大きく二方向に分岐している。樅沢岳の北西側には双六岳から信飛越三国境となる三俣蓮華岳へ、そして黒部五郎岳から北ノ俣岳へと連なる。
 一方、樅沢岳の南西側には弓折岳、抜戸岳から笠ケ岳へと、こちらも一万尺近い峰々が連なっている。これらの高峰の南斜面と西斜面から集めてくる水脈は、金木戸川・中ノ俣川・北ノ俣川とよばれ、この三支流の豊富な水を集めて双六川となり、高原川本流へ浅井田ダムの上部で注いでいる。(この金木戸川は禁漁区になっている)
豊かな水量であるが、釣り人はほとんどそれを目にすることはない。上流の三支流でそれぞれ取水し、それを山中を貫通させた地下水路で発電所へ送水し、発電に利用した水はその下流部でも取水され送水管でつぎの発電所へ送り利用される。双六川の水が高原川本流へ吐き出されるまでに三つの発電所を経てくることになる。その間、送水管や地下水路で迂回させ、双六川の流れとは切り離されている。
そんな訳で、釣り人は双六ダムの上部にある発電所から吐き出した水が双六ダムまで流れ込むほんのわずかな区間においてしか、その豊かな水量を見ることができない。それだけ取水されても、双六川は釣りに支障が無いほどの流量であった。
双六の集落あたりから双六ダムまでの美しい瀬の多い流れは、釣り人に連日攻められていても、多くの魚影を育んでいた。双六ダムの上部は右岸に林道があるものの懸崖厳しく入渓点が少ない。渓谷は一転荒々しく、巨岩巨石の裾を奔流が洗っていた。
 入渓するまえに、林道の脇の草場でイナゴやバッタを捕まえて、いつもの洗濯ネットに入れて携行した。巨岩巨石の裾を流れる渓水は巨石の裾回りを一段と掘り下げて深みをつくり岩魚の居付き場所をつくっている。
累々と配置した大石まわりの川床では水深のある絶好の大岩魚の休憩場を提供していた。
虫餌を流れの芯で流すよりも、むしろ巨石や大石まわりの副流で流す方が岩魚の喰いがたつ日であった。
尺前後の良く肥えた岩魚が随所で虫餌にきた。急ぎも慌てもしないのんびりした動きでぬ-っと出てきて、むん-ずとくわえる岩魚が多かった。随分と時計が止まっているような鷹揚な動きは岩魚の魚体が大きいために、そう見えたのだろうか。

 双六川の双六ダムからの上流部は一級の岩魚の川であった。


李下に冠


 双六川の岩魚と遊んだあと、みちぐさをしながらゆっくりと下流へ走った。双六の村落では、屋敷のそばの畑や山裾の田の際などに、手入れの行き届いた立派な山椒の木が多く目につく。山椒の実の特産地なのだろうか。
きれいな実を多く付けている。
 明日は高原川の本流で釣ってみたい。浅井田ダムの下流で国道から河原へ乗り入れる林道があったので、それへ入る。ただ広い河原のなかの林道の終点の手前に乾いたひろ場を、今夜の野営場ときめた。
車の横へ天幕を張った。夕食の下準備と下着の洗濯をして、車と天幕の間に綱を張り干した。
 日没時の地合を釣るため、大きな丸い石の並ぶ川岸に立った。水温が高いのであろう丸い石の上には泥状の水苔がびっしりついて、滑りやすい。長い瀬から流れてくる流れが向こう岸の岩盤に突き当たって、その反流が足元まできて上流側へ逆流する大場所である。久し振りに使う8メートルの竿でも思う地点までは届かない。三段目、仕掛けを流し切ったところでアタリがでた。竿を立てる間もない強引である。下流側へ走られたからひとたまりもなかった。日没時の釣りはそれだけで終わった。

 翌朝はもう一度、そこで竿を出してから、双六川のひとつ上流の下佐谷川へ午後にでも入る予定にして、寝た。翌朝、天幕に近づいて来る車の音と光で目が覚めた。天幕から出てみると、まだ薄暗い濃い霧の中大型の四輪駆動車がライトを灯けて、30メートルほど先に止まっている。最近急に増えだした西洋毛鉤振り師(フライ師のこと)の姿で車の回りでなにかを準備している。
 (先を越されたな・・・それにしても早いなあ・・・まだ暗いのに・・・)
 服装を整え、朝食の準備にかかった。フライ師は川に行くにはこちらの広場を通って行くはずだから、釣り状況など尋ねてみようと思って心待ちにしていた。だが半時間ほどたってもいっこうに現れない。川原林の草むらを突ききって川に出て、下流側で釣っているのか、釣り場を取られまいとして・・・そんなに慌てることはないのに・・・と思っていた。

 いつものことで朝食はたっぷり時間をかけてしっかりと食べておく。昼がどうしても行動食となるからである。
2時間ほどたって、さて今日はどうしたものか。彼は上流側には入っていないので、2時間ほど上流側で釣って、それからここを撤収すれば天幕も下着も乾くから・・・などと思案をしていると、どうしたことか、釣りに行ったはずの彼が川と反対の山側の草むらの中からリュックを背負って出てきた。
 おかしいではないか!
 私の姿をみつけたのであろう、急に逃げるようにして車に乗り込んだ。車を吹かし噴かし走り去った。私の姿を見て、なんで逃げなければならないのだろうか?
 彼が出て来た、草むらのあたりに行ってみた。
そこには小道があった。両側の背丈を越える草叢を割り入れて山側に延び、綺麗に下草が刈ってあった。その小道を辿ると、平坦な河川敷が終わってゆるい山の斜面に突き当たった。その斜面の上の方は植林された杉林でさらにその上を国道が走っている。そのゆるい山の斜面の部分は綺麗に下草が刈ってあって、沢山の山椒の木が整然と植えられていた。
山椒の実をしごいて盗った跡が歴然と残っている。足場の良い取りやすいところから盗ったのであろう。56本の木にその傷跡が残っていた。
 彼が車を駐めていた位置に立って、私の車の方を見ると、中間で草むらが張り出すようになっていて、全く見えない。
 それで、合点がいった。
彼はこの場所に着いたときに私がこの先で野宿をしていたことは見えなかったのだ。だから私を見つけたときに驚いて車に乗り込み逃げ去ったのだ。


第四部



 そこで、もうひとつ、ピンとくるものがあった。先程の山椒の木の元へ戻ってみた。私の考えは当たっていた。
すなわち、こうである。
この地に来るには、国道脇からの林道からしか入って来られない。しかも彼が山椒の実を盗っていた位置からは200メートルほど先に林道の斜面がはっきりと見える。山椒の実を盗りながらそこをきっちり見張っていれば仕事は安心してできるというわけである。これは朝討ちでの、悪質な計画的犯行である。
 しかし、困ったのは、私のほうである。予定通りに午前中ここで釣って、昼から撤収すれば、その間に山椒畑の持ち主が現れるかもしれない。第一、山椒の実の収穫期が近いから山椒の木の下草を刈りにきて収穫の準備をしているのだから。
ごっそり盗まれた山椒の実の被害に気づけば、その近くで野宿している私に嫌疑をかけるのは、極めて自然な感情であろう。
 しかし、山椒畑の持ち主が現れる前に撤収したとしても、この場で野営していた私を目撃した人がいれば、やはり私に嫌疑がかかるのも当然ではないか。身の証を立てるには、犯人の車両番号を覚えているわけでもない。
身に覚えのないことで進退、ここに極まるとはこのことである。

 嫌疑がかかるだけでもたまらないのに、濡れ衣を着せられたらたまったものでない。私にとっても許し難い犯人である。第一気に喰わないのは犯人の服装である。釣り人のフライ師の服装である。釣り人の服装で、次々と悪事を働いて回られてはたまったものではない。それでなくても一部の釣り人は顰蹙を買っているのに・・・
誠にけしからん輩である。許し難い。


下佐谷川


 「李下に冠」「瓜田のくつ」が教えるように、我が身に全く覚えのないことであっても、この状況では撤収したほうがよいだろうと判断した。

 国道を平湯方面へ向かって走れば、長倉の先で入り口の狭い谷から流れ出るのが下佐谷川であった。国道を左折し林道をすこし行けば発電所があった。この発電所も3キロほど上流で取水している。
林道は左岸側についていて、6キロほど先で車止めである。その先は下佐国有林で一般車両の進入を阻んでいる。それだけに、国有林のなかは全くの静寂境であった。ゆっくり一日かけての釣りと散策は楽しいものだった。下佐谷川に入って、3日目のことである。

国道の入り口から1キロほどで林道の左分岐線がある。それを辿ると、左岸からのウジガ谷の合流点のそばで、鬱蒼と繁る栃の木やブナの木の下に広場があった。そこを2~3日間の野宿場ときめて車を置き、釣りに入った。
上流で取水されているので水量は多くないが、中小型の魚影は濃いかった。この地域の川にしては、荒々しさがない、静かな渓谷である。
 釣りを終えて、今夜の夕食にする山菜を採りながら渓谷を下る。今日は久し振りに山菜の天麩羅を食べてみよう。
タラの芽と若葉、ウドの若芽と若葉、ヨモギ、フキ、ワラビ、ミツバ、サンショウの葉、アザミの若葉などいくらでも材料は採れる。朴の葉も5~6枚頂いてくる。
 山菜の天麩羅は塩を振って食べるのが素材の味を殺さずに食べるのに最適だ。どれを食べても実に旨い。天麩羅をあげながら、まわりにある名も知らない草や葉を摘んでは、油に入れたい衝動にかられるほどである。なんでも天麩羅にすれば食べられるのではないか。そんな気さえした。
 この時期になると野性ミツバの古葉は濃い緑をたたえて、茎はいっそう固さを増している。その茎を数センチに切り揃え、数本を茎で束ねて天麩羅にしてみた。意外に焼酎の友によくあう。ミツバ特有の強い香気と味が舌に心地よい。これは、今日の新しい発見であった。

 岩魚と天女魚を二尾づつ、ワタと血あいを丁寧に除く。腹に飛騨味噌と山椒の葉を詰める。岩魚の二尾と天女魚の二尾を別々に朴の葉に包む。四重ぐらいに重ねる。たこ糸で2箇所くくり、ストーブの直火にのせる。火は弱から中火くらいがいい。最初は乳色の煙を立ち上らせているが、徐々に色褪せて灰色から、さらに薄紫系の煙に変われば渓流魚の朴葉味噌焼きのできあがり。
立ち上る煙は朴の葉の格調高い香りが、魚の焼ける匂いを包んで、あたりに漂い、いっそうの食欲をそそる。包んだ朴葉を開ければ、朴葉と山椒と味噌の香りがたまらない。味が、三位一体となって魚肉によく馴染んでいる。 今夕のひとりの宴は、山菜の天麩羅と渓魚の朴葉味噌焼き、それに焼酎。ご飯の友は、山蕗と昆布の佃煮である。もちろん山蕗の佃煮も自分で作ったもの。乾燥椎茸の出汁での味噌汁もある。飛騨の釣り旅の「食」は、朴葉の格調高い香りが象徴するように、素朴で粗野で野趣豊かな、これこそ飛騨の山の味である。

 旅のおわりに


 今回の釣り旅は、大自然の豊かな環境のなかで気ままな野遊びを満喫し、数多くの山菜や豊満な渓流魚も賞味させて貰い、また多くの大自然の恵みにあずかって深く心から感謝しています。
 それだけに、この恵み豊かな自然環境を臆面もなく傍若無人に破壊していく人間の行為の現実には怒りを覚えます。地球環境が危機に瀕しているいまこそ、経済論理優先の思想を否定する思考の転換が急務です。

 縄文人の知恵に素直に学ぶべきです。歴史家の森浩一氏が言っている。
「縄文人たちの豊かな知識を見ていると、「原始時代」とか「原始人」なんて言葉は使えません」
 また、KJ法でおなじみの川喜田二郎氏は「野蛮とか未開とか原始とか、そういう言葉はやめようじゃないか」 現代のほうが優れているという錯覚やうぬぼれに警鐘を鳴らしていて、「素朴な時代」と「現代」という概念でいいのではないか、と提唱されている。

 われわれはその「素朴な時代」から、「縄文人たちの知識」から多くのことを
 いまこそ素直に学ばなければならない。

 それは間違っていない。

 今回の旅は、そういう気持ちを強く持った旅であった。




 「飛騨の釣り旅」web版 第一部掲載:2018/03/10 著者:陶 山汀(上原 濶)
 community船場website第二部掲載:2018/04/27
 community船場website第三部掲載:2018/11/30
 community船場website第四部掲載:2019/01/14


 次回掲載予告!「山河に遊ぶ」その二を予定しております → 山河に遊ぶ(その二)
 山河に遊ぶ(その一)はこちらです