<71>
出席者:青木理事長、正木副会長、松本副会長、山中副会長、杉山青年部長、栗原創価班委員長、原田創価班書記長
杉山 池田先生は4月5日付の聖教新聞に「随筆 人間世紀の光『若き指導者 創価班・牙城会』」を発表してくださった。
栗原 感激です。私も繰り返し、繰り返し、読みました。
先生の創価班に対する限りない御期待に、奮い立ちました。
本当に、ありがとうございます!
原田 全国の創価班からも、喜びの声、決意の声が、続々と寄せられています。
東京・目黒区のメンバーは「闘志がわきました。邪悪への怒りが込み上げてきました。陰湿、陰険な仏敵との最終決着は、必ず創価班の手でつけてみせます」と、決意をみなぎらせていた。
宗門に取り入る
正木 ところで創価班が結成されたのは、昭和51年11月2日。
ちょうど第1次宗門事件の直前だ。
松本 それまでの大石寺の輸送・警備を中心としていた「輸送班」が発展。会合の運営、整理を含め、幅広い活動を行う、現在の「創価班」が誕生したんだ。
正木 第1次宗門事件といえば、極悪ペテン師の山崎正友だ。
宗門に取り入ろう、手玉に取ろうと、ドブネズミのように、しょっちゅう出入りしていた。
山中 そういえば、当時の創価班メンバーの中にも「大石寺で山崎を見た」「いったい何をやってんだ」という人が、何人もいたな。
杉山 後で分かったことだが、山崎は宗門と学会の分断工作を陰で仕掛けていたんだ。
松本 その通りだ。あいつは嫉妬に狂った宗門の坊主どもを焚き付けて、学会への不信、反感を煽りに煽った。
山中 その一方で、学会に対してはオレにしか事態は収拾できない≠ネんて言いふらして坊主対策を一手に握ろうとした。
栗原 そして宗門からも、学会からも金を儲けようとした。
青木 完全な「マッチポンプ」だった。
正木 しかし結局、山崎の乗っ取り工作は大失敗に終わったのは、ご存知の通りだ(大笑い)。
栗原 先輩方の話によると、山崎のやつ、大石寺に出入りしていたころは、いつも大物気取りだったというな。
正木 たくさんの目撃談、証言がある。
高級外車にふんぞり返っていた。まったく似合わないシルクか何かのスーツを着こんで大石寺に来ていた(笑い)。
外面ばかり飾る
杉山 とにかく虚栄、見栄っぱり。会社が倒産する前は、身につける物も、金に糸目をつけなかったというな。
栗原 タイピン、カフス、時計。どれも大金のかかったものばかりだった。
原田 山崎が着ていたタテ縞のスーツを、よく見ると、生地の点線の点の一つ一つが、すべて1から6までの「サイコロの目」の模様だった、という話もある(笑い)。
正木 学会本部に来るにも派手な毛皮のコートを着込んだり。ネコを肩に乗っけてきたこともあった(大笑い)。
原田 あげくに、かかとの高いブーツまで履いていた(爆笑)。
栗原 そうとうコンプレックス(劣等感)が強かったんだな。
青木 山崎に限らない。卑劣な悪党は虚栄、虚飾。とにかく自分を大きく見せようとする。
正木 日顕も、そうだ(笑い)。なんだ、あの、ぜいたくな衣は!
原田 似合いもしないのに、身につけるものに金をかける。中身に自信がないから、ことさらに外面を飾る。
栗原 それに自己顕示欲がケタ外れに強い。山崎なんか、口を開けば「どお、オレってスゴイ?」「ボクってステキ?」(笑い)。完全にイカれてるよ(大笑い)。
女性から敵視
原田 それに山崎といえば下劣な「女性狂い」。
栗原 いかがわしいビデオも山のように集めていた。収集癖があった。かつて山崎と親しかった正信会の浜中和道が証言している。
原田 生活も乱れ切っていた。
家に帰らない。どこで、何をやっているのか。本当のところは誰も分からない。
正木 要するに、山崎は遊びに狂っていた(笑い)。
栗原 それにまた、とにかく、わがまま。
オレは特別だ∞オレは拘束されるのがイヤだ≠ニ、勝手放題に、のさばっていた。
杉山 さらに素人商売で始めて大失敗した冷凍食品会社の社員にオレは頭がいい。日本でも十本の指に入る≠ニ豪語していた。
青木 バカバカしい。何十億円も負債を抱えて倒産したのは誰だ(笑い)。
松本 下劣な品行、愚劣ぶりにかけては十本の指に入る≠フ間違いだろ(大笑い)。
正木 山崎をよく知る人物も言っていた。
「山崎は『オレは自分で金を儲ける。学会の世話にはならない』と言い放っていた」と証言していたな。
青木 結局、刑務所の世話になった(爆笑)。
杉山 とにかく、根が「畜生」。品性下劣。
青木 山崎が学会本部に出入りしていたころも、女性職員は皆が皆、あの男の正体を見抜き、嫌っていた。
正木 皆が「おかしいやつだ。いったい何をやっているのか」と疑念を抱(いだ)いていた。
松本 皆が「怪しい、怪しい」と思っていたら、本当に、その通りになった。
化けの皮が剥がれて、不様に転落していった(大笑い)。
悪の芽は潰せ
青木 学会は、真面目な人、真剣な人が集う団体だ。広宣流布の清浄無比の団体だ。
組織を利用したり、会員を騙したり、食い物にする破和合僧(はわごうそう)の悪人は、必ず正体を見抜かれる。最後は必ず破滅する。
正木 皆が賢明になることだ。騙されてからでは遅い。悪は早期に鋭く見抜き、決して近寄らせないことだ。
青木 まさか今は山崎みたいなやつや、山崎から金漬け、酒漬けにされて退転していった原島みたいなやつは、いないと思うが。
とにかく、組織利用。金銭問題。女性問題。そういうおかしなのがいたら、許してはならない。秋谷会長や私に言ってもらいたい。悪の芽は、芽のうちに叩き潰さなければならない。
(2005. 4. 6. 聖教新聞)
<72>
出席者:青木理事長、正木副会長、松本副会長、山中副会長、杉山青年部長、栗原創価班委員長、原田創価班書記長
寒風に一人立つ
正木 第1次宗門事件当時、池田先生は東京・立川文化会館を中心に広布の指揮を執られた。
そこでも創価班のメンバーと感動の出会いがあった。創価班の永遠の歴史です。
松本 それは昭和53年2月5日。前日に雪の降った寒い日だった。先生が、会館の屋外で任務についている一人の創価班の姿を見つけられた。
そして先生は、即座に色紙に、したためてくださった。
「寒風に 一人立ちたり 創価班」と。
正木 色紙は、すぐに届けられた。
そのメンバーは、突然のことに驚き、道路を挟んで見守ってくださっていた先生に、深々とお辞儀をするのが精一杯だった。
それをご覧になった先生は、サッと敬礼を送ってくださったのです。
栗原 創価班メンバーは皆、今も、この句を心に刻んでいる。「まことの時」に、一人立ち、学会を守り抜こうと、深く誓い合っている。
松本 本当に先生は、創価班を温かく見守り、最大に激励してくださいました。ことあるごとに創価班の報告を聞いてくださり、最大に配慮をしてくださった。
山中 大石寺の着任でも、毎回のように「ご苦労様です。お世話になります」「大変にありがとう」「創価班、頑張っているな」と声をかけてくださった。
夏の暑い日には、全員にジュースをくださったり。「創価班を疲れさせてはならない」と、こと細かに指示をしてくださった。
正木 日顕に何かしてもらったことなんか、一度もない。
松本 先生は、創価班が着るブルゾンの色まで、気づかってくださった。
ある時、先生が白色のブルゾンを着た創価班を見かけられた。
そして「君たちは創価班幽霊≠ゥい」とユーモアを交えながら「これから寒くなってくる。白では、寒々しい印象を登山者に与えてしまうのではないか」と言われた。
それで、みなで相談して、白色のブルゾンから黄色に変わったのです。
青木 どれほど有り難い先生か。どれだけ創価班を大事にしてくださったか。
創価班を罵倒
松本 ところで大石寺の警備といえば、平成2年の大石寺開創700年の記念行事。あの時も、創価班は総動員で大石寺を守った。
山中 当時は、松本さんが委員長、私が書記長だったから、よく覚えている。この年は、まず9月に、学会が「慶祝記念文化祭」を大客殿の前で行った。
松本 翌10月には、初会(しょえ)と本会(ほんえ)。文化祭と合わせて3つの大行事に、創価班はそれぞれ1000人以上の態勢で着任した。
山中 まさに万全を期しての態勢だった。
杉山 当時は、顕正会という一派が、大石寺に乗り込んで来るという噂もあった。
山中 だから創価班は、幾重にも厳重に警備した。24時間態勢で着任した。
松本 結局、その連中が大石寺に来ることはなかった。だが、敵は内部にいた。
山中 その通りだ。あの時も坊主どもは、学会に感謝するどころか、妬みで創価班にもケチをつけてきた。
松本 あの時のことは、今、思い返しても、腹が立つ。はらわたが煮えくり返る。
大石寺の外周道路から寺の内事部への入り口に、創価班が立って、入る車をチェックしていたんだ。
そこを通った坊主どもが、創価班に向かって何と言ったか。
バカヤロー∞何やってんだ∞本当に、こいつら邪魔なんだよな≠ネどと言い放った。
正木 ふざけるな!
だったら運営も警備も、全部、自分たちでやれ!
青木 坊主の本性だ。自分じゃ何もしない。できない。そのくせ、威張り散らすのだけは「10人前」だ。
一言の礼もなし
山中 一番の恩知らずが日顕だった。開創700年の時も、どれだけ尽くしたか。
そのくせ、ひと言の真心の礼もなかった。
松本 その通りだ。青年部が文化祭の設営をやった。その様子を日顕が一度、見に来た。
ところが、ウンでもなければ、スンでもない。何の挨拶も御礼も激励もなかった。
山中 偉そうにふんぞり返って歩くだけだったな。
原田 今思えば、当時、日顕はすでに「C作戦」を謀議していた。腹黒く動いていたんだ。
杉山 何しろ、その2ヵ月前、東京・文京区の西片と大石寺で極秘に「C作戦」の密議を企んでいたんだからな。これも、あとで分かった。
青木 学会は、大石寺の開創700年を、盛大な文化祭で祝った。さらに総一坊、総二坊まで寄進して祝賀した。
松本 日顕は寄進も受けた。文化祭にも出た。だが、その裏で、ずっと「切るチャンス」を狙っていた。
金を取るだけ取って切る魂胆だった。
正木 あの当時、実は我々も「様子がおかしいぞ」と思うことがあった。
開創700年の文化祭。所化僧が拍手していたら、ほかの坊主が「なにを拍手なんかしているんだ!」と怒鳴りつけていた。
そういう光景を何度も目の当たりにしていたからだ。
青木 坊主どもは学会の発展を、妬みに妬みぬいていたからだ。
戸田先生が「宗門は金を持ったら学会を切ってくるぞ。気をつけろ」とおっしゃった通りだ。
松本 池田先生が「僧俗和合(そうぞくわごう)」のために、どれほど宗門に尽くされたか。
先生の誠心誠意の姿を、我々は創価班時代、強く、深く、心に刻んできた。
山中 その通りだ。だからこそ日顕宗に対する怒りも深い。強い。激しい。
栗原 1千万の信徒を騙した、大忘恩、大不知恩(ふちおん)の坊主ども! 我々は永劫に許さない!
正木 そうだ。邪悪への破折精神、闘争精神が「創価班魂」だ。
真っ先に責めよ
松本 第2次宗門事件以降、創価班が大石寺に就くこともなくなった。それまでの「本山担当」「輸送担当」も解消して、平成3年7月、創価班は晴れ晴れと新出発した。
青木 もちろん、我々は坊主に尽くしたのではない。御本尊に尽くしたんだ。その大功徳は、永遠に消えない。燦然と輝いていく。
正木 全部、御仏意(ごぶっち)だった。いつまでも、あんな極悪坊主と一緒だったら、大変だった。
今日のような世界広宣流布の進展も、なかったはずだ。
青木 その通りだ。すべて深い意味があった。
山中 第2次宗門事件が起こってから、忘恩と悪逆の日顕宗を真っ先に責め、打ち倒してきたのも、創価班だ。
栗原 厳粛な事実です。われわれ現役メンバーも「創価厳護(げんご)」の使命の大道を、断じて勝ち進みます。
正木 創価班OBの我々も、いよいよ戦おうじゃないか! 栄光の「創価班魂」の炎を燃やしながら!
(2005. 4. 7. 聖教新聞)
<73>
出席者:青木理事長、萩本第2総東京長、戸谷調布総区長、松井調布総区婦人部長、赤須調布総区書記長、野口第5東京青年部長、鰈崎調布総区総合女子部長
調布総区の前進
青木 今、東京・調布総区(調布市、狛江市)の友は「桜満開 友情輝き月間」の真っただ中だね。
萩本 この秋には、待望の「新・多摩川平和会館」が狛江市に誕生します。
「新会館のオープンを大勝利で飾ろう」と、調布の友は大奮闘だ。
松井 婦人部も4・3「調布総区の日」「総区女性の日」を、圧倒的な拡大で勝ち取りました。
その先頭を行くのが「宝寿会」の皆さんです。合言葉は「生涯青春」。
元気いっぱいの活躍に、後輩の私たちも圧倒されそうです(笑い)。
戸谷 いや、壮年部も元気です(笑い)。なかなか仕事で会合に参加できない方々と「会って話す」訪問座談会も定着しました。
昼間に活動できる「太陽会」の皆さんも活発です。「年は・わか(若)うなり福(ふく)はかさなり候(そうろう)べし」との御金言のままに前進。青年の息吹で%結梺に友好を拡大しています。
野口 私たち青年部も最強の陣列が整いました。男子部も学生部も「破邪顕正(はじゃけんせい)」の対話の渦を巻き起こしています。
鰈崎 女子部は4・3「総区女性の日」を大勝利で飾りました。
「ハッピースクラム対話拡大運動」を大展開し、1万3000以上の対話を実践。また、多くの友が職場で活躍しています。
戸谷 わが調布総区自体が一昨年、調布常勝区、調布本陣区、調布錦州区、狛江栄光区の4分区体制に発展しました(大拍手)。
赤須 それにまた、昨年の参議院議員選挙では、調布市、狛江市で、われわれが支援する公明党が大きく伸びた。
青木 素晴らしい。今や調布・狛江は「発展する第2総東京」の希望の存在だ。池田先生も、常に讃嘆しておられます。
「東京に旋風を」
戸谷 私たちの大きな原点は、13年前の池田先生の調布文化会館初訪問です。
桜花咲き薫る1992年4月3日でした。
松井 ちょうど第2次宗門事件が起きた直後だった。あの日の池田先生の指導、激励は「調布総区の魂」です。
赤須 私は当時の調布区男子部長だった。
先生は極悪と戦ってこそ極善となる。調布は「常勝の錦州城」の誇りで東京中に旋風を≠ニ全魂で激励してくださった。
萩本 決して忘れえぬ、大事な歴史だ。
当時は宗門が学会、先生への嫉妬に狂いに狂い、邪悪な陰謀を仕かけていた。あの坊主たちの狂気、悪辣さ、傲慢さ!
青木 永劫に許してはならない。嫉妬と金に狂った坊主たちが、どこまで堕落したか。どこまで悪事に狂ったか。
後世のため、詳細に歴史に残していくことだ。今、学会には新しい友、若い人が増えてきた。
なればこそ、私たちの責務だ。
萩本 以前も話に出たが、さらに強調しておく。第2総東京の地域には、学会が発展するまで、宗門など陰も形もなかった。全て、池田先生、学会あっての宗門だった。
戸谷 その通り。坊主たちも、さんざん「学会のお陰です」「ありがとうございます」と言っていたじゃないか。
赤須 その大恩を、あろうことか、金儲けのために、仇で返した。断じて許すな。断じて仏罰の姿を見たい。
野口 その通りだ。日蓮仏法は「知恩(ちおん)」「報恩(ほうおん)」が根幹だ。「忘恩は最大の悪」「恩知らずは畜生以下」だ。
「不知恩(ふちおん)の人なれば無間地獄(むけんじごく)に堕(お)ち給(たま)うべし」とある。御聖訓に背けば仏罰を受けるのは当然だ。
不知恩の輩
戸谷 狛江市にある仏寿寺にしても、学会の寄進だ。
何から何まで、学会員が守り、支えてやった寺じゃないか。
野口 あの寺には、かつて関快道という、外道以下の邪悪の坊主が住み着いていた。
こいつは身延の修行者の娘≠ノ失恋したのがきっかけで、出家したそうだ(笑い)。
萩本 それにまた、さんざん学会に守ってもらいながら、悪名高い「C作戦」の首謀者の一人になったやつだ。
赤須 どれほど守ってやったか。
こんなこともあった。関の息子が心臓疾患で手術することになった。
その輸血のために、幾人もの学会員が病院に行った。
萩本 当時の男子部は「適合する血液型の人はいないか」と声を掛け合った。仕事を休んで行く人もいた。
戸谷 関本人が「子どもが病気の時に輸血をしていただいた。息子の身体には学会員の皆さんの血が流れている。この御恩は忘れません」と泣いていた。
野口 その舌の根も乾かぬうちに、あいつは裏切った! 大恩人に弓を引いた!
戸谷 また、仏寿寺には地元の小町利治さんという、立派な学会員が最大に供養してあげた。公私にわたって関を守ってあげていた。
松井 小町さんは「納骨堂が欲しい」という関のために、誠心誠意、供養されたんです。自ら力仕事までして、塀をこしらえる手伝いまでしてあげた。
青木 その小町さんが平成13年に亡くなった。ところが、関からは弔電一つ、お悔やみの言葉一つ、なかった。
萩本 冷酷。冷血。非道。そんな言葉では、とうてい追いつかないほどの恩知らずめ!
野口 関はまた、寺の納骨堂で違法な納骨業務をやっていた。法律に定められた許可を受けずに、10年以上にもわたって、信徒から遺骨を預かっていた。
赤須 そのほかに、ペットの骨まで預かって、納骨保管料を違法に徴収していたんだ。
戸谷 この事実が発覚し、関は「墓地、埋葬等に関する法律」違反の容疑で書類送検された。
その時は、関が納骨業務を打ち切ることで起訴猶予処分になった。
萩本 結局、関が仕組んだ「C作戦」も大失敗。日顕は最高裁で2度も断罪。あの「シアトル事件の裁判」「芸者写真裁判」でも全部、負けて、後世に大汚点を残した。
赤須 日顕本人の2件を入れて、宗門は最高裁で7度断罪。信徒は98%も激減した。
戸谷 あのオッチョコチョイの関も(爆笑)、当然、詰め腹を切らされた。大いばりだった「海外部主任」も「富士学林の教頭」もクビ。
野口 日本にいられなくなってオーストリアに行ったが、現地の檀徒にも嫌われ、追い出された(笑い)。
萩本 今では大石寺で「ニセ法主」の日顕の代わりに、御開扉(ごかいひ)の代理をやらされている。
赤須 ニセモノの代理とはな(大笑い)。
鰈崎 本当に、調布の地から追い出してよかったですね!
本当にスッキリしました(大拍手)。
後釜も忘恩坊主
野口 その関の後釜としてやってきたのが、高木当道というクソ坊主だ。
戸谷 こいつも宗門きっての堕落坊主だ。
赤須 実は、高木は坊主になったのが関と同期なんだ。出身も同郷だ。
大石寺から佐賀県武雄市の深遠寺に行き、その後、仏寿寺に来るまで山口県岩国市の弘法寺にいた。
野口 高木の悪行は、佐賀や山口からも、いまだに聞こえてくるぞ。
戸谷 高木は佐賀にいた時、学会にさんざんお世話になった。
その時に高木は感謝します∞皆さんとともに、広布にいそしみます≠ネんて調子のいいことを抜かしたそうだ。
野口 ところが、全部インチキ。善人の仮面をかぶった。偽善(ぎぜん)坊主≠セった。
山口に行ってから、ますます正体がハッキリした。絶対に許すな。
赤須 その通りだ。本性は、金、酒、女。欲まみれ、金まみれの卑しい堕落坊主だった。
詳しくは、次回に語ろう。
(2005. 4. 8. 聖教新聞)
<74>
出席者:青木理事長、萩本第2総東京長、戸谷調布総区長、松井調布総区婦人部長、赤須調布総区書記長、野口第5東京青年部長、鰈崎調布総区総合女子部長
戸谷 前回、東京・狛江市の坊主・高木当道(仏寿寺)の話が出た。
野口 以前に高木がいた山口県岩国市の同志が、先日も怒っていた。
高木は岩国にやってきた当初「本山からの給料10万円だけの生活です」などと、さんざん言いふらしていたというんだ。
萩本 何が「給料10万円」だ(笑い)。だいいち、そんなこと、わざわざ言わなくたっていいじゃないか。
赤須 学会員の同情を買おうと狙ったんだ。気の毒に思って供養した人が、たくさんいたという話だ。
戸谷 坊主は芝居が得意だからな。こんな「お涙頂戴」のサル芝居は朝メシ前だ。
そのうち高木は正体を現し、塔婆供養を道具に、大々的に金儲けを始めた。
野口 その通りだ。例えば寺で、夫と妻の、それぞれの先祖代々の塔婆を立てさせる。それも先祖一人ひとりの塔婆を立てさせる。
萩本 普通なら「先祖代々」と書いて、一括する。それを「一人ひとりの先祖ごとに」だ。それだけで塔婆の本数は何倍にもなる。
野口 先祖ばかりか、信心していない知人、友人の塔婆まで立てるように強要していた。
赤須 結局、今まで塔婆を立てたことのない人も、春秋の彼岸やお盆の時は必ず塔婆。そのほか寺に行くたびに3本も、4本も塔婆を立てるようにしむけていた。
萩本 日顕宗の塔婆は1本2千円。まったく坊主と何とかは「三日やったらやめられない」だな!
供養が月7万円
野口 さらに高木の手口は悪辣になっていった。そのうち一人ひとりの塔婆供養の日≠ニやらを用紙に書き込み、遺族に渡すようになった。
赤須 「この日になったら塔婆を立てろ。忘れるな」というわけだ。
戸谷 そこには、遺族に対して初七日から百ヶ日忌まで、塔婆は七日ごとに立てなさい≠ネどと書かれてあった。こうやって、何本も何本も立てさせていた。
松井 バカバカしい。七日ごとに塔婆を立てろ≠ナすって?
御書の、どこにあるのよ。誰が、いつ言った教義よ!
野口 それだけじゃない。高木は「塔婆を立てれば、その功徳の3割は亡くなった人にいく。7割は塔婆を立てた人にいく」とも抜かしていた。日蓮大聖人の仏法とは全く無縁の邪義、邪説を平然と唱えていた。
青木 株の配当か何かじゃあるまいし。功徳の分割配当≠ゥ!(笑い)。
赤須 ある婦人の方は毎月、15本もの塔婆を立てさせられた。1本2千円だから、その供養だけでも3万円。それとは別に供養を2万円。寺の行事の時も2万円の供養をさせられていた。
鰈崎 一月(ひとつき)だけで供養が7万円!
赤須 あげくに入院中の信徒が退院すると、あとで高木のやつは「入院していた間の塔婆供養をしておきましたよ」。抜け抜けと言い出して供養をねだる。せびる。
萩本 「食法餓鬼(じきほうがき)」だ。「餓鬼」というのは、経典の中の話じゃない。実際にいるんだ。
坊主丸儲け
青木 この「塔婆商法」の元凶も日顕だ。坊主たちが塔婆に目をつけはじめたのも、日顕が法主になってからだ。
萩本 しかも、供養はせしめておいて、実際は塔婆なんて、ほとんど書かない――悪質なカラ塔婆≠ナ稼ぐ坊主まで何人も出た。
青木 騙されている人は、法華講にも、まだまだいる。
高木のような商売坊主の正体を暴き、破折(はしゃく)しなければ、かわいそうだ。被害が拡大するだけだ。
野口 しかも高木は「葬儀の供養は、すべて本山に行く。車代だけが寺に入る」なんて大ウソをついていた。
赤須 これまたウソもウソも大ウソだ。末寺が宗門に出す金は、寺の等級によって毎年、額が決まっている。その上納金≠出しさえすれば、あとは寺の坊主の「丸儲け」だ。
青木 それを「信者はカラクリを知るまい」とタカをくくって、こんなウソをつく。いかにも寺には金が入らないふりをして、供養を巻き上げる。
赤須 卑しいやつ!
ユゴーが言うところの「汚泥にまみれたブタ」。それが日顕宗の坊主どもだ!
性根が「遊び人」
戸谷 そうやって巻き上げた金で高木のやつが何をやっていたか?
野口 日顕宗の坊主の例にもれず、高木も女狂い。岩国市内の高級クラブの常連客だった。それも遊び方が汚くてハレンチ坊主≠ニ鼻つまみだった。
戸谷 当時を知る飲食店の関係者が「飲み方ひとつにもキレイな飲み方≠ニゲスの飲み方≠フ二つある。あいつは、とことんゲスの遊びだった」と今でも吐き捨てている。
野口 酔うと女性の体を触る。ウサギのマネをして店内をピョンピョンと跳ね回る。常軌を逸した「奇行」「愚行」。今でも語り草だ(笑い)。
赤須 とにかく性根が「遊び人」。
高木は遊びの日≠ワで設けていた。その日は「法事を依頼されても受け付けない日」だというんだ。
鰈崎 ひどい! 信じられない。
また納骨で商売
野口 その高木の寺では、遺骨管理もメチャクチャだった。
預けた骨壷がフタ付の湯飲み茶わんに化けていたり。全く別の骨壷になっていたり。遺族の心情を土足で踏みにじる蛮行を平気でやっていた。
赤須 今でも山口の同志は激怒している。「高木は東京にいるのか! 狛江にいるのか! いっぺん、みんなで行こうじゃないか。化けの皮を剥ごうじゃないか」と怒りに怒っている。
萩本 そんな高木が、また仏寿寺で「納骨」に手を出そうと企んでいるようだな。
赤須 仏寿寺は関快道の時代にも、納骨業務を自らやめた前歴がある。
野口 今、高木の「反社会」の正体、素性を知った住民から、反対運動が猛然と起こっているようだ。
悪を滅するを功
戸谷 ともあれ「悪を滅(めっ)するを功(く)と云い善(ぜん)を生ずるを徳(とく)と云う」。悪を糾弾してこそ、正義は拡大する。前進する。調布総区の決意だ。
松井 婦人部も女子部も合金パワー≠ナ前進します。断固、正義のスクラムを広げます。
婦人部の「創価ルネサンス大勝利唱題会」も今年で14年目です。一日も欠かさずに、広布拡大と極悪打倒を祈り抜いてきました。
青木 その意気だ。「東京の新時代は調布総区から」だ。
全東京を揺り動かそう! 「戦いの旋風」を起こそう!
完全勝利で「新・多摩川平和会館」の開館へ前進しようじゃないか。
(2005. 4.11. 聖教新聞)
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出席者:青木理事長、長谷川副会長、石島副会長、藤村副会長、飯野八王子総区副総合長、佐藤牙城会委員長、松崎牙城会書記長
見事な社会貢献
石島 先日、創価班OBの座談会が掲載されたが、各地の牙城会OBから「牙城会の座談会は、いつですか」(笑い)という声があった。
藤村 私のところにも地方のOBから電話があった。
飯野 壮年部になっても牙城会のことが気になるんだな。僕だけじゃなかった(笑い)。
長谷川 いくつになっても牙城会の誇りは消えないからだ。牙城会OBは「去って去らず」だ。現役メンバーとともに、我が牙城会の歴史と使命を大いに語り合おうじゃないか。
佐藤 よろしく、お願いします!
石島 長谷川副会長は、牙城会の第2代委員長。私は第8代、藤村さんは第9代、飯野さんは第11代委員長です。
飯野 何といっても牙城会のメンバーは毎日、必ず会館にいる。それだけにエピソードも多い。
松崎 その通りです。
たとえば昨年11月のこと。東京・練馬区で会館に隣接するマンションの火事を牙城会メンバーが発見。即座に119番通報するとともに、マンションの住民に「火事だ」と知らせたうえで、住民の避難誘導まで行った。
佐藤 牙城会の素早い通報のお陰で、火災の被害も最小限ですみ、関係者からも大変に感謝されたそうです。
松崎 東京・世田谷区でも、こんなことがあった。牙城会メンバーが自宅を出ると、駐車場で、いかにも怪しげな男が車の側をうろついていた。「車上荒らしに違いない」と思った彼は、すぐさま110番通報。
佐藤 警察が駆けつけ、30分後に、その不審者は逮捕された。調べてみると窃盗の常習犯だった。警察からも大いに感謝されたということだ。
石島 機敏な対応だ。これも常日頃の牙城会での訓練、薫陶があってのことだね。
牙城会の由来
青木 学会も新しい人が増えてきた。新入会の青年部メンバーのために、改めて、牙城会の歴史について話そうか。
飯野 分かりました。
牙城会の結成は1971年(昭和46年)2月1日です。当時、各地で「会館警備」とか「当番」などと呼ばれていたグループが全国的に組織されることになった。
長谷川 当時のことは、私も、よく知っている。グループの結成は決まったが、どういう名称にするか。これが大問題だった。昭和45年の年末から、当時の男子部幹部で何日も考えたが、なかなか「これだ」という名前が出てこない。
年が明けて1月、事情を聞かれた池田先生が「広宣流布の牙城を守る人材育成の組織だから『牙城会』は、どうか」と命名してくださったのです。
藤村 学会厳護(げんご)の師子(しし)「牙城会」が誕生した瞬間だ。
松崎 「牙城」とは、中国の唐の時代の歴史を綴った「唐書」という書物にある言葉です。
古来、中国では将軍が居る場所には「牙旗(がき)」と呼ばれる旗が立った。そこから、大将のいる城、本陣を、牙城と言うようになったようだ。
長谷川 学会の会館は、各地域の広宣流布の本陣だ。まさしく「牙城」だ。その大事な「牙城」を厳護する――メンバーにとって、これほどピッタリの名前はない。みな、大喜びだった。また、決意を深くしたものだ。
障魔との戦い
青木 会館には、いろいろな人たちが来る。時に、悪意の輩も狙ってくる。ゆえに、どう魔を打ち破るか。これも牙城会結成以来の大きな使命であり、役割だった。
牙城会の歴史を語る上で、忘れてはならない一点だね。
松崎 その通りです。障魔との戦いといえば、昭和55年に行われた牙城会の第1回柔剣道大会。これには池田先生が出席してくださったと聞いていますが。
石島 牙城会にとって、永遠の原点です。
当時は、第1次宗門事件の最中だった。極悪ペテン師の山崎正友に踊らされた坊主たちが、全国各地で学会員をいじめ、陰湿に迫害していた。
飯野 ひどい時代だった。われわれは絶対に忘れない。
最大に宗門を外護(げご)した広宣流布の指導者を、学会員を、最大に恩を受けた坊主が陥れる――まさに狂気の沙汰だった。
長谷川 衣の権威をカサにきた宗門は、卑劣にも池田先生と学会員との絆(きずな)を割(さ)こうとした。
先生が会合に出てはいけない。聖教新聞に出てはいけない。指導してはいけない――すべて山崎と坊主が仕組んだ、陰湿な謀略だった。
石島 先生が勇退された直後に、創価大学(東京・八王子)で行われた本部総会で、私は警備に就いていた。
あの時の坊主たちの陰険な目。傲(おご)り高ぶった顔。思い上がった姿。本当に苦しい、沈みきった会合だった。
長谷川 学会員が、どれほど悔しい、寂しい思いをしたか。
しかし先生は、毅然としておられた。あの苦難の真っ暗闇の時代にあって、広布功労者のお宅を一軒一軒、激励に歩かれた。
先生自らが、同志の心に希望の火を点(とも)してくださったんだ。
石島 われわれ牙城会は、当時は何も分からなかった。力もなかった。しかし「何とか会合に先生をお迎えしたい」。これだけは、ずっと祈り続けていた。
「反転攻勢」へ
藤村 明けて昭和55年1月、全国牙城会大会に池田先生はメッセージを寄せてくださった。
先生は「広布の牙城を護(まも)りゆく我が同志、牙城会諸君の日夜、寒風炎熱の中の労苦に対し心より感謝します。『信念』『努力』『忍耐』とは、指導者としての素質の基本であるとともに我が愛する牙城会への永久の指針であります」。このように、万感のメッセージをくださった。
佐藤 「信念の人」「努力の人」「忍耐の人」。牙城会の「永遠の指針」です。
今も、みなが心に刻んでいます。
石島 そして、その年の8月31日。先生は、八王子の創価大学で行われた牙城会の第1回柔剣道大会に出席してくださったのです。
牙城会メンバーはもちろんだが、どれほど全国の学会員が喜んだことか。
青木 その通りだ。あの柔剣道大会が、勇退後、先生が初めて出席してくださった大きな会合になった。
牙城会メンバーの熱意を感じられた先生が「あれだけ青年が真剣になっているんだ。行ってあげよう」と出席してくださったのです。
石島 メンバーにとって、一生涯の忘れ得ぬ思い出となった。
沖縄の牙城会は帰りの飛行機の都合で、途中で帰らなければならなかった。
すると先生はメンバーを呼んでくださり、一人一人に「苦労をかけたね」「来れなかった皆さんにも宜しく」と全魂(ぜんこん)の激励をしてくださった。
藤村 先生が、この時「青年が立ち上がる時である」「いかなる境遇にあろうとも広宣流布という青春に腹を決めて進んでもらいたい。信心という黄金の人生に徹しきって歩んでもらいたい」と指導してくださったことが忘れられない。
長谷川 この大会から、どれほど多くの牙城会メンバーが奮い立ったか!
青木 まさに、この牙城会の柔剣道大会こそ、全学会の「反転攻勢」の烽火(のろし)となった。先生は、まず青年部の中核メンバーに楔(くさび)を打たれることで、戦いの火蓋(ひぶた)を切られた。
この厳然たる歴史を、牙城会の現役メンバーも、OBも忘れてはならない、と私は思う。
「破邪顕正(はじゃけんせい)」こそ牙城会の魂だ。
(2005. 4.12. 聖教新聞)
<76>
出席者:青木理事長、長谷川副会長、石島副会長、藤村副会長、飯野八王子総区副総合長、佐藤牙城会委員長、松崎牙城会書記長
牙城会の旗
飯野 前回は、歴史的な牙城会の「第1回柔剣道大会」(昭和55年8月)について語り合った。
松崎 あの堂々たる獅子吼(ししく)の「牙城会旗」も、この柔剣道大会で授与されたと聞いていますが。
石島 その通りだ。なんとか牙城会の象徴となる旗を作りたかった。皆で知恵を絞って、デザインを考えました。
藤村 ところが、なかなか力強い獅子が描けない。ようやく、皆が納得できる旗が完成したのは、大会の数日前のことだった。
石島 学会本部で、完成した旗を先生に見ていただいた。
先生は言下に「獅子か。獅子は負けないんだ。負ける者には旗は、いらないんだ」と厳然と、おっしゃった。
そして、その直後に予定されていた会合で見せてあげてはどうか、と提案までしてくださったのです。
青木 日蓮仏法は「師子の仏法」だ。
御聖訓には、仰せであられる。
「師子王(ししおう)は百獣(ひゃくじゅう)にをぢず・師子の子・又(また)かくのごとし、彼等(かれら)は野干(やかん)のほうるなり日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり」「師子王の如(ごと)くなる心をもてる者必(かなら)ず仏になるべし」
このように、幾度となく仰せであられる。深い意義を込めた旗だ。
佐藤 旗といい、大会といい、牙城会は、常に先生の膝下(しっか)で薫陶(くんとう)をいただくなかで前進してきた。
改めて、使命の大きさを実感します。
ペテン師のデマ
石島 ところで柔剣道大会といえば、あの山崎正友が、かつて週刊誌に「暴力のデモンストレーション」などと書いて騒いだことがあったな。
藤村 バカバカしい。山崎は俗悪マンガの読みすぎじゃないのか。
狂気じみた妄想で、勝手に悪意のレッテルを張って回る。これが、いつもの、あいつのバカげたやり口だよ(笑い)。
松崎 バカも休み休みに言え。だったら、よく大学や高校とかで柔道や剣道の全国大会をやっている。あれも「暴力のデモンストレーション」か(大笑い)。
飯野 これが「売らんかな」の売文の手口だよ。ペテン師の「引っかけ」の手口だよ。
佐藤 手口は見え透いているが、卑劣なデマは断じて許さない。青年の「正義の声」「確信の声」「勇気の声」で断固、打ち砕く。
我々は破邪顕正の「牙城会」の名にかけて、宣言する。
長谷川 山崎は、宗門を手玉にとり、学会を乗っ取ろうとして失敗した。むかし「この地上から学会員を一人残らず、消してみせる」と言い放ったが、その学会は隆々(りゅうりゅう)と大発展。
かたや自分は、恐喝で懲役3年。それが悔しくて、しようがないんだ。妬ましくて、しようがない。だから何でも、ゆがんだ目で見る。
青木 その通りだ。全ては、逆恨みと金儲けでやっていることだ。
松崎 食いつめた脱会者を集めて、日顕に売り込んだり、デマ本を出してみたり。
ゴソゴソ、コソコソ、あっちこっちで動き回って、いろいろやっているように見えるが、つまるところ狙いは「逆恨み」と「金儲け」。この二つだ。
藤村 山崎の正体は、もう皆が知っている。魔は正体を見破られたら、何もできなくなる。動きがとれない。
佐藤 そんなやつにウッカリ騙されたら、とんでもないことになる。必ず大ヤケドだ。
今の日顕と宗門を見れば、よく分かるじゃないか(笑い)。
任務と使命
石島 話は変わるが、私が書記長、委員長をさせていただいたのは昭和50年代半ばだ。
当時は学会の大前進にともなって全国各地に、どんどん会館が建設されていった。同時に牙城会も拡充され、メンバーも増えていった。
青木 そうだった。もっと早くから会館を建てようと思えば、いくらでも建てられたんだ。また、学会員の要望も強かった。
しかし、学会は宗門興隆のために、あえて寺の建立(こんりゅう)を優先させて取り組んだ。会館は後回しにしてでも、宗門を守ったんだ。
長谷川 一事が万事だ。どれほど宗門は学会に大恩があるか!
藤村 当時は、牙城会の組織が大きくなればなるほど根本に徹しぬこう、と皆で語り合った。
「学会厳護」「会館厳護」という牙城会の根本の使命を見失ってはならない――皆で心して確認しあったものです。
石島 最も心配し、いちばん心にかけてくださったのも、池田先生でした。
青年部幹部との懇談の折にも「牙城会の任務の質を落としてはいけない」「任務の質が落ちると事故が起きる」と厳しく指導してくださった。
藤村 メンバーは増やすが、任務の質は絶対に落とさない。そこで、人材育成を一段と強化するために、牙城会に大学校制を導入した。昭和61年のことだ。
松崎 牙城会大学校は創価班大学校と並んで、今や青年部最大の人材育成機関です。
佐藤 先日、池田先生は「随筆 人間世紀の光」を贈ってくださった。
牙城会、創価班は「広宣流布の先駆者の常勝軍団」「難攻不落の正義の長城」である≠ニ綴られた。
我々は、いよいよ「正義の闘魂」を燃やして戦う! 勝ちに勝ちまくる!
(2005. 4.13. 聖教新聞)
<77>
出席者:青木理事長、長谷川副会長、石島副会長、藤村副会長、飯野八王子総区副総合長、佐藤牙城会委員長、松崎牙城会書記長
最大の任務
長谷川 牙城会の最大の任務は「無事故」だ。ふつうは「事故がなくて当たり前」。誰も注目してくれない。しかし無事故が、どれだけ大事か。また、どれだけ難しいことか。
青木 その通りだ。無事故は、みなの団結で、戦いで「勝ち取る」ものだ。
「会館で絶対に事故を起こしてはいけない。会館で事故が起こると広布の上げ潮が止まってしまう。無事故が勝利なのである」。かつて池田先生が指導された通りだ。
松崎 また、もし万が一、会館内で事故が起きた場合――最初に対応するのも牙城会です。
藤村 事故を最小限で食い止められるか否か。牙城会の対応ひとつで明暗が分かれる。
青木 まさに毎日が「戦い」だ。牙城会をはじめ「守る会」の皆さん、一日会館長の皆さん、そしてサテライト・グループの皆さん‥‥陰で支えてくださる方々に、全幹部は感謝を忘れてはいけない。
飯野 日蓮大聖人も「陰徳(いんとく)あれば陽報(ようほう)あり」「かくれての信あれば・あらはれての徳あるなり」等と、労苦をいとわず行動する人を最大に称讃されている。
長谷川 どれほどの大福徳が輝くことか。
佐藤 学会は全国に約1200の会館がある。その宝城を日夜、牙城会は7万人の精鋭で厳護しています。
松崎 いま、牙城会は、平日の18時半に各会館に着任します。18時から着任する会館もあります。
石島 毎日、真っ先に会館に駆けつけ、最後まで会館を守る。それが牙城会だ。
「無遅刻」第一
青木 皆、青年だ。仕事も忙しい。並大抵の決意、努力では到底できないことだ。
牙城会が毎日、着任してくれるおかげで、安心して会合も開ける。本当に、ありがたいことだ。
佐藤 だからこそ、牙城会は「無遅刻」第一です。皆、仕事の都合、予定などを精いっぱいやり繰りし、全力で定刻通りの着任を勝ち取っています。
松崎 それに牙城会は毎月、各組織で「指導会」を実施しています。信心を磨くとともに、その時々の、会館警備上の注意点などを語り合い、確認し合っている。
佐藤 また「着任日の前日は1時間の唱題」。これも牙城会の伝統だ。広宣流布の宝城を守る根本は「強き祈り」だからだ。
松崎 着任日は、普段より何時間も早く職場に行って、早朝からバリバリ働く。きちんと仕事を勝ち取ったうえで、会館に勇んで向かう――これが皆の決意です。
佐藤 牙城会だからこそ、仕事は絶対に疎(おろそ)かにしない。その「真剣さ」「誠実さ」が、職場でも信頼を広げています。
上司に牙城会をやるようになって、仕事も立派にやるようになった≠ニ喜ばれるメンバーも、たくさんいる。
石島 それでこそ牙城会だ。皆、本当に陰で地道に努力している。
松崎 地域によっては、職場から会館まで2時間、3時間もかけて駆けつけるメンバーもいます。
模範の戦い
長谷川 そんななかで「連続無遅刻」を1年、2年と更新している会館もあるね。
佐藤 先日も、茨城文化会館の牙城会が「1000日」の無遅刻記録を達成しました。
藤村 1000日か!
佐藤 実は、この会館では数年前までは、無遅刻が1ヵ月ほどしか続かなかった。
その状況を、県牙城会警備長の野口和行さんの戦いが変えた。彼は「このままでは大きな事故が起きかねない。絶対に遅刻をなくそう!」と立ち上がったんだ。
松崎 野口さんは、来る日も来る日も、会館に足を運び、牙城会メンバーと対話。仕事の状況、家庭のことなど、じっくりと話を聞き、激励をし続けた。
また地元の牙城会幹部も一丸となって祈り、心を合わせ、力を合わせた。
佐藤 そしてついに、今年の「3・16」に無遅刻「1000日」を達成した(大拍手)。
長谷川 池田先生も報告を聞かれ「茨城牙城に 勝利よ輝け」と詠(よ)み、讃(たた)えてくださいました。
佐藤 いま、茨城のメンバーに歓喜と自信が広がっています。
松崎 牙城会は全国各地、毎年2月1日から新体制でスタートします。この間、途中で男子部から壮年部に移行した方々も、牙城会の着任は続けていただいています。
青木 壮年部に行っても、牙城会の任務は最後まで全うする。できないことだ。本当に尊い。
「最後の着任」
長谷川 今年の1月3日、池田先生が東京都あきる野市の秋川平和会館を視察された。その時も、牙城会メンバーとの感動的な出会いがあったね。
佐藤 先日の「随筆 人間世紀の光」(4月5日付)にも綴ってくださいました。
先生は、会館に着任していた二人の牙城会メンバーを激励してくださった。実は、二人とも昨年夏、壮年部に進出し、この日が最後の着任でした。
松崎 それを聞かれた先生は「長い間 ありがとう 御苦労様 健康第一で御活躍を」との万感の言葉に、和歌まで贈ってくださったのです。
佐藤 この時期は全国各地で、同じように多くのメンバーが「最後の着任」に就いていた。
その皆が先生が牙城会の卒業を祝福してくださった∞これで思い残すことはない。さあ、壮年部で新たな闘争の開始だ≠ニ奮い立った。
迅速な対応
飯野 ところで、つい先日、北海道の会館でボヤがあった。ここでも、牙城会の迅速な対応が光った。
佐藤 聖教新聞の北海道版(4月8日付)でも報道していただきました。
天井裏の換気扇のモーターが配線に接触し、火災が発生したようだ。
天井の蛍光灯がバチバチと音を立てて点滅したのを、牙城会が見逃さなかった。すぐに照明を消して点検。通風口から火を確認した。
松崎 ただちに119番通報。最初の異常確認から5分後には、消防車が到着し、ほどなく火は消し止められた。類焼などは全くなかった。
青木 まさに牙城会の機敏な行動が会館を守ってくださった。
法華経に「火も焼(や)くこと能(あた)わず水も漂(ただよ)わすこと能(あた)わず」と。真剣で強盛な信心によって、事故も未然に防ぐことができる。
今回の迅速で、適切な処置も、常日ごろの強盛な信心あってのことだ。改めて、心から感謝申し上げます。
(2005. 4.14. 聖教新聞)
<78>
出席者:青木理事長、長谷川副会長、石島副会長、藤村副会長、飯野八王子総区副総合長、佐藤牙城会委員長、松崎牙城会書記長
声仏事を為す
青木 今回も牙城会メンバーの活躍を語ろう。
学会の会館を訪れて最初に出会うのは、牙城会メンバーだ。
石島 その意味で牙城会は「学会の顔」でもある。
飯野 その通りだ。牙城会の電話の対応がよかったことがキッカケになって、入会した人だっている。
松崎 そうなんです。会館に「自分の親戚が、そちらの会館にいるはずなので、探してもらいたい」と電話をかけてきた人がいた。
電話を受けた牙城会メンバーが、誠実に、また丁寧に対応してくれた。
佐藤 その爽やかさ、温かさへの感動が機縁になって、入会を決意した。そういうことがあった。
青木 「声(こえ)仏事(ぶつじ)を為(な)す」。電話の対応ひとつで味方にもなる。敵にもなる。その実例だ。
佐藤 会館には、多くの方々から電話が入る。電話のマナーは、特に重要です。
松崎 電話対応といっても、経験のある人、ない人、様々です。ですから、各会館に着任する牙城会では、電話対応のマニュアルを作るなど、真剣に取り組んでいます。
青木 ありがたいね。
勝って着任
佐藤 メンバーは皆「勝って、毎回の着任に臨もう」と挑戦しています。仕事に、学会活動に、自身の目標を決めて戦う。勝利の実証を打ち立てる。
石島 その意気だ。「戦う心」に燃えて着任する。だからこそ広宣流布の宝城を護ることができる。
松崎 大学校生も同じ決意で戦っている。「勝って、毎回の指導会に集おう」と挑戦している。
飯野 とにかく学会の会館に来れば喜びがある。笑顔が咲く。これは多くの識者も驚き、賞讃していることだ。
佐藤 会館の警備についている、あの牙城会の真剣さ。青年の模範だ=Bそう讃歎(さんたん)する識者もいた。
石島 その反対に、不幸と嫌な思いしかないのが、日顕宗の寺だ(笑い)。
青木 我々も坊主には、さんざん苦しめられた。いい思い出なんか一つもない。
飯野 その通りだ。学会に寺を建ててもらい、さんざん供養をもらっておきながら、陰では学会を妬み、悪口を言う。陰険な坊主ばっかりだった。
青木 とにかく日顕が法主になってからというもの、宗門は搾取、暴力、反人権の異常集団になったな!
石島 その話になると話が尽きないが(笑い)、とくに寺の元朝(がんちょう)勤行の役員担当。あの真冬の夜の寒いなか、どれだけ大変だったか。
藤村 男子部は、ずっと寺の外で整理を担当していた。普段は牙城会は会館内の任務だが、寺の行事の時は牙城会も創価班も関係なかった。どっちも外で整理だった。
石島 外で並んでいる人のために、わざわざ焚き火をたいたり。行事が終わった後のゴミの片づけまでやった。
飯野 大晦日は毎年、寺に行ったものだ。午後10時頃から元日の午前2時頃まで寺で作業した。
大晦日だよ。元旦だよ。一般家庭では、貴重な一家団らんの時間帯に、だよ。
長谷川 女子部の役員も、大変なのに着物で着任したり。みな、一生懸命だった。涙ぐましいほどだった。
藤村 それを坊主は御礼の言葉ひとつもない。「寝ないで寺の警備をするのが当然」と言わんばかりの扱いだったな!
松崎 何から何まで「信徒がやるのが当たり前。やってもらって当たり前」と、ふんぞり返っていた。
藤村 それで坊主たちが何をやっていたかといえば、供養袋をかき集めて金勘定に血眼(ちまなこ)だった。
石島 今はもう、みな、あんな嫌な思いをしなくてすむ。元朝早々、陰険な坊主の顔なんか見なくてすむんだ。こんなに嬉しいことはない(大拍手)。
飯野 だいたい坊主と会ってスッキリしたとか、うれしかったことなんか、一つたりともない、ない。
藤村 まったくだったな。
「寺の庫裏に出入りするようになったら、おしまいだ。どんどん信心が腐っていく」
よく、私の先輩も言っていた。私の経験から言っても、本当に、その通りだ。「寺信心」に走ったら終わりだ。
長谷川 仏典に「出家の処(ところ)に一切の悪人を摂(せっ)す」とある。日顕宗の寺は、今や悪鬼(あっき)の巣だ。行っても何一つ、いいことなんかない。
青木 結局、坊主は魔物だ。「猫(ねこ)の鼠(ねずみ)を伺(うかが)うが如(ごと)し」で食いつかれる。食い物にされる。やがて信心を狂わせる。疫病神≠セ。
(2005. 4.15. 聖教新聞)
<79>
出席者:青木理事長、石島副会長、飯野八王子総区副総合長、佐藤牙城会委員長、松崎牙城会書記長、奥村牙城会大学校事務局長、竹村関西牙城会委員長
佐藤 前回は日顕宗の坊主の傲慢(ごうまん)ぶりが話題になった。
飯野 「諸悪の根源」は、親玉の日顕だ。
あの卑劣な「C作戦」を日顕一派が陰で進めていた平成2年の夏。ちょうど牙城会は大石寺で大学校5期生大会を行った。
石島 先生の大石寺での最後の長時間にわたるスピーチだった。正義の闘争を、まさに牙城会に託してくださった。
佐藤 まさに天魔が仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の団体を破壊しようと企んでいた、その場所だ。そこに全国の牙城会の大学校生が集まった。
奥村 大学校生の大会が、極悪・日顕宗との戦いの場になった。この歴史を私たち大学校生も、絶対に忘れない。
石島 今から思うと、当時の日顕の姿は異常そのものだったな。
飯野 あの時、皆で正本堂で御開扉(ごかいひ)に参加した。私は日顕のすぐ近くに座ったが、間近で見た、あの日顕の目! 今でもゾッとする。
地獄の獄卒のような形相で学会幹部を睨みつけていた。すさまじい悪相、邪相だった。
青木 確かに異常だった。とくに池田先生に対する嫉妬! あの平成2年は、先生が大石寺に行かれるたびに、どんどん日顕の相が悪くなっていった。嫉妬で「真っ黒焦げ」になっていた。
多重人格
石島 日顕というのは二重人格、いや、いったい何重の人格があるのか分からない。
青木 ニヤニヤ、ペコペコしていたかと思えば、突然、悪鬼(あっき)のような形相になる。すぐにコロッと変わる。
飯野 だから、手下の坊主たちも、おかしくなる。みな品性下劣だ。
竹村 以前は夏期講習会なんかで大石寺に行って、塔中坊(たっちゅうぼう)に泊まったと聞きましたが。
飯野 その時、我々が「お世話になります」と挨拶に行った時の、あの坊主のふざけた態度!
石島 わざわざ菓子折りまでもって「男子部員がお世話になります」と挨拶に行っても、偉そうに、挨拶にも出てこない。
飯野 私が行った坊では、受付の従業員が奥にいる坊主に向かって「学会の方が挨拶に見えてますよ」と言う。ところが坊主は奥の間で「なに」「あっ、そう」と言うだけで、顔も出さない。
竹村 無礼なやつだ!
飯野 登山者が来ているのを知っていながら、わざと聞こえよがしに言う。ふざけ切った実態だった。
青木 坊主という生き物は「感謝」を知らないんだ。「恩」を知らない。坊主の世界だけが全てだと思い込んでいる。社会的には、どこにも通用しない「子ども」だ。本当に常識知らずの無教養な連中だった。我々は、どれほど我慢に我慢を重ねたか。
教養もなし
飯野 坊主の無教養といえば、私が中等部長だった時に、中等部員と大石寺の所化の交流会があった。
中等部のメンバーは皆、優秀で、準備万全で集まってくれる。何でもハキハキと話ができた。ところが、所化たちはキョロキョロ、オドオド。なんでもない質問ばかりだったのに全然、まともに答えられないんだ。
石島 当時、我々は全く知らなかったが、大石寺の所化たちは暴力、暴力で、朝から晩まで押さえつけられていた。
飯野 だから「ヘンなことを答えたら、あとで先輩に殴られる」と、ビクビクしていたんだろう。
石島 坊主の世界というのは、それほど異常だ。人材が育つわけがない。
人材が育たない団体に未来はない。日顕宗などに未来があるわけない。
破折精神で厳護
竹村 それにしても会館のあるところ必ず牙城会がいる。関西はもちろんですが、北は北海道から南は沖縄まで、みな懸命に戦っている。
石島 北海道といえば昭和57年に、北海道の牙城会メンバーの代表に池田先生は句を贈られた。「ただ頼む 冥(みょう)の照覧(しょうらん) 牙城会」。
松崎 この句を先生は後に色紙に書いてくださり、牙城会全体の大事な指針となっています。
佐藤 そういえば先日、北海道の牙城会メンバーから報告があった。週刊誌のデマを破折した資料を手に識者に語ったところ、大きな反響があったというんだ。
松崎 その通りだ。資料を目にした企業の社長は「学会は正義です」「週刊誌に書かれた内容が、これほどデタラメだったとは。あらためて驚きました。怒りさえ感じます。あんな週刊誌は絶対に読みません」と憤慨していた。
奥村 デマの裏には日顕一派や恐喝事件を起こした山崎正友がいる。そうした邪悪の構図も、皆、よく分かってきたからだ。
竹村 すべては嫉妬とドス黒い謀略と「売らんかな」のデマだった。卑劣なデマの構図が、一段と、よく分かってきた。
松崎 また市民団体の会長は、邪悪の輩が「火のない所に煙を立てている」実態を知り「まだ、こんな輩がいるのか! 民主主義の敵だ」とキッパリと言っていた。
青木 今、皆が真実を知って、いよいよ学会理解を深めている。学会の正義の言論戦に喝采を送っている。
石島 本格的に、そういう時代に入ってきた。実感を深くする。
佐藤 「だからこそ」だ。いよいよ正義を語り抜かねばならない。
青木 御書に「日蓮がごとく身命(しんみょう)をすてて強敵(ごうてき)の科(とが)を顕(あらわ)せ」と仰せの通りだ。
デマの正体、悪の正体を徹底して暴き、責め抜くことだ。それが大聖人の御厳命だ。
竹村 その通りです。人権の闘士、キング博士も叫んだ。我々は正義という武器で、毎日、悪を責め続けなくてはならない≠ニ。
佐藤 われら牙城会は油断なく、たゆみなく、仏敵を責め抜く! それが「同志を守り抜く」使命を果たすことだからだ。
(2005. 4.16. 聖教新聞)
<80>
出席者:秋谷会長、青木理事長、原田副理事長、八尋副会長(弁護士)、杉山青年部長、西 東京男子部長
焦点は「防犯」
青木 今、国民の半数近くが「治安が悪化している」と感じていると、新聞各紙に出ていた。
杉山 内閣府の調査の結果だ。
「悪い方向に向かっている分野」として「景気」や「雇用」を抜いて、初めて「治安」がトップになった。
多くの人の偽らざる実感だろう。
原田 実際、ここ数年、犯罪事件は凶悪化している。子ども、女性を狙った犯罪も増加の一途をたどっている。
防犯に対する関心も、かつてないほどに高まっている。
秋谷 ますます悪くなる一方の世の中だ。危ない。絶対に、油断してはならない。
西 最近は、とくに「性犯罪者の再犯率」が話題になっている。性犯罪で服役した人間が、出所後に同様の犯罪を繰り返すケースが多いからだ。
杉山 法務省や警察庁の調査で、実態が浮き彫りになった。
青木 醜い欲望、衝動のままに他人を襲う。自分で自分の歯止めがきかない。動物以下だ。そら恐ろしい限りだ。
八尋 だから再犯防止対策が急ピッチで進んでいる。
6月から法務省が警察庁に、性犯罪者の出所情報を提供することなどが検討されている。
秋谷 とにかく、今の社会の焦点は「防犯」だ。
政治も、行政も、犯罪防止へ果断に措置を講じてもらいたい。
原田 悪事を働いても「悪いことをした」と思わない。「反省のない」世の中なんだ。
今こそ政治家は国民の安全を第一に考えていくべきだ。
「断罪」から20年
西 ところで「反省がない」といえば、極悪ペテン師の山崎正友だ。
何しろ恐喝で懲役3年の実刑。そのくせ自分が悪いことをしたという反省が全くない。
出所後に自分で書いた本の中でムショ帰りの前科一犯≠ネどと売り物にしていたくらいだ。
杉山 今年は、あの恐喝事件で、東京地裁が山崎を断罪して満20年になる(昭和60年3月26日)。
青木 早いものだな。
西 あの裁判で山崎は木っ端微塵に断罪された。
4年間75回に及ぶ公判の末、裁判長から鉄槌が下された。
八尋 今では、あまりにも有名になったが、判決は山崎を、こう断罪している。
「被告人(=山崎)は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど全く反省の態度が見られない」。
山崎という男を知るうえで重大な判決だ。
重要判例
西 そのほか判決では「(山崎の供述に)矛盾が生ずるのは、その供述が虚構を重ねたものであることに起因する」
「偶々手許にあった証拠物を利用して虚構の弁解を作出している上、被告人の供述には全く虚構と認められるところが多い」と鋭く指摘。
杉山 「事実と明らかに矛盾するため、これを糊塗すべく、虚構の事実を述べているものと認められる」
西 「犯情が悪く、被告人の罪責は重大」とも断罪された。
杉山 ほかにも「余りに不自然であり信用し難い」「とうてい信用できない」等々、何と50回以上にもわたってウソつき≠ニ断罪している。
西 それに加えて「執行猶予なし」。「懲役3年」の実刑判決。
情状酌量≠フ余地など、まったくない。厳然たる判断だった。
杉山 この東京地裁の判決は法律専門誌の『判例時報』(1160号)にも重要判例≠ニして収録されている。これも有名だ。
青木 法律家のテキストになるほどの判決だった。希代のインチキ性、大ウソつきの正体が後世に厳しく刻印されることになった。
オレは冤罪だ?
八尋 その後、昭和63年の東京高裁判決も、平成3年の最高裁判決も、すべて第1審判決を支持し、山崎の有罪の実刑判決が確定。山崎は刑務所に送られたんだ。
西 ところが山崎は、恐喝で逮捕、断罪されたことが、悔しくてしょうがない。認めたくない。それで、いまだに大ウソをついている。
原田 その通りだ。20年後の今にいたるまで恐喝はなかった∞冤罪(えんざい)だ、冤罪だ∞「再審請求」する≠ネんて、さんざん言いふらしてきた(大笑い)。
八尋 再審制度というのは、刑事事件で有罪の判決を受けて確定した事件について、もう一度、裁判の請求ができる制度だ。
当然、よほどの重要な証拠が出てこなければ、認められない。その条件は、きわめて厳しい。
青木 結局、山崎は、この20年間、一度たりとも「再審請求」なんかできなかった。
秋谷 それ自体が「恐喝をやった」という何よりの証拠じゃないか(笑い)。
(2005. 4.18. 聖教新聞)