「ちょっとあんた! どうにかしなさいよっ!」
 そんな怒声と共に腹を蹴られたのは、サンジに蹴られて夜の海を泳いでから三日経った日の午後だった。
 かけられた言葉と与えられた衝撃にゆっくりと目を開ければ、そこには眦を吊り上げ、高くて細いヒールの踵をゾロの腹にめり込ませたナミの姿があった。
「……どうにかってのは、なんだ」
「あんたとサンジ君の仲よっ! 喧嘩してるんでしょ? いい加減謝って仲直りしなさい!」
 決めつけるように発せられた言葉に、ゾロは眉間に深い皺を刻み込んだ。
 確かに、この数日間の自分とサンジの間には険悪な空気が漂っている。というのも、蹴られた翌日からサンジのゾロに対する当たりが厳しくなったのだ。
 目が合うたびに睨み付けられる。
 話しかけようとしたら殺気立たれる。
 そんな態度に出られてのほほんとしていられる程人が良くないゾロも、対抗して睨み返し、殺気を返していた。
 お陰でメリー号の中は今現在、何とも言えない空気が漂っているのだ。
 だが、そんな空気を気にするようなクルー達ではあるまい。以前は良くある事だったのだから。
 そう思い、うろんな眼差しでナミの顔を見上げると、彼女は馬鹿に仕切った瞳を寄越してきた。
「私たちだけなら良いわよ、それでも。いつものことだって適当に流していられるわよ。でもね、今はセイとリョクが居るのよ? あの子達にこの険悪な空気は毒なのよ。分かる? 最近あの子達の顔から笑顔が消えてるわよ。あんたらのせいで!」
「ぁ〜〜…………」
 びしっと指先を突きつけられながら言われた言葉に、ゾロは気の抜けた声を発した。確かに、それはそうだなと思って。
 だが、納得出来ないモノもある。
「………なんでオレに言うんだよ。ガキの事が関係してるんなら、クソコックに言えばいいじゃねーか」
「喧嘩の原因はアンタでしょ? だからよ」
「………なんでだよ」
「サンジ君がわざわざアンタに喧嘩ふっかけるわけ無いでしょ。忙しいんだから」
 その理屈はなんなんだと言いたくなったが、的はずれな意見でもないのでグッと押し黙った。
 昔のサンジだったら忙しくてもストレス発散のつもりなのか、ゾロに下らないいちゃもんを付けて来て、ただの罵り合いを殺し合いかと思うような喧嘩に発展させたりしていたが、今のサンジはそんな素振りを欠片も見せない。皮肉な言葉を投げかけては来るが、それだけだ。足を出すことは無い。再会してから彼が自分に出した足は、この間の一蹴りだけだ。
 それを考えると確かに、先日のあれは自分がふっかけた喧嘩な気がしてきた。気がしてきたが、実際の所はそうではないはずだ。突然向こうが切れたのだから。いや、昔に比べて穏やかになったサンジが突然切れたと言うことは、自分が怒らせるような事を言ったと言うことだから、やはり自分が悪いと言うことなのだろうか。
 グルグルと、胸中で答えが出ない問いかけを続けていたゾロだったが、サンジが怒った原因が分からないので謝りようもない。原因が分からないのに軽々しく謝ったりするなんてこと、絶対にしたくない。
 ムッと顔を顰めて考え込んだゾロの事をどう思ったのだろうか。ナミがニッと口端を引き上げた。そして、腹の上に置いたままのヒールの踵でゾロの腹をえぐりながら言葉を続けてくる。
「良いこと、早急にサンジ君に謝って。明日までにこの嫌な空気が無くなってなかったら、借金倍増するからね! 自分の首を売っても払いきれなくなるわよ!」
 それだけ告げ、ナミはさっさと踵を返していった。そんなナミの背中を見送りながら、小さく舌を打つ。なんで自分ばかりがそんな命令をされねばならないのだと。
 そう思いつつも、ゾロはのそりと起きあがった。とりあえず、敵の様子を見に行こうかと思って。
 ドカドカと甲板を踏みならして足を運び、キッチンへと向かう。だが、その足を途中で止めた。キッチンに続く階段の下段で、リョクがボンヤリと空を見上げているのを目にして。
 その様は、リストラされてやるべき事を見失った中年オヤジに似ている。まだまだ人生これからという年齢にもかかわらず。
 ゾロは眉間に深い皺を刻み込んだ。そして、ゆっくりとリョクの元に歩み寄る。
「おい、くそガキ」
 リョクの前に影を作るようにして立ち止まると、彼はチラリと瞳を向けてきた。その緑色の相貌を覗き込みながら、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。
「暇そうだな」
「人のこと言えんのかよ」
 サンジ譲りなのか、速攻で返ってきた悪態にかちんと来たが、相手は子供だ。ムキになって言い返すのは大人げない。ゾロはグッと堪えて言葉を続けた。
「今のオレの仕事はゆっくり休む事なんだよ。戦闘員だからな。で、てめーはなんだ? やることねーのか? いつもだったらコックの仕事手伝ってる時間帯だろ?」
 問いかけに、リョクは静かな瞳をゾロに向けたまま、しばし無言で居た。そして、その瞳をスッと俯けてボソリと呟く。
「ここでだったら、セイが居れば足りるから。セイの分の仕事取りたくないし」
 ということは、セイに手伝いをやらせてやる変わりに彼が暇になったということだろうか。
 麗しい兄弟愛だなと思ったが、どこかふて腐れているように感じる声に微妙な嫉妬も見て取れ、ゾロはニヤリと口角を引き上げた。
「なんだ。父親独占されて拗ねてんのか? 拗ねるぐらいなら仕事譲らなきゃ良いだろうが」
「すねてねー」
「そうか?」
 クククッと喉の奥で笑うと、リョクがギロリと睨み付けてきた。その瞳に片眉を跳ね上げた後、しゃがみ込ませていた身体をゆっくりを起こし、ザッと視線を走らせて思い思いの行動を取っているクルー達の姿を眺め見る。
 ルフィはいつも通りメリーの上に乗り、ジッと前を見つめている。
 ウソップは甲板の隅で妖しげなモノを作り、チョッパーは先日手に入れたばかりの医学書を読んでいた。
 ロビンはミカン畑の前にしつらえたパラソルの下で本を読み、ナミは自室で海図でも書いているところだろう。
 サンジとセイは、キッチンでおやつ作りをしているに違いない。
 皆が皆、好きなことをしている。時間を持て余しているものなど、一人も居ない。暇そうにしていても、暇ではないのだ。
 それを確認してからもう一度リョクの顔を見下ろし、自分の顔を見上げている彼に向かってゆっくりと言葉を発した。
「てめーは、何かやりたいことねーのか?」
 唐突な問いかけに、リョクはキョトンと目を丸めた。普段無表情に近い子供が見せたその年相応な表情を愛らしいなと思いながら、ゾロは言葉を続ける。
「人に譲ったって事は、コックの手伝いはそこまで真剣にやりたいことじゃねーんだろ? だったら、他にやりたいことはねーのかよ。お前には。やりたいことがあれば、ボケッとしてる暇は無くなるぜ?」
 その言葉に、リョクの瞳に力が宿った。そして、子供とは思えない強い声で言い返してくる。
「やりたいことは、ずっと前から決まってる」
「へぇ、なんだ?」
「母さんを守ること」
 キッパリと告げられた言葉に、ゾロは相づちを打つことが出来なかった。
 全く予想していなかった言葉なので。
「――――母親を?」
「うん。オレ達のせいで、母さんはずっと大変な思いしてたから。だから、もうそんな思いさせないためにも、どんなときでもオレが母さんを守ってやるって、決めてる」
「そう………なのか?」
 殆ど与えられていない子供達の母親の情報を聞き、ゾロはどう返して良いのか迷った。
 大変な思いというのはどんなことなのだとか、その時サンジはどうしていたのだとか、問いかけたい言葉は多々あったが、リョクの真剣な表情をみていたらそんな言葉を発する事が出来なかった。
 そんなゾロの胸の内になど気付いていないのだろう。リョクは言葉を続けてきた。
「うん。母さんはなんて事無いって言ってるけど、そんなものは苦労でもなんでも無いって言ってるけど、そんなこと無いと思うから。だからオレは、何があっても母さんを守れる強い男になりたい。それが、オレのやりたいこと。オレだけじゃなくて、セイも同じ考えだけど」
 そうきっぱりとした声で告げたリョクだったが、その後すぐに困惑したような表情を浮かべた。
「でも、どうしたら強くなれるのかわかんないんだ」
 呻くように、途方にくれたように呟くリョクの姿を、ジッと見つめる。
 何か言ってやりたいと思うのに、何を言えば良いのか分からなくて。
「セイは決めた。セイとは同じ道を行きたくないから、オレは別なモノを見つけないといけないと思ってる。でも、他に何があるのかわかんないから………」
 語尾を濁して黙り込んだリョクは、踵で軽く床を蹴った。
 セイが選んだ道は、サンジと同じ道だろう。コックになること、足技をマスターすること。
 積極的にサンジに教えを請う姿を見ていれば、嫌でも分かることだ。
 セイとリョクが知っている大人は、今まではサンジだけだったのだろう。他の生き方を知らないから、他の選択が出来ないのだ。
 だったら、色々見せてやれば良いのだろう。コック以外の道を。
 幸いにも、この船に乗っている者達は皆違う特技を持っている。
 子供達が船に乗り込んでからコレまでの間平穏に航海が進んでいるので、子供達はその力の程を分かっていないようだが。その能力は広いグランドラインの中でもトップクラスだろうと思う。
 それらに触れれば、進むべき道を迷っている少年にも見えてくるモノがあるのではないだろうか。ナミの航海術やロビンの考古学は実質的な力にならないから彼は望まないかも知れないが。
 チョッパーの医術はどうだろうか。「守る力」としては、有効だと思うのだが。
 ルフィの戦い方は真似出来ないから参考にはならないだろう。あの心意気は見習うべきものがあるが。
 ウソップから射撃を学ぶのも良いかも知れない。そう思ったが、彼が銃を持って戦う姿はなんとなく想像つかなかった。
 自分とそっくりな容姿をしているからかも知れない。
「――――じゃあ、剣を持ってみるか?」
「え?」
 少年に、と言うよりも、自分に一番しっくり来る武器はそれしかないと思って発したゾロの提案に、リョクはガバリと顔を上げた。
 そこには驚きの色がありありと浮かび上がっている。
 そんなリョクに、ゾロは不敵な笑みを向けてやった。
「暇つぶしに剣の握り方くらいなら、教えてやるぜ?」
「――――本当?」
「あぁ。男に二言は無い」
「やるっ!」
 ゾロの言葉に、リョクは力強く頷いた。
 そんな少年の反応に、ゾロは軽く目を見張った。
 こんなに元気よく返事をした彼の姿は始めて見る。こんなに明るい笑顔を見るのも、始めてだ。
 こんな顔をさせたのだから、こっちも根性を入れて付き合わねばならないだろう。そう考えた所で、ふと気が付いた。
「――――そういや、竹刀も木刀も持ってねーんだよな……まずはウソップに作ってもらってからか」
「分かった。じゃあ、ウソップに頼んでくるっ!」
 言うが早いか、リョクはウソップの元へと駆け出していった。そして、驚くウソップに自分の用件を伝え始めた。
 彼が単語以外の言葉を発する様を見るのは初めてなのだろうか。ウソップは目を丸めて驚いていたが、快く引き受けていた。
 その答えに、リョクの顔がパッと輝く。
「おーおー。嬉しそうな顔しやがって」
 背後から聞こえてきた声に視線を向ければ、そこにはいつのまにキッチンから出てきたのか、ニヤニヤと、だがもの凄く嬉しそうに笑うサンジの姿があった。
 ゾロの視線を感じたのだろう。笑顔でウソップと言葉を交わしているリョクの顔を見つめていたサンジが、こちらに視線を向けてきた。そしてゆるりと、口端を引き上げる。
「俺とセイ以外の人間にあんな顔をするなんて、もの凄く珍しい事なんだぜ? やっぱあれか? マリモ族の血がなせる技か?」
「なにふざけた事いってやがんだ、てめーは」
 馬鹿にするような口調で告げられた言葉にギロリと睨み返したが、サンジは少しも気にした様子を見せずにニヤニヤと笑い続けていた。
 そのサンジの姿を見つけたらしい。リョクが笑顔で駆け寄ってきた。
「剣を教えてくれるんだってっ!」
「あぁ、良かったな」
「うんっ! オレ、頑張るからっ! 頑張って、母さん守るからっ! 絶対父さんよりも強くなって、どんなヤツからも母さんを守れるようになるからっ!」
「おう。期待しないで待ってるぜ?」
「期待しろよなっ!」
 飛びついてくるリョクを抱き留めたサンジは、リョクの広い額に口づけを落とした。
 その触れるだけの口づけにもの凄く嬉しそうに微笑んだリョクの額にもう一度口付けたサンジは、彼の身体を軽い動作で床に戻し、ミドリ色の頭をポンと軽く叩いた。
「ほら、おやつの時間だ。みんなを呼んでこい」
「うんっ!」
「レディから先だぞっ!」
「分かってるよっ!」
 サンジから指令を受けたリョクは、いつも表情らしい表情を浮かべない彼にしては珍しく、全開の笑顔で駆けていった。そんな彼の表情を見て驚くロビンとナミの顔が目に浮かぶ。
 その様を想像してほんの少しだけ口元を緩めたゾロだったが、すぐにその口元を引き締め直す。
 剣を教えるといった言葉が、それ程までに嬉しかったのだろうか。だったら、もっと前に声をかけていれば良かったなと、胸中で反省して。
 そんなゾロの傍らで同じようにリョクの背中を見送っていたサンジが、小さく笑みを零した。もの凄く、幸せそうに。愛おしそうに。
 以前メリー号に居たときには見られなかった表情だ。その表情を見ていると、なんとなく、胸の中がざわつく。見ていたくない気持ちと、見ていたい気持ちと。言い表せることが出来ない妙な気持ちが絡み合って。
 そんな複雑な思いを胸中に抱きながら、ボソリと問いかける。
「………おい」
「なんだ?」
 直ぐさま向けられた青い瞳に、続ける言葉を一瞬飲み込んだ。だが、すぐに気持ちを立て直して問いかける。
「アイツが言ってた父親ってーのは………」
 誰の事だと問おうとして、言葉を飲み込んだ。
 今の二人のやり取りを見ていたら、そんなことが些細な問題だと言うことが良く分かったので。
 喧嘩した夜にサンジが言っていたように、二人の間でその事はさして問題にはなっていない事が良く分かった。わだかまりがある人間にたいして、あんな笑顔は向けられないだろうから。
「……いや。なんでもねー」
 小さく首を振って言葉を打ち消した。そして、この間の夜のことを謝ろうと思った。彼等の事情を分かりもしないで言葉を発してしまった事を、詫びようと。
 だが、その言葉を発する前にサンジに肩を叩かれ、出鼻をくじかれた。
「――――なんだ?」
「いや、なんでもねー」
 突然の行動の意味を短く問えば、サンジはただただ微笑むだけで答えを返しては来なかった。
 だが、その笑みがこれ以上ないくらい嬉しそうで、今まで見た中で一番綺麗な笑顔で、ゾロはその場に固まってしまった。
 そんなゾロの様子を不思議そうに見つめたサンジだったが、気にしない事にしたらしい。もう一度、軽く肩を叩いてきた。
「お前も、おやつ食いに来いよ」
「ぁ………あぁ」
 かけられた言葉に誘われるようにフラリと身体を動かし、キッチンに戻るサンジの後をついていく。
 何故か高鳴る己の鼓動に、首を傾げつつ。





















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《20060121UP》









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