【32】
広い空間に響き渡った音に、その場に居た全員が驚いたのだろう。しばし沈黙が落ちた。時が止まったのではないかと錯覚するような、沈黙が。
音の正体は、リョクがサンジの頬をひっぱたいた音だ。それは、ひっぱたかれた本人であるサンジには嫌という程よく分かっている。だが、何故ひっぱたかれたのかがさっぱり分からない。
ひっぱたかれた後、しばらくの間呆然と目を見開いていた。今の状況が理解出来なくて。
だが、すぐにその瞳に怒りの炎を宿す。
「――――リョクっ! てめぇっ、親に向かってなにしやがるっ!」
「うるさいっ!」
これ以上ない程強い怒気を込めて怒鳴りつけたのだが、怒鳴られたリョクはそんな怒声に怯むことはなかった。
怯むどころか、同じくらいの強さで怒鳴り返してくる。
そんなリョクの反応に、サンジは小さく息を飲み、目を見張った。リョクが怒鳴った事に、驚いて。
感情表現が豊かなセイは年中怒鳴り返してくるが、感情の起伏を表に出さないリョクが怒鳴った事は、今まで一度も無かったのだ。
怒りが急速に消え去り、困惑が胸に沸き上がる。それと同時に、目の前の息子が心配になってきた。いったい何があったのだろうかと。
「――――リョク?」
自分の事を睨み付けてくる息子の顔をジッと見つめながら、問いかけるように名を呼んだ。
そんなサンジの声音で、自分が怒っている理由を察して貰えていないと判断したのだろう。一度ムッと口元を歪めたリョクは、大きく息を吸った後、怒りを押し殺したような声で、その胸の内にある言葉を発してきた。
「オレ達のために無茶をするなって、何度言ったら分かるんだ。もう昔みたいに助けを待つことしかできないガキじゃねーんだよ、オレ達は。自分の身くらい、自分で守れる。こんな風に、自分を犠牲にしてまで守って貰いたくないっ。そんな風にされるくらいなら、見放された方が良いっ!」
話している間にテンションが上がってきたのか。最後は叫ぶようにそう告げてきた。
その言葉に、サンジの眉尻がヘニョリと、下がる。そんな事を言われても、「じゃあ今後は見捨てるようにする」とは、言えないから。
だから、リョクの目の前にしゃがみ込み、一度目線をあわせてから、彼の身体を抱きしめる。
「そんなこと、出来るわけ無いだろ」
抗うことなく素直に腕の中に身を寄せてきたリョクの背中を、ポンポンとあやすように叩きながら声をかける。そのサンジの言葉に、リョクはかけられた言葉を否定するように首を振り、サンジの肩口に顔を埋めてきた。
「――――これ以上、母さんが傷つくのは、見たくない」
自分を気遣うような言葉に、自然と苦笑が漏れた。まだまだ年端もいかない年齢のくせに、なんでこうも親の事を気遣うのだろうかと、思って。そんな風に気遣われるような関わり合い方をしたつもりは、無いのだが。
ともかく、息子にこんな気遣いをさせたくはない。サンジは、背中を叩いていた手で後頭部を軽く小突いてやった。
「この俺がアレくらいの事で傷つくようなタマだと思ってんのか? 馬鹿息子」
「母さんは、自分が思ってる程強くない。だって……」
「だってもクソもねぇんだよ」
何かを言いかけた言葉を遮り、先程よりも強く、頭に拳を叩き込む。そして、小さな身体をギュッと抱きしめた。
「てめーの腹をかっさばいてまで産んだ子供が大変な目に合っているのを見て、放っておける程冷徹な人間じゃねぇんだよ、俺は。そんなん見るくらいなら、自分が痛い目を見た方が良いぜ」
「だからっ!」
「ポジジョン変えたきゃ、もっと強くなれ。少なくても、俺よりもな。そしたら、大人しく………でもないが、守られてやるからよ」
語尾にニッと、口端を引き上げた。端から見たら冗談を言っている様に見える態度かもしれない。だがリョクには、冗談ではなく本気で言っている事が分かったのだろう。サンジに瞳を当てたまま、しばらくの間何事か考え込んでいだ。そして、静かに頷き返す。
その無言の返答に、サンジは深い笑みをその顔に刻み込んだ。そしてポンポンと軽く、後頭部を叩く。
「――――良い子だ。さて。とっととここからずらかるぞ。ルフィが腹を減らして待ってるだろうからな」
いつもの口調で語りかけ、小さな身体を抱きしめていた手を放せば、リョクはコクリと小さく頷き返してきた。とは言え、完全に納得したわけではないようだ。顔には不平の色が浮かび上がっている。
そんな息子の様子を目にして、小さく微笑む。まだ小さい子供にここまで心配させるなんて、自分もまだまだ修行が出来ていないなと、思いながら。
そうは思うが、気遣ってくれる彼の気持ちは大変嬉しい物だった。だから、リョクの目元に軽い口づけを落とす。無言で感謝の言葉を告げるために。
言葉にならない声を聞いたのか。はたまたその接触を喜んだのか、機嫌が上向いたようだ。リョクはほんの少し、だが、普段表情を変えない彼にしてはもの凄く深く、微笑んだ。
そんなリョクの頭を軽い手つきで叩いたサンジは、その場にゆっくりと立ち上がって振り返り、今の今までその存在を忘れていた居たナミへと、視線を向けた。彼女がこの場にいた事を忘れていた事実を覚らせないように、気を付けながら。
「お待たせしました、ナミさんv 用事も片づいたことだし、こんなむさ苦しいところはさっさと出て……」
行きましょう、と続けようとした言葉は、口の中に飲み込まれた。
ゾロとナミが、呆然とした顔で自分の事を見つめているのに、気が付いて。
「――――ナミさん? どうしたの?」
問いかけながら、二人にそんな顔で見つめられる程のおかしな行動をとっただろうかと、首を捻る。
いや、おかしなモノを見せてしまいはした。それは十分に良く分かっている。だが、それにしては反応が遅い。ソレに反応するのならば、もっと早い段階で反応しても良さそうな物だが。
そもそも、ゾロまでそんな顔をする意味が分からない。
いったいなんなんだろかと首を傾げたところで、ナミが呆然とした口調で呟いた。
「――――腹をかっさばいて、産んだって…………?」
その呟きに、サンジの身体はピキリと音をたてて固まった。だが、すぐにその強張りを解き、いつもの調子で言葉を返す。
「やだなぁ、ナミさん。そんな事言ってねぇよ?」
「ウソよっ! 今しっかり聞いたわよっ! リョクだって、サンジ君の事、『母さん』って言ってたわっ! そうでしょ、リョクっ!」
ナミが同意を求めるようにリョクへと視線を向けたが、彼はナミの言葉に応えようとはせず、困ったと言いたげに眉間に皺を寄せ、サンジの顔を見上げてきた。
サンジが否と言っているので、どう答えて良い物か迷っているのだろう。そんな彼には下手に口を開かせない方が良い。
そう判断し、サンジは息子が口を開く前に言葉を発した。
「状況が状況だから、混乱してるだけだよ。男の俺がガキを産めるわけないだろ?」
いつもと全く変わらぬにこやかな笑顔でそう返したサンジは、隣に立つリョクの手を引いてさっさと歩き出した。
「とにかく、早く帰ろうぜ。今日は良い食材を仕入れたんだ。迷惑かけたお詫びにいつも以上に腕をふるうから、楽しみにしててくれよ」
とにかくさっさと日常に戻ろうとそう言葉を発したのだが、その言葉で今まで黙っていたゾロの怒りに火が点いたらしい。もの凄い形相で睨み付けてきた。
「おい、クソコックっ! 少しは真面目に話を聞けっ!」
さっさと歩き出したサンジの背に、ゾロの怒りが露わになった声がかけられた。
そして、歩くたびに左右に跳ねる長い髪を力任せに引っ張ってくる。
どうやら口で言っても聞かないと判断し、実力行使に出たらしい。そんな彼の行動に腹が立ち、ギッと眦を吊り上げたサンジは直ぐさま振り返り、ゾロに向けて怒声を発した。
「ってーなっ! 馬鹿力っ! 俺が剥げたらどう………」
怒鳴り声に被さるように、銃声が一つ轟いた。
と、思ったら、髪を引っ張られていた力が急激に失せる。
自然と足が、数歩下がった。
何が起こったのか分からず、呆然と目を見張ったところで、気が付いた。
頭が妙に軽くなった事に。
そして、顔の横でサラリと髪が揺れる気配を感じ取る。
思わず髪の毛に手を伸ばすと、その指先に短い金糸がサラリと流れていった。
肩口で切れるくらいに、短い金糸が。
「あ………」
呆然と、声を発した。
あるはずのモノが無いことに、驚いて。
その瞬間。
「キャーーーーーーっ!」
甲高い悲鳴が室内に響き渡った。
そして、何かがもの凄い勢いで部屋の中を横切る。
慌ててソレが移動した先へと視線を向けてみれば、そこにはこれ以上無いほど眦を吊り上げたセイの姿があった。
そのセイが、最後の力を振り絞って引き金を引いたのだろうデブを、凄まじい勢いで蹴り上げている。
「てめっ! なんて事しやがるっ! 母さんの髪を、あんなに綺麗な母さんの髪を切りやがってーーーーーっ!」
小さい身体に似合わない怒声を発しながら既にボロボロになっていたデブ男を何度も何度も蹴り上げる。辺りに血飛沫が飛び散る程の勢いで。飛び散っているのは、血飛沫だけではないだろうが。
デブ男は早々に気絶したらしい。ピクリとも動こうとしない。それでもセイの気が済まないらしい。蹴り上げる力がますます強くなった。
「母さんに触った事だけでももう、許されない事なのにっ、さらに許されないことをしやがって………殺す。絶対に殺すっ! てめーだけはっ、キッチリこの手で下ろしてやるーーーっ!」
「ちょっ……セイッ! 落ち着けっ!」
あまりのキレっぷりに呆然とセイが暴れる様を見ていたが、そんな場合ではないと気づいた。このままでは幼い我が子が人殺しになってしまう。海賊船に乗っているのだ。いつかはそんな日も来るだろうが、さすがにまだ早い。というか、こんな理由でキレて人を殺すなんて事は、可愛い子供にはさせたくない。
そう考え、慌ててセイに駆け寄った。そして、暴れる子供を羽交い締めにしてその動きを押しとどめる。
「落ちつけって、セイっ!」
「落ち着けるかっ!」
「それでも落ち着けっ!」
「出来るかよっ!」
「仕方ねぇ……ゾロッ!」
「おう」
傍らに歩み寄ってきていたゾロに声をかけると、彼は心得たと言わんばかりにセイの前へと回り、その腹に拳を叩き込んだ。
「ぐっ……」
小さく息を吐いたセイがクタリと崩れ落ちる。その身体を抱え直したサンジは、深々と息を吐き出した。我が子の暴走がようやく収まったことに、安堵して。
そして、怖ず怖ずと首を動かし、これ以上言い逃れは出来ないと言いたげな瞳で睨み付けてくるナミへと、力無い笑みを浮かべて返した。
「――――船に戻ったら、お話します」
観念して漏らした言葉に、ナミが小さく頷き返してきた事で、この場は一応収まりを見せたのだった。
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《20071115》