《2》
始めて立ち寄った港町を、ゾロはなんの目的もなくフラフラ歩いていた。
名前も顔も知れ渡ったため、下手に町を歩くといらぬ騒動を引き起こしかねない。だから、必要以上に陸地をうろつくなとしつこいくらいに言い聞かせられているのだが、ナミの言うことなど聞いていられない。メリー号に比べたら格段に広いサニー号ではあるが、陸地に接岸しているときまで乗っていたいほど広々としても居ないので。
いや、広さの問題ではない。船に乗っていると、しつこく絡みついてくる女が居るのだ。
ナミやロビンではない。数ヶ月前に暴漢に襲われていたところを救ってやったせいで惚れられ、船に乗り込んできた女が居るのだ。
一般人は怖がって近づかない自分に平気な顔で近づき、好意を示してくるその根性は、認める。だが、正直鬱陶しい。鍛錬の邪魔にならないよう気を遣っているのだろう。ゾロが何かをしているときには必要以上に近づいてこないのだが、ちょっとでも隙を見せるとここぞとばかりに近づいてくるのだ。そして、べらべらとしゃべり出す。自分のことや、その日目撃したクルーの失敗談などを、楽しそうに。
そして、ゾロの事をあれこれと聞き出そうとしてくる。
それが、鬱陶しくてならない。真剣に耳を傾けているわけではないが、女が発してくる言葉の端々から、死んだ男の事を思い出してしまうから。
今はもう居ない、この船のコックのことを。
思い出したくないわけではない。女が居なくても、毎日必ずその存在を思い出すのだ。思い出すどころか、彼が死んでから何年も経つのに、その存在をリアルに思い浮かべることも出来る。まるで本当にそこに立っているかのように幻影を見ることだってあるし、目覚める瞬間には自分を起こす彼の声を聞くことすらある。
だからサンジを思い出す事は別に嫌ではない。女が自分につきまとってくる事によって、女が問いかけてくる様々な言葉によって、彼がこの世に居ないのだと言うことを痛感するのが嫌なのだ。
それだけではない。女が乗り込んでくるまでは当番制だった食事の支度を、今は女が一手に引き受けている。それが何よりも、気にくわない。
別に最初からコックとして乗り込んできたわけではない。戦闘に参加することも出来ず、船の航行に必要な知識を一切持っていない彼女が唯一出来る事だったからやるようになっただけで。だが、サンジの場所を浸食されているようで、もの凄く不快に思う。
料理を担当するようになったからか、買い出しも女が担当するようになった。その際、男のクルーが誰かしら付き合うことになっている。荷物持ちと、食材の購入量のアドバイスに。
だが、ゾロが付き合ったことは一度もない。その事をとがめてくる者も居ない。女だけが不満そうな顔をするだけで、昔からのクルーは一切文句を言ってこない。女がゾロを誘いかけたら、自分から荷物持ちを買って出てくれるほどだ。
気を遣われているのだろうと、思う。
女が来るまではそんな気の遣われ方をしたことはなかったのだが。
深く、息を吐き出した。嫌な気分になりがちな思考を、吐き出すために。そしてザッと、辺りを見回す。
何となく人の流れに乗って歩いているのだが、その流れの中にいる人達の表情は、明るい。
平和な島なのだろう。のんびりとした空気は心地よいものだった。初夏を思わせる陽気も、心地よさに拍車をかけているのかも知れない。
ここで船を下りようか。
女が船に乗り込んで以来、島に上陸する度に思う事を胸中で呟く。
すごしやすかったはずの船に戻ることが、今はもの凄く億劫になっている。だから、帰ろうと思ってもなかなか船に帰り着くことが出来なくなっているのだろう。昔から帰るのには時間がかかるのだが、ここ数ヶ月はそれ以上に時間がかかるようになっている。思えば、サンジがいた頃が一番早く船に帰り着けていたかも知れない。もしかしたら、届いていたとは認識できなかったが、彼が作る料理の臭いに誘われていたのかも知れない。
そんなことを考えながらぼんやりと通りを歩いていたゾロは、人の賑わいが大きくなったことに気づいて足を止めた。どうやら市場に足を踏み入れたらしい。気づけばそこかしこに簡易的なテントが広げられ、様々な食材や雑貨が並べられていた。
大きく舌を打つ。市場は避けておこうと思っていたことを、思い出して。市場には、女が居る可能性が高いのだ。
早々に離れておこう。
瞬時にそう判断し、止まっていた足を一歩引いた。途端に、横合いから声をかけられた。
「ゾロっ!」
喜色の滲む声で呼ばれ、思い切り眉間に皺を寄せた。一番会いたくない女の声だったから。
声をかけられて無視するのは感じが良くないとは思ったが、別に彼女の顔を見たわけではない。気づかなかったふりをしてさっさとこの場を立ち去ろうと思ったのだが、ゾロの考えたことを読んだのか。女は人の間を縫うようにして駆け寄り、ゾロの腕をつかみ取ってきた。
「こんなところで会えるなんて、運命感じちゃうわ! ゾロもそうでしょ?」
掴んだ腕に自分の腕を絡めるようにしながら喜々として問い掛けてきた女は、ゾロの顔をのぞき込むようにして軽く首を傾けてきた。その動きにあわせて、背中に流れていた茶色い真っ直ぐな髪がサラリと流れる。
向けられた緑がかった茶色い瞳は、きらきらと輝いている。薄く色づけされた唇は笑みの形に引き上げられ、女が心の底からゾロと出会えたことを喜んでいる事が分かった。
だが、ゾロは全く嬉しくない。それどころか不愉快に思う。女に向ける眼差しは、自然と冷たいものになった。殺気は含ませては居ないが、不愉快だと言うことは誰が見ても分かる眼差しだろうと思う。
現に、女はビクリと大きく身体を震わせた。一瞬腕が離れかけたが、すぐに力を入れ直される。まるで、負けまいとするかのように。
そして、顔色を青ざめさせながらも笑顔を浮かべ、わざとらしいほど高いテンションで言葉をかけてくる。
「買い物まだなのよ。荷物持ちしてくれない?」
「―――ウソップが居るだろうが」
「断ったわ。今頃自分の買い物をしてるんじゃないかしら」
サクリと告げられた言葉に、鋭い眼差しを向ける。ウソップを断ったのなら、何故自分に声をかけるのだと、思いながら。
口にしなかった言葉を読み取ったのだろう。女は多少引きつった笑みを浮かべつつ、言葉を返してくる。
「ログがたまるのに二週間かかるって言うから、下見だけしようと思って色々見てたんだけど、結構安くて良さそうな物がたくさんあったから、今日の夕食分に色々買っていきたくなったのよ」
「―――自分で持てる範囲で買えばいいだろ」
引きつった笑顔で、どこか必死な感じに説明してくる女に、ゾロは冷たく言い放った。そしてさっさと足を動かし出したのだが、女は絡めたままの腕に力を込め、ゾロの動きを制してくる。
「私が持てる範囲の買い物量なんて、夕食にたりないの。ね、お願い。手伝ってよ」
「夕食までには時間がある。何度も行き来すればいいだろうが」
「そんなっ……!」
冷え切った眼差しで女の顔を見つめながらサクリと告げれば、女の顔は泣きそうに歪んだ。そして、すがるような眼差しを向けてくる。
「―――なんで、そんな冷たいことを言うの? 私のこと、嫌い?」
からみつけた腕に豊かな胸を押しつけ、胸の谷間を見せつけるようにしながら問いかけてくる女の態度に、元々寄っていた眉間の皺がより一層深くなった。
女の身体を武器にすれば男はほいほいと言うことを聞くと思っているのだろうその態度が、不愉快でたまらなくなって。
「ねぇ、ゾロ?」
濡れた瞳で見上げながら、更に身体を密着させてくる。無理矢理にでもこちらの肉欲を誘おうとするかのように、指先が腕を撫で上げてきた。
女がここまであからさまな行動をしてきたことは、今まで一度もなかったのだが。いったいどういう心境の変化だろうか。この間冷たくあしらわれたことで脈がないことを痛感し、焦りだしたのだろうか。いや、もしかしたら、その後ナミに抱きしめられている様を見たのかもしれない。ただの仲間のような顔をしていながらも、ナミと肉体関係があるのかもと疑ったのかも知れない。それで嫉妬して、こんな行動に出たのか。
なんにしろ、迷惑この上ない。丁度島に着いていることだし、いい加減その存在が鬱陶しくなってきたことだし。ここらで完全に突き放してしまった方が良いかもしれない。今まではルフィが乗船する許可を与えた人間だからと遠慮し、好きなようにさせてきたが、これから先こんな事が続くようなら自分が船を下りたくて仕方なくなるだろうし。と言うか、既にもうそうなっているし。
よし。そうしよう。
絡みついてくる体温に不快感が高まったことでそう決定を下したゾロは、その腕を振り払おうと僅かに身体を動かした。
だがすぐに、動きを止める。
視界の端に引っかかった物に、心を引かれて。
慌てて視線を向ければ、そこには金色の髪の男が立っていた。
どうやら野菜を買いに来ているらしい。簡易的なテントの下で野菜が並べられた店先で商品を手に取りながら、店主の男と談笑している。
こちらに向けられているのは、顔の左側。その顔の中程までが長い金色の髪に覆われているため、その顔は見えない。口元に薄く笑みが浮かべられている事しか、わからない。
ゾロの足は、自然と動いていた。そうしようと思ったわけではないのに、絡みついていた女の腕を乱暴な所作で振り払う。
「―――ゾロっ!」
傷ついたと言わんばかりの声で名を呼ばれたが、どうでも良い。あんな、仲間だと認めても居ない女が傷つこうが泣き出そうがわめき出そうが知ったことではないので。
それよりも、視線の先に居る男だ。
あの明るい金色の髪。白い肌。
上陸する度に似たような特徴を持つ男に視線を奪われてきたが、似たような、どころではない。記憶にあるモノと酷似している。
走り出したくなる気持ちを必死に押さえ、それでも大股で歩み寄り、思っていたよりも細い肩に手を置いた。そしてそのまま、力を込める。強引にこちらに顔を向かせるために。
「おわっ!」
油断していたのだろう。驚きの声を上げた男の身体は、簡単にこちらをむいた。軽くよろめいた身体を肩を掴んでいた手で支え、向けられた顔をマジマジと見つめる。
驚きを示すように大きく見開かれたたれ目がちの瞳は、南国の海のように真っ青だ。
サラリとした手触りの良さそうな金髪は短めに切られていたが、顔の左反面だけは長く、片目を人目にさらさないようになっている。
白い肌は、日の光を浴びてより一層白く見える。目に痛いくらいに。
着古されているのだろう、多少色落ちしている黒いTシャツの下の身体は、細い。だが、触れている肩にはしっかりとした筋肉を感じる。むき出しになっている細い腕にも、しっかりとした筋肉が見える。
細身のジーパンに包まれている足は、長くて細い。
「―――なんだよ、てめぇ」
マジマジと見つめるゾロの視線を受けて、驚きに見張られていた瞳がスッと細くなった。
警戒の色と、殺気がない交ぜになった瞳は鋭い。その足下からもじわじわと殺気がわき上がってきていることに気づき、身体が震えた。
歓喜に。
その表情も、殺気も、声も。
記憶にある物と変わらない。
似ているなんて言葉では片付けられないほどに、変わらない。
自然と、表情が綻んだ。
こんな風に頬が緩んだことは、この数年なかった。
サンジが死んだと思ってから。彼の身体を海に流してから、一度もなかった。
ゾロが笑わなくなったとクルー達が心配し、色々と楽しいことと見つけてきては自分を誘ってくれ、面白い話を仕入れては話してくれていたが、それでも少しも笑えなかったのに。
お前は凄いな。
その姿を見せただけで、俺を笑わせられるなんて。
そんなことを胸中で呟きながら、ゆっくりと口を開いた。
男の名前を、告げるために。
「―――サンジ」
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《20070705》