《4》
さして迷う事もなく船に辿り着いたゾロは、真っ直ぐにラウンジへと向かった。
未だに目を覚まさないサンジの身体を、ゆっくりと、起こさないように慎重に、ソファーへと横たわらせる。そしてじっくりと、瞼を閉じた男の顔を眺め見た。
別れたときと少しも変わりない、とは言わない。それなりに長い年月が経過している分、年をとった印象はある。それでも、変わりないと思う。
手を伸ばし、サラリとした頭髪を撫でてみれば、その感触も間違いなく、記憶にあるモノだった。今は閉じられている瞼の下にある瞳の色も、向けられた怒声と殺気も、間違いなくサンジのモノだ。
生きていた。
何故かは分からないが、生きていたのだ。
死んでなんか、いなかった。
あの時海に流さなければ、こんなに長い間離れていなくても良かったのだろうか。
良かったのだろう。だって彼は、生きていたのだから。
ギリリと、奥歯を噛みしめた。何故あの時、腐り果てて骨になっても自分の側から放さないと、言わなかったのだろうかと思って。
いや、言わなかった理由は分かっている。サンジが死んだ事実を認めたくなかったのだ。遺体さえ無ければ、ちょっと船を降りているだけだと思えると、思ったのだ。
だが、今度は絶対に放しはしない。例え本当に死んだとしても。例えサンジが、自分の死体は海に流せと遺言を残していたとしても。
「――――お前は、俺のもんだ」
だから、その身体は海にだってくれてやるモノか。
もう、二度と。
そんな決意をしつつ、眠り続けている男の頭を撫で続ける。目を覚ましたらしばらく触らせて貰えない事は、分かっているので。
「ちょっと、ゾロっ!」
たたき割る勢いで開かれたドアの向こうから、聞き慣れた女の怒声が響き渡った。
その声が誰のモノかは、すぐに分かった。今日はどこぞの高級ホテルに泊まると言っていた彼女が船に帰ってくるのはおかしいなと、思ったが。だが、振り向く事はしないでおく。見慣れた女の顔よりも、今はサンジの顔を見ていたかったので。
そんなゾロの態度に腹が立ったのだろう。ドアの所に立っていた女の全身から、殺気が迸った。
「無視してんじゃないわよっ! レイナから聞いたわよっ! 市場で人を攫ってきたんですってねっ! どういうつもりよ、あんたっ!」
ガツガツとヒールの音を立てながら歩み寄りながら、女が怒鳴り続けてくる。その言葉に、あぁと、小さく頷いた。女が船に戻ってきた理由が分かって。
ゾロに何を言ってもらちがあかないと判断したあの女が、ゾロに言うことを聞かせられそうなこの女にチクリに行ったのだろう。
本当に、小賢しい真似をする女だ。
とは言え、そんな小賢しさが今回はありがたい。自分一人では怒れるサンジを取りなすのに時間が掛かるだろうが、サンジは病的なまでに女好きな男だ。女が一人いたら、怒りを静めるのも早くなるだろう。
彼の気に入りであるこの女がいれば、より一層。
「ちょっと、ゾロっ! 聞いてるのっ?!」
「そんだけでかい声で怒鳴られたら聞こえるに決まってんだろうが」
「だったら私の質問に答えなさいよっ!」
ガンッと、鋭い音が室内に響いた。女が高いヒールで床板を蹴ったらしい。
あの女からどういう説明を受けたのかは分からないが、その怒りは相当深いようだ。
深々と息を吐き出した。サンジの機嫌を直す前に、この女の機嫌を直さないといけないのかと思うと、面倒くさくて。
「別に人を攫ってきてなんかいねぇよ」
「嘘つくんじゃないわよっ! レイナが見たって言ってるのよ?!」
「俺よりも、あんな奴の言葉を信じるってーのか? てめぇは?」
糾弾する声に微かな苛立ちを感じ、軽く殺気を放ちながら視線を向ければ、女はグッと口を噤んだ。ゾロの殺気に当てられてなのか、ゾロの言葉に反論が出来なかったのかは、分からないが。
そんな女の顔を暫し見つめた後、軽く顎をしゃくった。ソファに横たわった男を示すように。
ゾロの仕草で、そこに人が居る事に気付いたらしい。女は――――ナミは、ハッと息を飲んだ後、慌てた仕草で視線をソファで眠るサンジへと、向けた。そして直ぐさま、大きく目を見開く。
思わずと言った様子で、ゾロへと視線を向けた。だがすぐにサンジへと視線を戻し、よろけるような足取りで近づいてくる。
食い入るようにサンジの顔を見つめるナミの瞳に、ジワリと、涙が浮かび上がってきた。
そんなナミに場所を譲るように身体を動かせば、ナミはサンジの顔の横にガクリと、崩れ落ちるように膝をついた。そしてゆっくりと、金色に輝く丸い頭に手を伸ばす。
感触を確かめるように、震える手が何度も動かされた。サラリとした頭髪を撫でる為に。白い頬を、撫でる為に。
「――――なによ、これ。良くできた、そっくりさん?」
「そんなモノを俺が連れてくるわけねぇだろうが」
震える声で問いかけて来たナミに、きっぱりと告げる。
例え何があろうとも、サンジを間違える事は絶対にしないと、自信を持って言えるから。例え目が見えなくなっても、鼻が効かなくなっても、耳が聞こえなくなっても。サンジがどう様変わりしていようとも。サンジがサンジで居さえすれば、自分は絶対に間違えない。
普段のナミだったら、ゾロがどれだけ自信を持って発言した言葉にも一言二言返してくるのだが、今回は全面的に信用する気になったのか。はたまた、憎まれ口を一つも叩けない程ビックリしていたのか、素直に頷き返してきた。
「他のみんなには、言ったの?」
「いや。真っ直ぐ帰ってきたから」
「そう。じゃあ、すぐに呼びに行かなきゃねっ! レイナ、すぐにみんなを呼び戻してきてっ!」
ゾロの言葉を受け、ニッコリと満面の笑みを浮かべたナミは、その場に膝をついた姿勢のまま、背後に視線を向け、頼み事を口にした。
いや、頼み事と言うよりも命令と言った方が良いだろう。それくらい、有無を言わさぬ口調だった。
その声に吊られて視線を向ければ、ドアの所に立ち尽くしている女の姿があった。ナミにチクリに行った、女の姿が。
「え………」
女の口から、とまどいの声が上がった。まさかそんな事を言われるとは思っていなかったのだろう。普段は媚びるようにナミの言う事を良く聞いている女が、頷く事もせずにその場に立ち尽くしていた。
ナミ程の女だ。相手が何に困惑しているのか分かっているだろう。にもかかわらず、その場に立ちつくしている女に向かってなんの説明もなく笑顔で、先程告げた命令を、再度口にする。
「すぐにみんなを呼び戻してきて。一人残らず。全員を呼び戻すまで帰ってこないで頂戴」
有無を言わせぬ口調でそう告げたナミは、軽く顎をしゃくって女に行動を促した。これ以上同じ事は口にしないと言わんばかりに。
そこまでされてこの場に留まる事は出来なかったのだろう。なにしろ、ナミはこの船の影の支配者だ。彼女に逆らう事など、船長であるルフィだって滅多な事ではしない。女は、転げそうになる程慌ててその場から駆け出していった。
女が船から降りる気配を窺っていたのだろう。ドアを見つめたまましばらくの間動きを止めていたナミは、女の気配が船から無くなったところでフッと、息を吐き出した。そして、ゆっくりとした動作でサンジへと視線を戻し、眠り続ける男の顔を眺める。
その瞳には、喜びと安堵と慈愛が満ちあふれている様に見えた。慈愛なんて言葉は、ナミにはほど遠いものだと思うのだが。
チラリと、ナミの視線が動いた。ゾロの方へと。
なんだと首を傾げれば、ナミはニコリと、笑い返してくる。
そして短く、告げてきた。
「良かったわね」
何が、とは言わなかった。ゾロも、問いかける事はしなかった。ナミが何を言いたいのか、なんとなく分かったから。
だから、ゆっくりと口端を吊り上げて返す。目元も、ほんの少し緩んだかも知れない。
仲間に見せる、数年ぶりの笑みだ。
ナミの瞳に、ジワリと涙が浮かび上がってきた。と思ったら、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちてくる。
そんな自分が恥ずかしくなったのか、プイッと顔を背けたナミは、乱暴な仕草で目元を拭った後、サンジの顔をジッと見つめた。そして、微かに濡れているけれども明るく弾んでもいる声で、言葉を発した。
「みんなが来るまでに目を覚ますかしらね、サンジ君。ルフィよりも先にサンジ君にお帰りって言ったら、怒られるかしら」
「さぁな。まぁ、心配なら起きたところでまた一発入れて眠らせりゃいいんじゃねぇの?」
「――――最低」
ナミの質問にサラリと返せば、ギロリと睨み付けられてしまった。そんな彼女の視線に答えるように軽く肩を竦めたゾロは、視線を眠り続ける男の顔へと、向け直した。
閉じられたままの瞳と口が開き、真っ青な瞳で射抜くように睨み付け、小気味よい罵声が飛び出してくる瞬間を、楽しみにしながら。
BACK NEXT
《20090814》