《5》

 まわりりがもの凄くざわついている。
 寝ている自分のすぐ側に、誰かが居るのではないかと思う感じのざわつきっぷりだ。
 それは、一人暮らしの人間にとっては普通だったら気になって飛び起きるような現象だろう。だが、自分にとってはさして気にかかるようなことではない。
 寝ている自分のまわりがざわついているなんて事は、良くある事だから。
 なにしろ自分の住処は、貧乏人が密集して生活している、壁が薄い上に部屋が狭いと言う建物の中にあるのだ。隣の部屋から聞こえる会話が、自分の部屋から聞こえている気がするなんて事は、しょっちゅうある。うるさくない事の方が少ないくらいだ。ここで生活し始めてから、自室にいて静かだと思ったことは皆無だと言い切れる。
 一番栄えている商業地域からは離れた場所にあるのだが、この辺りで生活している貧乏人のために、建物には様々な店が入っている。衣料品店も、食料品店も、酒屋も、酒場も。勿論、女性が己の身体を使って金を稼ぐ様な店もある。店だけではなく、個人で客引きをしている女性達が路地に立っている事も多い。
 だから、昼でも夜でも狭い通りには人通りが有り、静まる事はない。回りがうるさくて眠れない、等と言った細やかな神経の持ち主には、過ごせない場所だ。
 幸い、自分にはそんな細かい神経が無かったらしく、回りのざわめきのせいで不眠になるような事は一度もなかった。
 この辺りに建ち並んでいる店はどの店も、港町にある店よりもリーズナブルな値段設定になっているのだが、モノは悪い。偶に掘り出し物が出てくる事もあるのだが、滅多にある事ではないので、基本的にこの界隈では買い物をしないようにしていた。別に、そこまで金に困っているわけではないので。
 いや、この島にたどり着いた当初は金に困っていた。と言うか、無一文に等しい状態だった。だから、この部屋を選んだのだ。選んだというよりも、選んで貰ったと言った方が正しいかも知れないが。
 しかし、今はそこそこ稼げるようになっている。いつまでもこんな場所で生活している必要はない。知人達にも、いい加減街に住居を移したらどうだと言われているのだ。その方が仕事もし易かろうと。家賃は高くなるが、街にはここと比べものにならないくらい綺麗で広い部屋が沢山ある。何よりも、街の方が治安が良いからと。
 実際、この界隈では殺人事件や強盗、恐喝などが多いのだ。治安が良いとは決して言えない。
 だが、どんなに知人達が街への移住を勧めてきても、未だにこの場所で生活し続けている。
 別にここが気に入っているからと言うわけではない。住まいを移す必要性を感じていないからだ。
 この部屋は、寝るためだけの空間だから。だからベッドさえあればいい。狭かろうが周りが五月蠅かろうが関係ない。襲いかかってくる輩は倒せばいい。それよりも何よりも、引っ越しするのが面倒なのだ。
 面倒と言っても、運ぶ荷物は鞄一つか二つ分しかないのだが。
 ともかく、今の生活にはなんの不都合も感じていないので、引っ越す気は欠片もない。
 例え四六時中回りがうるさかろうと、偶に隣の部屋の奴が喧嘩の仲裁を求めて勝手に部屋に上がり込んでこようとも、女性の喘ぎ声がひっきりなしに聞こえてこようとも。たまに男同士の最中の声が聞こえてこようとも。
 そんな事を未だに浮上しきっていない意識の下でつらつらと考えながら、今朝のこの喧噪はどういう類のモノだろうかと考える。
 声は意外と近いところから聞こえてくる。と言う事は、窓の下にある細い通りから聞こえているモノではないだろう。
 隣に住むスティーブが恋人と喧嘩をしているのだろうか。昨日もしていたのに。
 そんなに喧嘩するならさっさと別れちまえと、本気で思う。大体、喧嘩の内容が下らなすぎるのだ。毎回毎回。カレーが良いと言ったのにシチューにしたとか、黒い靴下が欲しかったのに紺色にしただの。そんな下らない事で一時間も二時間も喧嘩をしたうえ、自分に仲裁を求めて来るというのはどういう事だろうか。理解出来ない。
 グイッと、肩が掴まれた。そして激しく揺すられる。
 眉間に皺を刻み込む。やはり今日も、自分に仲裁を求めて来たらしいと思って。昨日も去り際に、もう二度と俺に仲裁を求めるなと言ったのに。もう迷惑をかけないと、返してきたくせに。
 そんなやり取りは今までに何回も、何十回も繰り返してきているから、絶対にまた来るだろうとは思っていた。思っては居たが、昨日の今日で来るのはどうなのだろうか。これは今までで最短ではないか。そんな記録を塗り替えさせるつもりは、欠片もない。せめて三日は大人しくしていて貰わねば。じゃなければ、記録はドンドン更新されて行き、終いにはずっと自分たちの傍らにいてくれとでも言い出しかねない。
 今日は絶対に仲裁に入ってやるモノかと決意して、閉じている瞼に力を込めた。だが、相手はしつこく身体を揺すってくる。
 知るものか。今日くらい自分たちでどうにかしろと、内心で吐き捨て眠りの世界に落ち込もうとしたその瞬間、聞いた事のない声が耳に届いた。
「バカッっ! なに無理矢理起こそうとしてるのよっ!」
 女の声だ。利発そうな、女の声。
 それは、全く記憶にないモノだった。男はともかく、女の声は一度耳にすれば忘れないのだが。
 だが、自分の部屋にいると言う事は、知り合いという事だろう。
 内心で首を捻る。いったい何処で知り合った人間だろうかと、思って。
 その女の声に答えるように、男の声が返る。
「だってよ〜〜〜、俺、腹減ったんだよ〜〜〜!」
 力のない、情けない声だった。大人の男と言うよりも、ガキと言った方が良さそうな声。
「気持ちは分かるけど、我慢しなさいよっ! 私だって我慢してるんだからっ!」
「あの、お腹が空いてるなら、私が何か作りますけど………」
「いらねぇ。俺は、サンジの飯が食いたいんだよっ!」
 新たに加わった女が恐る恐ると言った様子でかけた声に、男はキッパリとした口調で言葉を返した。その言葉にショックを受けたのだろう。女は息を飲み、口を噤んだ。
 女の気配が萎んでいくのが分かる。相当落ち込んでいるようだ。
 それはそうだろう。自分の料理を否定されたも等しい状況なのだから。自分だって落ち込む。
 ジワリと、怒りの炎が沸き上がってきた。コックをないがしろにした男が、心底腹立たしくて。何処の何奴だか知らないが、一言言ってやらねば気が済まない。怒鳴って、先程の女性に土下座させてやらねば。
 そう思った後の目覚めは一瞬だった。カッと瞳を見開き、寝ているベッドから飛び起き、暴言を吐いた男の頭を目掛けて鋭い蹴りを放つ。鋭いと言っても、相手が誰だか分からないし、すぐに土下座させる必要があるから、脳しんとうを起こさない程度に加減はしているが。
 油断しきっていたのだろう。狙い通り、放った蹴りは男の頭に入った。
「うわっ!」
 短い悲鳴を上げ、男の身体が床に転げた。仰向けになるように。
「――――何様かしらねぇがなぁ、偉そうにコックの指定なんかしてんじゃねぇよっ!」
 その無防備に晒された腹に足を乗せ、ギリギリと体重をかけていきながら言葉をかけ、ようやく踏みつぶしている男の顔へと、視線を向けた。
 年の頃は二十歳前半から半ばくらいだろうか。一瞬そう思ったが、向けられた真っ黒い、キラキラと輝く瞳を見ていたらもっと若い気がしてきた。目の下にある傷跡は、普通怖いと思うアクセントになりそうなものだが、男のやんちゃッぷりを象徴しているように無邪気な印象を与えられた。
 髪は真っ黒い。あまり手入れをしていないのか、ボサボサしている。体つきは細っこく見えるが、筋肉はしっかり付いている。筋肉が付いているとは言え、あまり強いと言う印象は感じない体つきだ。
 なのに、こいつは強いと、思った。
 殺気が漲っているわけでも気迫があるわけでもない。
 にも、関わらず。
 こんな強い男は、見た事無い。すれ違ったことすらないと、確信を持って言える。これだけ強烈な気配を発している人間に出会ったら、絶対に忘れないから。
 どう考えても初対面だ。なのに何故、彼は自分の部屋に居るのだろうか。
 スティーブの友達だろうか。それとも、逆隣のライアンの知人だろうか。それともまた、食道楽のジョセフが知人をダシにして自分に料理を作らせようと企んでいるのだろうか。
 そんな事を考えていたところで、ハッと気が付いた。
 自分を取り巻く空気が、知ったものでは無い事に。
 慌てて顔を上げ、辺りの様子を見回す。そして愕然と瞳を見開いた。
 そこが、全く記憶にない空間だったために。
 広い空間だ。足元が微かに揺れている事を考えると、船の中にある一室なのだろう。そう思ったところで、幾つもの視線が自分に注がれている事に気付き、室内ではなく、その場にいた人間に視線を向ける。
 女は三人。オレンジ色の髪をした女と、黒髪の女と、茶色い髪の女。男も三人。いや、足元に居る男をあわせると四人だが。水色の髪の大柄な、と言うか、身体のバランスがちょっとおかしい男と、鼻がアホみたいに長い男と、緑色の髪の強面の男。
 あと、ペットなのだろうピンクの帽子を被った。毛むくじゃらの生き物。種類がなんなのか、いまいちよく分からない。角が生えているから鹿かと思ったが、鹿にしてはちょっと体つきと顔つきもおかしいので。
 それと、何故か骸骨の標本が中途半端な位置に置いてある。もっと端に置けばいいモノを、何故あんな、通行の邪魔になるような位置に置いておくのだろうか。そもそも、骸骨を置くセンスもおかしいと思うが。
 不思議に思いながら骸骨を見つめていたところで、ハッと思いだした。先程視界に入れたばかりの男達の中に、唯一、見覚えのある顔があった事に気付いて。
 一度下がっていた眦が、再度つり上がる。そして、足の下の男を踏みつける力を増やしながら、ビシリと、右手の指先を緑色の頭の男へと、突きつけた。
「てめぇっ! どういうつもりだっ!」
「あ?」
 指名されて、怒鳴られた男が怪訝そうな顔をした。こちらの質問の意図が分からないと、言いたげに。
 これ以上ない程眦がつり上がる。何故分からないのか、理解出来なくて。
「俺をこんな所に連れ込みやがってっ! どういう了見だって聞いてんだよっ!」
「――――どういう了見も何もねぇだろうが」
「はぁ? 意味わかんねぇっつーのっ! 男なら男らしくはっきり言えや、こらっ!」
 怒鳴り返せば、男は眉間に皺を刻み込んだ。そして深々と息を吐き出す。呆れたと、言わんばかりに。
 そんな男の態度に余計腹が立ち、眦はこれ以上ない程つり上がる。ソレにあわせ、男の腹を踏みつける足に力がこもった。
「いててててっ! いてぇよ、サンジっ!」
 足元から上がった悲鳴にハッと息を飲み込んだ。今自分が、相当強く足を踏み込んでいる自覚があったので。
 自分の脚力が常人よりも強い事は分かっている。こんな力で踏み込んだら、骨が折れるどころか、内臓破裂だ。何処の何奴かは分からないし、誘拐された被害者は自分だとは言え、さすがに殺すのは寝覚めが悪い。そう思って慌てて足をどけたら、男はぴょいと、何事もなかったかのように起きあがった。
「あ〜〜〜、痛かった〜〜〜〜。やっぱサンジの蹴りはつえぇなぁ〜〜〜」
 ニコニコと笑顔でそう告げてきた男は、踏みつけられていた部分を軽く撫でながらも、さしてダメージを与えられているようには見えない。
 目を丸くした。
 そんな馬鹿なと、思って。
「――――お前、なんともねぇの?」
「うん? 痛かったぞ?」
「いや、そうじゃなくて。内臓とか、骨とか」
「おう! 俺はゴム人間だからな!」
 ニカリと白い歯をむき出しにしながら笑った男は、両手で自分の脇腹をつまんだと思ったら、なんの躊躇いもなくそれを引っ張り出した。
 途端に、腹が有り得ない程広く広がる。
 鳥が羽を広げるように、とは思わなかったが、モモンガのようだとは思った。
 呆気に取られて見つめている間に、男は腹の肉をしまった。バチンと、軽い音を立てながら。その音を耳にしたところで、ハッと息を飲み込んだ。
 ゴムのように伸びる、ゴム人間。黒髪。そして、ルフィと呼ばれていた。
 そんな特徴を持つ人間を知らない者は、このグランドラインには一人も居ないだろう。手配書になど興味が無く、目にした事など一度もない自分でも、特徴だけは知っているくらい、有名な人物だ。
「――――モンキー・D・ルフィ?」
「おう」
 呆然としながら呟いた名に、男は――――ルフィは、あっさりと頷き返してきた。
 その答えを受けて慌てて視線を回りの人物に向ければ、思い当たる名が浮かび上がってきた。
 泥棒ネコのナミ。ニコ・ロビン。フランキー。ロロノア・ゾロ。
「――――麦わら、海賊団?」
 騙りでもなんでもない、本物だという事は嫌という程良く分かった。
 彼等が放つ気配が、尋常なモノでは無かったから。
 ジリッと、床板を踏みしめる足に力を入れた。
 どう考えてもここは彼等の船の中だ。そして、出入り口は彼等の背後にある。自分もそこそこ腕に――――というか、足に覚えがあるが、麦わら海賊団全員と渡り合える程だとは思えない。逃げ道は無いだろう。
 スッと、瞳を細めた。力業で逃げ出せないなら、頭を使ってこの場から逃げ出さねばと、思って。
「――――悪名高い麦わら海賊団が、俺になんの用があるってんだ?」
 問いかけに、その場にいた全員が軽く目をまるめた。何を言って居るんだと、言いたげに。
 それはこっちの台詞だと思いつつ、言葉を続ける。
「もしかして、身代金でも狙ってんのか? だったらたいした儲けにはなんねぇよ。確かに、店はそこそこ繁盛してるが、そこまで利潤を取れる値段設定にしてないんでね。蓄えなんかほとんど無いに等しいんだよ」
「なに――――」
「俺に限らず、この島の奴等はさして財産なんかもってねぇから、襲ったってなんも良い事ねぇぜ? 金を稼ぎたいなら、とっとと次の島に行けよ」
「なに言ってるのよ、サンジ君っ!」
 一度発しかけたオレンジ色の髪を持った女の言葉を遮り言葉を発し続けると、女は甲高い声で遮ってきた。その声にチラリと視線を向ければ、彼女は焦りの滲む顔で言葉を続けてくる。
「私たちがそんな事をするわけないじゃないっ! 連れてき方が強引だったから、怒ってるの? だったらゾロに謝らせるから!」
 必死な様子で訴えてくるナミの顔を、冷ややかな眼差しで見つめる。何を言っているのだこの女はと、思って。謝られたからと言って、状況が変わるわけでもないだろうに。
 その眼差しに、ナミがピクリと、肩を振るわせた。そして、恐る恐ると言った様子で問いかけてくる。
「――――サンジ君?」
 そう呼ばれ、眉間に皺が寄った。
 全く、覚えのない名前だったから。
 ゆっくりと口を開く。
 そして短く、返した。
「俺はそんな名前じゃねぇよ」










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