【6】
「俺はそんな名前じゃねぇよ」
冷ややかな声で告げられ、背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
暫し声を失う。なにを言われたのか、一瞬分からなくて。
その言葉の意味を理解出来たのは、言われた言葉を何回も何回も頭の中で繰り返してからだった。
「――――え?」
ナミは「呆然」と言う言葉でしか言い表せない声を漏らした。
言葉の意味は理解出来ても、何故そんな事を言われたのかが分からなくて。
「なに、言ってるの?」
「だから、俺の名前はサンジなんかじゃないっつーの。――――ったく、なんだよ。人違いでこんな所まで引っ張りこまれたのかよ………」
ブツブツと、心底迷惑そうに呟くその姿は、演技しているようには見えないモノだった。だが、あぁ、そうだったんですか。すいません。とは言えない。ゾロが間違いなくサンジだと言ったのだ。それに、ルフィだって迷い無くサンジだと言ったのだ。この二人が間違えるわけがない。
だが、サンジはサンジではないと言っている。
死んだと思って海に流した事を怒っているのだろうか。
そう思い顔色を窺ってみた。
確かに、怒ってはいるようだが、ソレがなにに対する怒りなのかは分からない。怒らせるような事は、沢山しているので。
「何処の何奴と間違えたのかはしらねぇけどな、捕まえるならちゃんと相手が誰なのか調べてから捕まえろよな。てめぇらのゴタゴタに巻き込まれてやれる程暇じゃねぇんだよ、こっちは!」
眦を吊り上げ、怒鳴るようにそう言い捨てたサンジは、それで話は終わりだと言わんばかりの態度で歩を進めだした。
そんなサンジに咄嗟に手を伸ばし、その右手を掴み取る。
「待ってよっ! 話は終わってないわっ! っていうか、サンジ君がサンジ君なのに間違いはないのよっ!」
「だーかーらっ! 俺はそんな奴じゃねぇっつーのっ!」
「サンジ君よっ! ルフィ、ゾロっ! あんたらもなんか言ってやりなさいよっ! ッて言うかゾロっ! あんたすぐに土下座してサンジ君に謝りなさいっ! 乱暴な事してすいませんでしたってっ!」
「サンジっ! 腹減ったぞっ! 飯作ってくれっ!」
「土下座なんか出来るかよ」
振り払われそうになった腕を必死に掴み取りながら男二人を怒鳴りつければ、二人ともナミが求めるような言葉を発してはくれなかった。代わりに、他の仲間達が言葉をかけてくる。
「サンジっ! お前が怒る気持ちも分かるし、そう簡単に船に戻ってくる気になれねぇのもわかるけど、少しはこっちの言い分も聞いてくれよっ!」
「そうよ。サンジも辛かっただろうけど、私たちだって、凄く辛かったのよ」
「ゴメンよ、サンジっ! 俺が悪いんだっ! 死んでなかったサンジを死んでるなんて言ったからッ………!」
「おわぁっ!」
ウソップにロビン、そしてチョッパーが声をかけたところで、サンジが奇妙な声を上げた。
声を上げただけではなく、身体も勢いよく飛び退く。その勢いに引きずられて転がりかけたナミに気付いたのだろう。サンジが素早くナミの腕を引き寄せ、その胸に抱え込むように抱きしめてくる。
鼻先にあるサンジの胸からは、懐かしい匂いがした。煙草と、食べ物の匂いだ。
その匂いにホッと息をついた所で、気付く。サンジの鼓動がやたらと早くなっている事に。
「――――サンジ君?」
訝しみながら視線を上げると、サンジは垂れ目がちの瞳をめいっぱい見開き、一点を見つめていた。
なにを見ているのだろうかと視線を向ければ、そこにはチョッパーの姿が。
軽く首を捻る。なにを驚いているのだろうかと、思って。
「どうしたの?」
「――――その……鹿? 今、喋った?」
「――――え?」
呆然と呟かれた言葉に、眉間に皺を寄せた。なにを聞かれたのか、分からなくて。
「喋って当たり前じゃない」
なにを言っているのだと言わんばかりの瞳を向けながら言葉を返せば、抱き込まれていた腕がガバリと勢いよく引き離された。
「なんで喋って当たり前なんだよっ!」
「なんでって………」
「船医さんは、ヒトヒトの実を食べた悪魔の実の能力者だからですよ。ちなみに、鹿ではなくトナカイです」
「ギャーーーーーーーっっ!」
ナミは言いかけた言葉を引き継ぐようにブルックが説明をしつつ、歩み寄ってきた。
その声を聞き、姿を目にした途端、サンジの口から悲鳴が迸り、一度放したナミの身体を強い力で抱きしめ直してくる。
強烈な恐怖から逃れるために、何かに縋ろうとするかのように。
「ガッ………骸骨がっ、喋りやがったっ! 動いてるっ!」
「ヨホホホっ。私はヨミヨミの実の能力者ですから。あ、ちなみにご飯は食べられますので、美味しいご飯をお願い致します」
サンジが本気で恐怖している事に気付いているのか居ないのか、ブルックはいつもの調子で言葉を続けている。
そんな余裕な態度にも恐怖を覚えるのか、ナミの身体に回された腕にさらに力がこもっていく。ちょっと、息苦しい程に。
と、その拘束から唐突に解放された。強い力で、背後に引っ張られたために。
慌てて視線を背後に向けると、そこには不機嫌丸出しな顔をしたゾロが立っていた。どうやら、ナミがサンジに抱きつかれている様を見て嫉妬したらしい。
ナミを強制的に排除し、自分がサンジを抱きしめようとでも思ったのか。ゾロが一歩サンジに近づく。だが、ゾロがサンジを抱きしめる前にサンジが正気に戻ったらしい。ゾロから距離を取るように身体を引き、改めてクルー全員に視線を向ける。
信じられないモノを見る瞳で。
「――――麦わら海賊団は化け物ばかりだって話だが、マジでそうなんだな」
「その化け物の一人が良く言うぜ、コックの兄ちゃん」
からかうようなフランキーの言葉に、サンジはハッと顔を上げた。そして、探るように瞳を細くする。
「―――もしかして、そのサンジって奴もコックだから、俺と間違えて誘拐したのか?」
サンジの怒りは相当根深いらしい。ここまで話をしてもまだしらを切り通すらしい。さすがにナミはカチンと来た。
「サンジ君、いい加減………」
「ちょっと、聞いても良いかしら」
ナミの言葉を遮るように、ロビンの声が室内に響き渡った。その声に視線を向ければ、ロビンは軽く右手を上げながらサンジの顔をジッと見つめている。
サンジの視線も、ロビンに向けられた。警戒するような眼差しだ。それでも、ロビンの言葉を無視する事はしなかった。
「――――なに?」
「貴方の名前は?」
ロビンの質問に、チョッパーとウソップが軽く目を見張った。なんでそんな事を聞くのだと言いたげに。
サンジはすぐに答えようとはせず、ロビンの顔を見つめ続けた。その質問の真意が何処にあるのか、探るように。
そしてゆっくりと、口を開く。
「……アフト」
「アフト? それが、あなたの名前なのね?」
「あぁ。だから俺は、あんた等が言ってるサンジなんて人間じゃねぇよ」
ロビンが確認するように問いかけると、サンジは――――アフトと名乗った男は、吐き捨てるようにそう言葉を返してきた。
そんな男に、ロビンは緩やかに微笑み返す。
「じゃあアフト、もう一つ質問に答えてくれる? 貴方は、この島で生まれ育ったのかしら?」
「さぁな。ガキの頃の記憶はねぇから」
だったらなんなのだと言いたげな瞳を向ける男に、ロビンは変わらぬ笑みを浮かべたまま、更なる問いを発した。
「質問の形を変えるわ。貴方の記憶は、何年分あるのかしら?」
その言葉で、麦わら海賊団のクルーはハッと、息を飲み込んだ。
「――――記憶喪失?」
「その可能性は高いわね」
呟くようにチョッパーが漏らした言葉に、ロビンが相づちを打つ。そして真っ直ぐにサンジの、アフトと名乗った男の顔を見ながら、言葉を続ける。
「貴方の記憶があるのは、五年前から。違う?」
軽い笑みを浮かべながら断言しつつも問いかけるロビンの言葉に、男はグッと言葉を飲み込んだ。どうやら図星だったらしい。
ロビンの顔に、深い笑みが浮かぶ。満足そうな笑みが。その笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。
「だとしたら、貴方が私たちの仲間である可能性は極めて高い事になるわ。と言うわけだから、しばらく貴方につきまとう事にするわね」
「――――はぁっ?!」
突然の宣言に、サンジ――――アフトと名乗った男だけではなく、ナミも、ウソップもチョッパーも、素っ頓狂な声をあげた。
「ちょっとロビン、どういう事?」
彼女の考えが分からなくて、慌てて問いかける。そんなナミに、ロビンはツラッとした顔と口調で言葉を返してきた。
「だって、いくら私たちが彼のことをサンジだって確信していても、サンジは私たちの事を覚えていないのよ? そんな人を船に無理矢理乗せたら可哀相じゃない。下手をしたらへそを曲げて料理を作ってくれなくなるかも知れないわ。そんな事嫌よね、ルフィ」
「おうっ! 嫌だっ! でも、サンジが嫌がっても船には乗せるぞっ!」
「大丈夫よ。サンジの事だから、ある程度情が移ればどんな状況に陥っても美味しいご飯を作ってくれるだろうから」
「――――そう言う相談を本人の前でするってーのはどういう神経なんだ?」
ニッコリと微笑みながら腹黒い事を言ってのけたロビンに、アフトは心底嫌そうに顔を歪めながら言葉を返した。
だが、ここで自分がなにを言っても状況が変わらない事を本能で感じ取ったのか。強硬にこちらの行動を押しとどめようとはしなかった。
代わりに深々と息を吐き出し、どうでも良さそうな口調で言葉を発しながら右手をプラリと、振る。
「ともかく、俺は帰らせて貰うぜ。とっくに営業時間になってんだろうからな」
「サンジがやってる店の事か? 俺も行くぞっ! サンジの飯を食わせろっ!」
「だから、俺はサンジじゃねぇっての。……まぁ、ちゃんと金を払うならいくらでも食わせてやるよ。どんな馬鹿だろうが出入りを禁止するような格調高い店じゃねぇからな」
違う名前で呼ばれる事が不快なのだろう。嫌そうに顔を歪めながらも、瞳を輝かせて飛びついてきたルフィに向かって了承するような言葉を吐いたアフトは、言葉の最後にニヤリと、口端を引き上げた。
意地の悪い笑みだ。むかつくくらいに。だけど、そんな笑みを見て嬉しくなる。仕草の一つ一つが、言葉の一つ一つが、彼がサンジであることを示しているから。
チラリとゾロの顔を窺う。記憶喪失になっているサンジの事を、どう思っているのだろうかと思って。もしかして、この先記憶が戻らないかも知れないと不安になっているのではないかと、思って。
だが、そんな心配はいらなかったらしい。ゾロの瞳にはなんの迷いもなかった。真っ直ぐに、真摯な瞳をサンジに向けている。その瞳には、欠片ほどの不安も見つけることが出来ない。
何故、そこまで楽観して居られるのだろうか。何が原因で記憶喪失になったのかも分からないし、記憶が戻るという確証も無いというのに。
不思議に思って首を捻ったところで、ナミの視線に気付いたのか。ゾロがこちらに視線を向けてきた。
「――――なんだ?」
「ツラッとした顔をしてるから、サンジ君の記憶が無い事に、っていうか、戻らなかったらどうしようとか、不安に思わないのかなって、思って」
「なんでだ?」
「なんでって、記憶が戻らなかったらゾロの事を好きにならないかもしれないじゃない」
そう告げると、ゾロは根性の悪そうな笑みを浮かべた。そして、自信満々に返してくる。
「んなもん、もう一度惚れさせれば良いだけの事だろうが」
「もう一度って………」
「アイツがアイツなら、記憶が無くなろうがなんだろうが、俺に惚れないわけがねぇだろうが」
「――――あ、そう」
自信満々に返された言葉に反論する言葉が見つからず、ナミは間の抜けた声で相づちを返すに止めた。そして、軽く視線を落として考える。
これは惚気られているのだろうかと。
サンジが生きていた――――いや、死んではいなかったのだから生きていたというのはおかしな表現か。ともかく、以前二人揃って船に乗っていたときには二人の関係を少しも臭わせなかったくせに、戻ってきた途端これかと、大いに呆れる。どんな心境の変化があったのかは知らないが、正直歓迎したくない振る舞いだ。他のクルーは独り身なのだから。
「……まぁ、せいぜい頑張るのね。前回はどうだったか知らないけど、今回のあんたの第一印象最悪なんだから、底辺からのスタートよ?」
「どっから始まろうとかわんねぇよ。アイツは俺の目の前にいるんだからな」
サラリと告げられた言葉に、ハッと目を見開いた。そしてジッと、ゾロの顔を見つめる。
ゾロの表情は、普段とさして変わりない。だが瞳には、サンジの身体を海に流して以来見たことがない、喜びの色が浮かび上がっている。いや、喜びの色しか浮かび上がっていない。彼にとって、サンジが生きている今の状況には、悲観する要素が一切無いのだろう。
フッと、顔がほころんだ。
「――――頑張ってね」
「言われるまでもねぇ」
本心から告げた言葉に、ゾロは力強い口調で返してきた。そんなゾロにクスリと笑ったところで、嫌な気配を感じて顔を上げる。
気配の発信源を目にしたところで、眉間に皺が寄った。
レイナだ。
ゾロに惚れ込んで、船に乗り込んできた女だ。
彼女にしてみれば、面白くない状況だろう。どこからどう見ても。状況が分からなくても、ゾロがサンジに惚れ込んでいる事は、彼の事しか見ていない事は、分かるだろうから。
深々と息を吐き出した。
「――――なにも起こらなければいいけど」
そう呟きを漏らしたが、絶対に何かが起こると確信していた。
それが出来るだけ小さな騒ぎになってくれるよう、誰にともなく祈る事しかできない自分に軽く腹を立てつつ、船を降りるサンジの後に続いた。
五年ぶりに、サンジの作った料理を食べに行くために。
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《20091231UP]》