帰りのホームルームが始まる時間を告げるチャイムが、校舎内に響き渡った。
 その音を耳に入れ、三井はゆっくりと、座していた席から腰を上げる。
「三井先生、もう部活に行かれるんですか?」
「いや、ちょっと準備室でやることがあるので」
 三井の行動に、隣席の数学教諭が驚いたように目を見張りながら問いかけてくるのに、首を振りながら言葉を返す。実際は、なんの用事もないのだが。
 だが、言われた教諭は素直に三井の言葉を信じたらしい。ニコリと、親しみを込めた笑顔を寄越してくる。
「そうですか。部活に熱心な三井先生の事だから、てっきり部活に行くモノだと思ってしまいましたよ」
「さすがに掃除も終わってない時間から部活を始めたりしませんよ。まぁ、部活の時間を長引かせる事は多々ありますけどね」
 かけられた言葉に軽い口調で返し、しばし雑談を交わした後、三井はゆっくりと歩を進め、微かに残っていたざわめきが消え始めた廊下へと、足を踏み出した。
 普段廊下を歩いていると必ず誰かに話かけられるのだが、さすがにこの時間に廊下を歩き回っている生徒は居ないようだ。廊下には人の気配が一切無い。一応辺りを見回して人が居ないことを視認した三井は、小さく安堵の息を吐き出した。
 別に生徒達に話しかけられるのは嫌いではない。むしろ結構好きなのだが、今はまとわりついてくる子供達の存在を想像するだけで鬱陶しいと思ってしまうから、関わり合いになりたくないのだ。
 何となく、気持ちがざわついているから。
 いや、何となくどころではない。近年まれに見る程、心が落ち着かない。
「――――部活が始まるまでに、気持ちの整理つけとかねぇとな」
 じゃないと、部活中に色々思い出してしまって、指導なんて出来なくなりそうだ。
 そんな事を考えながら廊下を歩いていたら、背後からやたらとでかい。それで居て明るい男の声が響き渡った。
「ミッチーー!」
 その聞き慣れた呼び声に、三井の眉間には自然と皺が寄った。
 そんな呼び方で自分を呼ぶ相手には構っていられない。そもそも、彼がこんな時間に廊下を歩いているのはおかしい。
 ホームルームを抜け出してきたのだろう相手に、普段だったら説教の一つでもするところだが、今はそんな職務すらも面倒くさい。だから、聞こえなかったふりをして大股で廊下を突き進んでいく。
 だが、相手はそんな三井の態度を許さなかった。
 背後から質量の大きなモノが駆け寄ってくる気配がしたと思ったら、背後から腕を捕まれ、進む足を止めるように強い力で引っ張られる。
「なに無視してんだよ、ミッチー。俺の声が聞こえないわけがないだろ?」
 腕を引っ張るのとほぼ同時にそんな言葉をかけてきた相手の顔を、チラリと見上げる。
 自分も決して身長が低い方ではない。むしろ高い方ではあるのだが、それでも見上げる位置にある顔を。
 見なくても分かっていたことではあるが、相手はやはり、三井が顧問をしているバスケ部に所属している二年生だった。
 スポーツマンらしく短く刈り揃えられた髪の毛にしゃれっ気はないが、それなりに整った顔立ちをているのでそれなりに見栄えが良い生徒だ。美少年というほどでもない。並みよりも少し良いくらいだろうか。
 それでも校内ではかなり人気が高い。それは、190センチ近い身長を誇っているせいで、実際よりも三割り増しくらいにいい男に見えているからだろう。
 バスケの腕もそこそこ良い。全国レベルにはもうちょっと足りないが、本人の努力次第で大学で華開けるのでは無いだろうかと、三井は思っている。自分の指導で開かせてやれれば一番良いのだが、教師二年目、顧問も二年目の自分にはなかなか難しい。安西だったら、巧くその才を引き出してやれるかもしれないが。
 そう思っているので、彼が在学中に一度安西の元に行って助言をして貰おうと考えている。少しでも早く、彼がステップアップ出来る手助けをしたいので。自分自身の指導者としての腕も、磨きたいが。
 背が高い事もあり、運動で鍛えた身体は大きく見え、端から見たら一丁前の大人に見えるのだが、表情は幼い。三井に無視されてむくれている顔は、子供そのものだ。
 それもそうだろう。ようやく10代の後半に差し掛かった程度の年齢だ。子供の顔をしていて当たり前だろう。
 そんな生徒の姿を見て、当時の自分も大人からみたら粋がっているだけの子供に見えたのだろうと、思う。途端に、なんとも言えない恥ずかしさが胸を締めた。
 沸き上がってきた恥ずかしさに、自然と表情が歪む。その変化を自分が腕を掴んだからだと思ったのだろうか。生徒である少年は、さらに不機嫌そうに顔を歪めた。
 素直な反応に、思わず苦笑が漏れかける。だが、ここで苦笑をしようものなら、少年が余計にへそを曲げるだろう。そう判断し、三井は平静を装いながら少年へと向かいあった。
「誰がミッチーだよ。ちゃんと先生と呼ばないような生徒の声に反応するかってんだ」
「ミッチーはミッチーだろ。先生って感じしないもん」
「お前なぁ………」
 図体は一丁前のくせに喋ると年齢通りの幼さを見せる少年に、三井は呆れの色が存分に現れた声で一言漏らした。
 何か一言。いや、一言どころか二言も三言も返してやりたい所ではあるのだが、何をどう言っても呼び方を変える事はないと確信している。彼には、桜木と近しいものを感じるので。桜木よりも、脳みそは詰まっていると思うのだが。
 なので早々に諦め、改めて真正面から向きあった。
「で、なんだ? なんか用か?」
 まだホームルームの時間だというのに、わざわざそれを抜け出して、担任に怒られるであろう状況を作ってまで声をかけてくるだけの理由があるのかと視線で問えば、少年は忘れていたと言いたげに軽く目を見張り、深く頷き返してくる。
「そうそう。ミッチー、聞いた? 流川が今日、日本に帰ってきたんだって!」
 告げられた言葉に、心臓が大きく脈打った。
 思いがけない所で、思いがけないタイミングで、その名前を聞かされて、一瞬思考が凍り付いた。だが、生徒には動揺する姿を見せる訳にはいかない。三井はすぐにいつもの自分を取り戻し、軽い仕草で頷き返す。
「――――あぁ。そうみたいだな。職員室で見たぜ。ワイドショー」
「……職員室って、そんなもん見てンの?」
「榊のババァがつけたんだよ」
 その一言で納得出来るモノがあったらしい、あぁと小さく呟いた少年は、ならば話は早いと言いたげに瞳を輝かせた。
「で、ミッチーは凱旋帰国した流川に会うの?」
「――――は?」
 なんでそんな事を聞かれるのか分からず、間の抜けた声を放ってしまった。
 間が抜けているのは声だけではない。表情も気の抜けた、呆けたものになっているだろう。
 それくらい、意表をつく言葉だったのだ。
「――――なんで、俺が流川に会わないといけないんだよ」
「だってミッチー、流川の先輩だろ?」
 流川がブラウン管の中に現れる前から今まで、誰にも告げたことのない事をサラリと問いかけてくる少年に、三井は取り繕う事も忘れて信じられないモノを見る眼差しを向けた。いったいその事を、どこで知ったのだと、瞳で問うように。
 二年の付き合いでその程度のアイコンタクトは出来るようになっていたようだ。少年は、自慢げに軽く胸を張った。そして、偉そうな口調で答えを返してくる。
「前に流川の高校時代の写真がワイドショーに出ててさ。回りの人間の顔はモザイクかかっていたんだけど、そのモザイクかかっている人の顎に傷があるのが見えてさ。で、その傷がどっかで見たことあるよなぁとか思ってたら、ミッチーに同じ傷がある事を思い出して。だから、流川と同じ高校のバスケ部だったのなぁとか、思って。当たってた?」
 褒めて欲しがっている子供のように瞳を輝かせ、軽く首を傾げてくる少年に、一瞬返す言葉を躊躇った。気のせいだと突っぱねるべきか、素直に頷いておくべきかどうか。
 だが、下手に隠すと余計に知りたがって変な騒ぎを引き起こしかねない。その騒ぎのせいで学校中にその事実が知れ渡り、方々から妙な探りを入れられるようになるなんてことは、簡単に想像出来る。
 そうなるのは勘弁して貰いたいモノがある。なので、ここはさっさと彼の気持ちを落ち着かせるに限るだろうと判断し、三井は素直に頷き返した。
「まぁ、確かにそうだけど……にしても、良くそんなもんに気付いたな」
「そりゃ、気付くに決まってんでしょ」
「あぁ? なんで決まってんだよ」
「それは……」
 三井の言葉に得意げに頷き、何か言いかけた少年だったが、結局は口に出さなかった。何かを誤魔化すようにフラリと視線を流し、ボリボリと後頭部を掻いた後、改めて三井へと視線を向け直してくる。
「ンな事よりさ。流川に会うの、会わないの?」
「会うもなにも、アイツとは別に連絡とりあってもねぇし。そもそも、お忙しいスーパースター様には高校時代のチームメイトなんかに会うような時間なんてねぇだろ」
「――――え? だって、一緒に全国大会行った間柄でしょ? 同窓会とか開かないの?」
「アイツはそう言うの好きじゃなかったからな。計画建てたところで来そうも無いから、誰もそんな催しを考えてねぇだろ」
 サクリと、なんの迷いも無く告げた言葉に、少年は苦虫を噛みつぶしたような、なんとも言えない表情を浮かべた。そして、何かを探るように三井の瞳を覗き込んでくる。
「――――相手は世界のスーパースターだよ? そのスターに大手を振って会いに行ける理由があるのに、会おうともしないの?」
「そんな気にはならねぇな。少なくても、俺は。大体、アイツが当時のチームメイトの顔と名前を覚えているかどうかすら、妖しいぜ。バスケ以外の事に興味のない奴だったからな」
「えー? まさか、そんな事無いでしょ」
「大いにあり得るんだって。馬鹿と天才は紙一重っつーだろ?」
「うぅん……確かに、そう言われると、納得出来るものはあるけど……」
 三井の適当な言葉に、少年はスッキリしないと言いたげな表情を浮かべながらも、小さく頷き返してきた。
 そんな少年に、ニヤリと笑いかける。
「とにかく、アイツはバスケの腕は超一流だったけど、人間としてかなり駄目駄目だったぜ。お前の夢を壊すようで悪いけど」
「そうなんだ……何でもビシッとこなしそうに見えるんだけどなぁ……試合中の姿とかみてると」
「全然。全くそんな事無かったぜ。授業中は寝てばっかだから、テストの度に赤点だったし。補修を受けない時がないってくらい成績は悪かったな」
「うは〜〜〜……なんか、イメージ崩れたかも……」
「神様は二物も三物も与えないっつーこった」
 それで話は終わりと言うように、三井は小さく頷いた後、止めていた足をゆっくりと進ませ始めた。
 その後を追うようについてきた少年は、まだ流川の話題を続けたかったらしい。話題を変えずに語りかけてくる。
「二物は持ってるでしょ。バスケの腕と、あのルックスと」
「だから他の事はまるっきり駄目駄目なんだろうぜ。そんな風に極端になるんだったら、俺はなにも与えられなくても平均的で平凡な人生を歩みたいぜ」
「なに言ってンだ。ミッチーだって――――」
 反論しようと何かを言いかけた少年だったが、言葉の途中で慌てて飲み込んだ。何か都合の悪い言葉を発しようとしたらしい。
 いったい何を言おうとしたのだろうかと、軽く首を捻る。だが、あえて追求はしなかった。これ以上、流川の話題を続けたく無かったので。
 なので、少し態とらしいかもしれないと思いつつも、話題を変える。
「で、お前はこのまますぐ部室に行くつもりなのか? まだ掃除が終わってないから、体育館で練習出来ねぇぞ?」
 掃除どころかホームルームさえ終わっていないのだが、少年は全く気にしていないようだ。平然とした顔で言葉を返してくる。
「あ、うん。さっさと着替えて軽くランニングでもしてこようかと思って」
「掃除の時間にか?」
「うん。今日は掃除当番だったからね」
「――――お前なぁ……」
 堂々とサボり宣言をしてくる教え子の言葉に、三井は深く息を吐き出した。
 この場合、教師として説教の一つでもして置いた方が良いのだろう。そう思い口を開きかけたが、言葉にするのは止めておく。言ったところで、聞くような相手ではないので。
 とはいえ、このまま何事も無かったように言葉を返すのも教職者としてよろしくないだろう。そう判断し、自分の目線よりも高い所にある少年の後頭部を軽く叩いておく。なんの戒めにもならないくらい軽い小突き方だったから、少しも効きはしないだろうが。
「走りすぎて部活中にへばるなよ」
「ンな事にはなんねぇよ。ミッチーと違って若いから、俺」
 軽い口調でかけた言葉に、同じように軽い口調で返された。そんな生徒の言葉にニヤリと口端を引き上げつつ、足を一歩踏み出した。そしてフラリと、右手を振る。
「そうかい。んじゃ、また後でな」
「はいは〜〜い。遅れてくんなよ、ミッチー!」
 背後からかけられた言葉に、再度右手を振って返す。そして、上げていた腕を下げながらもう一度、ため息を吐いた。
 なんだかもの凄く強い、疲労を感じて。










BACK     NEXT







《20061118》













【2】