島崎藤村『千曲川のスケッチ』静間平の休み茶屋の推定地

                          
  還暦の節目を過ぎた小生、恥ずかしながら、自分の半生を振り返ってみると、自分の興味のあること以
外、ほとんど勉強することがなかった。ましてや、文学作品など目もくれず過ごしてきた。
 しかし近時、図書館から『破戒』の文中にある静観庵(じょうかんあん)について問い合わせがあり、
初めてその一節を読ませていただいた。白隠が正受老人のもとを飛び出し、穀物の積まれた陰で農夫に偶
然に頭を打たれ、その後、悟りを開いた場所を記念して静観庵が造られたという。静観庵についての話は
あくまでも小説の創作であり、現存する飯山市大字静間大久保区の、静観庵の歴史にそぐわないものであ
ったが、改めて飯山に関する島崎藤村の作品にも、目を通すきっかけになった。島崎藤村『千曲川のスケ
ッチ』の「その十一、山に住む人々の一」の文頭に次のくだりがある。
 『以前私が飯山からの帰りがけにー雪の道を橇(そり)で帰ったとは反対の側にある新道に沿うてー黄ば
んだ稲田の続いた静間平を通り、ある村はずれの休茶屋に腰掛けたことが有った。その時、私は善光寺の
方へでも行く「お寺さんか」と聞かれて意外の問に失笑したことが有った。同行の画家B君(1)は
外国仕込の洋服を着、ポケットに写生帳を入れていたが、戯れに「お寺さん」に成り済まして、一寸休茶
屋の内(お)儀(かみ)をまごつかせた。私が笑えば笑う程、余計に内儀は私達を「お寺さん」にして了(し
ま)って、仮令(たとい)内幕は世俗の人と同じようでも、それも各自の身に具わったものであることなど
を、半ば羨み、半ば調戯(からか)うような調子で言った。この内儀の話は、飯山から長野辺りへかけての
「お寺さん」の生活の一面を語るものだ。』
 さて「千曲川のスケッチ」奥書によると、藤村が今までそのつど書き記していたものを、明治の末年か
ら大正の初めにかけ、雑誌『中学世界』に連載し、大正元年に初めて小冊子にまとめたとしている。
 また、平野謙によると、『千曲川のスケッチ』の内容は、明治三十三年ごろから書かれ始め、明治四十
四年六月号から九月号まで『中学世界』に連載され、大正元年の十二月に一本にまとめられたとされる。
『千曲川のスケッチ』を含む短編集が、小説『破戒』を書くための資料になったことが、考究されている
が(2)、まさしく、その通りであろう。
 ここまでの事柄に関しては、一般に研究し尽くされており、私が新たに考察する必要が無いものだが、
驚くことに、藤村らが立ち寄った休み茶屋の候補地が我家である可能性に今頃になって気がついたのであ
る。
     

 飯山町から千曲川西岸を蓮・硲・替佐・豊野へ向かう道は、まず、静間の扇状地を通る。藤村が新道と
言っている道で、当時飯山街道と呼ばれていた。『下水内郡誌』は替佐街道が明治三十四年に開通したと
している。藤村が静間平と称しているこの一帯には現在では静間平の呼称はないが、西の斑尾山地東縁の
断層帯と東の高社山系の山々に挟まれた、千曲川で限る廊下状地帯が藤村の言う静間平であろう。ここは
厳密には清川と田草川の織り成す複合扇状地である。
 明治時代の静間平には北畑組(もとは北静間あるいは下静間村)・中町組(中静間村)・大久保組(南
静間あるいは上静間村)などの集落が、街道沿いにあった。扇状地の扇央が集落地帯で扇頂・扇端部に穀
倉地帯が広がっている。まさしく、「黄ばんだ稲田の続いた静間平を通り」の藤村表現がぴったりの状況
である。
 静間平は西方に斑山(斑尾山)が見え隠れする扇状地で、東方は千曲川が洋々として流れ、背後に、遊
雲たなびく高社山がそびえている。高社山の一番手前の支脈は静間側では田上山とも云う。農耕神の山で
あろうか、田上山に雲がかかると雨だとも云われている。
 私の家は、現飯山市大字静間にあり、その当時は大久保組の北端に位置していた。明治十年ごろに松澤
平七様宅より平一様が分家し、飯山道の道端に家を構えた。藤村の言うように、まさに村はずれである。
 平一様は飯山町有尾から妻のよつ様をむかえ、よつ様は私の祖父の平次郎を明治十二年に生んでいる。
私の生家は、この明治の建築であり、昭和四十四年七月の豪雨災害により床上浸水し、同年新居を建築す
るまで幼少から青年時代をここで過ごした。
 生家は頭初から茶屋造りであり、街道端にお茶屋を営み、少しばかりの農地も耕作していた。敷地が若
干の窪地であるため地下水が高く、家の裏側(西側)に、中静間村の雲井(雲居か?)お女郎の化粧水と
もいわれる古井戸が野天にあり、後で池に改造されて、私の幼少時代まで金魚を飼っていた。
 四尺四方ぐらいの四角い石積みの池の、ごく浅い底面の真ん中に、木製の井戸枠があり、径四〇センチ
ばかりの円形井戸の浅い底面から、滾々と清水が湧き出していた。
 今にして思えば、中世の井戸にも似た構造をとっていた。おそらく店を構えた当初以前から、飯山道を
行き来する旅人の、のどを潤していたのだろう。もちろん、この利点を考慮して、茶店を出したと推定で
きる。
 ちなみに、のち我家の前から、赤坂を経て替佐峠に向かう飯山道(旧往還道)と、往還道と一部重複し
ていた飯山から蓮を経て替佐方面に向かう飯山街道(新道)が分岐したのである。
 平一様は、若くして明治十八年に他界されて、残されたよつ様が茶店を切盛りしていた。明治末年、も
しこの家に島崎藤村一行が立ち寄られたとしたら、藤村文中の内儀こそ、よつ様と推定できよう。よつ様
は嘉永六年の生まれで、昭和二年の三月、七十四歳で他界されている。
 藤村が飯山を秋に訪れたのは、秋一回説をとると、明治三十七年一月十三日の飯山来訪以前、新道(飯
山街道)が開通した明治三十四年から三十五年頃と推定される。場合によっては、秋の二回目があったと
すれば明治三十七年と推定される。同三十八年藤村家族は上京し、五月に三女縫子を失い、十月には長男
楠雄が生まれ、さらに十一月には『破戒』の最終の執筆に追われ、飯山を訪れる余裕がないものと思われ
る。『破戒』が自費出版されたのは、同三十九年である。
 よつ様が藤村らと会われたとしたら、五十歳を前後する壮年期である。活発に藤村らと問答する様子が
私の脳裏に浮かんでくる。藤村が『破戒』出版の前に飯山地方で取材活動を行っていたことは、周知され
ている。
 大久保の静観庵の話も白隠が来たころには十王堂があり、庵主の鉄道(庵前の延享三年の宝篋印塔に願
主當村心庵哲道の銘)が、既に住んでいた可能性の歴史事実があるとしても(3~5)、幕末から明
治初期、一般にはその歴史が認識されておらず、『破戒』の文言が藤村らと内儀の話の内容になっていた
可能性も充分あろう。あるいは白隠が一区切りの悟りを開いたのは、鉄道の導きという仮説も微かに漂っ
てくるが、今後の課題としておく。
 ちなみに明治三十八年十月二十日、私の父元一(げんいち)がよつ様の子平次郎と妻つぎの間に生まれて
いる。
   


 大久保組の北端に在った休み茶屋(昭和四十年頃撮影の旧松澤家)。のちに瓦葺となった下屋は雁木となっていて、
奥に板敷きの間があり腰掛所となっていた。右手は新設の井戸小屋で、藤村らが静間を訪れた頃に在ったかは不明。










 静間の景観 中央三角形の山が田上山で奥が高社山(たかやしろ山






北東より見た休み茶屋と建築中の新居(昭和四十四年)
       





     昭和32年の国道117号線(休み茶屋東の旧飯山街道)
 
   明治34年飯山街道開通以前は飯山道が庭先を通っていたという。(堰敷を含む部分)
 




現大久保区の静観庵





静観庵前右手の宝篋印塔銘文の一部


*参考文献など
1、丸山晩霞
2、平野謙「解説」『千曲川のスケッチ 島崎藤村』新潮文庫昭和30年刊、所収
3、江口善次編『秋津村誌』(飯山市公民館秋津分館刊行、昭和41年)
4、松澤芳宏「飯山市静間の静観庵塼仏について」『高井』93号・平成2年に、江戸後期「ひみず」
出土塼仏を本尊として十王堂に静観庵が成立したいきさつを述べた。十王堂の建物か否かは判明し
いな
ない。

5、松澤芳宏「長野県信濃町仁之倉の小林家塼仏とその存在意義について(茨城県那珂市北郷C遺跡塼仏
と同笵の事例)」『信濃』59の7、平成19年に、静観庵本尊と同様の塼仏(泥仏)について述べた。

6、松澤芳宏「島崎藤村『千曲川のスケッチ』静間平の休み茶屋の推定地(小説『破戒』にある白隠の
大悟伝承にも関連して)」『奥信濃文化第28号』飯山市ふるさと館友の会刊行(平成29年3月)に本
稿の内容を整理したものを掲載した。(2017・3月追記)


                 (平成21年3月21日記)

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飯山市静間大久保の静観庵せん(土偏に專)仏
飯山市静間大久保の静観庵せん(土偏に專)仏