弥生時代実年代観の決定打はこれだ

(鉄矛・銅矛・銅戈より見た弥生中期の実年代)





 今回、朝鮮半島と日本を通じて細形銅矛Ta 式・Tb 式を設定します。他の人の分類と混同するため、
M(松澤の意)をつけても結構です。MTa 式は丈短小形尖帯(節帯)一条型であり、北朝鮮咸興市梨花
洞土壙墓など、前2世紀代に盛行したもので、前1世紀中葉まで盛行したものと考えられます(黄州郡黒
橋里遺跡など一部は紀元前後まで類似型式が残ります)。
 MTb 式は、前漢代各期を通じて、一部に存在する多条尖帯付鉄矛(袋部銅製)の影響を受け(戦国期
様式類似銅矛にも二条尖帯がある)、北朝鮮貞栢洞1号墓(前1世紀)や韓国入室里遺跡などの例から、
中国本土よりやや遅れて、銅矛に多条尖帯(二条尖帯も入る)が加わったものです。日本でも弥生前期末
〜中期初頭前後から中期前半にみられるものでありますが、半島より若干実年代が下がると推定します。
 丈短小形多条尖帯のMTb 式の朝鮮半島の盛行年代は、前2世紀新期〜前1世紀半ばまでの比較的短期
間に流行したものと考えます。
 MTb式がTa 式に先行すると、日本では考える意見もあるようですが、朝鮮半島ではTa 式が主に先
行し、のち、両者併行時期関係となるようです。つまり、大きな目でみれば、MTa ・MTb式併行時期
に、北九州に細形銅矛文化が波及したのです。
 また、MTa 式類似の上図の4が漢代以前様式の紀年名があることから、Ta 式が前3世紀新期に作成
開始があるかもしれませんが、中国の戦国末期様式のT字型銅戈(上図の8で、秦始皇25年在銘銅戈−
前222年−に類似)に一時期併行して、前2世紀にも確実にTa 式の盛行年代があると考えられていま
す。
 Tb 式がTa 式に遅れていることは、王建新氏の『東北アジアの青銅器文化』を見れば、一目瞭然であ
り、Tb式が出現するのは遡っても前2世紀新期と考えられ、以降、二つの細形銅矛T式が併行すること
になります。MTa 式細形銅矛を出土する朝鮮半島の遺跡については、前2世紀古期〜中葉前後の、九鳳
里・草浦里・南陽里・梨花洞などの各遺跡があります。
 なお、沿海州南部のイズウェストフ丘遺跡例を細形銅矛の最古式とみる宮本一夫氏の分類の仕方もあり
ますが(「細形銅剣と細形銅矛の成立年代」−『東アジア青銅器の系譜』−雄山閣)、私は銅矛の袋部の
尖帯がないので、祖形細形銅矛の末期型式としてとらえ、MTa 式成立の前段階に位置づけたいと思いま
す(2010・4・17追加)。
 MT式をさらに細分化し、耳(鐶)の無いものをイ式として、あるものをロ式とすれば、MTa イ・M
Ta ロ・MTbイ・MTbロ式などとなります。また、袋部の長短、耳の双鐶のものに細分化する方法が
既にありますが、ここでの記述は大雑把なものなので分類は避けます。銅矛の細部は製作者の個人的な意
思により異なるので、はたして大局的史観で、時代性を示すか疑問です。
 なお、MTa イ式(一条尖帯無鐶型細形銅矛T式)については、朝鮮半島では、九鳳里・草浦里・南陽
里など前2世紀古期〜半ば前後の遺跡に多く、今後、時代を示す指標となるかもしれません。慶尚南道魔
道遺跡韓国民族文化大百科・先史遺跡の3様・韓国東南部馬山の加浦洞遺跡例(季刊考古学86号)など
前1紀代と見られるものにもMTa イ式がありますが、多条樋を成し節帯に文様を施しており、新様式の
ものであります。
 次いで、MTbロ式(多条尖帯有鐶型細形銅矛T式)・MUa ロ式(一条節帯有鐶型細形銅矛U式)が
韓国の入室里遺跡などの前2世紀新期〜前1世紀半ば前後の遺跡に出現していることは北九州の弥生前期
末〜中期前半の遺跡のMTa ロ・MTbロ・MUa ロ式の盛行に大きく関係するものでしょう。つまり、
このことからも弥生中期初頭が前100年前後とする旧説の支持となるのです。
 ちなみに、『朝鮮古文化綜鑑1』の166番に、秦始皇25年在銘銅戈を出した平壌石巌里古墳(墳丘
不明で単に墓所としたほうがよいかもしれないが記述に従っておく)推定出土品として二条尖帯の銅矛が
ありますが、これは袋部が長く、中国戦国式銅矛に近い古式の形態を示しています。伝石巌里古墳出土品
には秦戈とともに金銅飾柄中国式銅剣の有品もあり、伝出土品3点ともに中国本土より、搬入された文物
と見られます。
 但し、埋蔵時期については、同書では楽浪時代初期と推定しています。前2世紀新期〜前漢楽浪郡設置
前後(前108年前後)の動乱時代の有力漢人の遺品とみられ、あくまでも搬入品であり、二条尖帯戦国
期様式銅矛も中国系であり、私が設定する、半島特有の細形銅矛MTb 式ではありません。また、前3世
紀前後の東北アジア系祖形細形銅矛には多条尖帯様式のものはありません。 
 さらに、『朝鮮古文化綜鑑T』163番の二条尖帯銅矛は袋部が長く鉄矛に近い形態であり、それも戦
国期様式の銅矛と考えられ、前2世紀にも残存し、それらの形態が細形銅矛MTb式に影響を与えた可能
性もあります。163番は袋部に耳(鐶)が無く目釘孔が一つあります。
 むしろ大事なことは、これらの銅矛が予想される多条尖帯鉄矛とともに前2世紀新期の動乱時代に半島
の青銅器文化に影響を与え、朝鮮式細形銅矛MTb式が俄然多くなったきっかけであると考えたいと思い
ます。 
 また、このような政治的動向に依拠した文物の考え方は、物によっては100年以上の伝世を認めるこ
とになり、同時に文物様式のみでは古代史が解けないという、考古学の限界をも語るものとなります。
 伝石巌里古墳の年代観については、いずれも中国系文物であることにより、この史観が成り立つのであ
り、先学の推理の妥当性を支持したいと思います。

 さて、朝鮮式細形銅矛T式に次ぐ、従来からの細形銅矛U式は、丈が長く全体的に細身の銅矛で、韓国
平章里遺跡例が時期の早い例で、上限が前2世紀新期の可能性があります。また前100年前後以降と推
定の慶州入室里遺跡では、一括遺物としてよいか懸念する意見がありますが、細形銅矛U式とMTb 式銅
矛が共存しています。
 但し、入室里例は細形銅矛Tb 式の新旧様式交換期の特徴で、丈が長くなっており、多条の細樋を茎や
身に施す新式の様相であります。入室里遺跡文物には、内(茎)のがっしりとした樋結合式綾杉文型銅戈
(入室里式銅戈)もあり、他の文物を総合しても、大きな観点では、ほぼ同一時期として差し支えのない
ものと考えます。
 MTb 式の終息の時期が、細形銅矛U式の出現の時期にかさなるようであり、それはとりもなおさず、
MTa 式から細形銅矛U式に形態発展をとげる時期とも重なることを意味しています。
 そのような時間帯に、韓国平章里遺跡や・北朝鮮貞栢洞1号墓・韓国入室里遺跡・慶州九政里遺跡があ
り、すでに朝鮮半島全域に鉄器も普及している時期でもあります。政治的には前漢(西漢)が朝鮮半島北
部に楽浪郡など、四郡を設置した前後とそれ以降の時期にあたり、当然、半島南部や日本列島に多くの難
民が渡来し、やがて倭(日本)などが楽浪郡などを仲介して前漢と交易を開始する時期ともなります。
 日本の弥生時代前期末〜中期前半の文物構成と類似したものに、これらの半島の遺跡文物があり、弥生
中期前半を前後とする時期の金属器と、半島の金属器様式が類似していることは、先学が既に指摘してい
たことであります。
 この年代の文物が、前2世紀古期前後の韓国遺跡、九鳳里・草浦里・合松里遺跡の文物構成と一致する
ことはなく、前2世紀古期前後の韓国遺跡では、今のところ、細形銅矛はMTa 式のみで、貞柏里式・梨
花洞式銅戈・多鈕粗文鏡・多鈕細文鏡などを伴っています。
 最近の学界一方の説で弥生中期初頭を、前(紀元前)2世紀古期内のいずれかに求める意見が多数ある
ことも充分承知しています。その根拠については、河北省燕下都辛庄頭30号墓銅戈の報告により、その
銅戈が朝鮮半島よりもたらされたとして、一気に貞柏里式銅戈・梨花洞式銅戈の類を前3世紀内の時期に
繰り上げたことに起因していると思われます。
 ところが、すぐさま遼西式銅戈が紹介され、その形態が朝鮮式銅戈の祖形であるとの説が一般化しまし
た。遼西式銅戈が、さらに殷代以来の古式銅戈の影響をも受け(裏辺所長の北京弾丸旅行,09さんの写
真が参考)、遼西地方あるいは中国中原地方の北部で、朝鮮式銅戈の本当の祖形に変化しているものと私
は考えています。
 つまり、遼西式銅戈と朝鮮式銅戈の間に、必ず仮称遼西式直後型式があると、これまで論文で述べてき
ました(『信濃60-7』)。
 その形態はおそらく、遼西式の胡がやや退化した銅戈であると考え、その影響が燕の領域に残ったもの
が辛庄頭30号墓式銅戈で、北朝鮮域に及んだものが貞柏里式銅戈と考えているわけであります。
 ただし、辛庄頭銅戈が前3世紀の半ばか末期前後か説が分かれており、私自体も勉強不足であり、細か
な年代を避けますが、ただ言えることは、辛庄頭30号墓式銅戈が、たったの半世紀の存続年代とは思え
ず、私は前2世紀代におよんでいるものもあると考えています。それが朝鮮式銅戈のうちの、貞柏里式で
あると考え、樋分離式の形態がその証拠であります。
 ところで、中国雲南省晋寧県では、前漢中期の長胡戈と称する銅戈 (abc0120考古用語辞典さん)が知
られていますが、奇しくも遼西式銅戈に似ており、驚きを隠せないのであります。但し、内(茎)方向の
関部の突起帯がなく、私のいう仮称遼西式直後型式銅戈に親縁性の深いものでありますが、樋が浅く、そ
こに文様帯があることは、中国東北地方の銅戈が樋が深く、文様帯がないことに違いがあります。
 同じく前漢中期(前100年前後)の晋寧県の同遺跡には、胡未発達型無樋式細形銅戈も出土していま
す(abc0120考古用語辞典さん)。
 重要なことは、中国全体で殷代以来の胡未発達古式銅戈の類似型式が戦国期とそれ以降に残っており、
それが遼西式銅戈のような胡発達型銅戈に影響を与え、仮称遼西式直後型式の胡が退化する兆しのものを
経て、辛庄頭30号墓式銅戈や貞柏里式に移行することであります。
 中国中原地方から遠く離れた雲南省では、前漢中期(前2世紀新期〜前1世紀古期)に長胡戈様式が残
り、胡の発達する形状をなすことは、日本において弥生中期前半〜末(私説の前1世紀半〜後1世紀末)
前後に柳沢式銅戈などに胡発達型が残ることに似たような現象といえましょう。
 また、北朝鮮貞柏里式銅戈が前2世紀に盛行すると推定することも、長胡戈様式と胡未発達型無樋式銅
戈の前漢代残存に矛盾しないものであります。



 ちなみに、貞柏里式と樋結合式の梨花洞式銅戈が、前2世紀に存続することは、多鈕粗文鏡と細文鏡・
細形銅矛Ta 式などの伴出で明らかとなっていますし、その時期で明刀銭を伴うことはごく僅かと考えま
す。
 多鈕粗文鏡が衰え、細文鏡のみが盛行する時期を前2世紀半以降と考えますが、細形銅矛Ta 式が新式
のTb 式と併行し始める時期、即ち前2世紀新期が貞柏里式・梨花洞式銅戈の衰退時期と考えてきたわけ
です。
 前2世紀新期に、銅戈の樋の文様帯の出現が始まり(吉武高木式銅戈の製作)、やや時間差をおいて前
100年前後の弥生中期前期末〜中期初頭とそれ以降に、日本に青銅器が多く埋蔵されたと考えているわ
けであります。その時期は半島で細形銅矛Ta 式のみが盛行していた前2世紀古期とは明らかに違う時期
であり、いま日本において一番新しく考える前2世紀古期が弥生中期初頭と考える説も、まったく当たっ
ていないことが解ると思います。
 先ほどの梨花洞式銅戈についても、日本では完璧な梨花洞式銅戈は少なく、梨花洞式末期型式の、いわ
ば梨花洞式くずれとも言うべき、内(茎)のやや退行したものや、援(戈身)の延びたものが、若干認め
られる程度であります。このことも、弥生中期初頭が前100年前後とする説の支持となります。
 大分県吹上遺跡の、弥生中期後半埋蔵の樋結合式無紋型銅戈は、梨花洞式くずれであり、援が延び中細
形銅戈に近い細形銅戈で、吹上式銅戈とも称してよいものです。
 結論を申しますと、日本における細形銅矛MTa・b式が弥生前期末〜中期初頭に共存出現し、また、青
銅器導入時の銅戈が朝鮮半島よりもかなり新しい型式などを考慮すれば、弥生中期の初頭は上限が前2世
紀新期であり、半島との時間差を考えれば、やはり、前100年前後(±30年)が、弥生中期のはじま
りと理解せざるを得ないのであります。
 この問題について、いまだ信憑性に欠ける科学測定を持ち出して、年代を遡らせることは考古学的では
なく、文物紀年名や、中国史とその包含圏の歴史に対比させる方法のほうが、より正確な歴年代を当てる
ことができると思っています。中国文物文化の各地波及の時間差は考え方に個人差があり、諸説あります
が、私は最低半世紀前後の日本への文物文化の時間差があり、それ以上に及ぶこともあると考えます。こ
のことは、後の古墳時代中国鏡の型式例が証明しています。
 なお、日本のクニ単位の王が中国皇帝に作りたての文物をさずけられて、早く日本に埋蔵されたら、2
0年ぐらいの時間差で済むことはあるものと思われますが、そういうことは極めて稀なのです。既に製作
済みの文物を、楽浪郡などを仲介して、日本のクニの王が交易していたら、埋蔵までに、最低でも半世紀
前後の時間差がでてくると私は考えています。また、有力者が子孫に権力の証として、宝物を伝世させる
こともありえます。
 ここではあまり触れませんでしたが、北九州における前1世紀新期か以降の前漢鏡の埋蔵も、時間差の
考え方で理解ができ、その前段階に同じく半島と日本の文物の時間差で多鈕細文鏡が埋蔵された時期があ
るわけです。
 以上、ここ数年来の弥生期実年代遡上論が激しい真っ只中、ひたすら旧説の肯定を唱えている筆者にと
って、白雲翔・王建新らの著書はこの上もない宝物であり、日本の学者の説の問題点も両氏が指摘してい
ます。いずれも旧来の中国文物の系統的資料に基づいた膨大な論文であり、大変参考になります。一部大
陸でも科学測定に準じた考え方もあるようですが、その場合は考古学的考証の考古学的反論を経た上で、
科学測定の妥当性を説くべきでありましょう。
 年輪測定もその基準がどこにあるか、わかりやすい説明が必要であり、もし不確実な基準があるとした
ら、あるいは、不確実な幅広い年代の土器型式に焦点を合わせているとしたら、それを拾っての放射性炭
素較正年代は極めて不確実となることは間違いないでしょう。その解決ができているのならば、私の方が
反省すべきことはもちろんです。

 ところで、現在の日本の一部研究者が、前1世紀と確定できる北朝鮮貞栢洞1号墓の細形銅矛MTb 式
を弥生中期前半前後の文化に参照させることができないのは不思議な気がします。あるいは車馬具などの
欠如を問題にしているのならば、滑稽であります。車馬具などをのぞけば、貞栢洞1号墓の文化は弥生中
期前半を前後する文化そのものでしょう。
 楽浪文化の構成要素が、そのまま日本の文化に影響を与えるものではないことは自明の理でありましょ
う。楽浪文化が日本文化に影響を与えたのは、搬出されやすい金属利器や銅鏡などの文物が主であったの
です。
 しかも、銅鏡についてはすでに中国鏡が存在しているにもかかわらず、早い時期では多鈕細文鏡が日本
に流れたものと理解できます(前漢支配直前の半島土着の文化が伝播している可能性もあります)。
 前1世紀古期〜半ば前後の弥生中期では(中期前半前後)多鈕細文鏡が盛行し、細形銅矛MTa 式(
Ta 式ではあるが、細形銅矛U式への過渡的様相の中原遺跡の例【洋々閣女将のご挨拶さん】)・ MT
b 式(MTb式ではあるが細形銅矛U式への過渡期の様相の 佐賀県:県指定【考古資料の部】04さん
が盛行しています。また、細形銅矛U式・細形銅剣・新式細形銅戈(貞柏里式・梨花洞式は影が薄い)の
盛行もあり、中細形銅剣の一部製作開始もあり、鉄器も盛行しています。
 これは、北朝鮮平壌市貞栢洞1号墓・大同郡上里遺跡・韓国入室里遺跡・九政里遺跡の文化に該当する
もので半島では銅鐸も存在しています。半島のこれらの時期は、銅鏡が不明でありますが、当然、前漢鏡
の流入時期であり、まだまだ、墓所には副葬されることは少なく、土着民の一部が多鈕細文鏡BU式(王
建新氏分類)と、金属器などを携えて、日本列島に逃れている最中と考えたいと思います。
 考えて見て下さい、弥生中期前半前後に、大量に青銅器が日本に流入している背景には、やはり朝鮮半
島の前漢支配に伴う動乱が関係していると理解せざるをえないのであります。前2世紀新期前後の半島動
乱こそが、避難民によって列島の弥生文化の金属器文化を助長させたのです。
 早い時期に、東北アジア系青銅器文化が日本列島に文化影響を及ぼしていることは、ごく僅かであり、
前2世紀新期に急激に、金属器文化が列島に渡来したのであります。金属器とはいうまでもなく、青銅器
や鉄器を含んでいます。これらの文物が北九州などの墓所に副葬された時期は20年前後先からであり、
時間差を考えて私は弥生中期の始まりの時期を前100年前後としているのです。



 貞栢洞1号墓(夫租ワイ【草冠に歳】君墓)は、現在では前1世紀を遡るとする説もありますが、前3
世紀確定の北朝鮮龍淵洞積石塚古墳文物とは隔絶した新式の文化内容であり、大局的史観からは定説通り
前1世紀と考えてよいものであります。
 まさに、多鈕粗文鏡の盛行時期と考えられる龍淵洞古墳文物(明刀銭あり)期が前3世紀であり、貞栢
洞1号墓が前1世紀なのであり、若干の時間差をおいて日本の弥生実年代の部分を探ることができるので
あります。。
 そして朝鮮半島の細形銅矛出土情報では、半島でMTa 式のみが盛行するのが前2世紀古期であり、前
2世紀新期からMTb 式や細形銅矛U式の一部製作開始があると推量します。以降、前1世紀代のある時
期まで、MTa 式やMTb 式・細形銅矛U式が共存状態にあることが重要であります。
 従って、私の弥生中期実年代論は、日本の細形銅矛の分類を再検討したことに意義があり、紀元前10
0年前後(±30年)を弥生中期の始まりとする旧説の支持となります。中期の終わりについては九州と
近畿の土器編年の違いまで、筆者が言及できませんので、大略紀元後1世紀末として、±30年を加えて
いただければよいと思います。中期末の年代観は貨泉の日本渡来時期を中国・朝鮮半島より下げた説に従
っております。ご批判を宜しくお願いします。


(2010・1・8記、4・28更新)





参考
 九鳳里遺跡の重要性




 上図15は梨花洞式銅戈です。14の銅戈は、河北省燕下都辛庄頭30号墓式や北朝鮮貞柏里式から韓
国で変化した型式で、九鳳里をいまのところ最古とするので、九鳳里式銅戈と呼称します。九鳳里式銅戈
の胡が無いか、あっても僅かな胡幅(関幅)の形態は胡未発達型銅戈と称し、韓国の特徴で、全羅南道の
霊岩地方で出土した銅戈石製鋳型がそれを証明しています。
 のち胡幅が狭い特徴は九州にも現れていますし、柳沢式銅戈を含め、近畿東日本地方で出土する銅戈が
胡発達型であるのと対照的です。中国東北地方や北朝鮮から日本海を経て流れてくる文化と、中国大陸か
ら東シナ海を経てくる文化影響もある、韓国北九州文化の違いと理解しています。
 九鳳里の銅戈2点は青銅器類の構成から、半島出土朝鮮式銅戈の時代が推定できるもののうち初出の例
と理解しています。
 上図19は多鈕粗文鏡で、20は多鈕細文鏡です。細文鏡は王建新氏のBT式(『東北アジアの青銅器
文化』)で、日本などで出土の新様相のBU式とは異なります。文様の線は粗文鏡の影響で太くて高いも
のです。文様の配置は内外2区に分かれ、鏡縁断面は半円形であります。多鈕粗文鏡とBT式細文鏡の共
存は多鈕細文鏡への転換期であることを示しています。
 14の銅矛は細形銅矛MTa 式(一条尖帯細形銅矛T式)であり、半島ではこの型式では初出でありま
す。東北アジア系青銅器文化の無尖帯祖形細形銅矛型式が、秦始皇帝陵東側の一条尖帯銅矛類などの影響
下に変化して、MTa 式銅矛が出現したものと考えます。MTb式(多条尖帯細形銅矛T式)はまだ出現
していません。この時期前後の、他の遺跡でも出土はありません。
 九鳳里の青銅器は、東北アジア系青銅器文化を中核として、前3世紀新期前後という意見の多い辛庄頭
30号墓式銅戈(援のふくらみは殷代以来戦国期にも残存の古式戈に似ており、辛庄頭式銅戈が朝鮮式銅
戈の最古式ではないとする意見は当たらない)や戦国式銅矛や秦の矛など、中国中原地方の青銅器文化の
影響も受けており、時代は前2世紀古期前後とするのが妥当であります。
 つまり、九鳳里青銅器は、日本の青銅器文化に先行し、日本の青銅器文化が前2世紀新期かそれ以降の
盛行とする考えの基本となる資料であります。
 また、九鳳里では、まだ鉄器が伴っていませんが、17の銅斧は鋳造鉄斧の形態と共通しています。こ
の時期か、それをやや過ぎると半島南部でも鉄器が登場してくると理解できます。鋳造鉄斧を伴出した北
朝鮮咸興市梨花洞土壙墓には、BU式三鈕細文鏡があり、九鳳里の次の時期に位置することは明確であり
ます。
 梨花洞青銅器を包含する朝鮮半島の文化が日本に影響を与えていますが、日本ではやや、遅れて青銅器
が盛行します。梨花洞式銅戈が日本では希薄であり、中期初頭前後において、吉武高木式や釈迦寺式、中
期前半の宇木汲田式銅戈の新式銅戈が主流であることがその理由となります。
  残念なことは、最近の日本の第一線の研究者が、朝鮮半島の金属器の構成要素の時間的位置を、その
まま日本の青銅器出土墓所の時間的位置に比較していることです。
 多鈕粗文鏡や細文鏡BT式や梨花洞式銅戈・九鳳里式銅戈を伴出している韓国九鳳里遺跡は、日本の青
銅器文化盛行以前の型式をもち、日本とは半世紀以上も古い文化内容です。
 さらに北朝鮮梨花洞土壙墓も前記のように、梨花洞式銅戈を伴出し、日本の吉武高木M3号木棺墓より
古い時期に比定されます。韓国扶余郡合松里(貞柏里式銅戈伴出)・北朝鮮梨花洞では鋳造鉄斧が伴出し
てはいますが、日本よりは鉄器の盛行時期が古いのです。その時期に日本の弥生中期初頭年代を当てるこ
とはできません。
 つまり、鉄器が出土していない九鳳里を前2世紀古期前後とすれば、丈長鋳造鉄斧伴出の合松里積石石
槨墓は前2世紀中葉前後、丈短小形鋳造鉄斧伴出の梨花洞土壙墓は前2世紀中葉〜前2世紀新期となりま
す。そして、吉武高木M3号木棺墓は前1世紀最古期前後となり、地理的位置の時間差を加味すれば日本
の弥生中期初頭が前1世紀古期にずれ込むこともあるわけです。
 もうお分かりでしょう、弥生中期の始まりは前100年前後(±30年)とする旧説が、考古学年代観
で最も妥当なものです。九鳳里遺跡は韓国の重要な遺跡であるとともに、日本の青銅器文化の盛行がそれ
以後であることを示唆する東北アジア青銅器文化圏の重要な遺跡と評価したいと思います。
 この考古学検証を崩せない限り、むしろ最近の放射性炭素などに依拠した科学測定を疑うことは当然で
しょう。なんども言うように、科学測定資料の存在環境や、資料と伴出文物の時間差など科学以前の思考
が、考古学の史観と同じく、個人差があり、単純に科学測定を受け入れることはできないのです。
 

(2010・2・27記、3・9更新)

参考文献

*松澤芳宏「考古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MTa・MTb式など、青銅器の再検討を中
 心に―雑誌『信濃』第62巻第10号 通巻第729号 平成22年10月20日刊行 ―
yayoizitunenndai.pdf へのリンク (2010・
10・21追記)。



                        

 [松澤芳宏「考古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MTa・MTb式など、青銅器の再検討を中
心に―雑誌『信濃』第62巻第10号 通巻第729号 平成22年10月20日刊行]の論文に対して、
お手紙をいただきました。
 妻が「お父さんファンレタ―が来たよ」と言いました。びっくりして見ると、二度びっくり、当時、明
治大学名誉教授として、日本考古学界で名を馳せた戸沢充則先生でした。2010年10月20日の日付
で、小生論文の弥生時代年代観の考古学的方法論に感激したとの内容でした。
 直接お会いした先生ではなく、しかも大学で学んだことがない、まったくの在野研究者の私に励ましを
いただいたことに感動しました。戸沢先生の人格がにじみでているお手紙でした。考古学的方法論による
弥生中期の年代観にますます自信を深めた次第です。
 しばらく月日が過ぎ、先生がご逝去なされた旨の報道に目が触れました。立派な先生にお言葉をいただ
き、ご逝去を悼み、この紙面をもって哀悼の意を表します。安らかにお眠りください。合掌。


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