えば畿内のことであり、畿内で定型化前方後円(方)墳が完成し、 それを古墳として定義し、地方に古墳文化が伝 わったと妄想しているのです。 この考え方が20世紀最大の日本古墳研究の負の遺産です。 古墳成立の定義として多くの文献を羅列して名文 を連ねても、大局的史観に欠けています。 簡単明瞭、定型化前方後円(方)墳を古墳とすれば、世界の古墳は古墳では無くなり、それをどのように呼ぶか 迷うことになるのです。北アジアのパジリク古墳は古墳と呼べないことになります。 パジリク古墳を墳丘墓などといえ ば、それはただ言葉を変えただけで今度は墳丘墓名称が世界を席巻(せっけん)する恐ろしい事態となります。 いわゆる墳丘墓が古代社会であるならば古代墳丘墓となり、それはとりもなおさず、古墳ということになります。 墳 は墳丘のある墓所と漢字で決まっています。つまり、古墳を墳丘墓という必要はなく、墳丘墓はもともと墳の漢字が あるのです。墳丘墓名称の存在は許しがたいことで、どれだけ多くの学者を悩ませたか分かりません。今すぐ引用 を廃止すべきです。 弥生古墳も古墳であり、古墳時代は、大古墳(全長80m以上)が複数出現してからと、 既に数年来定義していま す。大古墳時代が日本の古墳時代であるのです。 日本の古墳が、大陸の古墳築造の影響を受けたことは歴然としており、 朝鮮半島北部の前漢支配が始まる(前1 08年)前後の時期に多くの難民を生み出し、日本にも人と文化が多く渡来しました。日本列島で、古墳の風習がさ らに広まったのも、前漢朝鮮半島進出以前から続いていた難民渡来と、楽浪郡など前漢支配に伴う倭の有力者の 前漢との交流に起因しています。 ちなみに、私が弥生古墳といっている中には、周溝墓も含まれます。周溝墓といっても墳丘墓所の基底面の区画 や埋葬施設の基底面の確認状態が墓と言わしめているだけであり、本来は墳丘を備えたものであることは周知され ています。 近畿地方で弥生前期後半には、周溝墓が確実に認められることは、日本の古墳が前2世紀には流行し始めてい ることになりましょう。周溝墓が低墳丘であっても、墳丘があることで古墳であり、 低墳丘古墳といえましょう。 なお、今はやっている弥生年代遡上論を肯定すると、 私の日本古墳流行時期年代論が、崩れることになります。 弥生年代遡上論の矛盾については、他項に述べてあります。参考にしてください。 総目次に戻る
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