柳沢遺跡銅戈銅鐸追加発表への問題点

 


  ↑上図は信濃毎日新聞2009・2/28による 

  長野県中野市柳沢遺跡の追加銅戈については複合鋸歯文があり、大阪湾型と確認したと報道がありました。し
かし、 身の上部を欠き、樋分離式・樋結合式であるか不明であり、大阪湾型に断定するのは絶対におかしいと思
います。また筆者の柳沢式銅戈に分類することも出来ませんし、極端扁平の、桜ヶ丘式・瓜生堂式銅戈とも違うと
思います。樋結合式複合鋸歯文型銅戈・樋分離式擬似複合鋸歯文型銅戈ともに韓国で発見されており、柳沢追
加銅戈自体も朝鮮半島他の製作品か大阪湾包含圏の製作か善光寺平包含圏の製作かまったく分からないと思
います。したがって複合鋸歯文存在というのみで、大阪湾型という分類をするのは民衆を惑わす罪と思います。
 左図の柳沢追加銅鐸は、袈裟襷文のある外縁付鈕1式とされています。銅鐸下端に特殊な文様があるように見
えますが、もしそうであるならば、文様帯は通常の銅鐸では下端やや上ですが、柳沢銅鐸は端部です。文様帯が
下端にあるのは特異な例で、これまた善光寺平包含圏の製作か、他の地域の製作かまったく分かりません。この
前の発表の銅鐸の流水文も通常銅鐸の流水文とは趣が違います。問題の解決には善光寺平包含圏の製作も考
慮に入れ、全国的視野で検討されるべきでしょう。



 また、筆者は全国的に異質なこの地方の礫床木棺墓を中国東北地方から北朝鮮に分布する初期積石塚古墳
(紀元前3〜前1世紀)の、内部構造との関連性について述べました。柳沢式銅戈についても、中国東北地方の遼
西式銅戈を源流とする文化との関係についても言及しました。今のところ、弥生中期後半前後から始まるこの地
方の鉄器文化は朝鮮半島との関係があります。大陸との文化交流追究なしで柳沢遺跡を語ることは出来ないと
思います。この地方の文化を再評価する時機到来と思います。

*参考文献、松澤芳宏「柳沢式銅戈の提唱と青銅器文化流入経路の予察」『信濃』60の7、2008。同著「柳沢銅戈のうち樋結合式綾杉
文型一本の推理(柳沢式銅戈仮分類との関連性)」『信濃』60の12、2008。
                            2009・2・28記




 
 銅戈製作地の問題で重要なことは、先記しましたように桜ヶ丘式銅戈の分布は今のところ、大阪湾包含圏にあ
り、中部日本には見られないことです。柳沢銅戈とは銅戈の錆の色もまったく違います。
 大阪湾型銅戈を近畿型とした人の心の根底には、たぶん奈良県唐古・鍵遺跡における青銅器製作の可能性な
どから、銅戈も近畿地方で製作されているという想定があると思います。但し、大阪湾型と一部共通性のある銅戈
が柳沢遺跡で見つかったので、柳沢銅戈の大部分は近畿から運ばれたものとすることは論理的に成立しません。
背後意識として前時代的な近畿優位の皇国史観があるように思います。
 近畿型銅戈名称が成立する理論に従えば、柳沢銅戈の発見により、近畿型が近畿・東日本型などの概念に変
わるのではないでしょうか。しかし、その製作地や文化影響の源流については、中国東北地方・朝鮮半島や沿海
州にも一部配慮すべきことはもちろんでしょう。
 また、柳沢8号銅戈の発見により、大阪湾型を含め日本出土銅戈の樋文様帯分類で、樋分離式銅戈で斜格子
目文帯から斜格子目文+複合鋸歯文帯そして複合鋸歯文帯に、樋結合式で斜格子目文から綾杉文に単純に変
化するのか、断定できないと思います。朝鮮半島では、日本のものよりも古期の複合鋸歯文や綾杉文の銅戈が
発見されています。
 大阪湾周辺で発見された樋分離式銅戈をすべて大阪湾型とし、和歌山県有田市の箕島山地の中細形斜格子
目文型類銅戈などを含むものを、大阪湾型a 類として桜ヶ丘式銅戈に先行させる意見があります。しかし、片方が
厚手で、片方が極端扁平の理由、また文様の違いだけで、新旧関係をつけるのはどうかと思います。大きな観点
では、両者のプロポ−ションは同一であります。
 これらが製造されて、弥生中期に行き渡れば、たとえ新旧関係があったとしても、その時間的世界では両者がご
ちゃごちゃになって同一時期となってしまいます。たとえば柳沢遺跡では、厳密には一括文物とはいえないかもし
れませんが、大略的には柳沢銅戈のすべてが同一時間帯に埋納された可能性の高いものです。ここでは細形樋
分離式斜格子目文型銅戈(2号銅戈)を初めとして、複合鋸歯文銅戈(8号銅戈)まで、各種の型式が共存してい
ます。
 ただし、柳沢8号銅戈は桜ヶ丘式ではなく、身の厚みのある他の柳沢式銅戈に共通性のあるものです。いまのと
ころ桜ヶ丘式銅戈の分布圏は大阪湾を含む近畿地方であり、類似の瓜生堂式を含めて、それらこそが近畿式銅
戈に当たるものと考えられます。
 これに反して、箕島山地遺跡例は柳沢式銅戈と一部共通性があることは、時期的な問題ではなく、両者が中国
東北地方や朝鮮半島の直接の文化交流のもとに成立している可能性が高いと思います。いずれも海に近い立地
であることがヒントになります。
 大阪湾周辺で極端扁平の複合鋸歯文型銅戈の鋳型が発見されている以上、桜ヶ丘式・瓜生堂式銅戈が、大阪
湾包含圏で製作されていることは認めてよいと思います。しかし桜ヶ丘式・瓜生堂式が東日本で発見された例がな
く、大阪湾包含圏の狭い範囲にその銅戈が渡ったのみと考えられるのです。
 樋分離式銅戈を、何でもかんでも、大阪湾型(近畿型)に分類し、近畿地方より、文化の低い東日本に青銅器が
搬出されたと考えるのは極めて危険と思います。ひとつひとつの青銅器の形態や成分を検討し、慎重に吟味して
こそ、産地と搬入地が明らかになると思います。樋分離式銅戈は大阪湾型だけではなく、中国東北地方にその文
化的源流があり、大阪湾型の名称は柳沢式銅戈の出現で、再検討されるべきものです。
 さらに、申し添えますと、柳沢銅戈は極端扁平なものが一つも無いこと、樋にはさまれた脊の部分の断面形が丸
みがあることが、統一性のある特徴であり、近いところですべて製作されている可能性もあります。 
 そこがどこか知る由もなく、この地方における鋳型の発見が待たれます。皆さん鋳型を発見しようではありませ
んか。

 さて、柳沢遺跡では、発見された青銅器が、一つの埋納遺構出土と仮定すると、さまざまな型式が、同一時間帯
に含まれることは、柳沢式銅戈分類の時点でも記しておきました。
 さらにまた、申したいのは、中部地方あるいは関東や北陸地方(?)で、単純に樋分離式複合鋸歯文型銅戈で
様式が収束するのか、あるいは、中細形樋分離式綾杉文型銅戈(大町市例)、中細形新式の樋結合式綾杉文型
(柳沢1号銅戈)など、新形態に属する出土例が増してくるのか、この地方でも製作されていたのか?油断が出来
ません。
 だまされてはいけません。今のところ柳沢1号銅戈は、中細形樋結合式綾杉文型銅戈の他の、なにものではな
く、九州型の名称は不適切です。内の鉤文様も九州のこれまでの例に完全に一致するものはありません。鉤文様
があるからといって、九州製作とは限らないと考えます。善光寺平包含圏や朝鮮半島他で製作されても鉤文様が
あるかもしれません。
 ちなみに、銅戈の内(茎)部分の複合鋸歯文については、福岡県小倉新地の中広形樋結合式綾杉文型銅戈
(『古代史発掘5』16ペ−ジ参照)にありますが、大町市平・上諏訪神社所蔵の海の口式銅戈(中細形樋分離式綾
杉文型)にも認められています。中細形樋分離式綾杉文型銅戈は、海の口式以外は朝鮮半島に類例(韓国・九政
里)があるだけです。
 銅戈の成分も、同じ地域で製作されても、時期や製作者の意図により、違いが出ることもありえましょう。また、
朝鮮半島でも時代が下がると、青銅の成分の劣化が激しいとされています。
                       (2010・8・15更新)
 

     







 最近、私の文章が解らないという意見や、新聞報道を批判しているというやや批判的な意見がありますが、言論
の自由の時代です。新聞報道自体、調査機関の研究者の発表を記事にしているのであり、一つの見方であること
は間違いありません。当然その賛否をめぐって研究者のさまざまな立場があることは否めません。
 学問の向上からみれば、さまざまな意見が出て、より良い学説に進むのであり、当然私の説も批判があってしか
るべきです。ただし、講演会の席上、松澤さんの説は信用してはならないと抽象的に批判されるのは困ります。松
澤説に対して、この部分はこのように思うと御指導くださるのはありがたいのですが、文章が難解だの、遺跡の調
査途中であるので、松澤説は信用できないというのはルール違反で、人権の侵害です。
 中野市柳沢遺跡でも、調査中にもかかわらず、一定の発表があったのであり、報道といえども、調査発表の一
端です。これに対して、世界中の人々が自分の意見を述べることは良いことです。
 日本の歴史研究の最大の欠点は高名な学者や大学教授の意見を金科玉条のごとく敬い続けることです。誰に
も遠慮なく意見を言える研究姿勢がもう少し日本にあってもよいのではないでしょうか。
 大阪湾型銅戈についても、以前、分布圏が変わったために、近畿型銅戈の名称も出ました。そして、やや違いま
すが、一部共通性のある柳沢式銅戈(筆者提唱)が長野県で出たのです。 大阪湾型銅戈も近畿型銅戈も名称が
不適切であり、中細形樋分離式(ぶっそうですが血流しの溝が先端で交わらない型式)銅戈などの表現が適切だ
と主張しています。つまり、近畿地方で作られた銅戈が、中部日本に搬入されたとは、断定できないのが真理でし
ょう。著名な学者の分類も柳沢式銅戈の出現で再検討される時機に来ているのです。私はこのように考えている
のです。
 また、九州型銅戈も名称が不適切であり、私は樋結合式綾杉文型銅戈の名称を提唱しています。中野市柳沢1
号銅戈も九州で制作されたものとは断定できません。 樋結合式銅戈も弥生中期後半以降東日本で制作されてき
た兆候かとの研究視点もあってよいのではないでしょうか。もちろん朝鮮半島でも樋結合式銅戈があり、長野県木
島平村根塚遺跡のように、鉄器文化の流入が朝鮮半島からである以上、文化交流で、半島の樋結合式銅戈の文
化が東日本に波及する可能性もあるのです。
  また、それ以前、中国東北地方や北朝鮮で、樋分離式銅戈の文化があり、其の文化が日本海を経て、近畿地
方や東日本に波及していることは、最近の北朝鮮からの小型木造船の漂着で理解を深められている方も多いか
と思います。

 なお、私の文章や用語の理解が出来ない場合は、考古学の一般書や論文で、知識を深められるとよいと思いま
す。さまざまな図に会うと理解が深まると思います。私は説明できる最低限の表現で、文章を組み立てています。


参考文献

*松澤芳宏「考古学による弥生中期年代観の再考」―細形銅矛MTa・MTb式など、青銅器の再検討を中心に
― 雑誌『信濃』第62巻第10号通巻第729号 平成22年10月20日刊行 (MTaはM いちaです)

(2011・10・5更新)


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福岡市岸田遺跡の年代表記の疑問
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