清川流域の土砂崩れと清川氾濫の危険性について
                   
                                         平成25年11月21日
                                          静間区長 松澤芳宏

 平成25年11月15日(金)に、早い降雪後の雪解け水により、飯山市北畑の西回り線より3km弱(宝蔵入り口
より約500m上流)で清川右岸(南側 )の崖が崩壊し、清川を跨ぎ、対岸の市道を乗り越え、一時ダム池を形成し
た。
 南の崖の高さ70mぐらいのところで崩落があったため、土砂崩落の勢いはすさまじく、川を渡り市道とその北側
崖を含め、高さ10m以上に土砂が這い上がってしまった。幸い川に堆積した土砂は勢いが強すぎて、少ない量で
あったため、現在はダム池を形成しておらず、川が流れている状態である。 右岸の崩落箇所がもし低いところで
あれば当然大規模なダム池を形成したことであろう。







 平成24年春の分道地籍の地滑り災害は記憶に新しいところだが、このような地滑りも清川に達すれば下流域
に大災害をもたらす危険性が高い。同じく同年の春、清川支流の宝蔵川沿いでも、いくつもの土砂崩れが発生し
た。宮本県議様と県林務部様、その他皆々様方の努力により今年9月ごろに床固め工の堰堤が完成した。静間
区としても感謝している次第である。
 もとより、堰堤はこれだけでは抜本的対策にはならず、今回の土砂崩れの下流でもいくつかの砂防ダムが必要
であろう。かつて清川ダムの構想が廃止になった経緯があるが、それは水を湛えたダムの構想であり、下流住民
の不安があったであろう。
 しかし、今回のような清川に直接流入する大規模の土砂崩れがあり、その方向によっては大規模土石流となっ
た可能性もあり、今後もいくつかの土砂崩れが予想される現状では、砂防ダムの構築は必要不可欠である。特に
清川流域には砂防ダムがない状況は、これまで、危険性を無視していた我々の怠慢があろう。今回の崩落地点の
周囲ではすぐにでも 土砂崩落が続く可能性が高い。土石流の危険性は今でも高いのである。

 
 ここで、清川流域災害の歴史を簡略に見つめ、今後の考え方の資料にしていただけたら幸いである。
 昭和41年飯山市公民館秋津分館刊行の江口善次編『秋津村誌』528頁、683頁を参考にすると次の清川災害
の歴史が列挙できる。

○飯山の旧家浦野家の『享保寛政間家年代記』によると、享保14年に山崩れがあり、清川を堰きとめ、後に是が
が一時に押し出して静間村に大被害を与えた。4月27日のことと記すが、昭和63年秋津分館刊行『秋津ものがた
り』の
146頁「蛇抜けとおみよごさん」(小林美夫氏『屋敷部落』)によると、年不詳ながらも4月25日に屋敷部落の西の
亥の沢が崩れたとあるから、それが清川に押し出し、4月27日にダム池が決壊したと推察される。ただし、元禄八
年静間村絵図により、この時、静間神社の南側から北側に清川流路が変わったことはない。

○明治31年7月15日、屋敷下方の清川流域が水害。

○明治36年6月29日、洪水により川沿いの田に土砂流入。

○大正11年4月、命無尽崩壊して川入集落大被害、のち北畑集落に移住。

○昭和12年7月16日、大水害。

○昭和44年7月、一晩中雷雨が続き、田草川・清川が氾濫し護岸の多くが崩壊。静間区の民家では床下浸水多
数・床上浸水もあった。のち両河川は一級河川となり修復される。

 このように、管見に触れただけでも多くの災害があったことが分かり、雪解けや梅雨の長雨、夏の雷雨や台風が
災害をもたらしていたことが判明する。
 清川流域における砂防堰堤など、災害を未然に防ぐ手立ては必至であり、とくに今回崩落地点下流に砂防堰堤
を築くことはすぐにでも必要と考えたい。この稿は緊急のため民意を反映したものではないが、今後静間区災害の
回避に向けて、論議の資料としていただければ幸いである。                        
                                                            以上 

 (この稿は長野県飯山市の静間区の全戸に回覧した文書です。多くの人に実情を知ってもらい清川氾濫の回避
にむけて、検討していただきたく、あえて私のホームページに掲載いたしました。)

参考文献
松澤芳宏2020「清川流域の土砂崩れと清川氾濫の危険性について」『奥信濃文化第35号』所載、飯
山市ふるさと館友の会発行雑誌
kiyokawa.pdf へのリンク(2020・12・2追記)。




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