飯山市静間山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚類観察
 
 平成27年3月、美術家の先輩である春陽会会員の駒村久彌氏より、突然電話が掛かってきた。「松澤さん、今
年、長野県宝に指定された山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚類について、シュモクザメが有力視されているの
はおかしいのではないか、シュモクザメが千曲川を遡ることはあるまい、ぜひ君に反論してほしい」とのことであつ
た。
 もちろん、私もかねがね、シュモクザメであることに疑問をもっていたので、早速、意気投合し、反論を書くことに
した。




 実は山の神遺跡(山ノ神遺跡)は丘頂の畑部分(山の神B遺跡)が石鏃が出る場所として、村人に早くから知ら
れ、私も多量の石鏃と縄文土器片を中学生時代に採集し、その後高橋桂氏に提示したことから、遺跡として周知
されるようになったのである。土器片は小さな破片であったので、全体像が見れず、『秋津村誌』に縄文後期の加
曽利B式土器を主体とする遺跡であろうと高橋桂氏は述べている(注1)。後に大原正義氏は魚形文土器が発見
された山の神A遺跡の縄文晩期の時期と大差ない時期であろうとしていたが、詳細は不明である。私や、松澤孝
久・丸山正之・猪瀬良平・坪井俊男氏表面採集資料には、先土器時代末期か縄文草創期に属する横倉型尖頭器
や縄文早期の格子目・山形・楕円押型文土器片などもある。



 昭和47年、静間土地改良区の水田圃場整備事業の最中、丘頂より西側の浅い谷状地点で縄文晩期土器片が
多く発見され、山の神遺跡が西側に拡大していることが判明し、山の神A遺跡と称されるようになった。
 この水田部分の土器の発見については、当時、静間土地改良区の役員でもあった私の父、元一(げんいち)が
複雑な立場にもかかわらず、私に土器片の出土を報告し、高橋桂氏を発掘担当者として飯山市教育委員会の緊
急発掘調査となったのである。父が私に土器片を見せていなければ、魚形線刻画土器片の発見には至らなかっ
たのであり、父の判断は正しかったし、今日県宝指定となった第一の功労者であろう。
 発掘により多量の土器片を含む集石遺構が検出され、その下からも土器片があり、その一部に魚形線刻画土
器片が発見されたのである。朗報を聞いて、当時、日本大学講師であった永峯光一氏も指導に見えられた。集石
遺構の下層は礫混じりの黒色土層が続いており、色彩に頼る方法では土坑等の落ち込みの検出は不可能であっ
た。



 かくして、新聞等の報道により、海洋民族学者として名高い早稲田大学名誉教授の西村朝日太郎氏が突然来
訪され、遺跡と魚形文土器を観察し、日付は不明だが、昭和47年に信濃毎日新聞に投稿された。それによると、
土器片の魚類はサケ・マスの類とし、頭上にあるバナナ状文様は現在琵琶湖等で行われているエリ漁を象徴的に
表したものであり、縄文晩期にもエリ漁の存在を推定された。
 駒村久彌氏と私は、信濃毎日新聞飯山支局長の某氏と懇談し、美術的見地から見た魚形文土器の価値につい
て論じあったこともある。その際は共通してサケ・マスの類であろうとお互いに感じあっていたものと思う。
 

 しかし、その後、エリとされる部分があまりにも小さいため、バナナ状部分を頭と見て、シュモクザメであろうとい
う見解が、ちまたに囁かれるようになった。今回の県宝指定にあたっても、東京海洋大学教授の河野博氏の別添
資料がある(注2)。「この線刻画はシュモクザメの特徴を的確に表現していることがわかる。したがって、シュモク
ザメを描いたとみるべきであり、サケとはみなしがたい」とかなり断定的である。だが、魚を横から見た図を右向き
にみており、鰭(ひれ)を背びれとしてサメの特徴と断定していることには賛成できない。
 一般に横顔の人物を描かせた場合、ほとんどの人が左向きに描く、漢字・英語やすべての字が左から右へ流れ
る成り立ちになっている。右利きの人が多い証拠であろう。縄文中期の前葉から中葉にかけての過度的時期と推
定される深沢U式土器[飯山市蓮の深沢遺跡(注3)]の一つには口縁部分に蛇身装飾と見られる文様がある。こ
の文様の一部は、馬高式の火焔形土器の萌芽とみられる波状表現があるが、渦巻き文と一体的となっており、私
は蛇身装飾とみている。この文様も左から右に描かれ、この土器の文様すべてが、右利きの特徴を有している。
これら右利き文様の特徴は縄文土器文様の通有な表現方法であることは絶対的である。
 山の神遺跡の魚形文土器も左向きで右利きの特徴をもち、線を仔細に観察すると頭部方向から尾の方向に線
が流れている。つまり河野氏が背びれとみる部分は腹びれである可能性が高い。また、サメの尾はT字形に近い
が、サケ・マスやコイは、ハの字形である。魚形文の尾もハの字形であり、シュモクザメではないことを示している。
 魚形文のサケ・マスであろうという見解について、宮下健司氏は「浅い鉢形の土器の口縁部近くから底にかけて
縦に長さ7・幅1センチで腹びれを二つもつ細長い魚である。コイやフナは長さが短く胴幅が広いことを考えると、
この描かれた魚はサケ・マスと考えられる(注4)」としている。
 高山村湯倉洞窟や長野市宮崎遺跡ではサメの歯の装身具が発見されてはいるが、これはあくまでも装身具で
あり、原始人の生業に係わる問題にサメが登場しているわけではない。サメが千曲川を遡ることはなく、この地方
の縄文時代に人々が係わるのはサケ・マスの中小河川の遡上であろう(注5)。山の神遺跡のすぐ南には千曲川
支流小河川の田草川が流れている。
 
 では、魚頭部に接するバナナ状部分をいかにみるべきか大いなる問題点である。これについては『図解考古学
辞典』に興味深い記述がある。小林行雄氏は北陸地方に多い縄文晩期の装飾石器(バナナ状石器)として「断面
形は楕円形あるいは楔形で、湾曲した内縁がうすくなったものも、外縁がうすくなったものもあって、一定しない(注
6)」と紹介している。この石器には装飾文様や顔面をかたどるものもあり、実用品ではなく、祭祀関係石器と認め
られるものである。



 しかし、その原形の実用具があるはずで、バナナ状石器・三日月形石器・嘴(くちばし)状石器とされる打製石器
が縄文時代に存在することが判明した。この中の一部遺跡からの類では魚の解体用具という説もあがっている。
 嘴状石器については、雄山閣出版社「季刊 考古学」に、君島武史が研究成果を寄稿している(注7)。両面加
工石器で先端に鳥の嘴状の鉤形を呈するのが特徴で、東北地方の縄文中期〜後期の限定された時期に伴うと
いう。一部は高平遺跡をはじめ新潟県にも分布し縄文中期中葉から後期前葉にかけて見られるという(注8)。所
属時期が不明だが、長野県辰野町樋口内城館址遺跡にも一例出土している(注9)。









 この嘴状石器はバナナ状装飾石器と所属時期が異なるが、縄文後期を介在して近接し、とくに縄文後期には多
様化した形態も見られるようであるから二者の関連性はあると見られよう。縄文晩期に嘴状石器が見られないの
は遺跡数が激減していて発見が出来ないのであろう。今後実用具としての嘴状石器の中でも三日月形石器が晩
期の遺跡で発見できる可能性は大である。ちなみに、縄文晩期に所属する青森県是川中居遺跡出土の異形石器
(重要文化財)とされるものに三日月形石器もあり、今後類似例が増すであろう。また、北海道や東北地方では少
なくとも縄文時代前期からはじまり、後期・晩期に普遍的に見られる石器であるとしている記述もある(注10)。
 縄文晩期のバナナ状装飾石器の富山県田向・岐阜県西沼例は山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚頭部につい
たバナナ状文様と極めて似ている。特に西沼例は祭器化に当たっての石刀類の影響が見られ、亀頭状部分を有
する山の神遺跡魚文土器のバナナ状文様との関連性は大である。
 
 大河・千曲川と支流の中小河川に恵まれた飯山地方の地域色を見る限り、原始・古代人の生業の一端は漁労
であることは間違いない。こうした観点からみて、コイやフナ・サケ・マス類を含む魚を解体する嘴状石器を神聖化
し、縄文晩期にバナナ状装飾石器あるいはバナナ形石刀が飯山地方に登場していたことは、近隣県の状況から
大いに推量できよう。
 私は祭具としてのバナナ状装飾石器あるいはバナナ形石刀が山の神遺跡の魚形線刻画土器に登場し、魚の頭
部を遮断する、まさに解体の一場面を器に表現することで、祭祀の器としての意義が深まったとみる。器が特別丁
寧に研磨された優品であることも、祭祀の器であることを証明しているし、胎土分析によりこの地方の土器と変わ
りないことは北陸地方からの搬入ではないことを証明している(注11の研究成果から援用)。魚の生命を絶つこと
は畏敬の念があり、漁労に対して祭祀を執行し、魚をいただくことに謝し、さらに豊漁を祈ったものであろう。
 また、さらに踏み込むと、魚形文土器の器は、祭祀に際し酒類を飲むことに使ったものと考えるのは私一人であ
ろうか?そうではあるまい。
 なお、山の神遺跡の集石遺構が果たして祭祀遺構か墓所かゴミ捨て場か、残念ながら下層の黒色土層からは
判別不可能の状態であったので、断定できない状態である。
 最後に土器の魚類が何であるかであるが、サケ・マスの特徴を縄文人が脳裏に刻み、コイなどの髭のある魚を
も加味した偶像であると仮説を呈したい。シュモクザメではないことは西村氏・宮下氏と同様説である。サケ・マス
は秋に獲れるものであり、春・夏は淡水魚の漁労である。因みに、現存の鯉の髭は2対の4本であることを付記し
ておきたい。山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚文の髭に合致する。偶像ということについては古代中国の竜や
四神(しじん)の青竜・百虎・朱雀・玄武をはじめとして、古代社会では現実を離れた偶像が、信仰の対象となる場
合が多くある。
 なお、山の神遺跡の名称は地元の大久保区の村民が愛称していたものであり、そういう字名があるわけでもな
いので私はこの字をあてている。山の神遺跡の範囲は飯山市大字静間字宮下から字法花寺に及んでいる。なお
静間・蓮をふくんで飯山市秋津地区となるので秋津の山の神遺跡としてもよい。長野県宝指定にあたっては多くの
人の努力があったことに感謝したい。(2015・3・26記 7・3更新)
 
引用参考文献
注1 高橋桂 1966「「縄文文化」江口善次編『秋津村誌』 飯山市公民館秋津分館 考古学資料は多くが松澤 
   芳宏他 中学生時代からの表面採集資料による。
注2 河野博 2014「長野県飯山市山ノ神遺跡出土の魚形線刻画土器について」2015県宝指定別添資料
注3 西沢隆治1982「深沢遺跡」『長野県史』考古資料全一巻(2)主要遺跡 北・東信では、深沢出土土器 を
1 〜3類に分類しているが、2類3類は筆者も加わった第1次発掘の住居址的遺構から一括出土したものが含ま
れ、同一年代の器の種類による縄文の有無の違いだけで、2類3類は同一年代のものがあるとみたい。従って、
私は深沢式土器を設定し、T式U式と分類したい。深沢T式は西沢氏の深沢1類が下島式直後型式とする見解
をはずし、関東の五領ヶ台式後半かその前後時期の併行期に該当するものを充て、縄文中期前葉に所属する。
深沢U式は西沢氏の2類3類に該当し、縄文中期前葉末から中葉初期に架かる時期と推定したい。この他、深沢
式土器には優れた研究もあるが、私の中では煩雑を避けるために、今のところ、この深沢T〜U式分類を採用
する。詳細は今後記すことにする(2016・2・2更新)。
注4 宮下健司 1995「サケ・マス漁と宮崎遺跡」小林計一郎監修『図説・北信濃の歴史上』 郷土出版社
注5 桐原健 1962「信濃における縄文後晩期の所謂「漁撈文化」に関する試論」『信濃』14の7 信濃史学会
注6 小林行雄 1959「装飾石器」水野清一・小林行雄編『図解考古学辞典』創元社
注7 君島武史 2012「嘴状石器」『季刊考古学』第119号 雄山閣
注8 インターネット 「高平遺跡の嘴状石器ー新潟県北部の史跡巡りー」
注9 日本道路公団名古屋建設局・長野県教育委員会1974『長野県中央道遺跡発掘報告書』辰野町その2
注10青森県教育委員会 2014『三内丸山遺跡年報−18−』
注11高橋桂 1972「魚形線刻画のある土器片」『信濃』24巻11号 信濃史学会
   水沢教子・降幡順子・寺内隆夫・望月静雄・建石徹 2013「山ノ神遺跡出土魚形線刻画土器の検討ー胎土
   分析を中心としてー」『奥信濃文化』第20号 飯山市ふるさと館友の会 山の神遺跡出土魚形線刻画土器
   を縄文晩期佐野U式として紹介している。

注12注8に関連して、鹿児島県埋蔵文化財センターが平成26年2月27日に発表したバナナ形の石刀(天附型石
刀)がある。鹿児島県鹿屋市・町田堀遺跡で、縄文後期後半の住居跡から出土した。北陸から東北地方の縄文
中期から後期にかけての嘴状(特にバナナ形・三日月形)打製石器が変化し、縄文後期後半以降に、石刀類の影
響を受けて祭器化したものが出現する可能性は大であり、北陸の縄文晩期のバナナ状装飾石器の前段階におけ
るものが九州の天附(あまつけ)型石刀であろう。北陸や中部・東北地方でも今後天附型石刀(バナナ形石刀)が
縄文後期後半以降の遺跡で発見できる可能性がある。すでに東北地方では、亀頭状部分を有する内反りの石刀
もある。
 論者によっては出土地域が離れているのでバナナ形石刀からバナナ形装飾石器への連続性を疑う向きもある
かもしれないが、鹿児島県仁田尾遺跡では縄文前期にブーメラン状磨製石器があり、この実用品が石器類・木器
類・骨角器類に出現していることはあり得よう。同様に列島各地でも石器類はもとより、木器・骨角器の魚類解体
用具が想像され、その祭器化したものが天附型石刀であり、バナナ形装飾石器であるかもしれない。
 また、一部に大陸伝来の青銅刀子(山形県三崎山に例がある)が実用具として機能していたことも、多量の磨製
石刀の縄文後・晩期の出現によって類推出来るかもしれない。
 あるいは、青銅刀子を模倣変形し、三日月形打製石器や磨製石刀の影響も加わり、バナナ形石刀が出現したと
も考えられるが、バナナ形石刀類の類例の増加を希望し、後考を待ちたい。いずれにしても、天附型磨製石刀と
バナナ形装飾石器は、飯山市山の神遺跡の魚文土器のバナナ状文様と大いに関係ありとするのが私の考えであ
り、祭器化した魚類解体用具と推定したい。北陸地方に多い魚形石製品も山の神遺跡魚文土器バナナ状部分と
関連した祭祀遺物と推定されよう。
 つまり、山の神遺跡魚文土器のバナナ状部分はシュモクザメの頭ではないことをここで再確認したい。バナナ状
文様は魚文様と線刻線で限られており、魚体とは別であることを縄文人が意識していたものであろうし、魚の頭部
先端が無いのは魚類の解体を暗示していることは先に記した。



その他参考文献
   大原正義 1981 「北信濃山ノ神遺跡出土の土器について」『信濃』33巻4号 信濃史学会
   大原正義 1982「山ノ神遺跡」『長野県史』考古資料全一巻(2)主要遺跡 北・東信
          大原氏は山の神遺跡魚文土器を佐野U式に位置づけた。縄文晩期中葉前後となろうか?
   飯山市教育委員会 2011「魚形線刻画土器が出土した山ノ神遺跡の発掘について」『奥信濃文化16号』 
                                          (2015・4・1更新7・3再更新)
   松澤芳宏 2015「飯山市静間山の神遺跡の魚形線刻画土器の魚類観察」『奥信濃文化第25号』飯山市ふ
          るさと館友の会刊行(本ホームページこの項の内容を整理したものを投稿)2016・2・4追記


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縄文中期深沢式土器の再検討
縄文中期深沢式土器の再検討