ゲームから体験性を抜いたら何が残るのか?


 




・ゲームから体験性を抜いたら何が残るか?

ゲームからゲーム性を抜いたとしても、インタラクティヴな何かは残る。では、ゲームから体験性を抜いた時に何が残るだろうか。

特にADVに絞ってみれば(RPGでもそうかも知れないが)、おそらくは、そこに残るのは、2Dかポリゴンドールかで上映される人形劇だろう。むろん、小説や映画同様の疑似体験は残る。と言うか、全てのメディアにそれはあり、それを完全に撤去することは不可能だ。 架空の話に感情移入し、その疑似体験を自己体験に変換できるのは、人間ぐらいだろう。もしかすると、クジラやイルカも、何か神話のようなものを語り継いでいるかもしれないが。

このサイトを立ち上げた時からのテーマである、ゲームだけがもつ優位性としての「ストーリー展開に関与できる」と言う事、それは相互作用であり、近年では、インタラクティブと呼ばれているものだ。それを捨ててまで、従来型のメディアに固執するのは、単なる劣等感(本当は、ゲームでなくて映画を作りたかったのに)で はないだろうか。

実際に、90年後半にゲーム会社に入社した人には、映像関連の専門学校卒が少なくない(某サトミタダシ氏も、映画関連だったと思う。卒論に自主映画一本撮ったという話を見た記憶がある)。この手合いにしてみれば、ゲームは踏み台しでしかなく、表現技法もン十年と続いた映画と比べれば、 ゲームなんて子供だましなのだろう。(この手合いの人たちが入社から五年程度して一本任されたとしたら、2000年 以後数年の「ゲーム大暗黒時代」と妙に合致する。97年は大豊作だったが)。

ゲームでなく、映画に走った某FFシリーズの人なんかも、そう言う認識なのかもしれない。コレも再三言っているが「映画のようなゲーム」は、私には、貶し言葉である。ゲームは映画を超える可能性を秘めた現状唯一つの表現法である。

振り返ってみれば、やたらとムービーにこだわるモノが増えたのも、そう言う認識が、心の深奥に潜んでいたからではないだろうか。そして、とうとう、ゲームのタイトル名で映画を撮ってしまったものが現れたわけだ。

実際問題として、ゲームという表現技法を信じているならば、そのシナリオやストーリープロットでゲームを作ったはずだ。でも彼は映画にした。それはゲームより映画という本心の表れだろう


・ゲームは映画を超えられるか?

ゲームが映画より優れている理由は繰り返しになるが、「展開が固定化される映画よりも、展開に観客が関与できるゲームの方が上位である」に尽きる。これもしつこいほどに上げているが、三角関係のラブコメで、プレイヤーの好みが反映できるのはゲームだけだ。そして、自分の選択の責任 を負うと言う体験が出来るのもゲームだけだ。そもそも、映画にも小説にも選択肢など無い。

だが、残念なことに、多くのゲーマーは、こうした体験性を好まないようである。それは、ゲームのアニメ化を歓迎する声の裏側にある。本来、展開に幅があるゲームの方が、よりストーリー性を楽しめる。にも関わらず、展開が固定化されるアニメ化を喜ぶのは、選択の重みを背負いたくないからか、他人の話として傍観したいと言う欲求であろう。

そこを的確にくみ取ったのか、最近ではADVと言いながらも、リニア展開であり、下手をすれば選択肢の一つもなく、QTEのようなミニゲームだけが、ゲームの残り滓として見えるものが少なくない。 それはフィギュアにガム一枚付けて、お菓子だ。と言い張っているようなモノ。両者納得の上でなら良いが、そうでなければ詐欺だろう。

実例を挙げればダンガンロンパだが。手がかりを回収しきるまで移動できない。犯行を止めることも出来ない。ミスはゲームオーバー。メッセージウィンドーという字幕の出る、人形劇でしかない。と言うよりも、ハナからゲームという書式で、劇を作っているようだ。 意図的に作っているならばいいのだが、ダンガンロンパは、人形劇にちょっとしたミニゲームを付けたものを、間違いなく「ゲーム」と勘違いしている気がする。 最たるモノは「世界に男は一人だけ…」だろう。選択肢は一つもないADVと言う偉業かつ異形をやってのけたのだから。

かなりきつい言い方となるが自分の作った話に酔いたいだけの、小説家や映画監督にはなれなかった人たちの吹きだまりになってないだろうか。もしくは、最初からそこを目指していたのだろうか。


そう言った意味で、踏み台としてのゲーム市場(特に同人)と言うモノを漠然と考察していた 。つまり、敷居の低いゲームで話題性と知名度を掴み、利率のいいもの(と言うか、本当にやりたいもの)へ移行する。その典型例として、月姫だかで始まったTypemoonの事を漠然と考えていた (同人エロゲは一番壁が低いと言う計算だったことは揺るぎない。別にけなしているわけではなく、経営戦略としては、すばらしく妥当かつ合理的で長期視野を持っている希有な人たちだ)が、 これから飛躍しようという同人サークルだけでなく、大手老舗も踏み台にしようとして来るとなると寂しいを通り越して、やや目眩を感じなくもない。

ゲームの可能性を信じてゲームを作る所と、ゲームを1ステップとして作る所。日本の現状では、後者が圧倒的に多い気がするし、それを望むユーザーも多い気がする。ゲームのアニメ化が熱望されるしね。本来ならば、複数に展開し、自分の言動が物語に寄与するゲームの方が高位でなくてはならないのに、視聴、言い換えれば傍観するだけのアニメ化を望む時点で、ユーザーの多くは本質的に体験でなく、傍聴を望んでいるのだろう。ならばゲームに未来はない 。ゲームからゲーム性を抜いても、インタラクティブな何かが残る。ゲームから体験性を抜いたら何が残るだろうか 。そこにあるのは、ゲームではない別の何かだ


GTAにしろSkyrimにしろ、メインストーリーはそんなに凝ったものではない。自分たちの作った世界で、自由に遊んで貰うことに苦心していると思うし、そこが人気の秘訣だと思う(GTAは、と言うかRockStarGamesは、かなり日本ナイズドされているが…RDDやGTA4の一本道かつタイミング固定具合は日本産かと思った。エースコンバットで 敵の独白が終わるまで無敵見たいな作りだし)。

日本のゲームは、どうにも「ゲームで遊んで貰う」と言う事を忘れている気がする。「僕の考えたスゴイ物語を聞かせてやるよ」とか「俺の作ったスゴイムービー見せてやるよ」と言う認識だと思う。その結実が、エースコンバットアサルトホライズンのドッグファイトモード。機銃が当たると、敵機が細かい破片となって分解していくエンジン作りました。このエンジンを見て欲しいから、ドッグファイトモード作りました。見たいな感じ。もしくは、ランブルローズの入場ムービーで、全てやりきりました。みたいなね。


・ゲームがゲームであるために

いまゲームを作っている人、これからゲームを作りたいと思っている人、それぞれに覚えていて欲しいのは

ゲームは、ストーリーを読んで貰う場所ではない。ストーリーの中で遊んで貰う場所だ
と言うこと。お仕着せの展開や、選択できない選択肢で、自分の作った想定通りの展開を鑑賞して貰う場ではない。と言うことだけは忘れないで欲しい。

テーブルトークだと、嫌われるマスターナンバーワンは、自分の設定に酔うマスターだった。NPCが主導し、プレイヤーはもはや講談か一人芝居を聞いている観客に過ぎないようなマスタリングをする人も少なくなかった( それは初心者が陥る罠でもある……って、デジタルなゲームは初心者レベルなのか?…まぁ、そうかもな…九龍なんて「テーブルトークシナリオ作成におけるべからず集」だし)。

ゲームはプレイできてこそゲームである。そして、ゲームのプレイとは、判断を下すことだ。

判断、つまり選択の決断こそがゲームだと思う。それは責任を伴い、取り返しが付かない。その決断こそが体験と言える。FPSにおける判断、攻撃が下火になった今リロードしておくべきだろうか?弾薬の残りが少ない、弾を集めやすい敵の武器に持ち替えるべきだろうか?等々と、ときメモで、そろそろ星川に爆弾が破裂しそうなんだけど、エリサからデートに誘われてしまった。と言うのは、方向性は違えど、選択の決断なのだ。

決断無くしてゲームたり得ない。と私は考える。だからこそ、自分のストーリーに酔いたい、酔わせたい人たちは、こぞって小説や映画のような 、一方的展開のゲームを作りたがるのだろう。だから、彼らはゲームを愛してない、愛しているのは自分の作った世界。ゆえに自分の世界の調和を乱すイレギュラー存在、つまりプレイヤーを排除しようとした結果、選択肢がないゲーム、読み物同然のゲームが出来上がったのではないか?

本当に、ゲームが好きで、表現技法としてのゲームの可能性を信じているならば、映画にしないで、ゲームにするよな、ファイナルファンタジー。古い話で恐縮だが、今この一文をまとめるに当たって、なぜ映画を作ったのかが見えた気がするので、改めて書きました。

私は、読み物ゲームと呼ぶのは、かなり侮蔑を込めて使っているのだが、どうにも理解されていない(通じないほど、重篤とは思ってなかった)。読み物ゲームとは、すなわち、プレイできないゲームであり、映画(Movie)と言いながら、スライド(静止画)を上映するようなモノ。すなわち詐欺にも等しい行為である。

別記事でも書いたが、ゲームという看板で、読み物を出すのは、焼き肉の看板で、シーフード専門店をやるようなモノだ(QTEがあるだろ、ってのは、魚肉って言うだろ、肉は肉だ並の屁理屈)。ゲームに品質表示や内容表示義務があったら、相当数のメーカーは行政指導の対象になっている事は間違いない。本当に、ゲームならゲーム。デジタルコミックならコミック、読み物なら読み物と正直に提示して欲しい。冷やし中華を頼んだら冷麺(じゃがいも麺)が出てくるような状況はカオスだ。


・本当にゲームが好きですか?

あなたは物語を鑑賞するのが好きですか?。自分の語りで人を酔わせたいですか、それとも自分の世界で、自由に遊んで貰いたいですか?。 他人が語る物語に酔いたいですか?。あなたは、本当にゲームが好きですか?。あなたの好きなそれは、本当にゲームですか?

遠くない未来、デジタルな人形劇を、ゲームと呼ぶ日が来るのだろうか。ゲーム性もなく、インタラクティブでもない。タイミング良くボタン押すだけの、変化のない 、変化させられない物語を、ただ拝聴する。

テレビの代わりに、ゲーム機でみるポリゴンアニメ、メッセージウィンドーという名の字幕。そんなシロモノを、30年後には「ゲーム」と呼んでいるのだろうか。そんなのは悪い夢だ。考えたくもない未来だ。


ゲームは踏み台で固定されてしまうのか。映画を超える、 ストーリー展開に関与できる物語装置としてのゲームは露と消える のか。もしかしたら、ゲーム史から見れば、最初からそんなものはイレギュラーで、消え去る運命だったのだろうか。

ゲーム史上、最初で最後の「ストーリーをインタラクティブに展開させようとした人が居た時代」に属せた私は幸せ者だったのかもしれない。もしかしたら、とんでもなく良い夢を見せてもらえていたのかも知れない。


少し振り返れば、演劇の世界でも、客の反応に会わせたシナリオ展開を理想とする人はいた。アメリカで「エドウィン・ドルードの謎」が上演された時には、六通りの結末が用意され、客のアンケート結果に会わせて展開を変えたそうだ。80年代後半の話だと思うので、90年前後は、インタラクティブなストーリーが理想とされた時代なのかも知れない。

従来の演劇(舞台、映画、アニメ)では、第四の壁を壊す方法は、ジョークにするしかなかった。ゲームでは最初から無いのかも知れない。ゲームとは「ライドウの視点を通じて、この世界を見ている君たち」なのだから。プレイヤーとは、観客であると同時に、役者であり、ディレクターでもある。ゲームにおける選択肢は、演出プランの決定でもある

「ここぞ」という決め時に「だめだ、ナニも思い浮かばん」と言わせるのか、「俺が君を守ってやる」と言うのか。天然なのか、かっこ付け野郎なのか、 自然とキメれるヤツなのか、ナナシ(Akiba'sTripの主人公)の性格を決めるのは、プレイヤーなのだから。

こんな事が出来る表現媒体は、ゲーム以外無い。映画のようなゲームが一番とか、しょせんゲームとか言いながら、プレイしてたり、制作しているようなヤツは、もう一度考えた方が良い。

あなたは、ゲームが好きですか?。あなたの作りたいそれは、本当にゲームですか?。ゲームの可能性を信じてますか?



………LAノワールはどっち方向に信じているのだろうか?。後続作品が出ないと判断つかないなぁ。


 


初稿2013/10/09  改稿2013/10/10


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