伏線とプロット

伏線がみえみえ、探偵のキャラクターが平凡、文章がギクシャク。
10ページで読む気がなくなりましたよ

−タブチコースケ(わたしはネコである殺人事件/いしいひさいち/講談社)

プロットが破綻し、トリックが空振りに終わって目も当てられない
−このミスがすごい!宝船社(わたしはネコである殺人事件/いしいひさいち/講談社)


なにゆえに、私ごときがこんな大仰な事を語っているのか、自分でもワケが分からなくなりつつありますが「伏線」「プロット」と言う言葉が通じないような感触があるとなると、基礎定義といいますか、基礎知識として一応語っておかないと行けないのかなと。

物語を書く上で「起承転結」と言うことは、よく語られますが、伏線とプロットというモノに触れてあるのは、なかなか無かったりします。なぜか。当たり前に有している事前設定だからか?、それとも、書き手も理解してないからか。可能性は半々です。大抵、シナリオの書き方とか、小説の書き方なんて本を出したり、市民講座をやっている人は、失礼ながら……まぁ、夢破れた人だったりする訳で。ゴルフのレッスンプロのように、教える専門家でもない。書きながら自分に一番堪えている訳ですが。


さて、伏線とプロットについてまとめようと、あれこれ考えてたら、即座に「これって、キャンペーンの組み方だよね?」と言う事になりまして、まぁ、伏線張りが最も如実なのはキャンペーンシナリオだし、プロットをきちんと組み立てる必要があるのも、キャンペーン。単発シナリオだと、アドリブで済ませられるしねぇ。やっぱ、ゲームのシナリオ書く人間には、TRPGをキッチリやらせるべきなんじゃないかと。ゲーム学校の実技に組み込んで欲しい と思います。

伏線とプロットという単語的な意味は辞書など引いて貰うとして、本来ならば、長編を書く上での必須事項であるのに、伏線もプロットもなくとも、違和感を感じない書き手が存在するのか。

と言う事を考察したら、やっぱり行き着くのは「マンガ」が原因になる。例えば、北斗の拳だと、シン編とカイオウ編には、つながりもなにもない。けれども、作品としては、北斗の拳でまとまっている。この 組み方をキャンペーンシナリオと勘違いしているのではないかと。

漫画、特に連載漫画の場合は、1エピソードが一本のシナリオであり、エピソードごとの連続性は重視されない。連載漫画という形態上、人気が出たから続けましょうとか、不人気なので、ここで…。と言う世界でもあるからで、この組み方こそが特殊例であり、特異形態。


つまり、北斗の拳で言うと、シン編、サウザー編は、当たり前ながら、別シナリオ。ゲームで言うなら、別パッケージになっているモノであるのに、北斗の拳という1タイトルの中での、存続した物語として、シン編、サウザー編が接続されている。と勘違いしているのではないかと。そんな勘違いをしていると、シーンの連続がシナリオと思ってしまうだろうし、脈絡のない一話読み切りを連続させてしまえば、一本の長編となると思っても不思議ではない。

言うなれば、四コマ漫画を並べても、一本の物語にならないように(揚げ足取り対策に言っておくと、ストーリー四コマは含むなよ)、同一主人公の短編集を、一本の長編と見なさないように、読み切り話を連続しても、長編には、絶対にならない。

そのバラバラの読み切り短編集でなく、一本の長編として、つなぎ合わせ、縫い合わせるのが「伏線」であり、「プロット」は、その読み切り短編、エピソードを貼り付ける台紙なのだ。つまり、プロットも伏線もない長編は存在しないと私が言うのは、そうした点から。

ただし、これは、複数エピソードをつなぐキャンペーン的な伏線、プロットの組み方の一例であり、単話読み切り型の場合は、伏線無しで、一気に展開させる技法も存在する。それは、短編であるがゆえで、悠長に伏線など張ってられない。と言う事情があるからなのだが、しかし、短くとも、きちんと伏線が張ってあると、出来に大きな違いが感じられる事も事実。

そも、伏線というのは、展開のほのめかしであり、ヒントであり、事件解決の手がかりである。それらを無くして、突如解決するという事は、犯人が脈絡なく自首する事に帰結する。そんな話は、どう言いつくろっても三流の仕事だ。



少々、細かく例を挙げて記述して見ようと思います。

私は、一本のゲームは、一つのシナリオプロットと考える。何話に分かれていようとも、一本のプロットが中心となっていてそれを解決させるために、脇の話があるのだと。きちんとしたテレビアニメが、それに一番近いのかも知れない。遊びの話やつなぎの話もあるが、50話前後で、発端から、徐々にクライマックスへとつないで、まとめていく。だからこそ、テレビアニメにはストーリー構成という担当者がいる訳で す。

シナリオ面から見ると、Gガンダムは非常によく練られていて、デビルガンダムを追う主人公という発端から、なぜ追うのか、デビルガンダムとはなんなのか。と言う伏線があちこちに散りばめられ、最後に集約され(対マスターアジア)、そしてそこからもう一段裏返してくる(対ウルベ)。

伏線のないゲームシナリオ的な形に置き換えると、ユニークなファイターたちと、ただファイトを続け、最終話で突如登場したデビルガンダムを、最終奥義を「はい」と突然手渡されて、デビルガンダム倒しておしまい。と言うところかな。

失礼ながら、さらに北斗の拳に置き換えると、ユニークなファイターである特殊な拳士たちと戦い続け、最後に突如登場した北斗琉拳を、泰聖殿の女人像から「はい」と奥義手渡されて倒して終わり。繰り返すけど、北斗の拳は、シン編はシン編で独立しているし、カイオウ編はカイオウ編で独立しているから、連続シナリオと見なす方がオカシイんだけども。


ゲームってのは、何話に分かれていても、1パッケージで一つの物語で無くてはならず、まとめるためには、伏線や全体プロットというものが、必ず必要なんですよ。それがな ければ、シーンの連続体に過ぎず、四コママンガの羅列に過ぎず……ああ、そうか、四コマ漫画をいくつ並べたって、一本の物語にはならないのと同じで、一話読み切りを連続させても、それは、話が並んでいるだけで、一本の話ではない。それらを縫い合わせるのが伏線であり、貼り付ける台紙がプロットなんだわ。

少々、妙だが、伏線やプロットは、物語における「ピタゴラスイッチ」と例える事が出来る。
一見全く関係ない行為が、次の装置の起動スイッチであり、それが連続していき、ゴールである最終装置を起動させる。

物語におけるプロットとは、ピタゴラ装置の設計図であり、どういう装置で、どういう動きをさせ、最終装置までどういうルートをたどらせるか。と言える。
伏線とは、個々のスイッチの動作であり、一見、脈絡が無くとも、装置全体で見れば、重要な動きをしているもの。

そのため、個のスイッチ動作である、伏線が崩壊していれば、物語というピタゴラ装置は失敗であり、プロットと言う設計図、見取り図がなければ、ゴールという最終装置にたどり着けず、これも失敗と言える。

ほとんどの作家は、プロットが崩壊している。と言うと、その物語自体が崩壊していると認識する。物書きとして、最も恥ずべき行為なのだ。伏線がないことと、脈絡がないことは、ほぼ同意義であり、これも又、恥ずべき行為である。と断言する。


と言うよりも、プロットによって骨子を作り、そこから、エピソードをどう分配していくか?。と言うのがベーシックな作り方だと思うんだけど…プロットがない話が作れる訳がないんだけど、プロットを感じさせないシナリオがあふれているのはなぜだろうか?。

たとえば、XTH1。アスカとサーカスのすれ違いと対決、リリスとの再会がピークとなるように、プロットを組むはず。なのに、そこへ導こうとする「伏線」と言う、ほのめかし等がほとんど無い。

例えば、メタルサーガ。地球管理コンピューターの暴走によって、世界が再度破滅の危機にある。と言う落着点があるにもかかわらず、そこへ誘導する「伏線」が全くない。

例えば、大遭難。古代船を見つけて脱出。と言う落着点があるのに、そこにいたるのは、ただ発見器を作って設置しまくるだけと言う芸の無さ。

つまり最終話に至るまでに、伏線という、ほのめかしによって、話を盛り上げるべきにも関わらず、そうした事を一切していないならば、プロットは破綻しているとしか言えない。と言うよりも、そもそも、プロットが存在していないではないか。計画性など無く、ただ思いついたエピソードを連続させただけではないのか。

ここで、当初の結論に戻る。同一主人公による短編集は、けっして長編作とは呼ばれない

SF作家の山本弘さんも「エピソードを羅列したら、ストーリーになると思ったらあかん」と、実写映画のデビルマン評で述べられております。

私は、エピソードとエピソードをつなぐものが、伏線だと考えています。故に伏線のない物語が信じられない。


あえて言うならば、そうした長編にする技量がないならば、かつて流行ったオムニバススタイルを取ればいい。川野口ノブなど、書庫やアーカイブからの回想。と言うスタイルを取っていれば、とくに問題のある話ではない。

と言うところで、やっぱり、連載漫画のようなスタイルを一本の長編って解釈しているのだろうという事に落ち着くなぁ。もう一度繰り返すけど、漫画、特に連載漫画は、同一主人公による、短編、中編集であって、すべてが連続している一本の長編ではない。

ときに、文章書きにとって、「伏線が見え見え」って言うのは、カチンと来る言葉ですし、「プロットが破綻している」と言うのは、最大限の屈辱なワケですが、「伏線がない」「プロットがない」って言うのは………



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