ゲームへのコンセンサス

つまり、プレイヤーにはそれぞれ、期待している物語ジャンルがあるわけです(これはゲームのシナリオ展開あるいは出来不出来とは別次元の話です)。
そうして、この物語ジャンルにおけるプレイヤーとマスターの同意事項、これが「総意」です
(中略)
コンベンションなどで見知らぬ人同士のプレイの時には、一部を明文化して、マスターがプレイヤーを募集することがあります。
(「さぁさ、ばりばりの戦闘指向のトラベラーだよ」「うちはファンタジーのシティアドベンチャーだよ」)
−クトゥルフ通信 牧山昌弘(RPGマガジン94年6月号)
 


 

・ゲームは素材か、料理か


さて、まずはGAMELIFEさんの『「ビデオゲーム」がゲームである必要があるか』と言う記事をご一読。

相変わらず、視点と論の構成がよいです。
で、

>>ビデオゲームはこういった誇りや感動、苦しみといった様々な情動を体験させられる「ゲームではない何か」になれる可能性を秘めている(別にそれがゲームであってもいいのだけど)。これは既存の受け身のエンターテイメントで体験することはできない。
 
>>それはジャンル名にも現れている。ゲーム機で遊ばれるほとんどの「インタラクティブな何か」には○○ゲーム、というレッテルが貼られるではないか。それによって例えば「ノベルゲームは“ゲーム”であるはず。だけどこの作品はゲームではないからクソ!」という裁きが下される可能性をはらんでいる。

総論としては異存はないモノの、特にこの「ゲームではない何か」になれる可能性というものがずいぶんと引っかかっていました。私なりに導き出した回答が「ゲームでない何か」になったら、もはや「ゲームではない」と言う単純なモノでした。

変な例え方をすると、ラーメンが食べたくて、ラーメンを頼んだのに「これはラーメンの進化形だから」といって、ラーメンスープで炊きあげた、ラーメンご飯を出されても、困る。と言うこと。

ずぞぞぞぞっと麺を啜り、ふーふー言いながら汁を飲みたい。と思って注文したのに、勝手に変えられてしまった。米を口いっぱいに、ほおばる喜びではなく、麺をすすり上げたいのに。

ゲームでない何か、ゲームを越えた何か。は常に目指すべきであると思うし、私も見てみたい。しかし、ゲームという枠の中での頂点を目指すことも、忘れてはならないと思う。

そこで、ゲームとはなにか。と言う問題に直面する。ゲームは、素材なのか、枠の定まった料理なのか。

例えを廃するならば「ゲームとは、大なり小なりのゲーム性を有したデジタルエンターテイメント」なのか、それとも「ただのデジタルエンターテイメントで、ゲーム性は進化の過渡期に表れた太めの枝(有力種)」にすぎないのか。

ゲーム性を持たないモノをゲームと呼んで良いのか。と言う事に収れんする。



・デジタルエンターテイメントは細分化するべきだ

私は、GAMELIFEの記事の前に「PCやゲーム機で行う、エンターテイメントを十把一絡げにゲームと呼ぶのは止めるべきだ」と言うのを草稿を上げていたが、それに落着するとおもう。

つまり、アドベンチャーゲームという看板を掲げておきながら、「選択肢が一つもなく、ミニコントを見ることしかできない」ものや、「物語には影響を与えられないが、軽いシチュエーションの変化に関与できるもの」「自分の行動が、ダイレクトに物語に影響を与えるもの」これを一緒くたに「ゲーム」とカテゴライズしているのが現状である。

つまり、「がっつり肉を食おうとステーキハウスに行ったら、「ウチはシーフード専門のステーキハウスです」と言われるようなモノだ」。誰しも看板に偽りありと思うだろう。ゲームと言う看板を掲げる以上、ゲーム性は有しているべきだし、ゲーム性を廃したデジタル紙芝居や、インタラクティヴノベルなら、ちゃんとそれらを告知し、それを納得で購入して貰うべきだろう。肉よりもシーフードを好む人も少なくないのだから。


よく「エロゲにゲーム性なんかいらない」としたり顔で言われるが、ゲーム性がないものをゲームと名乗るのは許されるのだろうか。デジタルエロ本にフルプライスを出せるだろうか?。 ならば、DL販売のアダルトアニメなり、コミックなり、AVなり買えばいいハズだ。ゲーム性はいらない。と言ってる人に限って、アダルト素材をゲームしか買わない例は多い。それは単に自分に言い聞かせているだけではないのか。

現に、デジタル紙芝居として非ゲームを低価格で販売した「はっちゃけあやよさん」シリーズは、コアな人気を誇ったモノの売り上げ的には失敗であり、やっていることには大差ないどころか、アニメーションは勝るが、中身のストーリー的には 、はるかに劣る「VIPER」シリーズは、一大ムーヴメントとなった。Viperは完全な「中身の薄いショートアニメ」であり、CGが滑らかにアニメーションすると言う技術サンプルでゲームではなかったが、フルプライスにゲームの看板で売り出し、成功したのだ。

もしかすると、メーカーの側も「ゲーム」と言う看板は下げたいのかも知れないが、下げてしまうと売れなくなってしまうのかもしれない。特に、エロゲのAVGは、声つきのデジタル紙芝居でしかなく、ゲームではなく「読み物」だ。 そして、そのことを認め、告白してしまうと、「あやよ」の様に売れなくなるのだ。

現状のエロゲ界は『モロだしアダルトビデオ「中出しぶっかけ10連発」と濡れ場有りの純愛(的)映画「島崎藤村の新生」』を同時上映しているような映画館であると思う。 極論すれば、性欲発散の道具つまりオカズと、エロス有りの芸術を求めている人が同居しており、どちらにも所属できないコウモリ達が、ゲームに偽装していると言える。そして、きついことを言うと、作り手の多くは、ゲームと読み物の区別がついていない。自分の作った、自分に酔っている物語を、無理矢理ユーザーの口にねじ込んでいるだけなのに、ゲームと言い張るモノさえある。

「ゲーム性がないからクソ」と言うためには、ゲームと非ゲームをきちんと分けて評価できる体制をユーザーも作らなくてはいけない。デジタルエンターテイメントにきちんと代金を払うべきでもある 。「はっちゃけあやよさん」は、コストダウンのためにプロテクトフリーだったが「デジタル紙芝居に金なんか出せねぇよ」と海賊天国だった 。


かなり遠回りしてしまったが、つまるところ、ユーザーは購入時に「おそらくこういう感じのゲームだろう」と推測して、自分の好みに合うものを探しているはずである。その情報は、パッケージの宣伝文句や、公式サイトの紹介、雑誌やネットの公式情報、そして口コミから判断する。表題にも引用させて貰ったように、こういうゲームがプレイしたい。と思って購入する(テーブルトークのコンベンションなら「参加したい」)し、作った側もこういうゲームですよ。と言うアピールはしたいだろう。

ゲームのカテゴリーで、ゲーム性をうたい、ゲームの価格で購入したのに、ゲーム性は微塵もない。となれば、それは詐欺だ。ルビーの指輪を買ったのに、メノウのアンクレットが入っていれば、みんな文句を言うだろう。松坂牛のブロックを注文したら、ブロイラーのもも肉が来たら?。フルプライスのゲームを買ったのに、モバゲー以下のゲーム性しかなかったら?。パッケージの売り文句が、全て切り落とされていたら? 。看板に偽りありという状況を看過し、放置した我々ユーザーにも責任はある今のままであり続けるならば、ゲームにも製品表示法を作るべきかも知れない(規制はろくな事にならないので、個人的には避けて欲しいが)


・そもそもゲームって何だろう

すこし脇へそれるが、これも述べておきたい。なにをもってゲーム性と言うのかは、人によって大きく異なるし、ジャンルによっても大きく異なる。

アクションゲームやシューティングゲームは、単純明快だが、AVGやRPGのゲーム性となると、意見は割れるだろう。ある人は、物語性重視というだろうし、ある人はシステム(キャラビルド)というだろうし、ある人は体験性と言うだろう。

私は、ゲーム性とは、interactionであるとおもう。物語のない体験は、ただの環境ソフトだろうし(分かりやすい物語が必要というわけではない。風景や土地にある歴史という物語が感じられるなら、それで十分)、体験のない物語は、ただの読み物だ(日本製のゲームに多く見られるわけだが)。戦闘や競争はなくても、ゲームは成り立つ(成り立つのはシステムがきちんと出来ているからなんだけど)

そもそもインタラクティヴはインタラクションinteractionで、相互作用。映画や小説が、一方的に展開を押し付けてくる、つまり受け身を強いられるのに対して、「ゲーム」では選択肢という作用で、物語に関与できる。と言うことが、私にとってのゲームだった。ゲームが映画を越えられる可能性を秘めている。と言うのもコレが根拠だった。再三繰り返す例えですが、恋愛モノで三角関係になった時、どちらのヒロインを選ぶか。の選択に迫られるのがゲームであり、主人公が勝手に選ぶなら小説といえる。

選ぶ。と言う行為には、プレイヤーの主観が間違いなく関与している。物語と体験性を同時に満たせるし、その選択が機能するシステムも持っているはずである(選択が世界に影響しないなら、なんら意味がないのだ)。あらゆるゲームは、選択の連続と言い換えることも出来る。シューティングゲームですら、画面を覆い尽くす弾幕に対して「安定して回避できるが、反撃のチャンスが少ない場所」「避けるのは難しいが、反撃のチャンスに恵まれた場所」どちらに留まるかとか、ボムをいつ、どこで使うか。FPSなら、これから屋内だけどショットガンに持ち替えるか、そのまま行くか。等々。判断の連続なのだ。

私にとってゲームとは「主体性を持って物語に関与できる」つまり「自分の選択が、自分に影響を及ぼす世界」双方向性、相互作用を持つ、非受け身の表現媒体である。と言うこと なんだと。エロゲにしても、優しくするか否か、自分だけ満足するか否か、その程度の選択もなければ、眺めるだけのAVと同じだ

傑作と言われるエロゲAVGも、冷静に分析してみれば「名前も人格も持つ主人公が、ヒロインを口説き落とすのを眺めている」にすぎないのだ。自分の考えに沿って、優しくすることも、後ろからガンガン突き上げることも出来ず、 他人の攻め方、やり方をを眺めているだけ。それはゲームか?、いや読み物だろう。

ただし「すこし展開に幅がある読み物ですよ。」と言われて、納得の上で購入していれば、なんらマイナス要素は感じない。 納得の上で注文すれば、ステーキハウスでシーフードが出てきても問題はナニもないのだ。まぁ、「エロゲ」は、明文化していないけど、そう言うモノ(声つきデジタル紙芝居)とコンセンサスができあがっているのかも知れない。 しかし、実情は、ゲームパートを持つモノと、同人レベルの絵付き小説が並列されている。ならばこそ、「ゲーム」と名乗らないで欲しいわけだが。


・総括
ゲームとはなにかをきっちり考える時期に来ていると思う。

大なり小なりゲーム性をもつデジタルエンターテイメント。と言う様式を備えた1ジャンルなのか。
デジタルエンターテイメントの全てを包括するモノで、ゲーム性をもつモノは、そのうちの一つにすぎない。

どちらをコンセンサスとするのか(もしくは、これ以外のなにかかも知れないが)。ゲームを越えた「何か」をどう扱うのか。そもそも何を持ってゲーム性と言うのか。概ね1980年代に生まれたビデオゲームは、ただ勢いのままに、前も見ずに突っ走ってきたが、そろそろ色々考え、まとめるべきなんだと思う。その一助になれれば幸いである。
 


2012/06/15 加筆 2013/04/03 追加筆
 


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