読解力の無さと声の大きさ(2012/02/02)
もしくは、羞恥心のなさ?。このブログのコメントを見て思った。体験的にも、明らかに読解力…というか、それ以前の「日本語が読めないレベル」の人の方がコメントくれるんだよね、迷惑なことに。もの凄く分かりやすいのは、本文中に書いてあることを得意げに語ってくれたりとか。最初の数行だけ読んで、後は脊椎反射で書いてるだろうってレベル。
件のブログのコメントも、正直ヒドイレベルで、どう読んでも「ステマ批判+ゲーム買わずに非難」する人。もっと言うと『ステマ批判をする。かつ、ゲームも買わずに非難する人』なんだけど、どういうシナプス連結なのか「ステマ批判=ゲーム買わずに非難」になっている。柔らかく「繋がりが不明」とか言ってるけど、腹の中は「筋が通ってない」って思ってるのは見える。そりゃそうだ、つながってないし、そんな四次元通り越して、六次元殺法な繋ぎ方するのオメーだけだと言いたくなる。他人事だから言わないけど。
ぶっちゃけ、解剖したいレベル。頭蓋骨開いたら、脳にシワがないどころか、右脳も左脳もない新人類だったりすると救われるのだが。理解しやすいから。別個の生物ならしかたないじゃないですか。同じ地球人類で差がつくと悩むけど、別次元生物なら差があって当たり前だし。 でも、ここまで自信に満ちてると「私の方が異常なの?」と思っちゃう。いや、ホントに私の方がおかしいのか?。
私のように、無駄に長いかつ、読みにくい文ならしゃーないか。と思うのだが、件のブログのように、ごく短い文ですら理解できてないとなると非常に深刻。もの凄いレアケースだと良いんだけど、ここまで酷くないにしても、書いてあるままにしか受け取れないとか、ネタが理解できない、漫才師に「そんなふざけたこと言っちゃ駄目」とか言うようなレベルは、散見する(と言うか、何人か来たし…そいや、彼らの論理展開は、同一人物?と思うぐらい画一的な思考だった…脳のどこか同じ場所に異常があるのではないかと疑ってしまう)。そりゃあ、伏線も張れないか。上のレベルに合わせると不満言うしね、この手合い。努力とか嫌いだから。で、下のレベルに合わせると(と言うか、当人たちは自分が正しいと思っているので、自分に合わせるのが上のレベルと思ってるよね)、全てにおいて衰退する、と。
行間もなく、含みを待たせる表現も出来なくなっていくわけですよ。誤解させない文を書くと。いわゆる、取説化?。絶対に間違わない書き方ってああなる。そう言えば、オールザットウルトラ科学のマンガの方に「笑い話として、取説に「日本語が読めますか」と言う項目がつくかも知れない」とあったけど、現に必要かも知れないなぁ。
話がそれた。何故に、彼らは声が大きいのだろうか。読解力がある。と言うか並の人は、相手の言わんが事を理解しようと努める。と思う。が、読解力のない人間は、他者を理解しようとしない。自分が絶対。自分が間違っているはずがない。ゆえに自信を持って書き込む。なのかなぁ?。それとも、そんなプロセスを経ずに、脊椎反射で書き込むのだろうか。
まぁ、永遠に理解できないだろうなぁ。ソラリスかZONEか。そんな高尚ちゃうわな。まぁ、別に理解しなくても良いし、理解する必要もないのだけど、目立つから邪魔くさいのよねぇ。あ、声が大きい=読解力無いでは「ない」。って書いておかないと、それこそ、文句言われちゃう。
補記
語気が荒い人ほど、頓珍漢な自論を自信満々に振りかざすのも特徴ですよね。特にツイッター。「そんなことも分からないのか」と噛みついてるけど、本文の論旨そこじゃないし。と言うのはホントに多い。常に一定数はいると見た方が良さそうだ。ネットによって顕在化したんですかねぇ。居酒屋談義とか床屋談義とか同レベルだし。社会党贔屓のおっちゃんが、独演会してまわり苦笑失笑でしたわよ、こないだの床屋。でも本人ご満悦。
十年一昔(2012/02/07)
この記事。やっとこ、受け入れられる土壌ができたなぁ。というか、時代が追いついてきた!?。と久々に勘違いキャラを出しつつ…って、書かなきゃいけないのが虚しいよな…ゲームは映画を超えれる。とか、鑑賞ゲーはいらない。と言うようなことを言い続けて、ようやくここまで来たかと。
「主人公の視点=プレイヤーの視点」と言う話をしたら「そんな設定はねぇ!」とか言われたことを昨日のように思い出す。 没入感すら通じなかった時代が、たかだか数年前だったことを思えば駆け足な進歩かも知れない。
ただ、カットシーンは上手く使えば盛り上がる良い技法なので、記事内容にあるとおり、それ自体は悪いことではない。特に「なりきり系」では上手くはまると思う。ここぞ。と言うところで使うべきであって、あちこちにちりばめておくシロモノではない。特に、カットシーンでは突然、主視点を奪われて、観客目線になるのは避けた方が良い。確実に没入感を削ぐだけだから。
まぁ、パンケーキでも、シロップをドボドボと必要以上にかけて喰うのが美味い。と思う時期は必ずあるわけで、そこから適量を見出していく。カットシーンの奔流もシロップドボドボ時代で、これから洗練されていくと思いたい。
現に、冗長なムービーから、切り詰められたカットシーン主体へ移行したわけで。それでもまだ長い、多いって話だけど。 記事ではどちらかと言えば、ムービーからカットシーンへの移行は悪化とされているけど、シームレスで、視点を崩さずにやるなら、没入感は高まるはず(私的には30分おきに必然性のないピクサーアニメを見る方が、いらただしい。部屋に飛び込んだら、もぬけの殻だったなら必然性がある演出だが、超人的な剣劇アクションをしながら「なぜあいつを巻き込んだ」とか哲学論争をするムービーはただの自慰行為だ)。説明のための「数秒間の硬直」に留まるはず。ただそれは、カットシーンなのか?と言う疑問は沸く。
例えば、祭壇にアイテムをセットしたら、古代の邪神官が甦りました。って言うシーン。
ムービーだと、部屋に入った瞬間から、切り替わって、祭壇まで歩く、アイテムセット、光り出すアイテムに照らされる主人公、棺桶が 、ばかーんと吹き飛んで神官復活、長台詞スタート。
カットシーンだと、祭壇の前に行ったら「Eボタン:アイテムを供える」って出て、供えたら切り替わって、光り出したアイテムに照らされて(以下略)
最近のだと、供えたら、カメラは回せる、動けるけど、復活するまで攻撃は出来ない。みたいな?
このカメラを回せたり、動けるけど、行動制限がかかるっていう状況は、カットシーンに入るのだろうか?
まぁ、skyrimみたいに、棺桶から起き上がった時点で攻撃できるとかだと、入らないんだと思うけど。 セリフの最中に攻撃できたりするし。セリフを全部聞かせるために、攻撃不能にすると言うのは、なんにはいるのだろう。
で、またツイッターなんだけど、見てみると「え十年前の記事じゃないの?」とか言ってるのが何人か居るわけだけど、ほぼ確実に、コイツらは十年前に、この話をすると「何いってんの?ムービーいるに決まってるじゃん」な回答したやつらだと思う(上記「そんな設定はねぇ」一派かと)。十年前って、2000年代初頭よ。ムービーゲー真っ盛りよ?。2007年でも、まだまだムービー鑑賞ゲーあふれていたのに。
まぁ小馬鹿にするような発言する人って中身無い上に、背伸び発言だから、反応しちゃ駄目なんだけどね。件の発言も「オレはもっと早く気がついてましたー」的な見栄張りに思える。いわゆる「女子サッカー、みんなより早く目を付けてたもんね」系。ちなみに、「この問題五年前から脱却できてないんだよなぁ」ぐらいのつぶやきだと、真摯に向き合ってた人の発言と思える。だいたい「なにこれ?」とか言う人は、中身がないただの中傷率高い上に、的外れだったりするんだなコレが。
だいたい、ゲームは五年一昔、COD4:MWが2007年に席巻してから丁度五年。市場が飽き始めている事からも分かるように、流行ったスタイルは五年は保つ。1997年にFF7ムービーで席巻して五年で…2002年?。あれ?合うのか?。単なる私の嫉妬か。見栄はってたのは私自身か?。でもまぁ、飽き始めから実際に飽きるまでさらなる時間が必要だし…とかいって誤魔化してみる。
skyrim33%off(2012/02/08)
こう、そろそろ更新しなくちゃと無理にネタをひりだしたら、ナチュラルにネタになるモノが降ってくると言う。これもマーフィー・チャン伍長の呪いか。
と言うわけで、midweekmadnessでskyrim33%off。39.99っすよ。ああ、もう二十日我慢していれば…20ドル違った…20ドルあれば、STALKER CoP買えた…くそうGABEめ!。というか、TESセットで、モロウウィンド、オブリビオン、スカイリムセットで49.99とかねー。もーねー。いや、59.99ドルの価値はあったし、それ以上に楽しめてるんだけどねー、目の前で割り引きされてるとねー。この行き場のない悔しさはドコへぶつけよう。
本当は、クリエイションキット公開記念らしいんですが。また、街のばあさんを若返らせたりしちゃうのだろうか、自分。指輪を左右にしたり、ティアラを兜の下に付けたり。
と言うわけで、気がついたらレベル57。メインクエストは、ほぼ手を付けていない状態、相変わらずだ(笑)。で、相変わらずperkポイントはため込むタイプなので、10ポイント以上溜めているにもかかわらず、レベル50越したら、すこんと敵が弱くなった気がします。救済策?、それとも敵の上限越えた?。レベル47では、フォースウォーンの華麗な二刀流で為す術なく削り殺されてたりしたんですけどねぇ。ドラゴンに投げ飛ばされたり。そう言えば、来襲頻度も減ったなぁ。五日おきぐらいに来てたモノだけど。
で、今のところの感想としては、ドラゴンの扱いが軽くない?。ランダムエンカウントのドラゴンがいるのが軽く思える原因かと。ドラゴン、固定数で良いと思うんだ。大抵バグるのドラゴン戦だし。ファストトラベルで飛んだ瞬間に、男声合唱が始まって、最初は来たか?が、すぐにマタカに。しかも、挙動がおかしくなること多々。バックファイアはまだ無いけど。なんか変なところを延々と旋回したり、ウサギとか山羊を目の敵にしたり。ドラゴン2匹同時に来たこともあったなぁ。
ま、そんなわけで、ドラゴン固定数のが、その神秘性、強大さを保持出来たんじゃないかと。きちんと計ってないけど、だいたい一週間に一回のペースで来襲されちゃあねぇ。骨と鱗在庫100越えてます。作ったら、イマイチ格好良くなくて、デイドラのがいいじゃん!な感じに。重装ドラゴンの兜は、ちゃんと白というか、骨っぽくしてよ…なんで南部鉄カラーかと。
ストーリーラインとしては、内戦ネタなので、やや重い。どっちの言い分も一理あって、信念もあって、どっちが悪とか割り切れないのが良いよね。で、どっちにも入隊出来ないのさー。
今回は、育て方に地雷がなく、オブリだと体力(耐久力、持久力)先に上げないと、HPに雲泥の差が出る仕組みだったしねぇ。地雷と言うほどでもないけど、役立たずなのが、解錠系perk。falloutみたいに、スキルが足りないと挑めない。とか無いので、ピックばきばき折りながら開けられる。隠密の左側も、やや微妙。ブーツには消音が付呪できるし、最悪脱げばいいし。床トラップは気をつけていればいいし。右ルートのバックスタブ系は戦闘スタイルによるので。
付呪と言えばオブリの方法では強すぎると思ったのか、今回はスキル100のperkでようやく二種を付呪出来る。スリップ系ないのが困る。いやぁ、超遠距離から隠密撃ちして、スリップダメージで削りきるってのが、オブリのスタイルだったので。暗視も出てこないんだよねぇ。魔法の自作もないしねー。この辺から、59.99でも十分すぎるほど楽しめているのが伝わればと。
全然関係ないけど、このネタ。私の地域で変だったのは「わかめご飯とヨーク(ヨーグルト飲料)」、壊滅的に合わないのよ。ヨークは当時の憧れアイテムでみんなが待ち望んでいたのに。台無し組み合わせ。で、本題としては「何が変か分からない」と言う意見が全体の一割(20代が多数)ほどあったとか。写真にある、チョコチップパンとのり塩ポテトチップ、ワンタンと果物…主菜は?…ワンタン?、いやスープよね?。まさかポテチ?…ポテチをおかずに菓子パン?。それは異常と思うべきだよね。一汁一菜って基本でなかった?。私の地域だと、汁椀、おかず皿、主食にデザートと四皿普通だったのは、田舎ゆえの豪華さだったのか(田舎は物価が安いので、予算が同じでも豪華に出来る。自衛隊も、地方のが豪華らしい)。
それが当たり前の世界にいると、特殊な世界に居ることが分からなくなるのよね。
また、強引につなげるけど、伏線も何もないゲームストーリーで育った世代は、それがおかしいとは思わない。指摘されるまで気づきもしない。か細くでも声は上げないと駄目なんだなと。
今日は(ネタが)よくふるなぁ
と言うところで、さらにこの記事。これを突き詰めると『海外ではゲームは大人のモノ。日本では子供のモノ』と言う認識があるのではないか。アニメで、子供が主人公なのは、主な視聴者である子供が感情移入しやすいように、同世代にすることも一因だし。主な客層がどの年代か。と言う現れと言えないだろうか。
ま、ストーリーラインも、絵本並だしね。和製。とか書くと、アレは違う、コレは違うとか個別事案持ち込む人が出るんだよねぇ。比率の問題よ、比率。胴長短足の日本人つっても、足長い人もおるし。
もう少し踏み込んでみよう(2012/02/08)
仮説1 海外の方が、訓練の過酷さを知っている
日本だと、ろくに運動もしたことがないのに、剣を偶然手にして、魔物(すなわち、動きの予測がつかない難敵)をあっさり倒して「ゆーしゃさまー」は、よくあるパターン。これほど、白々しいモノもない。部活レベルの競技生活したこと無いだろうって設定 下にあるゲームは多々見て来ている。つまり、一流になれる訓練つんだら十代(しかも、前半)はないわ。であろう。18歳でインターポールの刑事とかなー、カプコンよ。
が、基本、海外の開発者もnerdなんで、そんなに訓練経験があるわけもない(アメリカなら州兵訓練とかありそうだが)。まわりに経験者がいたり、取材には行くその差かなぁ?。
もう少し足すと、お約束という名の予定調和を美しいと思うか、白々しい嘘と感じるかの違いかも。要するにJRPGは英雄には最初から勝利が確約されている世界なのだ。
仮説2 実は海外と差がない
若年主人公は、わりとスーパーヒーローには多い。スパイディは初出高校生だし。アイアムナンバー4もティーンだよね。バットマンはいい年だが。
つまり、スーパーパワーという訓練不要の能力を持っている場合は、海外でも若く設定される。バットマンが歳なのは、訓練によって得た力だからだ。と言うことも出来る。
和製RPGの年が若いのは、彼らの異才はスーパーパワーであり、訓練で得られた能力ではないからだ。と言う見方も出来る。振り返ってみれば、勇者は、すべからくスーパーキャラ。剣も魔法も体力も高い。
が、アイアンマンもいい年だし、スーパーマンや宇宙忍者ゴームズ(ファンタスティック4なんて言わないぞ)も、いい年であるので、成立しそうだが、成立しない仮説だ。
結論
単に、日本人は若年主人公が好き。
桃太郎にしても、金太郎にしても、幼児である。牛若丸も成人後よりは、五条橋の当たりのが好まれる。特に、金太郎は成人してからは、坂田金時で、鬼退治集団で有名な頼光四天王の一角。酒呑童子討伐にも参加しているが、その知名度は低い(と思う。アンケート取ったこと無いので)。桃太郎が成人した後の話など誰も知らないだろう(そもそも存在するのか?)。
これらはおとぎ話であり、子供向けに加工された。と言うことは、児童が感情移入しやすいように、主人公の年齢の下げているからであり、つまるところ、主な視聴層に合わせた結果。講談や浄瑠璃は大人主役だし。と言うことは、やっぱ、『海外ではゲームは大人のモノ。日本では子供のモノ』 なんじゃないかと。それが証拠に、現代でもテレビドラマや映画では、適齢の人が主役であり、子供が主役のモノは子供番組である。……ゲームのストーリープロットが単純なのも、子供用だから?
ハイキング(2012/02/10)
ってカタカナで書くと、山登りって思うよねぇ。ベセスダ名物クエスト進行不可バグが発生したので、wikiをチラ見するように。なるべく英語wikiで不必要な情報は切り捨てるようにしていたんですが、コンソールでも解決出来ないので、JPwiki熟読。同胞団の「Forever Mourning」だった模様。私の場合、シャリドールの洞察で指定されてたわけですが(wikiに書き足しといた。wikiもう参加しないつっといてねぇ)。
熟読ついでに、ベースを英語にしつつ日本語化の方法があったので、日本語化開始。ショートカットのダブルキャスト不可バグがない。日本語版だと、右手に武器を持つと、ショートカットメニューからは外せなかったのよ。インベントリを開く必要があった(戦闘でそんな暇ねぇ)。ショートカットから出来ると、プレイスタイル変わるなあ。 というか、マウスで直接指定出来ないバグは日本語版のみか(方向キーで決定ゾーンに選択肢入れないと反応しなかった。最初のコンティニュー、ニューゲーム、ロードなんかも、方向キーで選ばないと駄目なコントローラー仕様)。しかし、未だに直さないのは日本語版スタッフはやる気ねぇだろ。と言うか、なんで日本語だけバージョン違うのん?。ボイスデータと字幕データだけの差し替えですむんちゃうのん?。まぁ、日本のPCゲーム市場は冷えてるからなぁ、力入らないよね…。 でもって、休憩、睡眠時に決定出来ないバグはwikiに報告ないので、マウスとの相性なのかなぁ?。
と言うわけで、字幕日本語、ボイス英語でプレイ。衛兵を問い詰めて、上級王の話を聞き出したところ「ハイキング」ゆーとりました。カタカナでハイキングだと山散歩だよねぇ。と言うところにつながります。中黒入れるか「ハイ・キング」。こうしてみると、上級王が一番いい気がする。三日もするとなれたし(言葉の違和感なんてそんなモノ)。アルゴニアンも今作では、滑舌がかなり良い見たい。猫族は今回見つけにくいのでまだ。オブリビオンのガラガラ声のイメージが強力だったのだけど。
それはそれとして、本体の種類ごとに、ゲーム内容を変える。と言うのはゲーム会社的には売り上げ二倍、本体メーカー的にはシェア獲得なんだろうけど、ユーザー的には裏切りだよね。パッチやダウンロードでの配布が可能な現状、その裏切られ感は跳ね上がる。
端的なのは、侍道3。初出、PS3。箱○。PS3のみで、プラス版。プラス版の内容なんてDLCでどうとでもなるレベルだったのに。まぁ、こう言うのを書くとPS信者は当たり前だろう。と言うのだろうけど。この本体信者の目的が分からない。ソニーの謀略なら理解出来るのだが。シェア競争無いと、発展はないよ?。価格の値下げもないよ?。海外でも、PS3信者対箱○信者とかあるのかなぁ。
こう、PC群雄割拠時代の名残みたいな気がするのよねぇ。88版、98版、X1版、FM7版、全部内容違います。みたいなのもありましたよね、T&Eソフトさん?。
ま、何が言いたいかって言うと、ナムコは、アイマス2のPS3に盛りこんだ機能、DLCで箱○にも適応しろと。箱○ユーザーは大人だから、無料で出せとは言わないし。侍道3のPS3狂信者のように強訴もしないし。てゆーか、DLCの動画ぐらい撮ろうよ…公式サイトVOL7止まってるの、すごい空き家感ですよと。
ここまでの切り離しがあると、マイクロソフトとなにかもめたのか、市場で猛烈な差があるのかなぁ。まぁ、シェアは大差なんだけど。PC版の良いところは…というか海外の良いところは、パッチリリースがマメなのよね。日本産は、売った後はシラね。有料βと言われようが、予約分で儲けは確保済みィ。見たいな風潮が 、ながーーーく(今も?)あったからなぁ。だから単価高いのか。コンスタントに売る自信がないからか。
オマケ
この記事。「中国化」と言う言葉に、脊椎反射している知的貧困者がスゴイわぁ。毎度思うけど、寄稿記事に「さすがクソ3k」とか言うのは脳みそを疑う。書評なのに、 本の内容に対して記事を書いた人間を悪く言う人とかもね(その解釈は違う。なら分かるが、本の内容に対して書評家を攻めるのはお門違いだ)。
まぁ、意向に沿った人を探してくると言う面もあるが、まず言うべきは、記事(本)を書いた人間へだろう。大手マスメディアを悪く言えば良いという思考停止というか、ただのフラストレーションのはけ口よね。そもそも、産経って右翼扱いされると思いきゃ、中韓礼賛で叩かれたりと、むたくたよね。産経に筋がないのか、中立報道を寄ってる連中がやり玉に挙げているのか。
なお、この「中国化」は共産党になる以前からの伝統的な中国大陸的統治システム化を指す(と思う…精読してないからなぁ)。平安とか飛鳥時代の統治システムは、モロに中国式(中国と日本で、右大臣左大臣の地位が入れ替わっている理由は有名ですな)で影響がないわけがない。そもそも、渡来系って中国朝鮮人なわけだし。物部氏の排斥は、渡来系、すなわち大陸人による日本征服完了と私は見なしている。
正味の所、ネットにおける空気形成に対して、ある程度の防御策を企業は考慮するべきではないだろうか。叩いても良い空気形成が出来てしまうと、追従増長組が増幅し、意味をなさなくなる。場の空気追従増長者は、人格批判と揚げ足取りしかできないにもかかわらず「良い事言ったオレ」な空気をにじみ出しているのがなんとも。叩いても良い、相手の人格を否定してもいい。と言う空気がにじみ出ると、何かに群がるハエのように、一斉に集まってくるモノだ。
PCWATCHの連載コラムのツイッターの反応を見比べるとよく分かる(例えばここの「Intelの規定ではUltrabookは、その厚みが21mm以下であればいい>意味ねぇ」とか。ちなみにウィキペディアでは「Ultrabook(ウルトラブック)は、インテルが新たに提唱する、薄型軽量ノートパソコンのカテゴリである」。つまりインテルの指定に沿うかどうかは重要なハズ)。こっちの後藤氏の記事と比べると空気の違いが分かる。
立ち上げ時に10人か20人で、揚げ足取りや人格否定をやりにくい空気をひとまず形成すると言うのは、特にツイッターでは大事ではないかと感じる。単純な礼賛にならないようなバランス感覚が必要だとは思うけど。世論誘導と見るか、自衛策とみるか、意見は割れそうだけれども。
シークレットとカットシーン(2012/02/11)
この二つは無くても成立するが、無いと寂しいモノである。シークレットは、洋ゲーFPS、特にGUN&RUNタイプでよくある隠し部屋、隠しアイテムで、いわゆる秘密のボーナス。このフューチャーの原形は、インベーダーの何発目でUFOを落とすと高得点。とか、ギャラクシアンで編隊のリーダー機を先に落とすと高得点と言ったモノだろう。ゼビウスのソルやフラッグとなり、スーパーマリオの土管ショートカットへ流れていく。
いわゆる隠しフューチャーと呼ばれるモノで、本来ならば、ゲームには無くても成立する類のもの。隠し部屋のアイテム無くしてクリア不可ならば、それは隠しアイテムではなく、必須アイテムだし。あれば便利だが、無くても何とかなる。そう言うデザインになっていなければ本末転倒と言えよう。しかし、ドルアーガの塔は、この裏技をゲーム性そのものに、つまり主軸にしたものではなかったか。とおもう。トレジャー無くしてクリア不能なのだから。
あの時代、ドルアーガの塔が受け入れられ、名作と呼ばれた理由は、こうした隠しフューチャーを探すことが、一大ブームであり、ゲーム性と認識されていたからではないか。あの時代、隠れキャラ(サキチとか)、隠し得点(765点)とか、各社何かを持っていた。
カットシーンも同様で、無くても成立させることは出来る。カットシーンは、演出の一つであり、盛り上げるための飾りであり、トッピングであったはず。PCやゲーム機の高スペック化によって、カットシーンを盛り込めるようになるまで、それ無しでやってきたのだから。そして、カットシーンにおけるドルアーガの塔化。本来土台であるべきゲーム性と、トッピングであったはずのカットシーンの比重が入れ替わったのが、いわゆるムービーゲーなのかなと。
ドルアーガの塔が、隠しフューチャーというシロップを必要以上にまでドボドボと浸るほどかけたパンケーキなのだとしたら、ムービーゲーも、カットシーンやアニメというシロップにつけ込んだパンケーキなのだろう。ゲームに限らず、これは良い。とか、コレは受ける。となったら、過剰になるモノだ。例えば、テレビのつっこみテロップ。一時期は、つっこみ音「ビシッ」とかまで出している局もあったように思う。スプラッタも、話などなく、ただ脳と内臓が散らばるだけのモノとか、何でもかんでも猟奇殺人とか。ヌードにしたって、陰毛が見えるかどうか以前は、乳首が見えるかどうかだったように思う。
私は見切りを付けてしまったムービーゲーだが、実はまだまだ過渡期で、これから洗練されていくのかも知れない。パンケーキで大事なのは、小麦粉と卵、生地であり、シロップは最後の味付けに過ぎない。無くても成立して叱るべきと悟る日はそう遠くないのかも知れない。そうなれば、確固たるゲーム性とそれを盛り上げるためのカットシーンの上手いペース配分、黄金比が発見されるかもしれない。
「かもしれない」を連発していることから分かるように、期待してないわけだが…って書かないと、絡まれるからなぁ。しょぱいよね、ワタシ。
意味がありそうでない言葉その3(2012/02/16)
その4かも知れないけど。意味がありそうで無い言葉、使うと賢そうに見えるけど、実は知的レベル丸出しな言葉。「このゲームはシステムが同じで詰まらない(ノベルゲーム全否定?)」とか「このマンガはトーンの量が少ないから下手だ(下手な人のがトーンで誤魔化してると思うけど)」とか「この絵は、オタクの文法に則して書かれている(文法に則してって、なんら新奇性がない、独自性もないって事?)」とか「文頭を一段落としてないから信憑性がない(………)」とか。最近さらに一つ気がつきました。
「結論ありき」です。
もちろん、会議や裁判で「結論ありきだ!」ってのは成り立つんですが、論壇の場とか論説にたいして「結論ありきでがっかりだ」とか言うコメントをチラホラ見たわけです。論壇、論説ってつまり、自説(持説?)を説くわけで、それは当たり前に、自己主張=結論があり、それに正当性を持たせるために、数字やら過去事例を出しているわけですよね?。結論に導くために、論述しているわけですよね?。逆に、結論のない論説、自説って、ただの居酒屋談義じゃない…おばちゃんの井戸場会議ですわ。オチないんか?的な、グダグダのしゃべり。この「オチ」は論説では、結論ないんか?に変わる。
そもそもにおいて、「原発再稼働という結論ありき」と言う追求(のつもりのもの)は、「原発停止という結論ありきで行動」している人に言われたくないなぁ。と。あくまで、一例として。気がついたきっかけがコレだったモノで。繰り返すけど「会議や裁判」とかには通用する言葉ですよ。と、アレな人対策に釘を。「この論文は結論ありきだ!」とか例えると、可笑しさが分かりやすい?。
しかしまぁ、トマトやヨーグルトがバカ売れ。と言う報道を見ると、消費って空気に流されるおバカさんが担ってるよね。Windows買うのに二日並ぶとか、個人でン十万のガイガーカウンター買うとかね…ニュースで見た、嬉しそうに都内の線量を計ってた中年女性は、今も計っているのだろうか……埃の放射線量、計ってそうだよね、ケースの中で。
追記
「ステマ」も知的レベルが分かりやすい使われ方をする用語。私が理解してないだけかも知れないけど。商業雑誌(webマガジンも含めて)での、紹介記事なんて、どの雑誌でもほとんどが「持ち上げ記事(提灯とまでは言わない)」。サンプル提供をうけ、今後の付き合いもあり、出来の悪いところ列記なんか出来やしない(ゲーム批評の 盛衰が物語る)。
だからこそ、利害のない個人レビュワーやレビュー(口コミ)サイトが重宝されてきたわけで、商業雑誌に対して「ステマ臭ただよう記事だ」と言うのは、本当にあり得ないレベル。いまさら?見たいな。まぁ、有能なライターなら、「よいしょ」を感じさせないように書くべきだ。なら分かるが。
そもそも、ステルスマーケティングと格好良く言ってるけど、要するに「サクラ」でしょ?。口コミサイトにしても、信者とアンチによる無条件好評、悪評は存在してたわけで、それらを切り捨てて有益な情報を探す必要があった。まぁ、今年中に消える言葉だよね「ステマ」。速いと夏には影もないかも知れない。
おまけ
PcWatchの山田氏の記事は本当に面白い。記事内容ではなく、ツイッターの反応が。「こんな重箱の隅をつつく記事は淘汰されるだろう」とか。表面なぞっただけの記事のが不要と思うが…の前に、この記事で重箱の隅?。「ステマ臭漂う記事」もここのつぶやきだし。
この人には悪評ステマ、いわゆるアンチついてる気がするなー。ライター業界、結構ドロドロしてて、粘着多いかったからね(2002年前後は特に多かった、今は知らない)。特に記事のミスを指摘なんかしたら、2chに偽物が出て、嘘をばらまく始末だったし(ストーカーの嘘チラシレベル…って、チラシばらまくストーカーも減ったけど、やっぱ世代なのか、ネットのほうがコストかからないからなのか)。
そもそも、ImpressWatch全体で、こういう企画やってるのでUltrabookに対する提灯記事だよね。書かされる方も大変だ。
ちなみに記事内容に触れると「五万円分の付加価値があるなら話は別だ」と言っておきながら、「付加価値分があったか」の結論がない様に感じる。私は、ノートには縁がないから、薄さと重さに五万円の価値あるのか分からない。そこまで、軽さを求めるなら、10インチにサイズ落とせば?と思っちゃうわけで。液晶サイズと重さの妥協点が13.3って人もいるんだろうけど。家に置くなら15。持ち歩くなら10。マルチロール過ぎてどっちにも半端な印象っすな13。
ショットガンブルース(2012/02/19)
ひさびさフルタイトル。小ネタでもないけど、ちょっとペレットまとめて発射。こう言う時はブログがいいなっておもふ。
地方のひがみ
朝のNHKニュースを見ていたら「大学生に震災後、ボランティアに関心をもったか」とか「家族の絆を 大事に」とかいうアンケートの割合が増えました。みたいなことやってたんですけど、阪神淡路の時、そんなんやったか?。中越は?。雲仙普賢岳は?。八丈島(だっけ?噴火で島民何年か退避したの)は?。きっと被害規模が違うとか言うんだろうなぁ。私から見れば、おまえら火の粉が飛んできたから騒いでるだろうと。本当に、震源が青森沖とか鹿児島沖だったら、原発の問題があってもあっさり流されていたのではないかと…と言うか、和歌山の土砂災害忘れられてるよね……そんなひがみです。
そして初音ミクの紹介もやってて、NHKでやるようになったら、もう本物だよね。TBSはどんな顔しているだろうか。そして、本物のヴァーチャルアイドル化した初音ミクを見ていると、メガゾーン23を思い出す。マクロスプラスでもいいけど。いや、プラスは一応、中の人がいたか 。永遠に汚れないヴァーチャルアイドルは、Crazy Nerd(ヒロインが処女でないと判明したら、コミック全巻破り捨てるとか、アイドル声優の交際発覚で狂乱とかする人たち)たちには本物の女神かも知れない。02や03が下火になる中、01だけが高いところに居るしね。
PCwatchのつづき
ホントは、コレだけだったんだけどね。おバカさん向けに前置きしておくけど、アクセス数から考えて「も」そんなわけ無いんだけど、前回を書いて以降、なんか空気が変わった気がする。HPの記事の時には居た「SSD256にしろとか、相変わらず、ずれたおっさんだな」とか言う人いなくなったし。ちなみに、この発言のポイントは「相変わらず」。つまり、ずっと追いかけてるのね。役に立たないとか、合わない記事なら見なきゃいい。タイトルに名前出てるわけだし、避けるのはたやすい。でも見てる。これは要するに、叩きに来ているのではないかと思ったわけですわ。
ワタシ的には、もう少しいじりたかったのだけどなぁ。西川氏の記事との対比とかね。西川氏のほうが、表面なぞり度は高いと思う(使用レポートと言うよりも、完全な紹介記事)。記述レベルにそんなに差はないと思うし。にも関わらず、何事もないのは、なぜ?が出発点でもあったわけです。
これは暴論だけど、こっちのヒートシンク専門記事や、西川氏の記事への反応をみるに、商品そのもののインパクトに加え、スペックの数値紹介とか、ベンチスコアとか並べてあれば、文章内容は余り重視されないのではないか。 実際に、山田氏のコラムには、画像やデータ表は掲示されていないのだ。私に言わせれば、メーカーサイトにリンク貼れば済む単一スペック表を載せるのは行数稼ぎだ と思う。あと後藤氏のテクニカルな記事に、むりやり入ろうとしている人とかをみると、「なにかつぶやかないと」と言う強迫観念に近いモノまでありそうな気がする。とはいえ、同一アカウントを追跡して分析したわけではないので、悪しからず(だから、暴論)
よくある論争
これね。主人公とかの設定条件が同じ。と言うのを言いだしたら、きりがない。15少年漂流記とか、三人組/五人組の法則(熱血、キザ、デブ /子供、紅一点)とか、どんだけパクられてるよ?。と言う話に。各キャラの言動、行動理念やストーリー展開まで同じだったら、問題だけど、設定ぐらいじゃなぁ。でも、 4つ同じなのはボーダーライン踏み越えてる気もしなくもない(三音節まではセーフ理論かい)。
でもまぁ、やられた方は、気分悪いだろうけども。「きっと私より、面白く仕上げるのでしょう」とか嫌味で済ますレベルではないかと。直近な訳でもないし。エロゲで、vanadisが蜘蛛女の姫だして、半年も経たないのに、同じ設定にしちゃう某メーカーとかは、なんかなぁと思いますが(同人の感覚よね)。反面、時間経てばいいのか?とも思う。
なんでも似た設定を探すのは、そんなに難しくない。アメリカの長寿ドラマのフルハウスも、たしか三人娘が、父親の所に押しかけるのよね?。酒飲みじゃないけど。逆になるけど「スリーメン&リトルベイビー」とか、突然やってきた子供に振り回されるってのは、わりとよくあるコメディだし。大抵、子供がいることは隠す事になるし。
「類似の二作目は盗作と言われるが、三作目からは「○○モノ」と言われる」の法則が適応されるのではないだろうか。オタクアミーゴスでしたっけ提唱者?。エヴァもの流行ったよねぇ。もう一作作れば、様式美となる訳ですな。映画はもっと露骨よね。エルニドとレオンとかさ。七人の侍と荒野の七人とか。最近はもめないように映画化権買い占めてるわけですけど。アストロ球団の球八の秘打と、ドカベンの殿馬の秘打とかね。たぶん、アストロのが先だと思うんだけど(連載開始はほぼ同時期だがドカベンは柔道部時代があるため遅れる。アストロも仲間集めがあるけど)。通天閣打法(球八はロッテ戦で、特大フライを打ち上げて、落ちてくる前にホームイン)も花のワルツ(ビクトリー戦で使用)も、球八がやってるッス。というかね、土佐丸の殺人野球ってさ、ビクトリーのデスマッチやきゅ(ガチャ…ツーツーツー)
ついでにコレ
私は、ゲーム性の方向の違いだと思う。海外のカードゲームは、きちんとカードゲームというか、パーティーゲームの色が濃い(ゴキブリポーカーだのunoだの汝は人狼なりやだの)。MTG以降の日本のデッキ構築系は「このカードで攻撃力倍増して」みたいな、数字のぶつけ合いが多い。と言うか、デッキ構築系以外って何があるだろう。モンスターメーカーリバイズドも転けたっぽいしなぁ。
で、確かに、数字のぶつけ合いは怪獣の取っ組み合いに近い。「放射能火炎で攻撃力倍増!」「ウルトラバリヤーで防御!」みたいなノリ。カード(キャラ)に愛情がないと出来ないノリ。ぶっちゃけ、カードでやる格ゲー。 そういえば、格ゲーも必殺技をぶつけ合う感覚あればこそで、海外製の格ゲーがお話にならないのは、その辺なのかも知れない。ただゲームとしては、絶対に海外製のが面白い。ルール作るのは構築系のが楽。MTG以前は日本産のが面白かったのになぁ。タンクハンターは名作ですよ。デッキ構築系キライなんすよ。カードゲームは4人ぐらいでプレイ出来ないと。
リョーマーズ
私は、昔から坂本龍馬が人気なのがサッパリ分からない人でして、途中で倒れた理想主義者と言う認識しかもてなかった。大学時代にも龍馬好きが居て、ドコが好きか聞いても、ぼんやりとした答えしか返ってこなかった。でもってこの記事。つまるところが、権力に楯突いて途中で倒れたからか。龍馬好きは団塊世代に多く、団塊世代はほぼイコールで全共闘時代の人。自己投影なのか?。
でまぁ、日本人は破滅好き(天下取ってHAPPYENDより志半ばで、が好まれる)、穢れ嫌いなので、権力の構築で汚れていく頼朝より、綺麗なままで無念の死を遂げた義経が好きと。最後にさらっていった家康よりも、途上半ばでヒザをついた信長が好きと。そう言えば、洋にかぶれる当たり、信長と龍馬の感覚は近いところがあるのかもなぁ。
上皇位復活希望
ワタシ的には70歳ぐらいで上皇にして、公務の大幅削減をするべきと思う。80歳近くで、分刻みのスケジュールって過酷すぎる。死ぬまで天皇って厳しいし、年寄りを酷使しているようで…せめて自分のタイミングで退位出来るようにして欲しいモノだ。
設定の重複はドコまで許容出来るか(2012/02/21)
前回「パパはニュースキャスター」への重複に関して「まぁまぁ」的なことを言った割に、過去エントリをみると「ときめも3の神条」に烈火のごとく噛みついてますな、私。経年変化と言うことで。で済ますわけには、さすがに行かないので、ドコまで許容出来るか、考えてみよう。ちなみに、結論無しの思考過程だだ漏れ書き殴りでス(ぐだぐだになるからまとまってから書くべきだけど、まぁ、思いつきをまとめる場でもあるし、ここは)。
何故、ときめもは許せなくて、家族のうたは許せたか。気持ちの入り方、興味の有無(要は感情論)なんだろうけど、それをいっちゃお終いなので。
おおきくキャラ設定、場面(世界)設定に分ける。ときめもとkanonは、キャラは似てないし(外見ではなく中身も)のでパス。
となると場面、世界設定になるわけで…しまったkanonだかoneだかの設定が思い出せねぇ……つーか、どっちだったかも思い出せねえ……すまん、フク……ウィキペディアによるとkanonだすな…直さないと…。えーと、明確なのは学園魔狩人ぐらい?。どっちも、国家秘密機関で強制徴用だった気がするんだけど、kanon側、特に記述がないなぁ…発売時期はkanonが1999の、ときめも3が2001年。
時期か、オレ的に許せないのは時期なのか!?。まぁ、学校荒らしと疑わせるとか、怪我の度合いが徐々に酷くなるとか、ストーリーラインも似てたはずなんですが…kanon側の記憶が、かなりアイマイなのが…oneと間違えてるし。ここは一つ、ストーリーラインが同一でOUTと判定したという当時の自分を擁護しよう。ってやっぱり、結論無き論考は、グズグズよね。
話はそれるけど、今でもOctober Country的な話って受けてるのかしら?。あれも流行だったんだろうなぁ。と言うか、今にして思えば、評価のズレは、何で知ったかの違いだと思うわ。なんでも、初めて喰ったのが高評価よね。批評は比較から始まるので、比較物の差は絶対的なモノになる(牛肉しか知らない人と、鶏豚馬とか知ってる人では比べものにならない)。でもまぁ、私、ブラッドベリキライなんですけども。
さらにそれてコレ。未だに「日本じゃFPS売れてない」って脳内ガラパゴスいるのね…モダンウォーフェア3、吹き替え字幕併せて30万本。シュタインズゲートもシリーズ累計30万本(ともにウィキペディア国内販売数)。シュタゲも売れてないと仰るおつもりで?。ちなみに記事本編はコレ。
とはいえ、CoD型FPSは、そろそろ絞りカス気味。市場は食傷気味。でもだからこそ、日本市場がまねてくる気がする(笑)。とりあえず、映像演出過多からゲームへの原点回帰してほしいなと…やっと通じてきたし。chokepointとか見てると、ホントに思う。やっと時代が追いついてきたと(ネタだからな?)。それはさておき、日本人デザイナーのインタビューは非常に短く、中身がないよね…なんだろ、熱意とか情熱を感じない。シリアスサムBFEのような、原点を踏襲しつつも突き抜けるすごさがないと駄目だよね。今のターンベース教科書通りで、昔の名前で出ていますだもの。下手するとツクール作品のが面白かったりする。
シュタインズゲートと言えば、なぜ私が好きになれないか、誰か解明してくれないだろうか。ネタ、設定、中二病肯定(作家なんて、みんな中二だよ。いい年こいたのが「秘剣天龍雷爪輪(←今作った)」とか、ウデゲルゲ(なぜバロム1?)とか考えてんだよ?。魔人学園とかどーすんだよ、名字、凶津だよ、まがつ。イジューインが使ってたままの意味だったら良い言葉だったのかも)とか、全部、好みなのに!。あ、@ちゃんねるのせいかも?。
補記:真面目に考えると、ニトロ、5pbのは主人公のキャラ造形が固まりすぎてて、ゲームじゃなくて、インタラクティヴノベルだから。かなぁ?。プレイじゃくて、読んでる感覚なんだよね。
いろいろ考えてみよう(2012/02/22)
しれっと使った「インタラクティブノベル」…結構、的確かも知れない。振り返ると「To heart」あたりから、もはやノベル「ゲーム」ではなくて、インタラクティブノベルだったのだろう。もしかしたら「かまいたちの夜」ですでに「ゲーム」ではなかったのかもしれない。
実際に、原形といえる「ゲームブック」の方がゲーム性は高いし、没入感もある(技術点2でも全力ですよね、小川センセ)。ジャクソンのゲームブックでは、主人公は一言も喋らないし、主義主張もない。僅かに「君は哀れみを感じながらも、その場を去った」とかある程度。
PCゲームでは、厳密にどの作品からかは言えないが、主人公が完全に人格と主張を持って自己主張している作品が、いわゆるノベルゲームで多数を占めている。そこに私は疑問を感じ「主人公=プレイヤー」とか「選択肢によって物語は変化しないと行けない」とか言っていたわけですが、 それらがすでにゲームでなく、「複数ルートが存在する小説」だったなら、的外れな指摘だった。
サーベルタイガーの様に一部肥大化して自滅するか、シーラカンスのように変化を止めるか、気がつかないほどの微妙なモデルチェンジを繰り返して存続していくか、いずれにしても、最終形態であり、袋小路であろう。綺麗に言えば、様式美の世界。100年先も紙媒体でないにしろ、文字情報のみの物語、つまり小説は残っていると思うし、映画も撮影方法は変化しても、公開方式は今のままだろう(DL配信がメインになるとは思うが)。
十把一絡げに、コンピューターないしゲーム機で行うコンテンツの全てを「ゲーム」と呼称する時代に別れを告げるべきなんだと思う。
ゲームとつくから、遊べるモノを期待してしまう。プレイ出来ると思う。ただの画像音声付き小説。と思えば許容出来るモノは沢山…というか、AVGは、ほとんどそうだね。小説なんだから、主人公が自己主張するのは当たり前だし、読者をほったらかして、勝手に進行するのも当たり前。プレイヤーは現状を理解しなくていいし、結末で一気にまとめたっていい。 読者は知らないけど、主人公は知ってる秘密が、どんでん返しでも良い。
インタラクティブノベルにおける選択肢は、the simsで少し指示を出すようなものと言えるだろう。神か背後霊かのように、すこし後押しするだけで、詰まるところ、それはSimsであって、自分自身ではないのだ。 小説や映画の主人公には共感は覚えても、あくまで他人なのだ。
しれっと私が言っていた「メーカーサイドは、ゲームを作りたいかどうか考えるべき」と言うのも、割と的確だったのか。ゲーム作るより、ノベルの方が楽だもんね。正味、昨今のAVGって、人形劇だもんねぇ。割り箸の先に、紙に書いたキャラを出す代わりに、CG出してるわけで。スクリーンサイズが劇の枠と思えば、横からスライドして登場して、割り箸を回せば表情が変わる。まさにそうだ。そして観客の反応で、ストーリー展開を二択、三択からチョイス出来るなら、それは高レベルな劇団と言える。
現状AVGは、PCで見るミニシアターのミニ劇団と見るべきなのかも、と。役者は別個に雇うわけなので、マイクロ映画?。まぁ、脚本がグダグダの劇団(メーカーの事ね)も多いですけど。現実に、監督や脚本がグダグダの映画も少なくないわけで。
だから今一度問うわけです「作りたいのはゲームですか?、演劇ですか?」と。
なんか重い終わりなので、軽く余計な一言を。
なぜ私がすっごく良くできてるシュタゲを好きになれないのか。公的には前回書いた「主人公の人格が確立していて、プレイじゃなくて読書だから」なんですが、私的には「オタク属性の符丁、スラング、パロディを前面に押し出す事への不快感」ですわ。
安いオタクは、仲間からそうしたスラングやパロディを出されると、秘密を共有しているかのような気分になり、一気に親近感を持つわけですよ。と同時にオタクじゃない人が安易にスラングを使うと、バカにされたかのように敵視する。コレは今も昔も変わりない(HPLでもそう。ネクロノミコンが出てくれば全部神話作品とか言うような感じ)。キライなんですよ、こういうの。ライアーの川野口ノブでもやってましたけど、アニメ、ゲームパロディのオタクキーワード連打。ワタシ的には、そう言うネタで「キャッキャ、うふふ」出来る方が、よっぽど中二かと。仲間同士の秘密の暗号レベルですよ(ちなみに、私の時代はゼビ語でしたわよ)。こっそりやってこその符丁ですよ。まぁ、電脳オタクが「ねら」でない方がリアリティ無いとも言えますが。
この特定層へのアピールは、ガラパゴス化を加速する。と言うかしてきた。今や、もはや蛸壺レベル。FPSがグラフィックや開発期間という長すぎる牙での自滅が予想されるなら、日本のそれらは、蛸壺の奥での餓死が予測される。
問題は、オールザットウルトラ科学でも述べられているんだけど「特定層にアピールすると一定数は売れるが、それ以上は絶対に売れない」「広範囲に受けようとすると、全員がほどほどにツマラナイ(ほどほどに面白いではなく)作品になりやすい」と言うこと。ゲームの販売数で言うなら30万本あたりな感じがする。特定層限定ヒット。シュタゲもCoDも売り上げ30万本あたりだから(根拠薄っ)
FPSが広範囲に受けるのは、撃って避けると言うインベーダーから続く基本を含んでいるから。射的やハンティングという太古の記憶もあろう(遊技、競技としての狩りは最古のゲームだろうし)。
もう少し深く考えてみよう(2012/02/26)
・インタラクティブなノベルとゲームの境目
スタイル(人格が確立した主人公の言動に些細な影響を与えるプレイヤー)として成立したのは「To Heart」だと思うのだが、雫や痕かも知れない。どちらにしても「リーフ」という存在がポイントだろう。しかし、どの当たりから、AVGが読み物になっていたかと言うと、実は結構古い。と気がついた。そもそも、選択肢に意味がないモノは、基本読み物と見て良い。なぜならば、制作側が想定した一本しかないラインのみなのだから。そしてその手の主人公はよく喋るし、プレイヤーの関与しない勝手な行動で場面を進行させる。それは映画や小説と変わらない。狙撃に気がついて、対象に飛びつこうが無視 するか、選ぶことさえ出来ないのだ。
第三のユニットシリーズなんて、まさにそうで、偶然にも(!)カードをかざしたら、そのカードに銃弾が当たり、狙撃を防ぎつつ狙撃に気がつく。と言うシーンがある。これは、カードを見ると言うコマンドを何回か繰り返さないと駄目だったと思う。それ以外では場面は進行しない。これ以上の故意があるのかと言う偶然を装うスタイル。結果だけでなく、シーン演出までをも強要するモノだった。正直、コマンドでシーン演出手順を強要されるなら、カットシーンで自動進行の方が遙かにマシだ。
これらのこと、つまり一本道AVG達は要するに、ノベル、小説というクォリティーに無い、つまり読み物として成立してない品質だったという事に過ぎない。逆に言えば、国産AVGで良作と言われるモノは、読み物として成立するクォリティがある。と言うことで、ゲーム性はすでに問われていなかったのだろう。
よくよく考えてみると、私が愛してやまない「恋姫(not無双)」も、ゲーム性という点ではてんで乏しく、読み物として気に入っているに過ぎなかった。キャプテンラヴもね。
ただし、猟奇の檻(時間管理)や、遺作(仕掛け解き)など、きちんとゲーム性を保持しているモノがあったことも見逃せない。ノベルゲームの台頭によって、ゲーム性が切り捨てたられたAVGのなれの果てが現代だろう。ゲーム性がない以上、主な評価ポイントは、キャラ特性とか絵柄とかになってしまったわけだ。それは映画や小説と同じ評価ポイントとなる。安易な模倣と低レベル作の乱造が拍車をかけたのだ。
・そもそもゲームってなんだ
没入感というのも、大事な要素。この没入感を自分自身がゲームの中に入っていくと考えるか、規定されたキャラクターへのシンクロ率と見なすかでも変わってくる。しかしAVGやらRPG以外にもゲームはあるわけで、そこだけにこだわる必要もない。という点で、私が思うのは「主導権がプレイヤーにあるか」だとおもう。
端的な例を挙げると、ノベル型でよくあるのが、NPCと主人公キャラが勝手に会話をして、勝手に場面を進めてしまう展開。プレイヤーは見ている以外何も出来ない。蚊帳の外。これは小説を読んでいるのと大差ない。まさにノベル(クォリティレベルはさておいて)。
最終的に、場面を進めるか否かの選択があるだけでも、ずいぶんと印象が変わると思うのだが…たとえ「いいえ」を選ばれても「そんな事言わないで」と無理進める形でも印象は違うと思う(無意味選択肢として、私は再三非難しているが)。
アクションやシューティングでも、自機は完全な支配下にある(たまに慣性が付いて支配下にないモノもあるけど)、特にベルトロールはスクロールの進捗を自分で調整出来たし、少しずつ動かして敵をまとめて出さないのもテクニックだった。ゲームの主導権がプレイヤーにあると見て良いだろう。強制スクロールという例外もあるが。
こうした場面ごとの選択の判断は、必然的に没入感を産む。なぜならば、物語の主導権を握るわけで、それは物語の進行方向や展開速度をプレイヤーが握るのだから。物語の中心にいる感触、それこそがゲームなのではないかと。そうした時に、すでに確立された人格や経歴があると、没入感の邪魔になる。役者に設定を提示するように、役になりきれと言うなら、また話は別だが…それは演劇疑似体験かと。
実際のゲーム、スポーツである野球でもボクシングでも、試合という舞台の中心にいるのは選手であり、結末は選手次第なのだ。将棋でも囲碁でも構わない。差し手であることがプレイヤーであり、観客はプレイヤーではない。次の一手が自分で決められない将棋なんて将棋ではない。至極当たり前なんだが、ノベルゲームでは、プレイヤーは客席に置かれているモノが割とある(2005年ぐらいにはノベルゲーム以外でも相当あった)
メールの受信タイミングという主導権をプレイヤーに渡しているシュタゲは上手いなぁと思うわけですよ。ただまぁ…主人公の人格や経歴が没入感を阻害する(私には)。To Heartの主人公の様に、ぶっきらぼうだが実は優しい。と言う設定も、選択肢の幅のフォローなのかな?と想像する。選択肢にキツイ言葉と優しい言葉が混じっていても、矛楯はなくなるからね。朴念仁、ぶっきらぼう、実は優しいと言うのが主人公の定番なのも、そう言う裏が…っていちいち言うことじゃないな。
ともかく、 ゲームにするなら、性格設定は問題ないが、人格や詳細な経歴を持たせるべきではない。と言うのは、かねてからの私の結論だ。
・結局、インタラクティヴノベルはどうなる?
続いていくでしょう。ゲームと偽って。様式美として。テンプレートとして。低コストで高リターンの可能性があるモノとして。低リターンでもコスト安いからダメージは低いし微プラスが狙える。
麻雀ゲームが途絶えないように、ライトノベルが消えないように。そして、読み物としてのクォリティーを満たしている。かつ、キャラ萌え出来ると、30万 本超で売れるでしょう。と言うか、読み物としてのクォリティがあるからこそ、キャラ萌え出来るのだけどね。キャラありきで成功した例、なにかあったっけ……CLANPか?。
そこにゲームとしてのブレイクスルーやイノベーション?は介在しようがなく、枯れた世界。それ故、物理エンジンを取り入れたポータルの様なAVG…ポータルはパズルアクションかも知れないけど…は日本には存在しない。 日本のAVGは、小説やアニメと同じく、発想、着想、キャラ構想といったもののみに変化がある。システムとして閉じた世界になってる。だから、もはや、ゲームでなく小説やアニメなんだと思う。ゆえに「インタラクティヴノベル」と 呼び出したわけで。
しかし、紙の小説が売れなくなった原因の遠縁が、ノベルゲーだったら面白いな。少なくとも、一つの筋書きと一つの結末しか持たない小説より、複数の筋書きと、複数の結末をもつ方が面白いのは自明だろうし。ただまぁ、ノベルゲーは、二束三文以下から超小説級までクォリティの差がスンゴイ激しいからなぁ。そこまではないだろうなぁ。と言っても、本家の小説も激しいよね……。ただ外れ率は小説の方が低いけど。エロゲとか、文字通り「お話になってません」ってものが高確率で…
・オマケ
PCWatchに山田氏の新しいコラムが掲載されていた。すんごい清涼感なんですけど……おバカコメントが無いヨ…揶揄や揚げ足取りもないよ。意味不明が一つあるけど。何事?!。フッ、やはり見られているのか(誰にだ?)。まぁ、前にも書いたけど、どんな泡沫末端でも見られている前提で書くのは大事よ。それが分からないおバカさんたちが、ツイッターで大問題引き起こしてるわけです。かつて掲示板で「こんなカウンター数で見られているわけがないだろ」と言ってきた人は、問題起こしてないと良いですけど。
さらに深く考えてみよう(2012/02/26)
今週はDEEP週間ですな。
さて、まずはGAMELIFEの『「ビデオゲーム」がゲームである必要があるか』と言う記事をご一読。
相変わらず、視点と論の構成がよいです。
で、パッと見ると、ここ数回の私の妄想とは真反対のことを言われているように感じます。脊椎反射では私もそう感じました。が、根本部位は同じだなと。
おそらく違いは、ゲームという呼称に対する設定の違いかと。GAMELIFEでは、古いモノ、コレまでの総称として扱っている。私は、映画等、既存表現の先にあるモノとしてゲームを使っている。この違い。
しかし、使い方としてはGAMELIFEの方が正しい。すでにゲームには、固定化された理論があり、通俗の概念があり、その古い呼称に新しい意味を持たせようとしている私が間違いだ。そして、誤解を抱かせる原因であろう。 なにか良い言葉はないだろうか。と言っても、言葉が先行しても意味無いしなぁ。
見ている事象が同じというのは、何個も挙げられる。例えば
ビデオゲームはこういった誇りや感動、苦しみといった様々な情動を体験させられる「ゲームではない何か」になれる可能性を秘めている(別にそれがゲームであってもいいのだけど)。これは既存の受け身のエンターテイメントで体験することはできない。
そもそもインタラクティヴはインタラクションinteractionで、相互作用。映画や小説が、一方的に展開を押し付けてくる、つまり受け身を強いられるのに対して、「ゲーム」では選択肢という作用で、物語に関与できる。と言うことが、私にとってのゲームだった。ゲームが映画を越えられる可能性を秘めている。と言うのもコレが根拠だった。再三繰り返す例えですが、恋愛モノで三角関係になった時、どちらのヒロインを選ぶか。の選択に迫られるのがゲームであり、主人公が勝手に選ぶなら小説だと…って前回分に何か足りないと感じていたのは、この説明か…。
で、選ぶ。と言う行為には、プレイヤーの主観が間違いなく関与しているわけですよ。そうなってくると、主人公の人格や経歴、判断基準は邪魔になる可能性が高まる。巨乳好きを公称し、巨乳なら無条件で追いかけた主人公が、最後に選んだのは貧乳だった。と言うのも…まぁ、話としては面白いけど、貧乳もアリとか、乳の大小を越えた価値観に目覚めるとか無いと、嘘くさいわけで。そうした揺れを体験させつつ、最後に選択させるなら文句はない。
実例を出すなら、一目惚れし、父親の反対を振り切ってまでの婚約者だったマーリナをようやく助け出したが、今まで苦労を共にし手助けしてくれたリナが、一方的に破棄した元々の婚約者だった。さぁどっちを選ぶ。と言うのがファンタシースター3の第一世代のラスト。幼なじみかつ苦労を共にしたサラに目もくれず、姫に走ったのがシャイニングフォース2のボウイだったり。
さらにそれはジャンル名にも現れている。ゲーム機で遊ばれるほとんどの「インタラクティブな何か」には○○ゲーム、というレッテルが貼られるではないか。それによって例えば「ノベルゲームは“ゲーム”であるはず。だけどこの作品はゲームではないからクソ!」という裁きが下される可能性をはらんでいる。
この部位は、前々回に私が書いた「十把一絡げに、コンピューターないしゲーム機で行うコンテンツの全てを「ゲーム」と呼称する時代に別れを告げるべきなんだと思う 」と同じと見て良いはずだし、私は「ゲームとつくから、遊べるモノを期待してしまう。プレイ出来ると思う」とも書いている。 まぁ、意図としては「ゲームじゃないからクソ」も含んでいるわけだが(そこは反省)。しかし、上記の通り、私にとってゲームとはinteractionを持つことであることは、理解していただきたい(言い訳っぽいが)。
やっぱり、ゲームという意味を、インタラクティヴな何か。つまり、プレイヤーが主導権をもち体験性を持つもの。にすり替えてしまうべきだと思う。そう言った意味で、やはり多くのノベルゲームは、PCでみるメッセージウィンドーの、またはウィンドーを持たない、いわゆるノベル形式の、読み物でしかない。と思うのだ。ぶっちゃけてしまえば、ゲームブックの前段階「きみならどうする?」シリーズの方が、よほど『ゲーム』なのだ。
最後にもう一度繰り返すけど、私にとってゲームとは「主体性を持って物語に関与できる」つまり、双方向性、相互作用を持つ、非受け身の表現媒体である。と言うこと。ああ、ようやく前回分の「そもそもゲームってなんだろう」に答えが出せた気がする。エロゲにしても、優しくするか否か、自分だけ満足するか否か、その程度の選択もなければ、眺めるだけのAVと同じだ。
オマケ
「リアルじゃないからクソ」と言うのは死後になるべき。と言う価値観も同一。ホントに一時期、ゲームとして、必要な嘘(つまり、省略や誇張)を理解できない人は多かった。ボードゲームでも、変なリアリティにこだわって自滅したゲームは割と多い。そう言うのは、手間がかかるだけで楽しくない。プレイリズムを阻害するリアリティは害悪なのだ。逆にリズムを阻害しないならリアリティは追求した方が没入感が増す。FPSで、オリジナル銃でベトナムに行くよりは、M16の方が良い。その程度。
正・そもそもゲームってなんだろう(2012/02/28)
続の方が正しいかも知れませんが、グランブルーを通り越してブラックアウトするまで潜るぜ。
単純に思い返して、ゲーム=ビデオゲームになったのは、ここ三十年未満だと思います。40代半ばぐらいのファミコン登場期の方の子供時代「ゲームしよう」と言うと、トランプやオセロを持ち出すのが普通だったと予想します(トランプしようとかダイレクトに名詞を使ってたかも知れませんが)。
当然、ビデオゲーム以前のゲームは、対人が主ですから、お互いの一手ごとに局面が変化する。双方向性を必ず持つ。スポーツも同じで、お互いの手(技)のぶつけ合いであり、瞬間の状況変化に最適解を即座に出す。と言うことになります。肉体で直接やるのがスポーツであり、レバーやらマウスでやるのがビデオゲームと言えるでしょう。
これは、シングルプレイが詰まらないFPSでも、対人マルチプレイなら遊べるようになる。逆に、もの凄く面白いソリティアが存在しない。と言う事例でも言えます。反応が画一的で、状況に対応できないAIが、対応できる人間に切り替わる、またその逆なのですから。バー(棒)とドット(点)しかなく、点を跳ね返すしか出来ない黎明期のテニスも、対戦すれば今でもそこそこ面白いモノです。反面、コンピューターとやるエアホッケーの味気なさと言ったら。
これらを踏まえると、「ゲームにインタラクション、双方向性を持たないゲームはビデオゲームから」と言えるのではないでしょうか?。振り返ってみると、インベーダーなど一方的に与えられた状況に、プレイヤーがどう対応するか。であり、プレイヤーは常に受け身です。UFOの基地に攻め込むことも出来ません。ハード的な限界から、コンピューターの出す無理難題に、対処してみせる。と言うのがビデオゲーム(特にアーケードゲーム)の正体だったと思います。画面を埋め尽くす弾幕を回避して見せろ。とかね。だからこそ、攻略にはパターン化が大切だった。コンピューターの攻め方は画一的で、常に同じ手の繰り返しだったからです。L4DのAIディレクターが崩しましたけど。
つまりは、詰め将棋を延々と、手を変え品を変えてやっていたに過ぎない。詰め将棋が上手いからと言って、対局が強いとは限らないように、ビデオゲームと本来のゲームは、似て非なるモノだったのかも知れません。
なんとなく、限られたものでどうにかする。と言う部分最適で突き進んでいる日本があり、全体最適を行っている世界があると言う図式は、ゲームにも当てはまるのかもと思いました。ノベルゲームの枯れ果てたシステムで、どう作るか突き進んだように?。
最近話題の「Dear Esther」も、これらの観点からゲームと述べることは可能です。なお、私の感想は「子供時代の裏山探検をもう一度」ですね、Dear Esther。
そもそも、探検、冒険は、未知の領域へ踏み込むこと。前に進むか、右に行くか、斜面を登るか、降りるか。洞窟を見つけたが、入るか否か。そんな判断、意志決定の連続です。別に、蛇が尻尾から落ちてくる必要も、何かで磨いたようなドクロが落ちてる必要もない。無理に見せ場を作らずとも、この先にどんな光景があるのか。この先に何があるのか。先を知りたいという根源欲求で足を進められるなら、それ以上の冒険はないし、苦労にあった対価となる。だから人は、頂上からの景色に圧倒される。山頂の写真だけを見せられても感動は薄い。Dear Estherも裏山探検の経験とか、知らない街を進む楽しさ。が分からない人には理解不能で、ただ島を歩くだけの環境ソフトと評するのではないかと。
キネクトとかに対応して、崖とか坂を登る苦労を取り入れると、ホントにヴァーチャルになるのではないかなぁ。ちなみに、この域に行けなかったのが、wiiの「ForeverBlue」だと思います。foreverblueは主視点ベースにしなかったのが、唯一にして致命的な失敗と思う。水中版Dear Estherになれたのに。skyrimも探検を楽しめるんですが、クマとか出てきちゃうので集中できない。
ともあれ、これまでは「こんなの落ちてるよ」とか「こんな可愛い子いるよ」と、客引きや、ぐずる子供をあやすように、コンピューターが人間を引き留めていたモノが、人間の方から、この先何があるの?とせがむようになってきた。と言えるのかも知れません。
ちょっとそれましたが、スポーツのような動的な瞬間判断でなく、登山のような静的な判断のゲーム。と言えますDear Esther。判断に応じて、景色が変わるならそれは相互作用と言えると思います。
ゲームとは本来、相互作用をもつものだった。RPGとかAVGへ極端に特化し、物語の奔流で押し流して誤魔化していた部分が、勢いが弱まり見え始めたのではないかと思う次第。
そこで繰り返します。ゲームとはそもそも相互作用がある遊技。ゲームである。と言うことはインタラクティヴである。と言うこと。ただ、いかに複数ルートでマルチエンドだとしても、メッセージを送るだけでならば、自分の主観を反映できないなら、それは読み物でしかない。プレイヤーが主体性を持って展開に関与できること。それがゲーム本来の意味だと思う次第です。だってプレイヤーなんですよ、観客オーディエンスじゃない、読者リーダーでもない、聞き手リスナーでもない。出演者なんですから。
ここまで書いてなんですが、パチンコ、ピンボール、スマートボールが説明できないコトに気がついた。競馬とかルーレットとか。目押しがきかないスロットのゲーム性なんて、モバゲー並ダヨね…ってソーシャルゲームは、スロットなのか?。年配者がハマるのも、そう言うところなのか?。