七月の夢酔


『私はついに重大な決心をしました。自分の著作の書評を切り抜く事を止める事にしたのです。
私は、自分の気に入っている書評でさえも、最近はうんざりしているし、気に入らない書評を見たりしたら、何日も仕事が手に付かなくなりますから』

−P・G・ウッドハウス
 


4コアとL3(2011/07/04)
もう七月でした。ここ何年か、来てなかったので安心していたのですが、どうもこの感触は、またダウナー波動のようです。一般言語で言うと、鬱状態。「あたし鬱気味で〜」と騒いでるレベルなら良いんですが、ワタクシ、離人感もやったことあれば、「朝起きたら死んでないかな」とか「このまま闇に沈まないかな」とか考えながら眠りにつくランクでございます。

と言うか、起きたら死んでないかな。と言う発想が、鬱とは思ってなかった。鬱病で入院経験のある人へのインタビューで、こう言ってたのを見たことがあるんですが、そんなん毎日やがな!と突っ込んだ訳で。離人感は、自分を観察しているですな、自分に起きてる出来事が全部他人事に感じられるつーか。これは、一度こっきり、再発したことはないんですが…

自己保身のための猛烈な悪意に当てられたというか、自己の感情を正当化するための理論武装と、敵に見えるモノへの無差別な人格攻撃をしているのに、正義の味方ぶるとか、そう言うのに当てられた感じがしてます。人の中の悪意、むき出しの生存本能は、こんなにも醜いのかと。それをして「魔」と称した古代人は的確であった。と言うか、人間進歩してないなと。

でまぁ、本題はそこではなく、友人から、安MBとC2Q8400を安価で譲り受けまして、組んでみたらAthlon64X2より圧倒的。L3と4コアって偉大だなぁと。ベンチスコアだとFF14ベンチしかないのですがAMDでスコア2252。C2Qで3610と圧倒的。XPでやったら、C2Q4000越したと言う。グラボはGTX460。もう少し僅差かと思っていたんですがねぇ。単クロック3と2.6ですし。2200対2800ぐらいではないかと予想してたんですが。1400差です。

7にしたら、400近く落ちたのは、やはりメインメモリでしょうね。7は色々喰いますから。安マザボなのでメモリが1チャンスしかないのが問題ですが、まぁ、それでも1400ちかいスコア出されちゃねぇと。問題は、システム移行なんですが、7同士なんで移行ツールでいいじゃーん。と思ったら、移行に五時間ですよ。そのくせ、ブラウザのブックマークすら移行してねぇ…火狐メインだからか?。移行データもC2QのCドライブに一緒くたに移ってて、つかえねぇ…。

従来なら、しょうがないと、一から再インストするわけですが、各ソフトのアクティベートコードだの、各サイトのパスだの、FTPの再設定だの…イライラ…鬱気味だと、わたしのプチサヴァンも悪化するようで、デスクトップアイコンの位置が違うのさえ腹が立ってくる始末で、むきーーーーーー。とか。

もう諦めて、Acronisのtrue image2010とpluspack買うかと。で、口座残高見て、さらに鬱に…まぁ、別口にバイク資金に30数万あるけどさ…別口座にももう少し貯蓄あるけどさ…うむむむむむ。とさらにダウン。

ただ、不思議と鬱気味の方が、シナリオネタは思いつく。久々に2-3個プールできた。形になるかは微妙だが。で、ちょっと思ったこと。衝動自殺した文豪はちょいちょいいるわけですが、精神的にタイトな境界を歩かないとダメなんでしょうかねぇ。向こう側に踏み外すと逝っちゃって、こっち側だと駄作に埋もれるとかなんですかねぇ。それにしても、年取ってからも意欲が失われないってスゴイなと。飽くなき闘争心が凡夫との差でしょうな。

社会に対して正しく怒れるって凄いことだし、正しさが理解できない凡夫からの人格攻撃に耐えられる精神力もすばらしい。かくありたい。と思うが、ガラス以下の土壁並みの私のメンタルでは耐えられそうにない。


改革派の地方首長はなぜポピュリズムに陥るのか(2011/07/07)
原発がらみの橋下府知事の言動を見ていると、明かなポピュリズムで、弁護士特有の弁舌で理由を後づけしているが、矛楯は隠しきれていない。どころか、支離滅裂になりつつある。元々、見栄えや聞こえの良いアドバルーンを上げまくる人でしたが。もう一方の阿久根市でしたか、ブログ市長と名乗った人も、議会改革は良かったモノのポピュリズムを通り越し、独善のばらまきに陥り、貰った側も「必要ないのに」とまで言ってましたなぁ(魚の選別機だったかな)。

改革派の首長は、その権力基盤を民意に置かざるを得ない。それは移ろいやすく、酷く不安定で形が無く、すぐに無産化してしまうモノ。それを呼び寄せ続けるには、撒き餌を続けるしか無く、ひたすらパンとサーカスを配り続け、気がつけばご機嫌取りに陥っている…という事なんでしょうか。

それならばまだ救いはあるのですが、もう一つの可能性があります。それは改革派がポピュリズムに陥ったのではなく、ただのポピュリストが、パンとサーカスとして改革を歌っていただけなのではないか。改革というサーカスに、民衆が飽き始めたので、別のサーカスを求めた結果なのではないか。

エアコン止めれば大丈夫とか、太陽光発電の電力助成金買い取りと自由化推進を同時に求めるなど、目先の餌に飛びついている思いつきにしか見えません。まぁ、総理大臣がそうなので、知事も真似たのかも知れませんが。

それにしても、再エネ法を有り難がってる人が多いのにビックリですわ。まぁ、有り難がる連中が五万と居るから、ソフトバンクは儲かっているのでしょうけども。

孫さんへの信奉を寄せる人を見ていると、スーパーリッチを神格化するのは世界的なものなのか、日本的なモノなのか、興味があります。アメリカ人も、ビル・ゲイツを信奉……ジョブズには信者いそうだなぁ…つか、いるわ。

堀江氏も、経営者としてよりも、反体制のリーダーと見なした信奉者が増えたことが躓きの原因だったように感じています。「堀江氏の罪は大人に逆らったことさ」と言う無名人のついーとを見て思いました。40目前のおっさんに「大人に逆らった罪」って、全然褒めてないぞ。と思うのは私だけ?。

まぁ、モヒカンにしたことを後悔しているとかも聞きますが、やって良いことと悪いことを、事前に判断できる。と言うのが大人の条件と思いますので、いろんな意味(野心とか夢とか体型とか)で、でっかい子供なのかも知れませんが。


エアコンと言えば、地下の空気を利用した冷暖房システムをなにかで見たのですが、地下はラドンが豊富。ラドンは、自然被曝する最大要因で気体です。かつて鉱山労働者が、肺ガンにかかりやすかったのも、地下で 大量のラドンを吸ったからだとか。その辺の対策って練られてるんでしょうかねぇ?。ガイガーカウンター当てたら、針振り切れたりして。

もう一つ、復興担当大臣の辞任劇で、意外と部落解放同盟の利権というか、悪行の全国の認知度の低さにビックリしました。10年ぐらい…もっと前ですかね、大阪で、管理してない駐輪場の管理費を払っていたのが問題になったかと思いますが、その支払先が同和関係団体でした。正味の話が、闇専従みたいなことをやっていたわけですよ。

身の回りだと、友人が務めている会社で、遅刻や欠勤が多い人物を首にしたところ、街宣車で乗り込まれたそうで。街宣車なら右翼だろうと思ったのですが、「首にしたのは、出身が部落だからだろう」とか言ってきたそうで。東日本の人は、こういう実体をあまり知らないようですねぇ。

当の大臣も、よもや自分の背景権力が及ばない地域があるとは思ってなかったのではないでしょうかねぇ。東北人の気概というか、モッコスぶり…モッコスは薩摩隼人ですが。東北人の気骨が、恫喝を跳ね返したと思えば、格好いいんですが、どちらかと言えば、自分の所属する世界が永遠に広がっていると思っていた、バカボンの間抜けぶりという感じがします。

すこし気になっているのが、菅総理の不信任案否決から政治ニュース引用ブログが激減してるんですよね。今までだったら、10や20は反応しているだろうってニュースも、4とか5とか。ブログ止めてついったーに絞った(ついったーで収まる文量しかないブログも多かったし)。とかなら良いんですけど。諦めムードが蔓延している感触が怖いです。


まさにそう(2011/07/10)
ほんとうにそう
マスゴミと言えばカッコイイと思っている残念な人たちの今のブームは「原発利権」であるようだ。とりあえず、みんな叩いてるし、利権ダメっていっときゃいいか。みたいなね。太陽光利権を作ろうとしている再エネ法は崇拝していたりするから、すぐに分かる。

原発の事故確率を恐れて停止を求めている癖に、電力不足による停電の確率を恐れる経営者や報道に対して、そんなことはあり得ないと言うのは明らかに矛楯です。停電の可能性を恐れて海外に拠点を移すことはあり得る。中には「創造の創は国内で、造は国外で」とか、頭空っぽな論を振りかざしてる人もいましたが、製造業はみんな滅びろ、工場勤めは飢えろと言うことらしい。会社でも、企画部なんてごく一部。生産ラインこそが大動脈じゃないのかね?。

サヨクのすり替えに乗せられてるのは、恥ずかしいと思わないのか不思議だ。反原発デモにしても、電力会社への抗議にしても、明らかに労組やサヨク団体の洗練された昔ながらの闘争技法。いまだに70年代を脱しきれないノスタルジア。

サヨクの事故が起きるから保険金の支払額を上げているんだ。という、意味不明の論理に屈したせいで、原発の事故保証金が1200億どまりになっていたのは有名ですが、コレって「運転免許取得者が自賠責だけでなく、任意保険にはいるのは、事故を起こす気があるからだ」と同じ論理で、完全に意味不明。こんな強弁に屈した自民党もアホですが。

と、こんな事を書いたら「おまえは原発推進派だ」とか「原発利権に群がるクソ虫」とか「シね」とか言われるわけで、集団による言論封殺が行われ、自分たちが心地よいと思っている世界を否定されるのを拒むカルト社会ですな。思いこむと確信を得るを混同しているビリーバー社会。専門家っぽい言葉に心酔して誤用に気がつかない無知っぷり。たまらんですわ(他人のことはとやかく言える身分ではないですが)。

最近で一番へこんだのは、まぁ、上の「事故が起こるから保証金をつり上げるんだ」のすり替え論もですが、法務大臣の死刑執行拒否ともとれる発言の報道に対してのついったーに「さすが産経赤新聞w」とかありまして…産経が赤だったら、共産党の機関誌は、青旗にするべきか?ジャムメーカーが怒りそうだ。アカの意味をしらない人を初めて見たよ、しかもidが「・・・nopapa」…子持ちですか…人の親ですか…当然、反原発で、再エネ法賛成なんだろうなぁと勝手に推測。まぁ、こんな程度の人が、原発反対とやってるんですわ。

産経は報道機関としては、結構な右よりで、アンチ産経がもの凄いたかってて、面白いです。サヨクって礼賛より、こき下ろしが好きなのよね。過分に左よりな朝日や毎日のついーとみるとホントにそう思う。読売は、単なる親自民…と思ったら、親権力って感じを受けつつあります。あ、今何となく「安保!反対!」のプラカード行進と「原発!反対!」がダブって見えた。そらそうか、プロ左翼の誘導だし。

時に、菅総理にソシオパス判定する心理学者か精神科医いませんかねぇ?。私だいぶ怪しんでいるのですけど。ロバート・ヘアの定義。自分の行動に責任を取らない。恒常的に嘘をつく。良心の異常な欠如。罪悪感がない。過大な自尊心で自己中心的。口達者。ほとんど当てはまる気が…というか、反原発で騒いでるサヨク作家とか、二大先生とか、自分専用の特権記者クラブを作りたかったフリージャーナリストもどきとか…みんなパス要素もってるんじゃ…。

自由報道協会も酷かったけど、なんか階級闘争する人って、詰まるところ「おまえが吸ってる甘い汁をオレに吸わせろ」って欲望剥きだしの人が多い気がする。でも、改革や革命ってそう言うことなのかも知れないなぁ。ジャコバン派も大差ない恐怖政治を敷いたわけで、貴族の利権を我にだったわけで。真に理想を追って変革をもたらさんとする人は異常者かも知れない。欲望無き人は人にあらず。なんですかねぇ?。


ゲームにおける年代別基準(2011/07/13)
今の今まで、ゲームにしろ、映画にしろ、小説にしろ、創作の根幹部位、根っこの部分は普遍であり、揺るがないモノと思っていた。どうやら普遍ではないらしい。ゲームにおいては殊更。
考えるまでもなく、手と目で遊ぶ純粋なゲームと、頭で遊ぶゲームと大別でき、頭で遊ぶ方は、論理や戦略の組み立てなどの正味の頭を使うモノと、読解力、想像力を必要とするモノに別れる。どの分野が主軸となっているかで、ゲームに対する価値基準は大きく異なる。

90年から2000年辺りまでは頭、想像力を使うタイプが主流であったと思うし、私もコレがずっとゲームの王道となるだろうと思いこんでいた。ゲーム性と物語性の両立。それがアダルトのロープライスだろうが、物理エンジンのロープレだろうが、ゲームとして制作した以上、ゲーム性を持たねばゲームではない。例え、選択肢の組み合わせによるルート探しや、エンディングパターン探しに過ぎずとも、ゲーム性がないよりはマシだ。

黎明期のAVGにおけるゲーム性は、場面ごとに仕掛けを解くものだった。「book」を「pull」して抜け穴を見つけ、「doll」を「turn」して鍵をはずすようなレベルではあったが、自身がインディジョーンズとなり、神殿の罠を外すような感覚は得られた。選択肢という裸の答えは提示されず、解法を探すことがゲームだった。

付与された物語は、物語とは言えない目的の提示レベル。ミステリーハウスでは、「泥棒なので財産を盗みにきた」とか、「スパイなので敵の基地に忍び込んで機密を奪いに来た」というレベル。クリアすれば「アナタハ ○○ヲ テニイレタ」と出てゲームオーバー。いや、ゲームクリアだった。

そこから徐々に謎解き、仕掛け解きより、物語性に重点が置かれるようになる。コマンド入力方式から、コマンド選択方式へ、そしてコマンドつまり動作その物がなくなり、選択肢を選ぶようになっていく。それは暗に、遊ぶモノから、遊びつつ読めるもの、読みつつ遊べるモノ、読むモノ、そして眺めるモノへと流れていく。と言うこと。だからこそ、シナリオ偏重でゲームを取り上げ、きちんとした伏線処理や、視線の再確認を訴えていたわけですが。

多くのメーカー(当時はディベロッパなんて言わなかった)は、コマンド入力を廃し、コマンド選択へ移行したおかげで、単語探しからは解放されたが、こんどは全てのコマンドを、全てのNPCに試すという作業が待っていたわけです。この作業を廃する妙案が、選択肢を直接選択するというものでした。この変化をゲーム性という点でとらえると、コマンドは少なくとも行動の幅でした。「見る」ことでバールを見つけ、「使う」ことで排気口をこじ開けていたものが、選択肢で一発。この変化は、ゲーム性の低下と言えるはずです

薄まったゲーム性を、物語で補うのが、読ませるAVG、ノベルゲームというならば、小説同様、起承転結はもちろん、伏線処理は出来て当たり前のハズ。SFXもなく、アクションもなく、キャスティングも悪い。ならば、活路は脚本しかないはずです。ただし、ゲームのライティングは非常にツライ。小説の方が楽と思うことも多い(違う苦しみはありますが)。単純に考えても、ゲームは選択肢の分だけ、テキスト量が増えていくし、展開の差異をつけていくと、実質、小説数本分のネタが一本に消えていく(しかもサブ扱いで)。期日が差し迫ったり、ネタが切れてくると、選択肢の差異が無くなり「…これじゃ、どっち選んでも同じ展開やんけ!」と月に吠える事も良くある。

実際、テキストベースAVG(ビジュアルノベル等)は寿命が尽きたジャンルで、開発コストが安いと言う利点以外は何もなく、デジタルピクチャーショーと化したアダルトゲームで細々と続いている程度。金がある大手ディベロッパは、同じ事を3Dエンジンでやってしまうので、完全テキストベースのAVGは、もう見る影もない(エロゲからエロを抜いたのがXBOX360に上がってきたりもしますが)。

要は、オブリビオンやフォールアウトみたいなことになっちゃうんですな。portalシリーズとか。物理エンジンを利用した謎解き、敵AI挙動によるランダム性、それらで十分にゲーム性が出せる。シーフシリーズ、特にdarkModなんてのは、ミステリーハウスの3D版みたいなところ(泥棒なので盗むと言うストーリーラインしかない。後は制作者との対決)もあるわけですよ。あ、海外の純AVGは、元からテキストベースではなく、画面上の主人公を誘導して、仕掛けを解くスタイルなので。

さらに、80年代のゲームには当たり前だった「制作側との対決」は、現代ではなくなり、ゲームはクリアできて当たり前というのが一般化しています。いわゆる盲導犬スタイルって奴ですね。80年代の対決は、ムキになってクリアさせるモノかと言うモノも少なくなく、デゼニランドの棺桶に、十字架を「attach」するは、当時でも大ブーイングでした。setで良いだろうと。説明も何もないレリクスとかもありましたなぁ。これらは極端ですが、課題をクリアする喜びがゲームの喜びではありますが、適度な手応えもまた年代で差があります。クリアが賞賛される時代から、クリアが当たり前の時代ですね、今は


なんかゲーム史になっている気もしますが、説明しないと分からないだろうと。で、冒頭に戻りますが、これが私が一番ゲームをやっていた頃のゲーム界でした。大艦巨砲主義ではないですが、まぁ、読ませるゲーム、遊びつつ読めるゲームが主流だった。

原点回帰はどの世界でも起こるモノで、回るワルオとかの一発ミニゲーム集の高売り上げという下地と、ケータイの爆発的普及と進化によって、ワンクリックゲーム群は、アプリと名を変えて普及した。
おそらくこれからのゲームは、ケータイアプリの占める割合が大きくなるはずだ。どれだけグラフィック的に進化しても、根幹はワンクリックゲームであり、手と目で遊ぶ純粋なゲームとなる。もうすでに、ゲームと言えばケータイなのかも知れない。

実際、「パタポン」や「勇者の癖に生意気だ」などをプレイすると、アプリの中に混じっているのが似合う気がするし、パズルクエストもiアプリ版あった気がする。これらのゲームに、読ませる物語など必要なく、動機付けや目的への誘導程度で良い。この辺りをゲームとして生まれ育った世代にとって見れば、ゲームに物語性を求めるのは、バカか?と思っても仕方がないし、ゲームは使い捨てるモノという認識でもおかしくはない。

が、引き下がるつもりもない。FPSにおいても、CoDなどに代表される過度な演出を嫌う人は多い。だが、FPSはシューターというアクションゲームで、物語を読ませるゲームではない。crysisのような、far cryのような、勢いでかまわない。だが、FalloutやFableのようなものが、勢いだけで整合性もないシナリオでは困るのだ。

crysis2で小説家を採用したり、Metro2033のように小説をゲーム化したりするなかで、シナリオライターとゲーム(レベル)デザイナーはもっと話し合うべきだという議論が海外では、当たり前に語られている現状では、日本のゲーム業界は、沈む一方だろう。確かに、ゲーム性と物語性の両立は難しい。ゲームに集中していれば、会話なんて入ってこないし、イベントムービーを延々と見せられては、ゲームに集中できない。

しかし、出来ないと諦めていては、絶対に出来ない。理想を追う事は、明日を作ることである。

現実を見なければ今日を生き抜けないが、理想無き者に明日は来ない。今日と同じ明日が来るだけだ。
諦める事を美化するような、しみったれたニヒリズムモドキなんぞ、クソッ喰らえだ。

どうせ何も変わらない?動かないから変わらないのだ。変えなければ変わらない、当たり前のことだ。
止まった時間の中で朽ちたければ止めはしない。私は進む。おそらく、見えない階段に足を乗せることはないだろう。すでに崖から転落中かも知れない。それでも、私は進む。私は愚者*だから。

そもそも、ゲームや映画、小説に、何も求めない。と言うことは、何も期待していないと言うこと。それは、果てしなく失礼極まりなく、作者を馬鹿にしているにも程がある。それは味わうことなく、ただ胃袋へ料理を流し込むようなものだ……そして一定確率で必ず存在するんだよね、この手合い。映画(ゲーム)なんて、何も考えずに楽しめばいい。と本気で考える人。

流し込み、飲み込み、ただ消費するだけならそれで良いし、無思考の消費者が経済、すなわちメーカーを支えているのも現実だ。

だが、面白いゲームとは何か。楽しいとは何か。それを探求せずに、良いゲームや映画はあり得ない。フルプライス約9000円を読み捨てられるほど、金持ちでもない。ただ時間が潰せればいいと言えるほど有閑でもない。私にとってゲームをするのは、とても大切な時間なのだ。

無思考でいることを誇りに思うことほど、恥ずかしいこと、馬鹿げたことはない。それに気がつかないのも。
全共闘世代(革命を夢見た永遠の青年達)の反動が、スカシ(国家権力等の世の理には勝てないと、この世の全てを諦めた)世代となったわけだが、奴らの毒素はドコまでも深く冥い。

*タロットの話だからな?


シナリオとは何か(2011/07/15)
その前に、カウンター止めました。アクセスログ代わりにつけてたんですが、まぁ、色々と思うところがありまして。
それと掲示板も切りました。賞賛とクレームを交互に貰う形でしたが、身になるクレームはほとんど無く、ノイズに耐えられなくなりましたので。放置しても良いんですが、やはりゴミは片付けないと。

双方向であるべきネット界で、一方を遮断する意味は理解しております。何らかの対応を取りたいとおいますが、一定のめどが付くまで(流行語)、現行をお許しいただきたい。


実際の所、大見得を切ったモノの、以前ほどの愛も欲(という名の理想)もなくなりつつありまして、もう自分だけの趣味で済ませて良いんじゃないかと。伏線も転結もない物語を未来人が好むなら、それが定まった未来なのだろう。とエセニヒリズムの軍門に下ろうかと言うぐらい、愛を無くしてまして。

映画人が映画作りに理想を掲げられなくなったら?、学者が学問に理想を見いだせなくなったら?とか、色々考えておったです。だからこそ、よりよい未来のために自分の理想を信じ、、無知と害意と悪意を振りまく連中と戦い続けられる池田信夫氏とか、モーターヘッドのレミーとか凄いなぁと。日本のロックキングは…まぁ、お年の割に元気ですけど。ロッカーは歌で戦えなくなったら、ロッカーじゃないと思います。となると、物語で戦えないライターは、ライターではない。と言う結論に。

理想が理想でなくなった時、自らの理想が世の理想の欠片にすら成れないと分かった時、人はどうするのか…金儲けと割り切るのか、はたまた……奪衣ちゃんが手招きしてますが…老け専ではないのでまだ行かない。新たな理想を見出すべきか、敢えてガラパゴスで生き続けるか、ノアの箱船となるか…まぁ、日本のゲーム界はすでにガラパゴスな気もしますがね…日経ですらそんな評価。

未来の世界が「脈絡無く犯人が自首してくる話で面白い」と言うなら、それで良いじゃないかと。貧しい生活している事に気がつかなければ幸せだし。
かつてソ連がアフガンに侵攻した時、ソ連兵が衝撃を受けたのは、圧倒的に文化度が低いと見下していたアフガン人が、一般人でもソニー製のラジカセを持ち、自分たちより良い生活をしていたと言う事だったという。


で、シナリオ、特にゲームでシナリオというものを、真っ当に理解している人は結構少ない気がします。古い話ですが「かまいたちの夜2」の大手個人攻略サイトで「あなたの好きなシナリオ投票」と言うのがありまして、一位はと言うと、「尻振りダンス」でした。少なくとも1000ちかくは票を集めてた気がする………でもそれ、シナリオじゃないから…ただの1シーンで、ただのイベントだから…

あれから、進捗があったと思いたいが、未だにゲームにシナリオなんていらない。と言う人が出てくる……ワンクリックゲームなら、あるいは、対人RTSなブラウザゲームでもそうかも知れない。だが、シナリオは筋書きであり、設計図である。ドコでどういう情報を得、どういうアイテムを得、どういう地形で、どれだけの敵と戦い、そう言うことも含まれる。もっとおおざっぱに言えば、ゲームの目的設定がシナリオの基部といえる。何を持ってクリアと成すのか。クリア条件を満たすために、どういう過程、道程を設定するのか。どの程度の壁、試練を用意するのか。それが、ゲームにおけるシナリオである。

ゲームシナリオとはイコールで脚本ではないし、イベントでも演出でもない。ましてや文章表現でもない。内包されるがイコールではない。物語性、ストーリーテリングだけが重視され、ゲームシナリオライター=ゲームテキストを書く人になっているが、それはプランナー、ディレクターとライターが同一であることが多いせいだ。

そうでなければ、物語上の盛り上がりポイントと、ゲーム上の盛り上がりポイントにずれが生じる。特にFPSは、コレに悩むようです。crysis2のインタビューなどを見ると…4gamerでの元記事が見つからない…crysisじゃなかったかなぁ…まぁ、レベル(ゲーム)デザイナーは月に住み、シナリオライターはマリアナ海溝に住む。そんな論旨でした。FPSにシナリオ分岐はそんなに無いからまだいいけど。物語的に一番盛り上がって欲しいシーンなのに、ゲーム的にはダッシュで走り抜けて2秒で終わって良いのか?と言うことです。

この考え方がすでにガラパゴスなんだろうか?。ライターは、小説を書くようにテキストを書けばいい。あとで、乗っければ良いんだから。と言うことなのか……ん〜、外注はこうカモ知れないなぁ。エースコンバット6とかの本編との乖離とかをみると。

シーン構成は流れ、リズムなので、ただの移動(たとえば通学中の会話)を長ったらしく、微細に書き込んでも邪魔なだけで、リズムを崩す。流れのリズムが悪いゲームは、プレイが苦痛になる事が多い。と言うのが私の信念。小説だって、映画だってそうだと思う。テキストも演出も、ゲームを盛り上げるためのはず。そもそも、ゲームと乖離した物語がトッピングされる事に、なんの意味があるのだろうか?。

これからのゲームは、スマートフォンの中に住まい、大量消費され、味わうこともなく飲み捨てられていく存在になるのか。映画と肩を並べる芸術となりうるのか。映画や小説にはないインタラクティブ性、自分の行動がダイレクトに物語へ影響する没入感。やはり、私は映画を超えられると思うし、小説、演劇、映画と来て、その次にあるのものはゲームだと思う。

私は、将来的には、遊技、デジタルスポーツとしてのゲームと、インタラクティブエンターテイメントとしてのゲームに二分されるのではないだろうか。演劇が映画と舞台とに分かれたように。スポーツはプレイそのものがドラマでありシナリオなど必要ない。が、エンターテイメントとしては、絶対にシナリオは必要である。本来の意味でのシナリオが。

映画に成り代わる道は険しいし、はるかに遠い。私が生きている間にたどり着くことは無理だろう。一代で躍進を成し遂げるほどの傑物でないことも身にしみている。か細い獣道を残せただけでも満足できる。まぁ、行き止まりかも知れませんがね。

まぁ、最初に理想を語るモノは嗤われるもの。別に私が最初な訳ではないですし、結果を残さねば、笑われて当然ですけども。

そして、己が過ちを正さねばならない。シナリオ偏重でレビューもどきをしてきたが、シナリオの基礎定義を広めるのを忘れていたようだ。一応、文章力に関しては「脚本」「セリフ回し」と言っているはずだし、ストーリーラインの起承転結、どんでん返し、つまりゲームの設計などを、シナリオギミックと言っているハズである(三流なので時折意図がずれている事があるが)。

ちなみに、Wikipediaだと中二病を極端に嫌悪するのが高二病ってなってた。ネット界は意味の変化が速いね。変化というか流行廃りか。はたまた一人歩きか。中二だろうが大二病だろうが、スレ内の内輪ネタが外界に通じると信じ込んでいることが、すでに厨二病?。スラングは内輪とそこに憧れるチューマにしか通じんよ。


一定のメド(2011/07/18)
自分で使うとよく分かるけど、その気のない人にとって「一定のメド」って「やるわけねーじゃん」とほぼ同意語だなぁ。私は馬鹿正直なのでやりますが、完全に再構築するか、メアド出してるからいいじゃん?と言う、悪魔とデーモンの言い争いに、どっちに耳を傾けようかと。

さて、最近の私のトレンド、池田信夫先生ですが、この発言。まさしく同感。団塊左翼(≒全共闘世代)が、この世の悪であると。団塊左翼のプライマリウェポンであった「ナリタ・オキナワ・ヒロシマ」は、団塊左翼の結晶であった民主党が、ことごとく潰している馬鹿さ加減。ナリタはまぁ、とうに終わってましたが羽田空港国際便でとどめを刺し、活路を見出したはずのオキナワでは、総本山たる中国共産党にも裏切られ(尖閣問題:日教組OBなど、沖縄に移住してまで市議会に元活動家を送り込んだのにねぇ)、そして、ヒロシマ、すなわち反核に到る。

オキナワ問題の初端も、無能総理が安易なカードきりを行ったせいで、非常に安く、いわゆる捨てカード扱いにしてしまったことが上げられる。菅直人も、反原発と言うハイカードを、自らの一時保身として切ってしまったために、非常に御しやすくなった…と思ったら、その後、恥と理性を捨てたチート行為によって、まだ居座ってますが。

我々の活路は、ここにしかない。団塊左翼の真の悪意は無垢であるという事だと思う。つまり、自分が悪を成している自覚がないからこそ、余計にタチが悪い。自らを正義と信じて疑わず、異教徒を虐殺して回っているようなモノ。放射線への過剰な扇動も、当人たちは善意で行っているからタチが悪い。そして、集団化することで、組織への抗議方法を習得しているのもなおさら悪い(反原発集会の大多数は、動員がかけられているハズ。主催が労組・日教組とか多いモノ)。


ポピュリズムここに極まる
浜岡原発の停止。にわか反核は絶賛しておりますが、どう見ても保身と人気取り。パンとサーカスのサーカス。

しかし、考えてみれば、全共闘世代の金看板は「ナリタ・オキナワ・ヒロシマ」。ナリタなんてすでに無く、オキナワも、中国様のおかげで突き崩され、残るはヒロシマ、すなわち反核。

つまり、菅直人という低能力者が、全共闘世代にとって最後のカードを、安易に切ったとも言える。
ここを耐えれば、ここをしのげば、左翼は手駒を失い、日本は健全化に向かうはず。
ただ、今の日本に耐えきれる体力があるか。と問われると無いと思う。
最後の最後まで、しなばもろともと道連れにする気か。後世、日本という家を食いつぶしたシロアリは、全共闘世代と書に刻まれるであろう。


とか五月に書いてますな、私。五月だったか…もう半年は前だった気がする…苦痛の時は長く感じるモノだ


音楽の好き嫌い(2011/07/22)
音ほど、個人の趣味趣向がダイレクトに出るモノもなく、そこから生まれる音楽も、好き嫌いが激しいと思う。スラッシュを雑音としか受け取れない人もいるだろうし、クラシックなんか眠いだけ、とか言う人もいるだろう。好き嫌いはしかたないが、自分の価値観を他人に強要しちゃダメ。

と言う流れではなく、もの凄く久しぶりに、箱○の電源を入れたらverupが。いれっぱになってるディスク見たらアイマス2で、カタログ05配信中だったので、新曲を見てみたわけです。……ダメだ…私は、この手の「音楽に合わせた朗読」っぽいのが、全くダメなんですわ。カタログ04の曲も、そんな感じで、楽曲と歌詞が別々にある感じがしております。タイトルが「バンパイアガール」で、もの凄い期待したのに。こう言う感じのが、最近の流行なんですかねぇ?。

でも、「キラメキラリ」とか「DoDai」とか、歌詞が強いけど、曲と歌詞はちゃんとシンクロしてると思うんだけどなぁ。口ずさめるし。バンパイアガールとか口ずさめないし。まぁ、学生時代、音楽4から5(10段階で。楽器がない時は7とかあった気も…)だった私なので、まったく説得力の欠片もございませんが。「バーガー」はまだ良かったけどなぁ(買う気はしないけど)。あくまで、流行であって、質が落ちているのでなければ良いんですけど。

個人的には、新曲がこのライン(ないしクォリティー)で続けるなら、アイマス1やL4Uの曲を、アイマス2用に持ってきてくれた方が嬉しいわ。「青い鳥」とかさー「私はアイドル」とかさー、レガシーヒッツとか言って、2-3曲セットで800MSPぐらいにしてくれないものか。

そう言えば、音楽って買わなくなったなぁ…フレディマーキュリー亡く、キザイアジョーンズは民族闘争に走ったし、ジョージマイケルもなんか方向性に違和感が…オマーぐらいかなぁ?。と言っても、FOR PLEASURE以外好きでもなく…ナインインチネイルズは、一時期ドハマリしたけど、久々に聞いたらダメになってた。歳かのぅ…DEEP FORESTも新譜どこから聞いてないっけ…ハワイの奴だっけかなぁ…エンヤとともに、民族っぽいのにはまってた時期だったわぁ(姫神も買ってた)。書き殴ってみると、節操ないなぁ…。

ジャズも一時期は聴いていたけど、最終的にアニタオデイのEARLY AUTUMNぐらいでしたわ。 畑亜貴も買いそろえたいんだけどねぇ。ヒカシューも。なんかこう、高校時代のように、音楽に割ける予算と熱意がありませぬ。CDショップと本屋のハシゴとかよくやったもんだけどなぁ。

最後に駆け回ったのは、アイアンイーグルのサントラCD版を探し回った時ぐらいか。LPは持ってたんだけど、CD化されたのを知って駆け回りましたよ。今なら、アマゾンとかで、ポチなんでしょうけどね。映画を見た人は分かると思いますが、アイアンイーグルのサントラって、インストは0で、ボーカルばっかり。しかも、日本に入ってこない奴ばっか。The Jon Butcher Axisとかもの凄い気に入ったんですけどねぇ。タワーレコードの輸入とか見てもなかったわぁ。都会のタワーレコードならあったカモだけど。

ちなみに、映画本編では、主人公が見ている音楽番組に登場しております。The Jon Butcher Axis。うまいBGMだよね。SUBWAYもだけど、うまいBGMの使い方してると、クラクラしちゃう。SUBWAYだと、主人公が物思いに浸ってるシーンで、BGMとしてサクソフォーンの切ない音が響くんだけど、そのうち主人公がウルセェなぁみたいな顔して、音をたどると、ストリートミュージシャンが吹いてました。みたいな感じです。

毛色は違うけど、モンティ&ホーリーグレイルで、馬の蹄の音と思わせておいて、ココナッツってのも映画にはBGMが付き物という裏をかいたシーンで好きだ。サーロビンの楽人も好きだけど。テーマソングが流れる中、登場と思ったら、楽人の生歌、生演奏という。でも、ここのトコ聞いてるのは、LOU BONNIEVEとJhonとRuby Groomかなぁ。全部アニメネタやがな。LouはADポリス(古い方)、Jhonは低俗霊狩りのイメージCD、ルビーはそのまま、カートゥーンネットのルビーグルーム。番組OP(英語の奴)も欲しいんだけどなぁ。熱意がにゃー。


脳のオフラインと言うことか(2011/07/24)
このつぶやき。「思いこみのフレームワークで満足して勉強する気がない」というのは、要するに「脳みそがオフライン」で、閉じてしまっている。と言うことなんだろうか。だとすると、もの凄く納得できる。閉じているからこそ、固執し、聞く耳を持たず、執着する。都合の悪いデータは捏造と言い、都合の良いデータが出てこないのは隠蔽と言う。反論したいが、反論できないから、HateSpeachか人格攻撃に走る。そもそも、論旨がつながってなかったりもする。

そして、なぜか声がデカイ(ついったーや「他人」のブログで暴れ回る)のは、こうした閉じた人なんだよねぇ。

このオフラインの人をオンラインにする術はあるのだろうか?。と少し前なら考えていたが、オンラインにする必要があるのかと最近は思う。まぁ、閉じているがゆえの攻撃性で、被害を被ることはあるが、山から下りてきた猿やイノシシに噛まれたようなもの?。お山に隔離して、近づかなければそれで良いんじゃないかと。どっちが、お山にいるのかは謎ですが。

歴史的には、里人の方が利己的で排他的だからなぁ。長老から、お山を下りるから、そんな目に遭うのだ。と諭されそう。 ホントにこういう強い人は、尊敬する。閉じたフレームワーク、脳みそオフラインの人々から、投石されても、罵倒されても、その弱者を守ろうとするその姿勢は、まさしくヒーローと言えよう。不動明でさえ、人間を守る価値があるのかと悩んだのに。コンドールマンの歌でも歌いますか。

で、アイマスの話。PCでカタログ05見たら、新曲そんなに悪いものではなかったので、なんでじゃい。とXBOXで再度確かめたら…スピーカーの片方が鳴ってませんでした。そんで、ボーカルだけが強めに聞こえてきていた。と言うオチ?。ヴァンパイアガールなんて、もはや別物ですわよ。

コネクターぐりぐりして、再び鳴るようにして聞いたら、悪いものではなかった。私の趣味からすると良いとも言えないのですが。今時のアイドルソングって感じですなぁ。PS3用のメインソングは力入ってたのに。もしかして、そっちに傾注しているのではないから?。という、苦し紛れの責任転嫁をしつつ、スピーカーいつから鳴ってなかったんだろうか。今も切れ切れなので、もうダメっぽいなぁ…つか、電源がブチブチ切れだしたよ…火を噴く前にに外しておこう。


感情移入とエンパシー(2011/07/27)
ショップのメールニュース新作案内(byアダルト)で、ここ何年かで特に目に付くようになったのが、いわゆる寝取り系。特に最近多いのが、不倫等の正統寝取り(?)ではなく、先日のメールニュースのだと「キモオタが、弱みにつけ込んで…」と言うこの手の犯罪脅迫系。

で、わき上がった疑問が「この手のを好む人は、ドコに感情移入しているのだろうか」と言うこと。陰湿な手段を使うキモオチに?。それとも、為す術なく寝取られる側に?。はたまた、真実の愛のために我が身を捧げ、過酷な仕打ちに耐えるヒロインにか?。

大抵の物語は、感情移入を誘うように作られているし、作っている。そのために、主人公を魅力的な人物とするために、色々と工夫するし、主視点(物語において)ゲームにおいては、プレイヤーと一体化させるためになるべく主義主張を消すことに努力する。

と考えて、単純に「感情移入してないんだろう」と言う結論に二秒で落ち着く。ただ、眺めるだけ、傍観するだけであり、安全な第三者としてプレイヤーは存在するのだろう。ゲームの世界に私はなく、モニターの向こう側の世界を眺めるだけ。というか、そもそもゲームとして、プレイヤーの視点はドコに、誰にあるのだろうか?。一応の視点はヒロインにあるのだろうとは推測するが。

メッセージをクリックして進めるだけのデジタルピクチャーショー、電脳紙芝居であり、ゲーム性など必要もなく、過酷で、陰湿なセックスプレイシチュエーションだけを求めているのだろう。しかし、それならば、ゲームという体裁をとる必然性はドコにあるのだろうか?。

ゲーム性を廃し、物語で見せるというのが、ビジュアルノベルが見せた可能性(と言っても、初期のものはきちんとゲーム性があったが)だったが、現状では紙芝居の枠と言うツールに止まっている気がしてならない。シチュエーションの積み重ねは、物語ではない。アダルトビデオのようなプレイの集合体に物語がないのと同じ事だ。

そうしたモノを好む人は、物語への没入感など、無用と思っているのだろう。……ここでもう一つ気がつく。「物語へ感情移入すると言うことを知らない種族」がいるのではないかと。そう仮定すれば彼らの主張に合点がいくが…

もしかすると、逆か?感情移入する方が異常なのか?。いや、仮面ライダー(原作)で、本郷が、感情が高ぶると表れる手術痕を恥じ、マスクで顔を隠すことに胸打たれるのも。8マンこと、東探偵が、さち子さん手作りのごちそうを胸から取り出し、こっそり捨てることに、切なさを感じるのも、感情移入のなせる技。それなくして、文学的感動はあり得ない。

感情移入こそが共感、エンパシーの入り口であり、愛情・愛着の発端でもある…ハズ。愛着を感じるはずのペットを平気で野に放ち、陣痛をこらえて産んだ子をその場で殺してしまえるのも、愛情がない。共感力がない。突き詰めれば、感情移入がない(もしくは自分以外に出来ない)からなのだろうか?。

共感できないから、他人の痛みを想像できないから、他人を傷つけることを楽しめる。愛情も愛着もないので容易に切り捨てる事が出来、平気で嘘がつける。それらの入り口である、感情移入できないって、かなーり高いソシオパスの素養な気がするんですが。

文学は、それらの治療薬、漢方薬となりうるのか?。劇薬として、理性という最後の扉を溶かしてしまえるのか。

平易な言葉にすると、スプラッタやスラッシャーで最後の一線を踏み越えるのか、感動の名作で魂を浄化できるのか。どちらにしても、感情移入が出来なければ効果はゼロだと思う。


軽いオチ(2011/07/27)

とまぁ、ロープライスのデジタルピクチャーショーのエロ漫画的ゲームの広告から、深くみえる考察をしてしまいましたが、考えようによっては、アダルトゲームは正しい位置に納まったのかも知れない。PC世代のNerdにおけるAVというあるべきポジションに。ひとつ前は、ビデオ世代(エロアニメ。当時風に言うとロリコンアニメ)。ふっちゃけズリネタと。

まぁそもそも、この脅迫寝取り系ってのも、実は結構古くからあり、古い方の「愛姉妹」とかそうですな(どっちにするのはラブコメ)。その名の通り「脅迫」とかも…タイトルうろ覚えだ…脅迫は、ヒロインが弱み(自慰行為を盗み撮りされたかなんか)で、脅されて…という、昨今と大差ないプランニング。ラストは、恋人(男)が、友人から裏ビデオを貰ったら、写っているのが恋人(ヒロイン)だった。みたいなオチでした。フルプライスな分、タチが悪いカモだけど。

過分に、私が女性主人公で「受け」のエロゲが大嫌いという所に起因する問題と思いますが。運命を切り開かないのは主人公ではない。と言う信念。

かつて、エルフやシルキーズの黄金期のように、非アダルトよりも、高いゲーム性、物語性を持っていたことの方が異常だったのだろうし、そこを知らない人間が嘲笑するのも無理は無かろう。だが、日活浪漫ポルノや、エロティックVシネマが少し盛り返したように、結合シーンラッシュではない、物語がきちんとしているものも生き残れるはずだ(ニトロ+がそうだと思う)。さらに進んで、ゲーム性がしっかりありつつ、物語もエロもある。と言うのもあり得るはずだ(高望みだが。とはいえ、ターミネーター1では、シルエットになるとはいえ、結構露骨に濡れ場を演出しており、高望みでもない気がする。)

年配の人に聞くと、昔のビニ本は芸術性があった。今のはただ股広げて見せているだけだ。とか言いますし、過激さ、性欲発散重視の方向に行くのはドコもいつも同じなんですかねぇ?。

隙を見て、ADVゲーム史をつらつらと書いているが、90年代、特に前半は非アダルトのPCゲームは斜陽だった。後半になってくると海外で「Half Life」と言った革命が起きるのだが、日本では、信長の野望か三国志か、と言ったものしか目立った存在はなかった…気がする。JBハロルドって何年だったか。

しかしまぁ、ラノベで長ったらしいタイトルが流行ったせいか、最近のゲーム(特にエロゲ)は長ったらしいのが多い。ラノベもゲームも、そして映画も、アニメも、インドアなジュニアハイなら一度は夢想したものばかりだよねぇ。アイアムナンバー4とか。武偵とか。最近思うのは、二十も半ばを過ぎて、ラノベにドハマリして、関連グッズ、フィギュアやら、ゲームやら買い漁り、聖地巡礼とか言ってる奴を中二病というのが正しくないだろうかと。

唐突に一句
中二病 形にすれば ラノベ作家
お粗末。そうそう、他人に対して「中二」とか言ってる人って、微妙に用法間違えてる人多くない?。私も含めて。



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