八月の夢酔
ここに来てメッキが剥げるようなチャチなツッパリなら、最初からツッパラにゃきゃいいんでぇ
−バロン森(アストロ球団/遠崎史朗/中島徳博)
闘争心(2011/08/06)
声を上げる、意見を述べると言うことは、闘争である。反論や嘲笑、凡愚の賢しらは織り込み済みで声を上げねばならない。一番堪えるのが凡愚の賢しら。大抵のサイト持ちや、ブロガーは体験していると思うが、すでに記述してある内容を得意げに語る人は後を絶たないし、自己矛盾に気がついて無い人も多い。私も凡愚の一人なのでなるべく付き合ってきたが、非常に堪える。
他者のブログやサイトのコメントで、そうしたものを見ただけでも堪えるようになったし、Hate Speechや人格攻撃などを嬉々として鬼気としてやっている姿が見えるようで胃が痙攣する。閉じたフレームワーク、脳みそオフライン、進化を肯定しているようでも、実は変革を拒絶し、それが自己保身であることに気がつかぬ人たち。
もはや、この状況は「痛みに怯えるボクサー」に近い。殴られることを拒絶するボクサーは、批評されることを拒絶する表現者の様なモノだ。ねぇ?…いや、嫌味は止めておこう。
しかし見方を変えれば、「コメント欄がない」と言うクレームも、予見される反論である。とも言える。そもそも、こうしたことを言う人で、まともな反論や建設的な意見を聞いたことが私にはない。単に「気に入らないから殴らせろ」「ムシャクシャするから殴らせろ」なジャイアンであることが多い。
「私はついに重大な決心をしました。自分の著作の書評を切り抜くことをやめることにしたのです。私は自分の気に入っている書評でさえ、最近はうんざりしているし、気に入らない書評(どんな小さな地方の新聞に載ったモノでも)を見たりしたら、何日も仕事が手に付かなくなりますから」
−P・G・ウッドハウス
問題は、それらのパンチの雨に身を置いても、まだ向かっていく意義を自分の中に見いだせるか?と言うことで、それはひとえに「闘争心」に帰結する。特に、芸術表現は、自分の理想とする世界を世に認めて貰う戦いである。バロン森の言うとおり、チャチなツッパリにするかどうかは、自分次第。
サラリーマン化して「組織の中じゃ…」とか言うのは、ただの逃げ口上でしかない。闘争心を無くした私のご同輩。いやまぁ、私のはまだ消えかかっているだけですが。風前の灯火。ばーい、安駄婆。
それは現代でも通用する、なのか、停滞なのか(2011/08/07)
SFC版のドラゴンクエスト5に触れる機会がありまして。確かに現代でも 遜色なく通用する出来だなぁと感心しつつ、ふと思ったわけです。
「これは現代でも通用する名作なのか」それとも「今のゲームは、DQ5から進歩していないのか」
事前知識が全くない、小学5年生ぐらいに、5と8やらせて、どっちが新作か聞いたら結構迷うのではないかと。もちろん、ナンバリングで即バレですが、タイトルにナンバーがふってなく、PS2版でやらせたら。と言う条件になりますけど。
もちろん進歩はしています。しかしそれは枝葉の部分でしかなく、種としての進化ではない。ある種の適応は、退化とも言えるわけで、深海魚の視覚が退化していった事に似ているのではないかと。ファイナルファンタジーが映像演出に特化した反面、ゲーム性が落ちたように。深海あるいは孤島で隔絶された種がメインになることは無い。日本のゲーム界の低落がそれを証明しているのではないかと。
システムやグラフィックに古さを感じるが、その斬新さや、切り口等の評価ポイントが高く今でも楽しめる。と言うのが現代にも通用する名作の定義と仮定するならば、DQ5は真逆と言えるでしょう。「half life1」は、グラフィックが古めかしいし、AIもアホい(当時としては賢かった)が、FPSに高い物語性を持ち込み、ゲームを阻害せずに高い物語性を維持したこと。絶妙なレベルデザインなどは、現代でも通用する名作と、ほとんどの人が評価するでしょう。
対して、グラフィック的にはSFCなのにPS2の8と大差ないですし、物語的にも、良くも悪くもドラクエらしいドラクエ。8にあって5にないのはスキル要素ぐらいでしょうか。代わり映えしない。と言うべきなのか、恒例のと言うべきなのかは難しいところですが。それらが、ドラクエをドラクエたらしめていることは否定しませんし、ここまで来たら、毎年恒例のお正月映画(フーテンとか釣りの人シリーズのような)や印籠の時代劇のようなモノで、変化を与えると逆に拒絶されるでしょう(石坂黄門はウケが悪く、里見黄門では従来スタイルに戻っているし)。CoDシリーズがこのラインになりつつあります。
自分で開拓したドラクエシリーズはともかくとして、本来ならば、ドラクエシリーズそのものが、「懐かしくも新しい」と感じさせるモノでなくてはならない気がしています。他のゲームは、ドラクエ 5が古くさく見えるほどに進化してないと行けないはずです。2D見下ろしのターンベースRPGが、未だに時代の寵児がごとく扱われるのは、やはり違和感があります。個人的には大好きなんですけども、ターンベース。2Dでも3Dでも。
ドラクエが「DQ13?まだやってたんだ、なんか、なつかしーな」と言われるようになるのが、あるべき姿のような気がしています。時に、13まで出ますかねぇ。個人的には、ほりい氏個人に依存しているプロジェクトと思いますので、ほりい氏引退とともに終わると思います。ネームバリューがありすぎて引き継げないだろうと。ほりい氏は、ゲーム界のクロサワみたいな扱いになってますしねぇ。
横並びが大好きな日本人ですから、お決まり、お約束という安心感が大好きな事に、このゲーム界(に限りませんが)の深海、孤島ニッポンの原因があるのではないかと思います。変化は本能的に求めているが、変革は望まない。と言うマトメになるんでしょうか?。
そもそも、おきまり、お約束で事を済ましてしまえば、進歩はありませんから。テレビ界が没落したのも、おきまりお約束に頼りきり、革新を求めなかったからと言う人もいますし。このことを平易な言葉で言うならば「○○なんて、こんなもんだよ」とか「○○に何を求めているんだか」と言うことになります。
良いモノを真面目に作ろうとしている人を、これほどバカにする言葉は無い。と思ってます。だから「抜きゲーだからこんなモン」と言う言い方は、私が行う最大限の侮蔑と挑発です(って書くと無粋この上ないけど、「おまえ使ってるやんけ」と言う閉じたフレームワークが出てくるモノで)。バカにするなと怒ってくれと。
ちなみに、結婚式上げたら、やる気を失いました。子供向けとはいえ、おざなりすぎないか、結婚出産というものが。ファンタシースター3のが悩まされたなぁ。PS3はゲーム自体がアレでしたが。
ちょっと追加。ドラクエ25周年らしいですね。やはし、25年も続くシリーズが、時代の寵児というのは異常ですね。考えてみれば、邦画の停滞も、「お決まりとお約束」を繰り返したお正月映画ぐらいしかヒットがない時代が長く続いたことに一因があるのかも知れません。
「こんなもんだよ」と言う、お決まり、お約束の借り換えしの繰り返しは、詰まるところ手抜きと思いますから。それは、現状維持や停滞ですらなく、退化なんだと思います。まわりは進化している訳ですから。
AVGは絶滅したか()
実は、portalやhalf life2のようなファーストパーソンパズルは、AVGの次世代の姿なんだ。と言うごく当たり前のことを書いていたわけですが、TRAUMAとかみると、海外では 、ちゃんとゲームしているなぁと。真摯にゲーム性と物語性とシステムが考えられている、このアドベンチャー「ゲーム」を見ると、日本ゲームのガラパゴスぶりが身にしみます。で、書き直して切った 貼ったしたのでちょっと読みにくいかも。
日本の、特にアダルトのAVGは、まさにデジタル紙芝居で、パソコンという額に、CGという静止画を出し、声優という弁士が演劇を見せる。そこにプレイヤーはなく、ただ演技者と観客がいるのみ。もっと言うなら、おざなりな選択肢は、弁士の客いじり程度で、進行には影響しないのもそっくりだ。
traumaもリアルタイムでない、3Dオブジェクトでないだけで、やっていることは画面上のオブジェクトに直接触れて、謎を解くスタイル。portalやなんかと基軸は大差ない。 内容的にもビジュアルノベルと大差ない。
しかし、選択肢を選ばせることで分岐せずに、魔術的メソッドとでも言うべきマウスアクションをプレイヤーに行わせることで、シークレット探しというゲーム性を持たせている。これは、ゲーム性を持ったビジュアルノベルとしての光明といえるだろう。単なる自己視点のポイント&クリック型ちゃそうなんですが。
元々アドベンチャーゲームは、画面にあるオブジェクトを調べ、アイテムを入手し、仕掛けを解いていくゲームだった。
最初期には、コマンドを直接入力していたものが、コマンド選択式となり、アイコンによるタッチ方式へと進化していったに過ぎない。
コマンド入力式のシュタインズゲート8bitが出るので、若人はコマンド入力&ラインドローがどんなモノか体験する良い機会かと(若干不安なのが、「ハナス」で全部終わるのではないかという…仕掛け解きとか一切無しだったら…ニトロ+なら大丈夫とは思いますが)。あの時代を知るAVG好きの危機感とか郷愁は、共有しているのかなぁと思いました 。が、 オマケに付けるならともかく、こうしたノスタルジィを売りにする製品というのは最末期症状と言えると思います。 とうとう種としての限界が来たと。
さて、謎解き、仕掛け解きという、ゲーム性を捨て、物語重視にしたのが、日本のビジュアルノベルだったわけですが、TRAUMAを見ると、それはトレードオフ が必要な項目ではなかった事が分かります。
そもそも、ビジュアルノベルは、ゲーム性を捨てて物語性をとったハズなのに、伏線処理も出来ず、起承転結すらないってのは…ねぇ?。で、キャラクター性(もしくは、声優 や原画師のアイドル性)に走っているわけですが(特にエロゲや原作付き)。
ですがまぁ、前も少し書いたのですが、エロゲはようやく本来の位置に落ち着いたのかも知れません。PC世代Nerdのエロ本という、定位置に。その前はビデオ ・アニメ世代で、当時風に言うとロリコンアニメだったわけですよ。もはや、エロゲメーカー=AVメーカーで良んでしょうね 。今後ゲームとして扱わないようにしましょう(敢えて書いておきますけど、出来れば怒ってください、俺たちはゲームつくってンだと)。
で、続きのまとめになっているんだけど、現在では、ゲームというカテゴライズでは、対応できないのではないか。もしくは、ゲームというカテゴリー認識を広げるべきではないか(主に私が)。
1、ゲーム性をきちんと持つコンテンツ。2、映像演出(含むアイドル・キャラクター性)を眺めるコンテンツ。3、ワンクリックで済むコンテンツ。おおむねこの三系統がゲームというカテゴリーが内包しているしていると。日本は2と3ばっかりになりつつありますわなぁ。
分けよう()
無理に一つにする必要ねぇや。と今頃悟る。ブログ形式なら2エントリーで済むんだろうけど。
ヒントが、ひどく古い本にあって徳間書店の「ファンタシースターの世界(1993年)」の本編とは無関係のコラム。ゲームの世界不思議発見その3にあった。
『映画、小説、マンガの主人公は強烈な個性の持ち主が多い。しかしゲームの世界では無個性でなくてはならない。なぜならキャラクターの個性を想像するのは作り手ではなくプレイヤーだからだ 』
とだいぶ要約させて貰いましたが、ほぼ私の主張と同じでビックリだ。コラムの本筋は、なぜプロの演出家がいないのか。と言う事なんですが、上記も含めて、小説や映画との技法とゲームは異なると言うことが書かれております。
たとえば、作家は一本道のシナリオ作ってしまうとか(現代でも一本道は多いが)。セリフとフラグの連動 を考慮しないとか。 小説は一ネタ一シナリオだけど、ゲームの場合は、サブクエストとか、展開が分かれたりするから、ネタ的にゲーム一本で複数を消費するんだな。
そう考えると、作家原案のゲームは面白みに欠けるが、ゲーム作家の小説は面白かったりするのは、ゲーム作家は複数を一本に絞れば済むが、小説家は一本を複数にばらせない。たぶん、そう言うことなんだろう。
で、考えてみると、このビジュアルノベル系の登場人物は、すべからく強烈な個性を持ち、主人公ですら、猛烈な自己主張するものがほとんど。下手をすれば、誰が主人公(=プレイヤーキャラ)か分からないほどの群像となることさえある。って批判をプレイヤー目線とはドコにあるで、書いたわけですが(拙すぎて笑っちゃいますが)。話を戻すと、結局の所、ゲームを作ってた訳じゃなくて、クリックでメッセージを送る=ページをめくるデジタルコミックを作っていたのだなぁと。 謎解きどころか、伏線もいらない、ろくな分岐もなきゃ、そりゃあ楽だわな。
ここまで考えて「デジタルピクチャーショー」、デジタル紙芝居と揶揄して来たんですが、コレが異常に的を射ていると感じた。ビジュアル「ノベル」とは言っているが、明らかに主は絵であり、文は従だ。つまりは、静止画を元に、声優という弁士が紙芝居を行っている。プレイヤーなど無く、観客がいるだけだ。 なるべく少ない絵で話を進めるのも似てるかもねぇ。
この結論にたどり着くまでに、何年、そして何本のゲームをプレイしたオレ?。馬鹿すぎるぞ、オレ。振り返ってみれば、コマンド選択式になった時に、解くべき謎はほとんど消え、全ての場所で、全てのコマンドを試す作業ゲームが主流となった時、AVGの命脈は絶たれて 、緩やかな死が始まったのか。ビジュアルノベルがバブルとなり、 とどめを刺した。バブルがはじけた時、海外にあった物理エンジンを利用したゲーム性と物語性を合わせ持つゲームとの差に愕然としているのが 今現在であろう。
愕然としていればまだマシで、竹槍でB29が落とせると信じ切っていたように、今の日本のゲームを良いと信じている人は少なくない と思う。 今振り返ると、黒船は、オブリビオンだったのかねぇ?。
で、ストーリーメイキングに関しては、現代だとストーリープランをプロ作家に頼む、ないし小説をベースにってのは増えてきた。映画で言う、原作の映画化と言えるぐらい、小説の映像化ではないゲーム化に成功した例もある。メトロ2033とかWitcherとか…どっちも洋ゲーか……日本だと…「ハルヒ」とか「一騎当千」とか?……かつて、バンダイ(だったか?)の営業マンは、こう小売店に言ったそうです「ウチのはゲームじゃありません、キャラクターグッズです」と。 いっそ潔し!ゲーム性のないゲーム、ゲームという体裁を借りたなにか(フィルム?コミック?)。今は良い言葉があります。コンテンツ。ゲームという枠では納まらなくなったPCコンテンツなんでしょうかね?。きちんとしたゲーム性を追求したゲーム。映像演出(ないし文字とのミックス演出)に特化したゲーム。時間つぶしの使い捨てクリックゲーム。この明らかに方向性が異なるものを、ゲームという狭い枠に収めようとしていたことが、間違いだったのかもしれませんなぁ。
ほら、映画と30分TVドラマとPVを同軸では語らないように。共通する根幹部分では語れますが。シナリオがダメなものは、映画でもドラマでもダメだからね。 ガチなゲーム、見るだけのゲーム、クリックゲーム。これらに共通するモノはなんだろう?。つか、国産のガチなゲームってなんだろう…
一番の肝は没入感(2011/08/17)
なんというか、タイムリーと言うべきか。神の見えざる手?。この記事。引用させて貰うと「一番の肝は、ただのパズルではなく、物語の中に入ったような経験、没入感をいかに演出できるかなんです」という所。詰まるところが、究極の自己視点ゲーム。そりゃ、自分自身がプレイヤーなんだから。と言うところで、私がよく言う「プレイヤーの視点=キャラクターの視点」と言う所につながるわけ。
ここまでかみ砕きつつ、実例が付くとさすがに理解してもらえると思う反面、自分の文才の無さも痛感する。まぁ、自己視点による没入感も認識できないようなレベルの奴は放置って所もあるわけですが。理解できないのは、メーカー側にも責任がある。芸術は良質なモノに触れないとダメだから。真っ当な批評家がいないのは、映画や小説と違って、過去作の保存をしてこなかったのも原因かもなぁ。
少々残念なのは、こうした実体験ゲームは目新しいモノではなく、ブーム時にテーブルトーカーだった人なら、大手コンベンションで参加したことがあるのではないだろうか?。RPGマガジンでも、軽井沢コンベンションだったか?での定番イベントだったし。後半は、ディプロマンシーとか既存ルールで逃げてたけど。当時、成立しなかったのはやはり、ゲーム人口と認知度の差か、運営側の才覚の差だろうなぁ。
で、神の見えざる手を感じたのは、ほんとにぶっちゃけると、当初のアドベンチャーゲームなんだよ、コレが。脱出系アドベンチャーも少なくなかったしね。ヒントを頼りに謎を解く。このゲーム性を忘れたのが、ビジュアルノベルとかサウンドノベルだったと。
ノベルゲームが悪いって訳でもなくて、仕掛け解きに飽きた頃に出たから受けたわけで、まぁ、ファッションと同じくサイクルなんですよ。で、一周してきた時に、3Dの物理エンジンを持ってきたのが、portalとかhalflifeなんだと思うんです。日本は完全な周回遅れというか、ピット入ったままな気がします。
ゲーム性を捨て、ストーリー性も失ったノベルゲームという柱を磨き続けても、もう三月磨臼は出てこない。読ませるアドベンチャーでなく、プレイできるアドベンチャーの復活を願うのは、ノスタルジィなんですかねぇ?。
あ、別段、コマンド入力の頃のAVGが完璧と言うことではありません。むしろ、ヒドイ所も多い。解決方法が固定化されているため「そんな映画の演出みたいなの求められても」と言うシーンも多かった。たとえば、IDカードをかざすことが要求される。すると、カードが弾丸を受け止め狙撃に気がつくと言う…知るかぁぁぁと当時叫んだもの。コマンド選択の頃でしたけどね。
AV史(2011/08/22)
松坂きみこは外せないとか、小林ひとみはどうだ。と言う話になりそうだけど、AVG史。なにげに、ちまちま書いたり、珍しく写真撮ったりしているわけですが、テラ4001(FM7用テープ版)とか、未だに持っているのは物持ち良すぎないか、オレ様よ。ただ、シェラオンラインとかスタークラフトがドコにもない。ミッションインポシブルとかあったハズなのだが。
で、資料を眺めていると、現代史にはいるゾーンのAVGをすばらしく未プレイという事に気がつきまして、最低でも、非サウンドノベルの名作のいくつか。逆転裁判、ダンガンロンパ、おさわり探偵小沢里奈はやらないと、演壇に立つ資格すらないだろう。と。なんで小沢里奈?と思うかも知れないが、日本製の典型的ポイント&クリックタイプ。と言う事を考えたら、これは避けられないだろうと。ダンガンロンパは体験版はやってまして、謎解きというよりも、ただの証拠集めパートだしなぁ。学級裁判も単なるミニゲームだし。 安くなったら買うかと放置してました。
改めて、体験版のダンガンロンパをやると、ポイントクリックで探し回るだけで、仕掛け、謎を解く。と言う感じは薄く、ミニゲームで盛り上げているモノの、ただ聞くだけの自動解決に近い(体験版 の序盤ですしね)。逆転系は、言葉探しゲームをきちんと進化させた感じ?。古代では、入力を受け付けてくれる単語を探していたわけですが、相手の発言の矛楯箇所という単語を探すと言う、すんばらしい目の付け方ですわな。
こうしてみると、全部ミステリー、探偵モノというジャンルが限定されてますな。こういうシステムを活かそうとすると、どうしても殺人事件とかになってしまう。と言うところで、ファミコンディスクシステムの名作「ファミコン探偵クラブ」をやってみたんですが、確かに良作。話自体は二時間サスペンスをはるかに超える出来。特に、「うしろに立つ少女」の見え見えのトリックだぜ。と思わせておいて、見事に外してくる辺りとか、過去の事件と複雑に絡み合う感じとか、先が知りたくて久々に引き込まれました。コマンド入力という、コマンド総当たり作業をやらされるにもかかわらず。
正直、話としては「かまいたちの夜」なんて話にならない出来。かまいたちの夜のメイン事件は、やや場当たり的な犯行で論が弱い。マルチシナリオである事を除けば、犯人名を直接入力させたりとか、カーソルで画面上を直接調べたりとかは、すでにファミコン探偵クラブで行われていたし、事件そのものもミステリー性も高い。うしろに立つ少女が1989年であることを考えると、やはり90年あたりが日本のAVGピークだったのかも知れませんなぁ。ただ、この時点ですでに、演出重視が見て取れ、このベクトルを突き詰めると、サウンドノベルになるよね。というのは感じられます。
つらつら考えるに、マルチシナリオを一番楽に体現できるのは、サウンドノベルなんだろうなぁ。ただ、良くあるタイプの明確なルート分岐型なら、小冊子にすることで、ゲームブック的に、○○するなら2巻を読め。△△なら三巻を。と言う方法も採れなくもない(本としては高くて売れないだろうけど)。ま、それをデジタルにするのが、サウンドノベル?。電子書籍なら安く出来そう。
となると、ゲームスタイルで無いと出来ないのは、マルチエンドか。ゲームブックでも出来るけど、文字通りゲームスタイルだし…ん?ゲームブックとサウンドノベルの違いはドコだ?。プラットフォームが、紙か機械か?。いやいや、ゲームブックはちゃんとゲーム性あるし。謎解きもあるし。暗号が解けたら、それが示すナンバーへ行け。とか言うパラグラフ良くあったよなぁ。作ってる人が理系だから、大抵は2進法か16進法に変換したりなんだけども。
紙媒体で、先に読まれることを防ぐために、パラグラフ形式にして分散させたわけで、デジタルなら全く不要。htmlでゲームブック作った(ガンダムでカーマインのアレ)経験からすると、ほぼサウンドノベル作りと大差ないんだわねぇ。そうすると、ゲームブックにも触れておくべきなのか。頑張れピップ、行くんだピップ。残念だが14へ進め。
ちょっとだけ?異論(2011/08/27)
『教養としてのゲーム史』だったか。これの中に「ドラゴンクエストは、竜王を倒すという大目標と、ローラ姫を助けるという小目標があり」云々。と言う記述で、ドラクエを褒めるわけですが、大目標へ導くための小目標の連続って、シナリオメイキングの基本中の基本。口悪く言うと、出来てない方がオカシイ。小目標の連続が、伏線とも言えるわけですし(イコールではないが)。この辺りからしても、シナリオというモノが(ry
実例を出すと、ウルティマ2ですら、その要件は満たしている。まず「ミナクスを倒す」と言う大目標。ミナクスの城に入るためには、リングが必要で、リングを受け取るためには祝福を受ける必要がある。祝福は、ブラザーアントンがしてくれる。と言う情報を各地を回って集め、ブラザーアントンを探し出し、リングを貰うまでの小目標が連続する。しかも、ウルティマ2では、ブラザーアントンの場所を探すためには、ちょっとした暗号(と言ってもヒントは出ている)を解き、さらにもう一段トリックが仕込んである。
明確な差は、ウルティマのヒントが「かなり意地悪」な事に対して、ドラクエのヒントは「ほぼ回答そのもの」と言う違い。ウルティマ2が世界(時間も超える)を飛び回ってバラバラの、しかも正誤が分かり難い情報を集めた上で、自分で推理する必要があるのに対して、ドラクエは順繰りにガイドが案内してくれる。このスタイルはライト層への配慮だろう。(8/30加筆)
ファミコンユーザーという、ライト層へ持ち込んだのはパイオニアと言えるけどねぇ。ドラクエ1のメインターゲットは、どの層だったんだろう。中学生前後だと思うんだけどね。謎解きを廃し、一本道にしたのは低年齢対策だったと思うんだよねぇ。
ブログの書評なんかでは「一部の人がたどり着けるエンディング」から「みんながたどり着けるエンディングへ」。と言う考察があり、確かにそれによって、ゲーム人口が爆発的に増えたのは事実。ただ、誰でもクリアできる=低難度化であり、ゲーム性の低下と言えるはず。レベルアップという作業をすればクリアできるものは、ゲームなのか?。と言う疑問も残るわけです。下手をすると、最後に残ったゲーム性である、戦闘やレベルアップも、ムービーを見るための障壁扱いなモノもありますし。
PCゲームでAVGが絶頂期だった頃、友人と集まって「デゼニランド」に頭を悩ませていた事があります。画面を見ながら、あーでもないこーでもない。コレ取れないかな?とか、コレ動かせないかな?とか、他の言い方(類義の英単語)ないかなと、みんなでワイワイやってたものです。そうして、仕掛けを解いた時の嬉しさ、クリアした時の感動を分かち合った思い出というのは今でも思い出せたりします。
「ゲームのクリアが賞賛される時代」から「クリアが当然の時代」へ。それは、「ゲームをプレイする時代」から「鑑賞する時代」へ。それ自体の功罪はよく分かりません。なにしろ真っ只中ですから。ただ、FPSの流行(CoDで「難易度ベテランクリアできました!」と言うコメントをよく見たので、やはりクリアする喜びはゲームの喜びである)、RPGもリアルタイム操作がスタンダードになった(リアルタイムなので、当然仕掛けの操作もリアルタイムで、パズル要素が含まれているモノが多い)今、プレイする時代へ戻っている。と言うよりも、一周してきた感じがします。
見れないエンディングほど無意味なモノはありません。しかし、誰でも見れるエンディングに価値があるのか?。努力を伴わない結末に価値は付きにくい。ボタン連打やクリック、レベルアップという労働作業が「努力」とされる時代は、とうに過ぎ去ったのではないか。実際、モバゲーなんかのワンクリックゲームは、非ゲーマー、つまりボタン押して反応が返ってくることが面白いという、超初級者に受けているようで。となると、ワンクリックゲームだけ提供していたら、あと5年ぐらいで潰れますな。
お使いRPGみたいな言い方をすれば、次世代への扉を開く鍵が欲しければ、3D物理エンジンを取ってきてくれ。エンジンは、映像演出の森のどこかにある。華美過剰な映像と言う魔物、映画への憧憬という誘惑、様々な困難を乗り越えて、ようやく扉の前に戻ってきた ら、世界が荒廃してたと言う。妖精界だか金剛神界だか。
ちなみに、本の感想は「RPGの前に絶対的な勢力を誇ったAVG過小評価してない?。AVGなくば、同級生もときメモも無いよ…たぶん」。もの凄い勝手な想像なんですけど、リアルタイムでゲーマーじゃなかったんじゃないかなぁ?。AVG時代を知ってれば、シェラオンラインやマイクロキャビンが外せるわけ無いし。紙面の都合だとしても、切って良い場所じゃない。ちなみに立ち読みで済ませたので、勘違いや読み込み不足は多々あると思いますが、買う気になれなかったのも事実と言うことで。
追記(2011/08/28):思い出した。ドラクエ以前の屋外型RPGは無駄に広いだけで、広さは迷わせるための時間稼ぎだった。と言うのも違和感がある。AVGが「CG総枚数300枚」とか、RPGが「登場モンスター500種」とか誇る時代があったように、世界の広さが売りの時代があった…いや、今も続いている。
レッドデッドリデンプションのwikiでは「オブリビオンの○倍」「GTA4の○倍」の広さを持つ世界!と誇っていた。しかし、実際に用があるのはその5割か6割程度。少なくとも3割ぐらいは通過すらしない、ただ存在するエリアだった。オブリビオンの様に奥地に分け入ったらダンジョンがあるわけでも、シークレットがあるわけでもなかった。FF11も無駄に広い。特にウィンダスの広い上に入り組んだ地形など、嫌がらせのようだった(ちなみに私、ウィンダス出身者)。
ワンルームダンジョンという揶揄があるように、手が届くところに全てがある世界は、詰まらないモノだ。「迷う」とか「試行錯誤」と言う事も冒険なんだと思うんだけど。ドラクエって、現実世界で新しい街を探検したり、ツーリングで知らない道をわざと選ぶ。と言うことが理解できない人に受けたのかしら?。ああ、そうか、だから迷わないように「発売日に攻略本と一緒に買うんだ」。なるほど。冒険したくない冒険者。勇者という安定職。 悩むことすらない運命決定論の世界。つまり、選択肢すらない一本道の世界。