起動(2001/8/1)
gooとinfoseekに登録したわけですが、まぁ登録終了するまで、約1ヶ月。
コンテンツを充実させる良い機会かもしれない。人が来るにこしたことはないけれど、多すぎても嫌だ。
などと、夢想する日々。とりあえず、日に10人。目標。
外務大臣(2001/8/2)
人気だけは高い、田中外務大臣ですが、私は嫌い。と言うか、なんでみんな支持するのかわかりません。もっとも、最近は化けの皮が剥がれ始めてきているようですが。
才能があったとしても、批評家としての才能しかなく、外野で、ぐちぐち文句つけるおばさんでしかなかったのです。歯に衣着せぬ言葉が、爽快感を生んでいただけでしょう?。政治家としての指標、目標を聞いたことがありません。
批評家が勘違いして、創作に挑戦。失敗する例に思いっきり当てはまった様です。最近では、ただの我が侭お嬢様のようで実に見苦しい。と思うのですが。
一番印象的だったのは「大臣は私です、私より偉いつもりか?」と、事務方に言ったそうですが、私は、高校時代のダメ教師を思いだしてしまいました。その教師は、教職にいるだけで、尊敬してもらえると思っていたようなのです。教師が偉いのではなく、偉い人が教師になっていないと、いけないのでは、ないでしょうか?。
人として尊敬できるから、尊敬するのであって、役職や地位で尊敬するのではありません。
あと、アレですよ「私は物忘れが激しいから、あちこちにクリップ置いてもらわないと困る」…就任間もない頃のセリフですが、コレで人格の底が知れました。自分の欠点がわかっているのなら、自分で補正しましょうよ。わかっているのなら、自分で持ち込めばいいじゃないですか。自分を磨こうとしない人間は、どんな地位や役職にいようと、人間のクズだ。と思う。
なんとか、フォローするなら…新卒教師が、なめられないように威圧的態度に出て失敗したって感じなのかなぁ。
外交姿勢も、アジアにおける、父親のイメージを崩さないように必死って感じで、自分の理念はなさそうだし。
外務省の腐敗を認めているわけではありません。ただ、いきなり、巨木の幹に斧入れるようなコトしてもなぁ。省内で味方を見つけ、足場を固めないウチに、切り倒そうとしてもなぁ。現状を憂いている人も沢山いたと思うのですが。突然やってきて、いきなり、幹に斧入れられると、ちょっと味方しづらいよなぁ。
間違っても、総理にしてはいかんと思う一人ですね。当人はなりたいでしょうけど。私のイメージは炬燵弁慶とか、サッチャーになり損ねた女。サッチャーのしっぽでも可。
そう考えると「鉄の女」サッチャー女史は、卓越した才能の持ち主だったんだなぁ…田島先生も転けるよ。あの人、感情が先走るから、政治には向かない。桝添先生も、机上は得意だけど実行力ないしね。
巨星墜つ(2001/8/2)
山田風太郎先生が、7月28日にお亡くなりになったそうです。
まじめくさって、三流エンターテイメントしか提供できない作家が多い中、あえてエンターテイメントに徹していた方でした。そして、一流のエンターテイナーは、一流の芸術家であると証明した方でした。
小説なんて、所詮、娯楽。小難しいこと言わずに、肩肘張らず楽しめればそれで良いんだ。を実践した方です。団鬼六先生とか、エンターテイナーに徹した方が、作家として息が長いことが、正しさを証明しているのかも。志茂田かげきとか、芥川賞とか取っても、あとがないしね。
ああ、その生き様に憧れる…山風先生永遠なれ。
ワニ(2001/8/6)
鳥取県の白兎海岸に、シュモクザメが出没のニュースが流れ、白兎海岸と言えば、因幡の白ウサギ。そういえば、愛知の人に「日本にワニがいたなんて信じられない」と言われ「ワニって、サメの方言ですよ」と言ったら、音信不通になった。と食事の席でのネタにしていたら
木村太郎(ニュース解説)が、得意げに「因幡の白ウサギにでで来るワニとはサメ」と語り初めてビックリ。・・・そんなに知名度ないのか。ワニ。辞書引いたら、第二意にワニザメ。とあり、ワニザメをみると、凶暴なサメのこと。とあった。
うーん・・・俺が凄いのか・・・周りが無知なのか・・・
平和記念式典(2001/8/6)
平たく言うと、原爆の日。もしこの慰霊碑が、神社仏閣に設置されていたら、アジア諸国の人たちはどう反応しただろうか。
と、総理大臣の挨拶を見ながら思った。
ちなみに、私は広島県人です。だからこそ、言うのですが、広島は原爆の傷跡を観光資源にするのはやめなさい。傷跡をさらし、自らを見せ物にするのはやめなさい。
もちろん、平和運動、反核運動は尊いです。しかし、それと観光資源化するのは別問題です。確かに、同じ核兵器を投下された都市である、長崎と比べれば、知名度は高いです。しかし、それは恥知らずに、戦争うけた傷跡を見せ物にして、哀れみを買った結果です。
そんな薄ら寒いことをやっていることに気が付かず、原爆資料館の入館者の減少、修学旅行者の減少、ひいては観光客の減少の理由は何か。とテレビで真剣に議論している、広島の財界、政界、テレビ界の人たち。アホだ、おまえらは。だから、経済、文化面で、一つも成功できないんだよ。
広島で行われる、文芸、絵画をはじめとする芸術展の入賞者は、決まって原爆をテーマにしたものです。逆に、応募している人間は、入選するためには、原爆をテーマにしなければならないと言う事です。だから、広島から芸術家が育たないんだよ。
長崎に住んだことがないので、地方局やその土地の人がどんな思いでいるのかは知りませんが、
戦争の傷跡を商品化することなく、別に観光資源を作り、そして平和運動を行っていると思います。
アウシュビッツや、パールハーバー、と言った場所の実状は知りませんが、観光資源として運用しているところは少ないはずです。広島県民は恥を知りなさい。
スミソニアンかどっかで、原爆展を拒否されたとき、NHKの報道で、とあるアメリカ人女性が言っていました。「私は親日派だったのですが、広島へいった時、さながら敵を見るような視線で睨まれた」と。また、記念式典に、軍服で参加した退役軍人を、退場させたとも聞きます。軍人だからこそ、慰霊に訪れたのではないですか?。そんな人を退場させるなんて、恥を知りなさい。
私は、日本をバイクで流浪していた経験があるのですが、バイクのナンバーが広島だったため、話しかけられるときは、必ず、こう言われます「仁義なき戦いの街だよね」広島県民が思っているほど、平和都市の印象はありません。ヤクザの街なんですよ、県外者のイメージは。
大学が大阪だったおかげで、冷静に見ることが出来ます。一回生の頃は、お国自慢できたのですが、二回生になる頃には、どれだけ恥ずかしい故郷だったかを思い知りしました。
恥を知りなさい。恥を。とりあえず、平和記念式典に、加藤とき子のコンサートはいらんだろ?
泣く(2001/8/7)
甲子園の入場のリハーサルと、世界陸上のマリオン・ジョーンズ敗北を見て。やはり、試合に負けて泣く奴の感覚が、理解できません。ちなみに、マリオンは泣きませんでした。
負けて泣く。悔しいから泣く。なぜ、悔しいのか。テメェの練習なり、努力なりが不足していたからでしょ。だったら、敗戦から自分の補うべき欠点が分かったはずだし、伸ばすべき長所も見て取れたはず。それが、わかんないようなら、才能無いので、別の種目をやりなさい。
格下に足下すくわれて、負けて悔し涙を流すと言うのは、もっとも恥ずべき事だ。格下と決めつけて手を抜くような精神と人格ならば、ナニをやっても大成はしないだろう。
泣いてもいいと、私が思うのは「どれだけ、練習しようが、努力しようが、コイツには追いつけない」と思ったときだろうか。でも、それだけ、はっきりと資質の差を付けられると、逆に笑えてしまうのだが(体験談)。
と言う信念の私は、よく顧問とかに怒られました。「負けてへらへら笑うな」とかいって、鉄拳ですな。今だったら、大問題だろうけど、私の時代までは、当たり前でしたので。まぁ、三位の賞状もって「やりぃ」とか言っても「へらへらするな」と怒るような顧問でしたが。ただ、単に嫌われていただけかも。
「試合とは、試し合うと書く。練習してきたことが、身に付いたかどうかを試す場であって、勝敗は二の次だ」
とか言ってた、やな中学生でしたから(笑)。
それは、さておき、負けて泣くのはみっともないと思うのだけど。わざと、哀れみを買っているようで。負けた方こそ、笑いなさい。さわやかな笑顔で。相手を称えなさい。
自室やトイレの個室で泣くのは構わないから(笑)。
・・・嫌な言い方すると、私はもしかしたら、資質に恵まれていたのかもしれない。だから、悔しくなかったのかも。
でも、県大会の三位止まりだけどね。
甲子園(2001/8/7)
ふと思ったのだけど、全国大会って、市町村大会>県大会>全国大会と言う段階を経るのがふつうだよね。
なんで、高校野球だけは、いきなり県大会から始まるのだろう。
世界陸上(2001/8/7)
織田ゆうじと実況のアナウンサーが、無駄に熱くて、痛いので引っ込めてくれ。それはともかく、トラック競技とフィールド競技の扱いに差別を感じるのだが。
私は、圧倒的にフィールド競技の方が面白いと思う。5000メートル全放送するぐらいなら、女子棒高跳びとか、やり投げとか、きっちりやってくれよう(T-T)。
アンビリバボー(2001/8/9)
次週のタイトルが「現代のエクソシスト 陰陽師」だった。まさに、あんびりばぼー!!
のっけから言葉を間違えている。現代にもエクソシストはいる、ローマ教皇庁に行って来いよ。会えないだろうけど。
つか、陰陽師じたい元々祓いはやらねぇっしょ。陰陽道は暦法、天文や儀式魔法がメインだし。霊退治はやらない。安倍晴明はどうなんだ。と言う人がいるかもしれないが、基本的に彼がやっているのは、呪詛返しであったり、呪詛を見破る事で防いでいる。退治ではない。
次回予告に出てきた男も、半狂乱の女性を押さえつけて「おまえは何者ぞ」と繰り返していたのだが…その手法は、どっちかって言うと、修験道の手法だ。陰陽道の手法とは、かけ離れている。
それ以前に、女性を押さえつけながら「何者ぞ」と言うとき、カメラを気にしているのである。笑うしかねぇ。服装も、狩衣に立て烏帽子、儀式の方法も、漫画や小説によってデフォルメされたものである。夢枕莫の小説読み過ぎなんじゃねぇか?。NHKのドラマ見すぎでも良い。
これは明らかに、パチモン。詐欺師である。テレビ局が荷担した詐欺事件である。ヤラセとも言う。番組の寿命が尽きかけているのだろうなぁ。本当に、現代の陰陽師を取材したいなら、いざなみ流を訪ねるべきだ。
参拝問題(2001/8/13)
日本人はなぜアジア諸国がこれほどの騒動になるのか理解できないだろうし、アジア諸国の方々は、日本人がこれほど無関心なのか、理解できないことでしょう。
私は日本人の特殊な宗教観に、起因すると思っています。節操が無いというか、宗教にとらわれないと言うか。クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞き、初詣に出かけます。年末の一週間で、三つの宗教の儀式を行う民族など、他にはいないでしょう。
この宗教的無節操と言うか、宗教の空白地帯というか、その事すらも、まず理解されないと思います。
多くの日本人にとって、別に、参拝に行っても、崇拝している訳でもないし、その宗派に帰依しているわけでもありません。ほとんどの日本人は、先祖代々からの習慣として行っており、そこに宗教的儀礼の意図はほとんどないでしょう。日本人の大多数が、自分の属している宗派を知らない人がほとんどでしょう?。
日本人は、宗教で道徳を学ばないし、宗教に価値観を教えられることはありません。故に、アジア諸国が危惧するような、軍国化とか、帝国軍人を崇拝する意識は、まずありません。まず、というのは、ドコの国にも、少なからずバカがいるからです。街宣車とかね。
世界にもマレ、と言うか、世界で唯一とも言える無節操な宗教観は、対外的に理解されないと思うので、やはり、国立公園か、なんかに慰霊碑をつくるべきでしょうね。紛いなりにも宗教施設に置いたのが間違いです。
まぁ、一つ言っておきたいのは、尊敬しているから、祀っているわけではありません。これ以上、祟らないように閉じこめている場合もあります。と言うか、人物を祀っている場合、ほとんど祟りを畏れてです。
菅原道真しかり、将門しかり、A級戦犯も…とは言い切れませんが、祟らないように封じているのは事実かと。関帝聖君だって、元々は祟り神だったはずでしょう?。
とは言え、闇の部分から徹底的に目をそらしてきた日本人にとって、ようやく本当の戦後が始まるのかもしれません。やはり、近隣諸国とも、本音を言い合えるようにならないと、良い信頼関係は築けないでしょうしね。
外交問題(2001/8/13)
参拝問題のもう一つの問題は、近隣諸国の外交カードになっていることです。よく分からないほど、日本に対抗意識を燃やす韓国は、おいておいて、中国の態度の軟化は、外交のカードとして使えなくなったことを判断したからでしょうか。
民衆レベルの問題はさておいて、国益を考えた場合、公式訪問して、相手のカードを封じて欲しいものです。むろん、民衆レベルの意識と外交、国益は直結しているので、綱渡り感覚が必要なのですけどね。
何にしても、今までの日本の政治家は、楽をしすぎていたんですよ。そろそろ働いてもらいましょう。
と思ったら、今日参拝してやがんの。うーん、長途半端…だが、まぁ、スペードのエースから、絵札に格落ち…したかなぁ?。
コトノハ(2001/8/19)
話すにしろ、書くにしろ、言葉にすると言うことは、何か伝えたい想いがあるからだと思う。
むろん、言葉は言語だけではない。絵描きにとっては絵を描くことだし、作曲家は曲を書くことで、演奏家は、演奏することで、自分の想いを伝える。
「想い」なんて無い。と言うなら、カメラの登場で、絵画は消滅するはずだ。名画と呼ばれる風景画と同じ構図で、素人が写真を撮ったとしても、人に感動を与えるはずだ。そうではないからこそ、絵画は生き残っている。
芸術には、二系統があると思う。スキーマをかき乱す作風と、魂魄にしみこむほどの想いを込めた作風と。私は後者を好む。感想文評論家が増えたためか、一方を持ち上げると、一方を非難するが、どちらも相反するものではないし、比べるものでもない。
最近のアーティストは、目先の技術にとらわれて、基本条件だった「伝えたい想い」と言うモノを忘れてしまっただけだ。歌唱技術、特撮技術、CG合成、アニメーションの作画技術、だけど、なにを見ても、あっさりと流せてしまうぐらい、中身のないモノが多い。見入るほどの、魅入られる作品には出会わない。
だから、想いのこもっていない作品は、ただの記号の塊にすぎない。
映像に関しては、脚本家、放送作家の質の低下と言ってしまえば、それまでだけど。もっと根本的なモノが欠如している。自分の中の「伝えたい想い」とは、何か。と言うこと。伝えたいことを伝えさせ、語りたいことを語らせる。作中で自然に語らせる。そんな基本的で、根本的な技術が低下しているような気がする。
私は、なにを伝えたくて書いているのだろう。なにを表現したいんだろう。
そう考えると、自分の書いたモノが、ただの記号の羅列に見えて来て、伝えたいことの何百分の一も書けていないことに絶望させられる。そんな私が他人様のことをとやかく言えないのだけど。
インターネットとHPによって、表現者への敷居が無くなってしまった今こそ、一番考えるべき事なんじゃないかな?。プロとアマの垣根もほとんど無くなってしまったしね。
そしてなにより、自分の想いや、考えを顕わにするとき、必ず誰かを傷つけると言うことも、忘れてはいけない。傷つく奴が、弱い。と言うのも正しい。傷つけていることを知った上で、相手を傷つける覚悟で言ったのなら。一番悪いのは、そんなこと考えたこともなかった。と思う人だ。
コトノハ2(2001/8/20)
日付は変わってるけど、実は時間は数十分しか変わっていない。
「伝えたい想い」?そんなのは、クソ食らえだ。所詮、小説なんざ暇つぶし、楽しめれば、それで良いじゃネェか。と、徹底してエンターテイメントに徹したのが、故山田風太郎先生だった。
開き直りと言うよりも、大悟に等しく、日常の中に真理を見いだした禅僧のごとき覚悟がそこにあった。と思う。
素人が触っても崩れてしまうような、生半可な思想を伝家の宝刀と勘違いしている人が大多数で、そういう人に限って、山田風太郎の作品をあざ笑います。
エンターテイメントを提供することも出来ず、マニアの収集癖によって維持されている、ゲームやアニメのノベライズをしている人の覚悟や「想い」を聞いてみたいモノです。
勘違いから、潰れた例が小室プロデュース軍団。あんな工場生産みたいな画一で、味も素っ気(「想い」と言い換えても可)ないモノでは、熱が冷めたとたん消えるのは自明の理。つんくは、そのあたりを理解しているらしく、熱を冷まさないように、手を変え品を変え、中身なんてなくて良いから、幻影からさまさないように、必死ですな。
例その2。TRPGブームで、作家デビューした人たちも、ほとんど消えてしまったしね。バブルの幻影だったのか…ゲームデザインだけじゃ喰えないと言うのもあったのだろうけど、小説書くヒマがあったら、サプリメントの拡充や、良質のシナリオを提供して欲しかったね。
団鬼六先生と言い、エンターテイメントに徹した方が、息が長いってのも、皮肉な話ですな。
参拝問題2(2001/8/20)
合祀させられている父親の御霊を取り戻そうとやってきた韓国人女性に『朝鮮人は帰れ』と怒号が飛ぶ。
結局、鳥居をくぐることなく、通用口から入ったとのこと。
一部のバカ(含む靖国宮司)がやっているだけで、国民の総意と思われたくない。だが、その一部を元に判断されるんだよなぁ…恥ずかしいったらありゃしない。
でも、韓国、中国で暴動起こしている一部を見て、判断しちゃうしねぇ。報道機関が煽っているよなぁ…
誰そ彼(2001/8/21)
台風あけのせいか、久しぶりに陳腐なホラー表現「空が血に染まっているような夕焼け」を見る。ここまで、赤いのは凄く久しぶりだ。雲間からの陽光かと思ったが、よく見ると風でたなびいている。どうやら海面から、弧を描くように靄が登り、雲とつながっているようだ。
幾筋も発生しており、雲という天井を支える柱のようで、すこし幻想的だ。海の碧と、山の蒼と、空の青が混じり合う景色が好きで、旅をしていたが、赤というのも、たまにはいいかも。台風あけの大きな雲の白と、夕日の朱が、絶妙の配合と配置で、そこにある。
その時間は、五分と保たず、空は帳をおろす。この手の景色は、絵や写真に残すと陳腐だ。絶妙な瞬間に巡り会えた喜びが、景色をより美しく見せるのだと思う。
夜の帳が下りきる前の、薄汚れた紫色もまた良い。直前までの鮮やかで活気のあった朱との対比が鮮明になるから。
そしてこの紫は、腐肉の色に似ているのもまた皮肉だ。
お笑い東西(2001/8/26)
大学時代の友人に言われて納得したことに、『関東のお笑いは「あそこにバカな奴が居るからみんなで笑おう」とするものであり、関西のお笑いは「今からアホなコトするから、みんなで笑ってや」と言うものであるから、関西のお笑いは、ツッコミが必要不可欠なのだ』と言うもの。
乱暴にかみ砕いて言うと、関東の笑いは他者を笑うものであり、関西の笑いは自分を笑ってもらうもの。と言うこともできる。
むろん、例外は沢山あるあるだろうが、本質的なものは確実にとらえていると思う。その証拠に、漫談系の芸人は、関西は圧倒的に少ない。
とすると関東系の漫才師のツッコミ下手は、技術の問題ではなく、突っ込みにくいボケのせいではないだろうか。
他者をネタにボケると言うことは、第三者へのツッコミであり、そこへさらにツッコメと言われても無理だろう。それは、ボケた時点で、笑いが完成してしてしまっているからだ。
たぶん、関東の人からは、反論を受けるのだろうなぁ。でも、ゲスなお笑い好きが言い始める、どちらが良いとか、どちらが本場とか言う気はありません。文化が違えば、笑うところは違うのですから。そんな議論は無駄です。
あと、ボケとツッコミで分けたがる人が増えたけど、ボケとツッコミは、芸人としてのポジションであって、芸人のタイプではありません。
伝説のやすし・きよしなんて、ボケにボケをかぶせて、突っ込むタイプだし(この二人にボケもツッコミもない)。中田カウス・ボタン師匠なんて、実はボタン師匠がツッコミだというのは、知られていないが事実だ。全編、ノリツッコミなので、ボケにしか見えないのがミソ。
某HPで「関西お笑いは、ダウンタウンが出てくるまで、イタイ芸人の代表だったことを忘れていないか」と言うのがあったが、関西では、未だに東京の笑いはイタイ笑いそのものです(笑)。
お笑い論(2001/8/26)
ふと、お笑い論を書きたがる人って、関東の人が圧倒的に多い気がする。関西(と言うか、大阪近郊限定)では、体系化せずとも、脈々と伝わっているモノがあって、わざわざ語る必要がないのだろう。言うなれば、忍びの里に産まれた子供が、ただ遊んでいるつもりでも、知らない内に忍術の基礎を修得していたようなものか?。
それぞれの文化圏に適したお笑いがあるハズなので、分析する必要があるのか?と思ってしまうのだが。口伝と書伝、それもまた文化なのだろうか…各地から人が集まる東京(江戸)には、一定の文化が育ちにくかったのかもしれぬ。
ニューヨークに、各国人のコミューンが出来たように、江戸にも、それぞれの地方コミューン(長屋)があったのかも。そう考えると、各地方出身者が共通認識できる一定のスタンダードを設定する必要があったのでは。さらに、新規で上京した人は、手引き書をほしがる、故にHOWto本が売れると。
なるほど、やたら分析したがるのも道理だ(笑)。
infoseek(2001/8/30)
上記の検索エンジンに登録完了。つか、某カルト教団と並列ですか(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)。
勘弁して下さい…。