六月の夢酔
誰かに何かを言われて、カチンと来たら、それは自分自身の痛いところをつかれたと言うこと
私(管理人)の、人生の師匠の言葉
いいバイブレーションだ(2005/6/1)
賞賛も賛同も、嫌悪も拒絶も、魂のバイブレーションだ。俺のバイブレーションに釣られたアホゥども。俺に触れたら、誰も震えずにはいられないのさ。ムカツクってのもバイブレーションだからな。
本物のアーティストってのは、このバイブレーションを形に、つまり作品を生み出すエネルギーするもんだ。腐敗した社会への怒りも、初めてのデートで恋人と手をつないだ感激も、魂のバイブレーションなんだぜ、チューマ。
などと、ロッカーボーイを気取っても、泥下の泥凡夫、匹夫で小者の私ゆえ、嫌悪や敵意というバイブレーションを飲み込み、消化するだけの、能力は御座いません。敵意なき悪意を討つのも、もう疲れた。
煩悩を、拒絶し、押さえ込むのは、煩悩に溺れることと同じ。敵意、悪意もまた同じ。ひたすら無視をするのも、激情に身を任せて反論するのも同じ事。
我も人、彼も人なれば、彼もまた仏なり、我もまた仏なり。彼の内に魔を見れば、我もまた魔となり、彼の内に仏を見れば、我もまた仏となる。
心は転し、常ならず。ただ磨き観よ、己が身のさま。
説法書けそうだな、俺。まぁ、野狐禅の生悟りですが。さて、公案(いわゆる禅問答)に、絶対の答えはありません。正答は無限にありますが、誤答はありません。ただ、透過に足りぬ答えと存じます。
唯一、誤答があるとするならば、己が妄執を、唯一無二の、絶対の答えと錯覚し、他者に押しつけることでしょうか。
私?、私は自分の意見を世に問うているだけで、なんら強いてはいませんし、押しつけようとも思いません。私の駄文を、いかように解釈されようとも、読み手が、真摯に向き合い、導き出した答えであるならば、それは間違いなく正答。ここで、他所で「こんな簡単なことも理解出来ぬのか」と罵倒して貰って結構。私はただ、礼拝するのみ。
臭気(2005/6/2)
私は、くさい。
良寛の戒めたもの。悟りくさき話。学者くさき話。茶人くさき話。風雅くさき話。
私はくさい。私の臭いは、ある人には、目を開けていられぬほどの臭気らしいし、ある人には、煎茶のごとき香りらしい。私自身は、臭いを使い分けているわけではない。まぁ、価値とはそう言うものだ。本来無価値であるモノを、ありがたがる人間がいるから、作り手の方も、釣られて、価値、無価値と言って騒ぐわけだ。
話が逸れたが、この臭気が、私を私たらしめている気もするし、私を私に貶めている気もする。なぜ、臭うのか。たぶん、頭で考えているからだろう。無頭で考え、無眼で観、無耳で聞き、無舌で語る時、私は無心となり、私の中の仏と出会い、仏を無くすことが出来るのだろうか。
仏無くしちゃダメじゃん。と言う人もいそうだが、私の中の仏が無くなるとき、それは仏が私となったとき。なぜならば、仏が私である以上、私の中に仏はない。仏の中に私もない。仏が私であり、私が仏なのであるから。
と言うのも、十分、くさい話。野狐禅、生悟り、魔境のぬるま湯にひたっている愚か者。気が向いた、と言うか、凹んだ時とか、悪意に充てたられた時に、座って、公案考えるぐらいだし。
良く出来た物語を、考えることも公案を考えるのに、近くなる時もある。ロシア映画のストーカーは、ややくさいけど、セリフ回しや、映像表現からしても、何度見ても分からん。けど、頭じゃ分からんけど、何か響くんだよねぇ。
良寛の嫌ったもの。書家の書、詩人の詩、料理人の料理。作為は頭を打てど、心は打たぬ。そう言えば、NHKの美術鑑賞入門で、とある画家が「解説を読む必要はない。絵を見て感じたことが全てだ。解説を読んで納得しても、頭で納得しただけで、心では納得していない」と言う主旨で言ってたことを思い出す。
私も速く、頭を捨てたいものだ。まぁ、それ以前に、まだ頭を見つけてないのかも知れないけども。
巡る(2005/6/2)
私が小学生くらいの頃にも、小説の後書きに、自らの妄執を絶対だと信じる読者へのやんわりとした諭しを書く作家は存在した。こうした諭しは、今でも見る事は多い。ここのような、末端泡沫サイトですら、年に1、2回はやってくるぐらいだから。そして、彼らの論調、論拠、決めゼリフ(脅し文句でも可)は、非常に似通っており、人間の業の巡りを痛感する
個別に返事を書いたところで、目を閉じ、耳を塞ぎ、頭に血の上った相手を教化出来るわけもない。妄執であるから、論破することも容易いが、力で押しつけると、敵意がない分、自分に呵責が戻ってくる。さりとて、黙っているのも、耐え難いものだ。
となれば、比較的冷静に見てくれるであろう、公的な場で諭すのが、一番無難となる。敵意のない悪意を討つのは、予想以上に手がかかるのだ。
この手の、独善とも言う、妄執の押し売りは、誰しも一度は通るものだ。特に若いウチは、自らの思想を絶対であると信じるものだ。唯一絶対と信じるが故に、相手も同じ価値観だと思いこみ、また、相手に、自らの妄執を押しつける愚を行う。
誰しも、自分の考えは正しいと思っている。思っているからこそ、公表する。ただ、忘れてはならないのは、その正しさは、自分だけの正しさであると言うこと。ヘタをすれば、親兄弟にすら通じない脆弱な正しさだ。だからといって、その考えが、間違いなワケでもない。
自らの妄執から生まれた義(価値観でも良い)を、実践することに悪はない(と言っても、殺人など根源的な悪を実践されると困るが)。信念とは、そうしたものだと思う。ただ、それを他者に強いたときに悪となる。
私は、このことを悟るのに、10年は使ったと思う。残念ながら、40代、50代でも、まだ悟られぬ子供もいるし、10代半ばで、うすうす感づいている大人もいる。
そもそも価値とは何か。この世の全ては無価値である。ただ、その無価値なモノに価値を見いだす者がいるだけだ。つまり、誰かによって見られることで、価値は存在する。
ただ、その誰かには、自分自身も含まれる。だからこそ、禅では、自分の中の仏を見つけることを大切にする。しかし、自分のままで、自分を見つめるのは、独善に陥る。自分自身を絶対的な客観性で見つめたとき、揺るぎない自己となりえる。
直指人心見性成仏。本当の自分自身を見つめる事が出来るのは自分だけなのだから。他人が、いや、親兄弟でさえ、見ているあなたとは、あなたのフリをしたあなたでしかない。
キーイング(2005/6/4)
プライベート(身内ネタ程度の意。つーか、誤解を避けるために語意を細かく限定するのってバカらしいよな)なネタは極力避けていますが、どうしても、それ以外書けないときもあるモノで。我が家のバンシーは、あいもかわらず、夜な夜な哭いてます。なにか原因があって泣くならば、構えることも出来るのだけど、前兆無く泣く。更年期障害に加えて(と言うか、これが原因かも)、夫婦の倦怠期でもあり、さらに、叔父が癌で入院するとなれば、そらぁ、いっそう哭きますわ。
早いと、22時30分、遅くとも23時30分に、突然泣き始める。短くて、二時間。長いと4時間、キーイングは続く。その音量たるや、イヤホンで聴いているフルボリュームのナインインチネイルズを貫通する程。ナインインチネイルズは、トレント・ワグナーのバンドです。まぁ、メタルとかスラッシュとかその辺の音楽。
いま、我が家で事件があったら、隣近所は、確実に「夜な夜な鳴き声が聞こえました」とワイドショーで答えるのに、全財産賭けても良い。ってぐらい。
そんなわけで、早くてAM1時に終了。終わってすぐに寝れるのならば良いのだけど、二時間以上のキーイングを喰らっているので、パトス、エーテル、マグネタイト、呼び方はどうあれ、精神力、霊的パワーを吸い取られているというか、防御に使用しているのか、知らんけども、疲弊状態。寝付けません。
泣き声というモノは、予想以上の破壊力を持っていて、1時間なら耐えられます。二時間になると、壁に頭をぶつけて錯乱します。三時間経つと、本気で、自分の鼓膜を破ってしまおうかと考えます。
なんとか寝ようと努力していて、ふと時計を見ると、三時、四時になっている。この時間だと、逆に深く寝ると寝過ごしてしまう危険性があり、諦めて、座っていたりします。つまり、座禅です。と言っても正式なヤツではなく、小周天という鍛錬法をやってます。このメンタリティで座禅出来たら、私は禅僧になってます。
そんな暮らしが。頻発すると週五日。隣の老夫婦は無事か不安になる。つーか、最近姿見てないな…赤ん坊の夜泣きで、ノイローゼになる若い母親の心境を痛感しておる次第です。
皆さんの言いたいことは分かりますが、当人に直そうという意識が無いと、なかなか上手く行かないのが実状です。そらぁ、湯水のように金が使えれば、サナトリウムとかに突っ込むことも出来ましょうけどな。
ちなみに、叔父ですが、大腸癌メインで、肝臓にも転移している模様。腸のは、ぶった切ればいい(多少短くなっても問題ない)として、問題は肝臓だな。抜ける髪の毛がないから、抗ガン剤も怖くない。とぺしぺし頭を叩く姿を見ると泣きそうに。副作用か病状か知らんけど、全身むくんでいるのよ、あーた。
話は、五万マイル飛びますが、私は病院が嫌いです。ドクハラ受けまくってるから。と言うのもありますが、あの白い空間が、どうしても好きになれない。自分でも分からない。あの白さが、虚無を感じさせるのか、無機質な死を連想させるのか、日常化した死の臭いが立ちこめているからか。ロビーも病室も嫌いだ。子供の頃、はしかで入院したぐらいなのだが…なぜか嫌いだ。
とりあえず、寝る。目が覚めたらあの世だったら楽しいが。さあ来いサリエル。その前に、マーフィーの幽霊退治しなきゃ。起こって欲しくないことは連続して起こる。その法則はもうええわ。持って帰れ、マーフィー。ただでさえ、キーイングで疲弊している精神に、さらに追い打ち2連発か。TILTOWAITかますぞ、オラァ。と言いつつ寝る。
走馬燈(2005/6/5)
久々安眠。この心地よさは、三日間山中で野宿(テント無し)し、国民宿舎の布団で寝た…よりも心地よかったな。アレか、一週間野営して、仙台〜名古屋のフェリーで爆睡したときぐらい心地よい。フェリーが26時間だか、28時間の航路なんですが9割は寝てました。
さて、枕はこれくらいにして、人間は、ボーっとしている時でさえ、五感から入力される刺激によって、1秒間に10億ビット相当の情報が絶え間なく入力されているそうな。もちろん、そのままだと、脳(と言うか意識)がオーバーヒートするとので、最終的には、100ビットのオーダーになるらしい。
考えてみれば、雑踏というノイズだらけの世界で、友人なり恋人なりの声だけに意識を集中、出来るし、その会話が詰まらないなら、隣の見ず知らずの人の会話に集中することも出来る。脳の仕事の大多数は、こうした情報の選択であるという話もある。
自然に囲まれると落ち着くのは、アルファ波だのマイナスイオンだのあるけれど、実際は、脳の仕事が減るから、ホッと出来るのかも知れない。
で、こういう過酷でハードな仕事している脳に、突然、五感を遮断したらどうなるか。重量挙げの選手が、胸から頭上へ持ち上げようとした瞬間に、バーベルの重りが消えたようなもの。もっと分かりやすく言うと、重いだろうなぁと思いこんで、段ボールを持ち上げたら、空だったぐらいの混乱。なのでは無かろうか。
混乱するからか、どうかは不明ですが、五感が遮断されると、脳は、刺激というか情報入力を求めて、その知覚能力を記憶へ向けるようなのです。追憶と言われる状態ですな。
死と言う感覚遮断によって起きた追憶。それが人生の走馬燈ではないか。と言うお話。
素直にスキーマの乱れに持ち込んだ方が良かったか。麦茶だと思って飲んだら、めんつゆだったときの混乱は、今でも記憶にある。口の中に液体の感触はあるのだけど、無味無臭、口内の感触も妙だったなぁ。頭は真っ白で、本当に混乱しているって感じでした。混乱時間は、1秒もないと思うんだけど、体感時間は長かったなぁ。
二度は、スキーマは乱れないみたいで、何度か、間違えたことはあるんだけど「うげ、めんつゆだった」と思うだけなんだよねえ。予断フィルター、スキーマの乱れる体験は病みつきになるので、要注意だ。
ゲームのあるなし(2005/6/6)
現状、ゲームの主人公は、大きく二つに分類出来るかと。一つは、無名、無個性。一つは、固定名、有人格。この二つはもっとも極端な組み合わせで、無名、有人格の事も、固定名、無人格の事もあります。
主人公名の固定に関しては、人格の有無にもかかわりますが、他の要因として、ボイスの存在があります。固定名だと、脚本、楽だからねぇ。フルボイスの善し悪しは別問題なので割愛しますが。
さて、主人公の人格の有無というのは、意識無意識にしろ、目標としているスタイルの違いと思います。有人格の場合は、『遊べる(選択肢のある)小説(無いし、映画)』を理想としていると思われますし、無人格の場合『物語という箱庭を自由に動き回れる』と言うスタイルが、理想として見えているのだと思います。一概に、線引きは出来ませんけども。前者は、ドラマ性を。後者は自由度が売りと言えるでしょう。
どちらにも、利点も欠点もあります。ドラマ性を高めたいならば、主人公に人格(つまり、セリフを喋る。セリフというモノには、そのキャラクターの価値観信念などが含まれるため。ってここまで解説しないとダメなのか…)があった方が楽です。例えば、自殺志願者を思いとどまらせるとき、『とめますか。はい/いいえ』よりは、『死ぬ覚悟があればなんだって出来るじゃないか』とか『死にたきゃ死ね。だが、ここで死ねば、家族や友人をも傷つけることになるぞ』とか、語らせた方が、ドラマは盛り上がります。
ここに落とし穴があり、ユーザーの価値観や人格が主人公と近似値(ないし許容範囲)であれば、感情移入しやすいのですが、真逆だとかなりキツイ物になります。また、セリフに関するズレもストレスの原因となります。どーして、そんなことを言っちゃうかな君は。とか感じたこと無いですかね?。
一歩間違えれば、独りよがりであったり、ご都合主義や、うそーん、そんな一言でええのん?。と言った、小説、ドラマで起こることが起こります(例:ビンタ一発で、心を入れ替えるとか)。某巨大掲示板とかでも、無思考型RPGと言う言葉が、通じるようになってきているように、ただモニター上のドラマを眺めるだけのものも多いです。名前は挙げませんが、表示された選択肢を選んでも、ルート分岐すらないものも、ゲームで御座い。と言ってたりします。
セリフ無しの場合ですと、パーティーメンバーに代表される仲間が、それぞれの信念を語って説得することで盛り上げるわけですな。こちらの利点は、複数人に価値観を語らせることで、プレイヤーが共感出来る価値観を選べると言う事にあるかと。ないし、どういうセリフで説得したか、妄想せよ。と言うことです。
私自身は、ゲームは小説(映画)を越えるものである。と思っています。小説や映画は、どれだけ感情移入したとしても、読者は観客でしかありません。ゲームは、物語の中心に居ることが出来、流れを作ることが出来る。これこそが、最大の武器だと、私などは思う次第です。ん?、そんな設定は無いって?。
このことは、固定化されたストーリーしか知らない人たちには、理解出来ないのかも知れませんねぇ。テーブルトークや、初期のPBMと言った、フレキシブルな広がりを持つストーリーに触れたことがないと、理解出来ないかも知れません。と言うかPBMのマスターも、フレキシブルなストーリーを知らないから、固定化させていったのか?
まぁ、自分とは全く異なる人格(キャラクター)を追体験するのも、またゲームですが。しかし、昨今のゲームは、戦闘シーンで遊べるアニメになっている気がします(理由の一つに、アニメ業界からの技術流入があると思います)。ゲームの中ですら、危険のない、冒険のない冒険を求めるユーザーと言うのも一因かなあ。
ともあれ、ユーザー=主人公という視点は揺るがない。と思うのですが…ゲームにおける、主人公とユーザーの立場。と言う物を、ひとつゆっくり考えてみても良いではないか…と言うより、考える時期に来ているのではないでしょうか?。『遊べる(選択肢のある)小説(無いし、映画)』と『物語という箱庭を自由に動き回れる』と言う二つの道は、並列なのか、それとも直列なのか。直列ならば、どちらが先にあるのか。
ミステリーハウス時代の言葉探し遊びと言われた時代。物語が重視された時代。今は、キャラクター重視の時代のようです。次は、なにが重視されるのでしょうかね?。
うーん、分かる人には分かると思いますが、自分の尻尾を追う犬になってますね、私。簡易分析…主人公=ユーザー視点という観念が揺らいできたか、俺?
次世代DVD(2005/6/7)
ビデオレンタル店も、かなりDVDとの入れ替えが進んできました。ビデオ一巻のスペースにDVDなら二本はおけるとなれば、店側としても有り難いでしょうなぁ。と思いつつ眺めていると、絶版になったビデオが、結構、DVD復刻されているのね。最近、60−80年代の映画が恋しいのでこれは嬉しい。
と思ったんだけど、DVDプレイヤー無いんだよねぇ。パソコンで見れなくもないけど、CRTで見るの好きじゃないんだ。しかも、DVDプレイヤーは、今買うの得策じゃないしなぁ。
統一規格を共同開発と言う報道で、おお大人になったじゃーん。と思ったら、決裂…まではしてないんだっけ?。最近今ひとつ、報道されないので、どうなっているやら。
ハリウッド映画会社が、より多く参入した方になる。と言うのが定番ですが、オーディオヴィジュアルの真のキラーソフトは、AVなのです。ベータとVHSも、実はアダルトビデオが、決め手だったという。実際、アダルトカテゴリーが弱いと、その機器は消えるようです。例えば、VCDなどそうですね。8oビデオとの対立は決着ついたんでしょうかねぇ?。
実は、パソコンでも、98などNECが強かった時代。と言うか、規格統一されてなかった時代。アダルトソフトが一番多いのが、98系だったと言う説もあるほどに、アダルトカテゴリーは明暗を分かるものなのです。
そうなると、新技術の青色レーザーを使ったタイプより、従来型の方が、生産ライン、転用出来て安価という事になれば、従来型の方が、アダルトソフトは多いかも知れない。と言うことで、生き残るのは従来型?。でも青色の方も、どれくらいで製造出来るかは、知らんからなぁ。
未来を考えれば、新技術を応援したいところ。とは言え、新しいモノが良いものとは限らないのが世の常。DVDソフトは、一本もないので、私はどっちでも良いです。
あ、そいや、半ば置物となってるPS2で、DVDみれるじゃーん。ソイレントグリーンと、アルタードステーツを今度、借りてこようっと。どうでも良いけど、ビデオ屋の配列おかしいよねぇ。ブレイドがホラーコーナーにあって、フロムダスクがアクションコーナーにあるってのもなんか納得出来ませぬ。つーか、ホラーコーナー縮小されすぎ。と思ったらサスペンスとかに移されている模様。
図書館みたいに、検索端末、どっかに置いてくれないかね…
なにはともあれ(2005/6/14)
叔父の手術の第1段階成功。なんでも、心臓の方にも問題があって、このままではガン摘出手術に耐えられないから、先に心臓の手術が必要だったそうな。まぁ、何はともあれ、成功したので、安心してエクスが出来ますわ。
と言うわけで、ウィザードリィエクスをプレイ中。ちまたでは、色々と言われてますが、確かに、造りの荒い部分もありますが、良く出来てます。土台の部分が良く出来ているからこそ、細かいところが気になるわけで、元がダメなら、ダレも細かいことは言いませんしね。
私が感じたのは、戦闘時のオートコマンドが無いってのが、かなり痛い。ウィザードリィなので、最大で、1グループに、8体だか9体だかの敵が、最大4グループ出てくるわけですが、戦闘時のメッセージに、キーウェイト。っていうのかな、ボタン押さないと、メッセージが進まない。
で、敵の攻撃もそうなっているので、理論値で、1ターン最大32回ボタン連打。モンスター側だけで。これに、自分側の戦闘メッセージと、行動選択(最短の攻撃を選んだとして)と最終承認を入れると、13回。合計すると、45回っすよ。
まぁ、これは理論値としても、敵が10体ぐらいは楽々出てくるので、それでも23回のボタン連打。1回のダンジョン探索で何回戦闘するか考えたら、膨大な数になります。戦術不要の、ごり押し攻撃がほとんどなので、オートコマンドは欲しかったなぁ。
親指に、血豆出来そうっすよ。ゲームセンターあらし以来だな、親指に血豆なんざ(笑)。
ちょっと意外(2005/6/15)
マイケル・ジャクソンの裁判が、完全無罪となったのはちょっと意外でした。軽めのヤツを有罪にして、お茶を濁すかと思ったら、さすがアメリカ、きっちり白黒つけるのね。
私は、どちらかと言えば、マイケル・ジャクソンの歌は、あまり好みではないのでアルバムはおろか、シングル一枚買ってないですけども、今回の裁判は、なんかちょっと無理がありましたわな。検察側の前回負けた焦りと、金銭目的だと感じさせる母親など。
子供好き。な事は間違いない、マイケルジャクソン。たしか、以前の私の書いたもので、子供を愛する聖人か、幼児嗜好の異常者か、裁判が決めるだろう。と結んだけど、子供好きのヒューマニストと結論づけられたわけたわけだねぇ。
マイケルジャクソンの真実。だったかな、そう言うテレビ番組をみて、何とか言うイギリスの記者の、結論ありきで、何とかしてそこへ誘導しようとする姿勢に、哀れみを感じたものですが。
こういう言い方をすると、マズイですが、確かにマイケル・ジャクソンは異常者でしょう。もしかしたら、精神年齢が、十代半ばで止まっているのかも知れません。けども、アーティストなんて言うモノは、人と変わった感性を持っているから、尊ばれるのであって、いわば、それはプラスの異常性…と言うよりも、特異性をプラスの方向に持って行けたと言うことかと。
前にも書いたけど、三島由紀夫なんて、自衛隊に決起を促し、失敗して切腹。いまだったら、どう報道されるだろうか?。英雄には、陽の奇行、陰の奇行があり、陽の代表格は、長嶋茂雄。陰の方は、マイケル・ジャクソンでは無かろうか。などと妄想したり。
ダークヒーロー?(2005/6/17)
バットマン・ビギンズのスポット(と言うのか、数分の短いヤツ)宣伝番組のうたい文句が『ダークヒーロー誕生の秘話』だったのですが……バットマンって、ブリバリの真っ当、正統派のライトヒーローだと思うんですが。
ダークヒーローつーのは、スポーンとかパニッシャーとか、自分の目的を達成するために犯罪をも厭わないルール無用なのが、ダークヒーローだと思うんですけど。目的は正しい(大抵は、正当な復讐)けど、手段が違法って感じ?。
バットマンは、やるのは、スピード違反と駐車違反ぐらいだし。犯人は捕らえるけど、警察に引き渡して、社会の法で裁きを与える。到底ダークヒーローとは言えないと思うんですけど。ダークヒーローだったら、ジャスティスリーグには入れないだろうな(笑)。
闇夜に活躍するヒーロー>闇>ダークという短絡か?。
マスコミの語彙力と言うか、制作会社の語彙力どうなってんでしょうね?。ギャル語などは、日本語の変遷(ひらがなも、当時のお堅い人間からすれば、今のギャル文字に等しい衝撃波だったはず)として受け止められますが、誤用はどうなん?。それとも、夜に活躍するヒーローが、ダークヒーローというのが、定説?。
視点(2005/6/19)
ゲームにおいて、主人公の視点とプレイヤーの視点は同一(せめて近似値)であるべき。と言うこだわりは、ごく少数。もしかしたら、私一人かも。と言うのは、重々承知していたのですが、最近ふと。
この発想、つまり、主人公=ユーザーという視点と言う、着想を持っている人間自体がごく少数?。もしかしたら、俺だけ?。と思い始めました。まぁ、ウィズXTHのスタッフは、間違いなく、この着想は持ってますけど。
近年、十代半ばから後半を迎えたような若い世代にとって見れば、すでに、映画やアニメと変わらない、キャラクター同士のドラマを傍観する。と言うのが、当人たちにとっては、生まれてからずっと、そう言うスタイルのゲームしか知らず、それ以外は、考えられなかったのかも知れない。だとすれば「そんな設定はない」とか言うのも無理ないか。
やっぱ、サクラ大戦で、アニメ業界とゲーム業界のコラボレーションは、やっぱ、ターニングポイントだったんだなぁ。と確信しつつあります。キャラクター同士の勝手なドラマをただ眺めるだけのアニメ・映画的ゲームが、次世代のメインストリームになるのか、それとも、ミスディレクションとなるのかは、今は分かりません。
ともあれ、私が、シナリオ。と言うモノを考えるようになったのは、演劇(含むコント、映画)とは全く無縁。テーブルトークRPGから入ったと言う変わり種。テーブルトークにおけるキャラクターは、プレイヤーの視点と完全にイコールであり、人格すらも同一です。逆に、プレイヤーの知識とキャラクターの知識のズレの補正が、命題でもありました。
テレビドラマにしろ、映画にしろ、観客の視点は、カメラの視点なわけです。いわば、全てを傍観する神の視点。しかし、テーブルトークの場合は、自己視点がキャラクター視点となる。よって、視点は常に、プレイヤー視点で語られねばならない。と言う壁を、認識の有無は別として、テーブルトーク関連でのシナリオライターは、その存在を体感していたはずです。
なぜならば、NPC主導で進むシナリオは、「マスターの自己満足シナリオ」として、もっとも忌み嫌われていたからです。
よって、通常、すくなくとも私は、シナリオの着想から、プロット構成までは、通常の小説の様に組み立てますが、そこから、キャラクターの主観を消す。と言う作業を挟んでました(要するに、NPCのセリフと、プレイヤー側の想像力と理解視力でドラマを作る体勢)。これは、本能というか、先ほどあげた「自己満足シナリオ」にならない為に、自然とやっていたもので、今まで意識したことありませんでした。と言うか、そうしたドラマ部分は、プレイヤー同士のアドリブで行うものですし。
もちろん、対人で行うテーブルトークと、コンピューターで行うものが同一になるとは思いません。が、ウィザードリィにしろ、ウルティマにしろ、D&Dをコンピューターでやる。と言うところから始まったことを考えれば、根底にあるコンセプトとして、知っていても損ではないと思います。
そして、もう一つ。近年、テーブルトーク復権の為の動きがあったのですが、どうにも大きくは発展してないように感じます。その理由として、新規顧客としては、十代後半から、二十代前半、高校から大学生当たりがターゲットのハズ。
しかし、それらの年代は、先ほど述べたように、ゲームのシナリオは、キャラクター達のドラマを見るもの(ないし見せるもの)と言う、認識で凝り固まっているとしたならば、その年代が作るシナリオというモノは、NPC主導も主導。PCはただアイテムの渡しに行く、過去もっとも嫌われた、シナリオパターンに…なりそうな気がします。
テーブルトークが発展しない理由。それは、ドラマ傍観型のシナリオしか知らない悲哀の結果か?。
支配の3%(2005/6/20)
全人類の3%しか、支配者の資質がない。とか何とか言う話だったか。3%に生まれても、支配者たる権力にたどり着かない、つけない。もしくは興味の無い人もいるわけですが。
さて、うちの隣は小さな公園です。緑地面積云々で作られた気休め程度の小さなモノ。小さいとは言えそこは公園。日曜日ともなれば、子供が集まります。まぁ、外で遊ぶのは良いことなのですが、そのうちの一人が、やたら目ったら仕切りたがる。
いや、仕切るならばいいけど、アレはもう傍若無人なわがまま命令に等しい。ハタで聞いてるこちらですら、ウザっ。と思うほどなので、当事者は、もっと煩わしかっただろう。案の定去り際に「お前とはもう絶交」と言う魂のシャウトが。さすがに、絶交は堪えたらしく、「また遊ぼう、また(遊びに)来い」とか、大声で連呼してましたが、返事無し。どうなる事やら。
絶交と言い放った方は、問題ないけど、言われた方は、あの態度では友達少なそうだ。支配被支配でしか、人間関係を構築出来ないと言うのは、とても悲しい。つーか、人間としてどーかと。ちなみに、支配被支配と言うのは、勝敗に、ひたすらこだわることもそうだし、他者の意見を受け入れられないと言うのもそう。
そうした価値観の人間は、安易な暴力による解決を求める方向へ向く。暴力と言っても、腕力だけではない。権力、金力(マネーパワー)、数の力(いじめってヤツね)、最近では情報力(昔は、近所で悪い噂を故意に広める程度だったが、ネットの登場で全国規模に)というのもある。
まぁ、子供の、小学生うちならば、特に問題もなく、誰しも通過するものだし。小説読んで「どうして○○(自分のお気に入りキャラ)を、あんな目に遭わせるのですか」と、本気で作家に抗議したりとかさ。ただ、最近は中学生は愚か、高校、大学生まで、こういう支配被支配関係でしか、物事を考えられない人も多いですけども。
振り返ってみれば、私の子供時代にも、命令したがり、威張りたがり、と言うヤツは居て、嫌われていたものだ。命令と言っても、2つあり、ただ単に自分のわがままを言う奴と、指揮監督能力として指示という命令を分かれると思うが、大抵そう言うヤツは、ただのわがまま。
彼が、遊びで王様気分に浸っていて、引っ込みつかなくなった程度なら良いけど、性根からの、わがまま野郎だったら、明日からクラス中から村八分って事もあり得るからなぁ。はてさて。どうなりますか。
そう言えば、遥か昔に書いた、本の読み方とか、独立記事にしようかしら。
注意書き(2005/6/21)
つれづれと思い出すのは、高校時代に、友人がした教師への猛抗議。その内容とは、テストの採点に関するモノでした。その設問とはこうです。『次の詩について、感じたことを書きなさい』。
マトモに考えたら、どう答えても点が貰える。いわばボーナス問題。そらぁ、「お芋喰ってプー」とか書いたら、ダメでしょうけども。その友人の回答は、確かに変わった見方ではあるが、そう言う取り方も出来る。と言うレベルで、バツで0点など、決してあり得ない。と私は思いました。
その教師は、「作者はこんなことは考えていない」と言うわけです。どれほど、理不尽か、お分かりいただけるでしょう。友人は素直に感じたままを書いた事を否定される。それは、もう感性の、ひいては人格の全否定に等しい行為ですわな。
もう一例。画家のジミー大西さんのインタビューで、「どうしてそう言う絵が描けるのですが?」の問いに対して、ジミーさんはこう答えました。「こういう風に、見えませんか?」と。ジミー大西さんの目。と言うより、脳は、世界をあの絵のように見ているわけです。
物理的に、同じモノを見ても、隣の人と、本当に同じように見えているかどうかは、分からないものなのです。むしろ、同じように見えないからこそ、個性というモノが生まれる。と私は思う。感想や評論も同じ。自分と違う視点で、モノを見ている人がいるから、読んで面白い。と私は思います。
自分と意見が違う。自分と解釈が違う。だから、それは間違いだ。と言うのは、とても幼稚です。自分の考えが、絶対のモノだと、盲信し、その妄想を押しつけているわけですから。反面、こうした押しつけは誰しもが通る道ではあるのですが。
と言うことから、私にとっての、言われ無き誹謗中傷と言うのは、『この記事内容は、俺と意見が違う(ないし、気に入らない)ので、消せ、もしくは、俺の言うとおりに修正しろ』と、言うことです。
ちなみに、私は、自分の非を認めるだけの論証が提示されたなら、迅速に訂正記事書きます。つーか、書いてます。自説に信念はあるけど、執着はありませんし。
自分の妄想を押しつけてくる人と、私の誤記を修正してくれる人って、論調というか、語気が全く違うので、一目瞭然。文字エムパスだし、私。なぜか、私のところに来る、妄執人は、cautionを論拠にするのですよ。良く細かいところまで見てくれてるなぁ。と思う反面、真意が理解されてないようで。言われ無き誹謗中傷はイヤン。等という婉曲表現は止めてストレートに書いた方が良いのかしら?。と言うので、つらつらと書いてみたら、長すぎるな。こりゃ。
とりあえず、定義だけ明記しとくかな。
裏側(2005/6/22)
何事にも裏はない方が良い。と思うこともあるが、裏側がない。と言うことは、厚みがない。と言うことにもつながる気がする。なにげに、60−80年代映画をつらつらと見ていたりするのですが、昔の映画って、裏側がちゃんとあるよなぁ。と思ったもので。
ジャック・フィニィの小説「盗まれた街」が、ボディスナッチャーというタイトルで映画化されたとき、「アンチ・マッカーシズムを表現している」「アンチ全体主義の映画」など、議論が活発だったそうです。ハインラインの「宇宙の戦士」にも、同じような議論があったような。世代的なものかしらね。
しかし、クローネンバーグのシーバースや、ロメロのゾンビにしても、その裏側にある意図を、勝手ながら推測でき、また、推測したくなる作品だった。それは、言い換えるならば、考えさせられる作品だった。ともいえる。
現代の作品は、裏側は薄い気がしてならない。表から見て、誤解されない。と言うよりも誤解できない作り。解釈の幅のない作品は、芸術とは言えず、工業製品となってしまう気さえする。行間が読めないどころか、行間すら認識できないタイプが増えつつある現代。と言うか、部分的な表現から、状況を認識できない。ってのは、国語力の低下は深刻ですよ、文科省。
そうした状況下では、誤解されない作りというのは必須なのだろうか。文芸・映像表現のPL法?。だから、ゲームのシナリオも、誤解されないように、ドラマ傍観タイプが、氾濫中?。主人公=ユーザー視点だと、解釈のグレーゾーンばかりで、騒ぎになりそうだし。
まぁ、ロメロのゾンビは、色々と考えさせられて怖くなったが、近年リメイクされたゾンビをみて、何も考えなかったというだけですが。固定観念からか、ゾンビウォークしないゾンビって怖くネェなぁ。反面、ソイレントグリーンは怖いッス。
まぁ、何も考えずに楽しめるのも良い作品なれど、何かを考えさせられるのも、また良い作品。ただ、名作と呼ばれるには、考えさせられる作品だけから、選ばれている気がする。いや、した。
怪奇現象(2005/6/23)
いやまぁ、真面目に怪奇現象を語るわけではなくて、なぜだかカウンターが、良く回ってます。特に何もしてないんですが〜。とは言え、場末の泡沫末端のここですから、良くと言ってもたかが知れてますが。
めぼしいことと言えば、ガンダムRPG用のソロシナリオもどきのジム・ヤヌス(オリジナル)の画像上げるの失敗していたことにようやく気がつき、修正したぐらい。とは、いえ、これに反応するのも変だしなぁ。巡回ソフトか何かが、サイズの大きいものが上げられた。つーことで、反応?。いや、それ以前に、そんなモンに登録してくれている人など居るのだろうか?。まぁ、私の企画と違うところが、なんや受けているのかも知れぬ。
と、まぁ、考えても分からない事なので、とりあえず、ペン入れした原稿見つかったので、再度、上げ直し。バックパックてっぺんの羽根は、ある方が良いのか、ない方がいいのか、ちょっと悩む。いかにも、電探って感じで、付けたい気もする。
ガンダムワールドでは、索敵という概念は余りないらしい。一応、ザク強行偵察型。と言うのがあるが、あれは戦略偵察機で、索敵機ではない。と思う。SR71みたいなもんかと。高機動で、敵勢地を駆け抜けて、カメラ撮影。帰還後、戦略班が映像分析すると。まぁ、だから強行偵察なんですが。
私の考えたヤヌスは、空中管制機に近い。E767だっけ、あれのような大型管制機ではなく、ベトナム時代のスカイレーダーチック(注:じゃなくて、FACに使われてたヤツと勘違い)な感じで。実際にはMS中隊に1機の割合で配備される感じ。その為に、分析、管制用の大型コンピューターも同時搭載しておるわけです。しかし、ミノフスキー粒子のおかげで通信範囲が狭い。と言うことは、管制範囲も狭くて、小隊規模の運用しか無理と。んで、レーダー通信も可能なヤヌス同士が連携することで、中隊規模の運用が可能ぐらいの考え。
ちなみに、型番を何となくGYとしたものの、ヤヌスのスペルはJだよ、バーカ。と言われそうなので、JANUSと書きました。鉛筆書きのママなので薄いですけど。ホントは試験機なので、YRGMとか、XRGMにしたかったけど、長いじゃん?。ヤヌスとしたのは、単純に二人乗りだから。
…今ふと思えば、ECM戦とか…ガンダムワールドの妨害は、ミノフスキー粒子なので、MSのクセに散布機能付きとかもあったら楽しかったかも。どこぞのモデラーが造形して、プレゼントしてくれないかしらね(笑)。
天然嗜好(2005/6/25)
農業を引退した農家からキュウリを貰った。と言うとややこしいが、要するに、自分たちで食べる分ぐらいを、作っているワケ。稼ぎとしての農業ではなく、趣味の栽培と言ったところか。しかし、元々農業をしていたわけで、家庭菜園と呼ぶのもなんか違うなぁと。そんでまぁ、取れすぎたりすると、近所や知人に配って歩くのですな。
ともあれ、貰ったキュウリ。これが深い緑色と、深いシワ、そして凹凸。ぱっと見、太くならなかったゴーヤ?。と思ってしまうほど。原種に近いとかなんとか言っていたような。食してみると、原種に近いと言いながらも、青臭さは市販品のほどではなく、水っぽいのではなく、みずみずしい。一言で言うと美味い。
そこでふと、脳裏によぎったのが、農業ってのは、植物の養殖なんだよねぇ。畜産・魚介には、まだまだ強い天然嗜好があるのだが、こと植物に関して、天然嗜好はほぼ無い。一部のキノコぐらいなものか。何かの番組で、現代の養殖物は、食材として追及されたモノなので、天然よりも美味い。と言っていた。まだ、多くは数を増やすだけの養殖だんかいなので、天然を上回る養殖が普及するには、まだまだだろう。
料理番組で、天然物のウナギを捕りに行く話はあっても、天然の米や、野生のキャベツを探しに行く人はいない。野菜や果樹に関しては、もはや天然物、つまり、野生種を好む人など無い事を考えても、遠くないうちにそうなるだろう。リンゴの原種など、現代人には、すっぱくてとても食べられないのではないだろうか?。
で、稲の原種というか、野生種も絶対に存在するはずなのだが、それらは、どういう地域に生えていたのだろう。水稲というのは、完全な養殖場なのだろうか。沼地のようなところを好んでいたのか、栽培管理がしやすいから、水田になったのか。神話のレベルに行くと、バビロニアあたりから、稲をもった部族が戦乱を避けて東アジアに来たと言う説もあるし、東南アジアでは、水田ではなく、普通に蒔いているのを見た記憶もある。
ともあれ、エジプトの古代王朝、紀元前から農業という、植物の養殖という、科学をやっていたわけですから、本物の野生種ってもう分かんないのかも知れないねぇ。灌漑や治水というのも農業のためだし、接ぎ木や人工授粉での交配ってのも、手段は原始的ながら、りっぱなバイオテクノロジーなんだよねぇ。とすると、古代の頃から、すでに米、小麦は工業製品だったのかも知れない。
養殖方法だけでなく、食べ方にしても、脱穀から、炊飯という過程を考えた人間は天才だなぁ。小麦もまた、一度粉末にして、水を加えて練って焼く。と言うことを考えるとは…一番楽な解決法は、超古代文明があって、食べ方を知っていた。と言うのが楽だよね、夢もあるし。
米も麦も、実はアトランティスやムーの超古代文明が生み出した、対飢饉用のバイオテクノロジーの結晶スーパー植物だったのだ。そんな話にあるか、夢?。まぁ、当たり前となっていることを、つらつら考えると、結構深かったりするものですなぁ。と今さら痛感。
プレイヤーの立ち位置 テーブルトーク編(2005/6/26)
と言うわけで、今度は、テーブルトーク編。コンピューターゲームでの、プレイヤーの立ち位置というモノは、意外にも微妙で、土台を作るだけでも意外と難航したのですが、こちらは、さっくり行けそう。
テーブルトークに関しては、プレイヤー=キャラクターの視点。で、全く問題なし、意義の挟みようもない。
で、ふと思ったんだけど、みんな本能的に、プレイヤー=キャラクターの視点。と言う立ち位置から、シナリオ作っているんだよねぇ。だからこそ、NPC(=マスター)が勝手に話を進めるタイプのシナリオは悪いもの。という認識があったわけだけども。かく言う私も、テーブルトークシナリオの作り方について書かれている記事や本はいくつか読んだけど、別に視点について触れたモノは無かったと思うのだが。
しかし、反面で、NPC主導のシナリオは良くない。と再三提言されていた。と言うことは、それだけ一般では、そうしたタイプのシナリオの発生率が高かったのだという推察もできる。
実際に、それはリプレイの記述形態の変化にも大きく現れている。本来、テーブルトークのリプレイというものは、実際にプレイしているところを見せて、その感じを掴んで貰うためのモノ。しかし、いつからか、読み物として、半ば小説のような記述スタイルが増えていった。
つまり、野球のルールを憶えさせるのに、映画のメジャーリーグや、さよならゲーム、フィールドオブドリームスを見に行く人はいないだろう。リプレイの読み物化は、観客化を促したと言えるのではないか。こんなプレイをしてみたい、こんなシナリオを作ってみたいから、来月の連載が楽しみだ。に変わっていったとしたら、テーブルトークのとしての方向性が変わってしまう。
そこには、やはり主視点でのシナリオ、物語よりも、誰かの物語を客観視する方を好む人が多いのが実状なのかも知れない。
事実、D&Dから始まり、オリジナルルールまでに派生したロードス島戦記も、そのメインは、テーブルトークではなく、小説とOVAだった気がする。そういえば、初期の頃のオリジナルパートのロードスの小説は、どちらかというとヒドイ出来映えだったなぁ。リプレイとして、やってない、初のオリジナルだったんだけど、登場人物などが、ペラペラだったのを憶えている。だからといって、物語が薄かったわけではない。
それは、今振り返れば、テーブルトークのシナリオがメインだったが故に、登場人物の厚み。と言うことに関しては、プレイヤーの部分で、マスターとしては、必要のないところだったからだろう。つまりは、主役に厚みのない物語と言うことは、主人公の主観のない物語と言うことで、ゲームに必要な物語を作っていた結果。だったのかも知れないなぁ。
読解力(2005/6/28)
六月であることを忘れさせるような、さわやかな風が続いていたのですが、今日は、ねとつくような、重く湿った、生暖かい風。ああ、梅雨なんだなぁと実感させる。
って、もう六月終わりじゃん。梅雨はどこに行った?。つーか、梅雨入り宣言って聞いてないような気がするのですが?。などと思いながら、未だに押し掛け。ふと見るとウィンカーの点滅が速い?、イヤ、弱々しいのか。バッテリーも、本当に限界かぁ。自分で変えても良いけど、廃バッテリーの処理って面倒だから、バイク屋に持ってた方が良いかなぁ。とか考えながら、未だに騙し騙し乗ってます。
で、ウィンカーについては、何度も書いてるけど、ウィンカーってのは「もうじき右折ないし左折の為に減速しますから、後続車は注意して下さいね」と言う信号だと思うのですよ。自分の意志表示っちゃ、意思表示なんだけど、周囲への告知という方が正しい。だからこそ、教習所でも、曲がる数メートル前から、ウインカー出すように指導しているはずだ。
ええ、死にかけましたとも。急ブレーキで減速したあと、ウィンカー出されても、困るんですよ、奥さん。こうした運転を見るに、妄執人かどうか、運転スタイルで見分けられる気がしなくもない。事故でも「止まると思った」とか「突っ込んでくるとは思わなかった」とか、自分の想像という妄想を現実と置き換えてるような発言だよなぁと。
ともあれ、曲がる数メートル前から、ウインカー出す。と言うところから、もうじき右折ないし左折の為に減速しますから、後続車は注意して下さいね」と、読み解く能力に期待せず、教習所なり、免許更新の講習会なりで、明記して欲しいと思うのですわ。
と言うところで、私の読解力(洞察力も?)は高い方らしい。自己評価ではなくて、他者評価なので良くは分かんない。かつて、インディジョーンズ4が、作られるかも。と言うことで「ジョーンズ親子は、聖杯の水を飲み不死になったのでどうするのか」と盛り上がっていたが「十字架線越えたらダメなんじゃ」と水を差したことあったなぁ。
聖杯の使用条件として十字架線を越えぬ事。とは作中で言ってたけど、十字架線を越えたら、聖杯の魔力が消える。この喪失は、今後聖杯がただの杯になることを指し、それ以前の魔力は有効なのか(つまり、ジョーンズ親子は不死)、全てが無効になるのか(ジョーズ親子はただの人)は、制作サイドに聞かないと分からないよねぇ。まぁ、この手の隙間を話題に、楽しくケンカするのが面白いんだけど、議論というのは自論の押しつけと、勘違いする人も多いよねぇ。議論というのは、鋼のごとく叩き合って鍛え、精錬していくものと思います。
まぁ、共感能力というのは、他人の言動から、感情を読み取る能力とも言えるので、それが、文字情報からも読み取れるなら、読解力も高くなるやも知らん。
逆説的に言うと、読解力の低下は、共感力の低下につながるのだろうか?。群れをつくる動物にとって、共感能力は必須。人間は、不確定な共感能力よりも、正確に伝わる言葉を生んだ。正確に伝えようとする余り、言外の意図というモノが排除され、それこそ、プログラム言語のような言葉や表現しか伝わらなくなっているのしらねぇ。だったら、寒い時代だなぁ。
まぁ、共感うんぬんよりも、読解、分析、洞察っていうのは、雑学量がまずモノを言うのですが。情報の肥大化により、特化するか、本当に表層レベルの知識に留まるかしかないんだよねぇ、現代は。ひらめき、インスピレーションも雑学量がベースなんですよ。
帆は風任せ(2005/6/30)
ネタ切れです。何もないと言うことは、良いことなのかも知れませんが。
と言うわけで、なにげに思い出した話を。ずいぶんと古い話ですが、海賊って誤解されてるよねぇ。と言う話をしたことがあります。ワクワク海賊マンガが始まる前なので、ずいぶん古い話ですが。
結論から言うと、海賊ってのは、突き詰めれば、水夫。その第一義は、操船におかれるわけです。要するに、多少戦える水夫であり、決して、船が扱える戦士ではない。つまり、戦闘、殺人のプロである戦士と、陸上で真っ正面から戦っては、勝ち目はないと言えるでしょう。ま、歴戦と水夫と、駆け出しの戦士なら、水夫が勝つかも知れませんが。
こんなことを書きながらも、特に海賊に詳しくはないので、分かりませんが、イメージとしては、砲撃から接舷して、切り込み。なんですが、切り込み要員ってのも、決まってたんじゃないかなぁ?。ヘタに総員切り込みなんかやって、船が動かせなくなっても困るでしょうし。
近現代で言うところの、海軍陸戦隊?。もちろん、無駄飯食わせる余裕はないから、雑用や基本作業(碇の上げ下げ、セイルの上げ下げなんかは、力仕事で向いてそう)なんかもやってたでしょうけど。そっちの、見習い水夫的切り込み要員のイメージが強すぎてそうなったんですかねぇ。
ゲームだと、どうしても「船が扱える戦士」ってポジションなんですよねぇ。まぁ、既存のクラスを流用する為なんでしょうけども、私としては、ベースは、戦士よりも、盗賊なんではないかと。
まぁ、海賊と言っても、正味の犯罪集団よりも、私掠船の方が多い…まぁ、あとから、認定したという例もあるでしょうけど。海軍と海賊の戦いってのは、良く描かれるけど、なにげに、同じ国の海賊と海軍と思っている人がいないだろうか?。私掠船は、世界史の教科書にも載っていると思うので、調べてみよう(教育番組風に)。