速いもので(2006/10/2)
光陰矢のごとし。と、良く聞かされていたが、実感する事はなかった。だが、いまなら分かる気がする。つい、この間、九月の夢酔のページを作成したばかりの気がするのだが、もう十月か。
子供の頃、小学生低学年の頃を思い返せば、あの頃は一日40時間ぐらいあった気がする。朝起きて、学校いって、夕方までボール遊び。軽くテレビなど見て、風呂入って寝る。こんな単調な一日だったのに、学校にいる時間も、放課後も、それぞれ10時間ぐらいあったような気がする。
今はどうだ?。数日電源を入れられなかったパソコンのように、数日の記憶が錯綜する。ルーチンワークは、時間を殺すのか?。時間を殺された人間は、ヒトでなく、モノになるのか。ってぐらい、時間が流れていく。
死と時間は万人に等しく与えられているが、その密度には大きな隔たりがある。と言ったのは、誰だったか?。密度を持たせるには、日々刺激を受けるしかない。
蛇の道は(2006/10/5)
蛇。と言う事で、ぶらりとソフト屋に行ったときに目についたのが、戦国の妹だっけ、蛇ノ道ハ蛇ソフトの。シミュレーションRPGっぽいと思ったけどフツーのAVGでがっくり。でまぁ、ついでに、このソフトハウスの体験版をちょこまか頂いてプレイ。
剣道の体験者(数ヶ月でやめて経験者面するヘタレではなく有段クラス)がいるのではなかろーか。「狂った教頭」の体験版で、冒頭からバッドエンドコースにはいると、戦闘…と言うにはスプラッタな乱闘があるのだけど、重心移動と体重の裁き、相手との位置関係が、すっと頭に入る書き方。コレは体験者だろう。と思った次第です。
「狂った教頭」の父兄の説得をみるに、なかなか描写も上手いのだが、上手すぎで、胸がムカムカするのがなぁ。衆愚どもが、イカに反撃を受けない相手をいたぶりたがっているか。いかに反撃を受けるとモロいかが如実に描かれていてなぁ。
まぁ、記者会見での住民の暴言やデモ隊の衝突なんかでもそうなんだけど。あれを見ると、子供がイジメをする理由ってのが分かんなくもないよね。大人でさえ、反撃されずに、いたぶる相手を捜してるんだもん。セクハラ、パワハラ、権力をかさにきた反撃を受けない攻撃。で、学校のいじめもそうだよね。グループの長がクラス内権力によっていじめる相手を決めるわけだし。
ちょっとずれましたが、狂った教頭では、体捌きなどに経験者の感覚が見えてますし、戦国の妹では、ヒロインの一人に、示現流という、ややレアな剣術を持ってきているのにもそれが見える。私が今ひとつ「るろうにけんしん」が好きになれない理由に、幕末のクセに示現流を出さない愚に呆れたから。
近藤勇が「薩摩の初太刀は必ずかわせ」と言っていたのは伊達ではなく、示現流の一撃は、受けた剣ごと相手を斬ってしまう。そのために、受けたり、捌いたりするな、避けろ。と言って聞かせていた訳。始祖は、石灯籠を縦に切ったりとか、一撃で、碁盤を斬り、その下の畳、床板、土台の石まで斬ったとか言う話も残っているほど。
ただまぁ、戦国一夜漬けの外されたら終わり、ってのはやや誇張。ニノ太刀についてや、受けや捌きについても、ちゃんとある…ハズ。抜刀術、小太刀、槍止め(対槍の戦法)も考慮されているぐらいだから。
抜刀術とか居合いも抜いたら終わり。って言う設定のが多いけど、抜いたあともちゃんと考慮されている。というか、基本的に抜刀居合いは、鞘から速く剣を抜く技術。いわゆるガンマンのクィックドロウであって、そこから先の戦いはまた別物。抜き打ちは、確かに有効だけど、太刀筋は極度に限定されるしねぇ。まぁ、剣豪小説による誇張が一般化したってとこですかねぇ。
まぁ、たしかに、剣を抜くのが速いだけで、抜き打ちを外したら凡庸な剣士。って考え方も出来るけど…考えようによっては、居合いって、相手が構える前に斬ると言う、武士の風上にも置けないのかも知れないなぁ。
あーっと、つーわけで、ゲームとしては、んー。と思うけど、読み物としてはなかなかのソフトハウスかと。
手のひら返し(2006/10/8)
相も変わらず、手のひら返しの節操のなさは、テレビ局の強みというか、愚かさというか。
中国共産党が、退くに退けなくなったこの時点で、安倍政権に変化した事で、対立から協調路線に切り替えた事は、すでに多くの専門家が語っているとおり。中国やソ連共産党は、まぁ、そう言うヒトタチなので。
それに付随するように、反小泉・反政府を徹底していたテレビ局が、ころりと安倍政権賛美をはじめているのは、ナンダかなぁ。小泉さんが、ガンと対立していた頃は、アジア外交の障害と断罪していたのに。ここまで書いて一貫性に、今気がつきました。中国共産党の言いなりのか?。中国人の大学教授とかが、あれほど強気だったのに、急にマイルドな意見になっている辺り、監視の目は徹底されているのかなぁと。
ネットで、某局の放送権剥奪の署名集めをしていたりもしましたが、また、書きますけど、昼の5分ぐらいのニュースで、イラク戦争の折り「アメリカ軍の死傷者の35%はマイノリティで、新たな人種問題が勃発しそうです」と臆面もなく報道したのは、たしか、その局。確かに、ヒドイ局ではある。あの時、買収されていた方が、局の為だったんじゃないだろうか。とさえ、思う事はある。
ブラフ(2006/10/11)
北朝鮮の核実験報道の初日、ブラフちゃうのん?。ホントにやったら、これ見よがしに、映像出すやろ。と思っていたら、地震波が感知されて、あらハズレタのねー。と思ったら、放射性物質は検知されませんか?。つーかさ、核爆発したら、電磁波が出る訳で、それを感知出来ないっておかしいよねぇ。
遺骨のDNA特定が出来ないと、自国の科学レベルで判断したように、通常火薬で、地震起こせば、核かどーかわからんやろ。と言う感覚でブラフかましとる気がしますな。よかれあしかれ、崩壊までのカウントダウンですかなー。
査定(2006/10/18)
日本では、伝統的に減点法が用いられていて、これでは人材が育たない。と、柘植久義氏の著作で読んで、その通りだなぁと当時も思ったのだが、福岡の例の校長を見ていると、再び痛感する。
減点法、基本点から引かれていく方法は、アマチュアレスリングの判定方法だった。今はどうか知らないけど。かつては、タックルで一点、投げて三点というのは、自分のポイントとして加点されるのではなく、相手の持ち点から、減点して行っているわけ。
日本の従来の査定方法は、この方式に近い。つまり、もっとも効率の良いポイントを稼ぐ方法は、何もしない事。アマレスでは何もしないとマズイが、業務の上では何もしなくても犯則ではない。つまり攻めのリスクを冒して、なにかアクションをおこしても、減点される比率が高い。となれば、だれも何もしなくなる。
一言に事なかれ主義だ。と責められているが、事なかれ主義を強要しているのは、文科省であり、教育委員会の査定方法にも問題がある。要するに、いじめを公表して見事解決しても、イジメが発生したという失点だけがつく。ならば、隠蔽した方がいい。と普通の人間ならば思うのは、想像に難くない。
あの教師をかばうつもりは毛頭無いが、子供の打たれ弱さも少し考えなくてはならないかも知れない。私も小学二年だったか、不意に担任教師から「○○(本名)ちんこ」と呼ばれ(意図は不明)、以降、あだ名が省略形の「○○ち」が定着してしまったわけだが、今だと、すごい問題行動としてエラい事態になっていたのだろうか。ちなみに、中学も学区としては同じなので小2から中三、ひいては、同じ中学だったやつが言い続けたので高校まで延々と使われ続けたのだが。中学で定着したときはちょとショックだったなぁ。まぁ、慣れたけど。
ワイドショーでイヤなあだ名を付けられ、いじめられたと言う投稿があったが、大体あだ名ってのは、言葉そのもの意味はさておき、嘲笑に端を発するものだ。頭の形がでこぼこだから「ジャガイモ」から「ジャガ」とか、小六で陰毛がすでに生えていたので、茂っているからシゲとか。そんなものよ、あだ名って。
ワイドショーの投稿で教師から「そんな精神の弱い人間だと、気を遣って何も言えませんね」と言われ、ショックを受けた。と言う投稿があった。奇しくも私も、知人からまったく同じ事を言われてます。人間関係に気を遣わなくて良いってお前は王様か。帝王か、もしくはガキか?。私の知人は、教員でないからギリギリセーフかも知れないけど(ワタシ的にはアウトで縁を切ったが)、教育者がコレ言っちゃアウトだよなぁ。
私が子供の頃から、教師間でのいじめ、校長へのいじめ等、大人のイジメは存在した。私が高校生の頃、校長室のドアにバリケードをはって、閉じこめている日教組の連中がいたが…国旗国歌の問題で…あんなことしてりゃ、そりゃあ、子供もダメになるよね。
私個人としては、国、学校、教育委員会、家庭、児童、それぞれの見過ごせるレベルの問題が累積していった結果、今の歪みになっていると思う。とどめはゆとり教育かと。ドコか一つを改革すれば治る問題とは思えない。合併症は、治療に時間がかかるものだ。
本歌取り(2006/10/19)
著作権は、たしかに大事だけど、少し暴走している気がするのが松本零士先生。率先して取り組むにあたり、ヒステリックに反応するPTAのおばさんのような状態になっているのではないかなぁ。と思ったのがこの記事
歌の世界では、三フレーズまでは盗作にあらず。と言う決まりらしいし、映画でも、構図が同じだ!と盗作で訴えたが敗退した例もある。作中のセリフ…いかに、信念にしていようとも…を、歌詞に使われたから、ムキーと言うのでは、ちょっと過敏な反応かなぁ。たしかに、使われた側にしてみれば、いい気はしないけども。
本歌取りということで、許してあげられないかなぁと。まぁ、別に槇原氏は、好きじゃないのでかばう気は全くないけど。視聴者側も、本歌取りを見て、ニヤリと出来るほど、文化水準が高くないのも原因か。
オールザットウルトラ科学で、解説されていたけど、昔とは情報量が違うからなぁ。平安時代の出版状況なんてたかが知れているから、数冊読めば立派な和歌オタク…つまり、本歌取りしても、すぐに原典にたどり着けたが、今では、たどり着くのが難しいからなぁ。この件も、松本零士先生が、声をあげなければ、99%の人は、槇原氏の言葉だろうと思ったろうしねぇ。
本歌取り。今風に言うならば、元ネタと言う事になるのだろうか。本歌取りと盗作は似て非なるモノなんだけども、本歌取りか、否か。は、技術的なことはさておいて、根底の問題は、敬意の有無かなぁと思います。歌詞全体を知らないので、何とも言えないけれど、たぶん、盗ったとしたならば、敬意が感じられなかったかのかなぁ。感銘を受けたこの言葉をどうしても使ってみたかった。と言う気持ちが伝わってこなかったのかも。
創作の世界では、シンクロニシティというか、本当に偶然に似たようなモノを作ってしまうコトがあるのも否定は出来ないのだけども。
続・本歌取り(2006/10/20)
第一報では、なにも訴えなくてもと思っていたコレですが、続報を聞くと、槇原氏不利かなぁ。
と言うか、まぁ、過去に色々とあった槇原氏ですから、ブラックマークに敏感になるのも分かるけど、良い言葉なんで、胸に刻まれていて、いつの間にか自分の言葉と思いこんでしまったとか言えば、丸く収まったよーな。ライナーノーツ(って今あるのかしら)にでも、チラリと書いておけば、良かったんじゃなかろーか。
松本零士先生にしても、槇原氏に感銘を与えられたとなれば、むしろ名誉に思うのではないかと。本歌取りは、悪い事でも、間違った事でもない。エイベックスのモナーの問題にしても、どーも、音楽関係ってなんだかなぁと思うのよね。まぁ、出版社にもその気があるので、創作者の資質云々というよりも、権益保守邁進する事務サイドの倫理観を正すべきか。
まぁ、一番困っているのは、歌を歌っているケミストリーだっけ?、かなぁ。今後、ちょっと考えるよね、歌番組とかで歌って良いのやら、悪いのやら。テレビ局もそうだろうから、必然的に呼ばれなくなって…となったらキツイですな。ワタシ的には、ごねれば、ごねるほど、印象は悪くなって、重い失点になると思うのですが、槇原事務所さん。
聞く側は、「夢は時間を裏切らない。時間も夢を裏切らない」と言う真理というか、哲学にたどり着いたのは、松本零士先生と思いながら、聞けば問題なし。
特定外来生物(2006/10/24)
私が、どうしても理解出来ない考え方が、この特定外来生物。私が認識しているのは「固有の生態系を破壊する云々」と言う事ぐらい。よーするに、外国のサルが、ニホンザルと交配して、雑種が生まれると、環境が壊れる。と言う事らしい。
わからん。
混血化は悪なのか?。生物の進化とは、混血…だけじゃなくて、放射線による変異もあるだろうけども、基本は混血による遺伝子の配合の多様化ではないのだろうか?。極論を言えば、差別意識さえ感じてしまう。人間に置き換えれば、外国人との婚姻は、日本人の純血性を失う。と言うの大差ない気がする。例え外国種のサルだと言っても、その群れに受け入れられたのだ。その社会に受け入れられたのだ。いいではないか?。
波に流され、たどり着いた椰子の実がそこで大繁殖をしたら、特定外来種なのか?。渡り鳥の糞に混じっていた種から、大繁殖したら?、ペットの外国犬を野に放ち、和犬の野良と交配してうまれた雑種たちは、環境を破壊しているのか?。庭に咲く外国の蘭の花粉を、蜂が日本の蘭に受粉されたなら、加害者は誰だ?。かつて、地球に酸素がなかった頃、とある微生物が酸素を生み出した事で、それまでの生物はほとんど全滅した。人間という生物が、環境を激変させた事との違いは何か?。人間は自分も住めないような環境に変えている事が差違だ。
植物の人工交配、ペットの血統書、遺伝子操作。これらの交配は推奨され、尊崇される一方、過失による自然の異種交配は、悪だと断じるのは、なぜだ。自分の管理外で行われた成功に対する人間の嫉妬ではないのか?
人間も自然の一部だ。風が運ぶ、波が運ぶ、鳥が運ぶ、人が運ぶ、過失であろうと故意であろうと同じ事だ。と私は思う。地球に優しく?、どうしてそう上から見ているのか?。一人人間だけが、自分を特別視し、デミウルゴスのように、この世の造物主と勘違いしている。地球にとってベストの環境が、氷河期なのか、白亜紀のような亜熱帯なのか、それとも酸素自体が害悪なのか、分かっていない。一つ言えるのは、環境運動も、所詮人間に適合している環境を保とうと言うだけだ。
多摩川で、なんとか言う外来植物が、景観を破壊しているという。環境系のNPOの婦人が「景観を乱している」と言う。結局、人間の利益になる環境を守る事しか頭にないのだ。きっと在来種を駆逐しても、綺麗な花を付けるのならば、指定はされなかったろう。インタビューに答えた中年男性が「自分たちが繁殖する為ならなんでもやる植物」と言った。生物はみんなそうだ。人間だって、自分たちが生きる為に、山を切り開き、森を枯らす。あの植物と何が違うのか。
人間が森を切り開く事で、森の生物は死に絶える。だが、新たに畑の生物が芽吹く。人間が死滅したら、別の生物が地球人になるだけの事だ。高純度の放射能に包まれたとしても、その環境に適合した生物が現れる。HPLが視たように、甲虫生物かどうかは知らないが。滅びもまた、生物の因果である。
だからといって、ペットを野に放す事は許されない。環境云々、特定外来種云々以前の問題だ。まぁ、救いがたい愚かな生物の人間が、そうするのは仕方ないのだろうか。人間とは、他の全ての生物を抹殺する為に母なるガイアが生み出した死神なのだろうか。人の慢心は、どこから来るのか。なぜ、あるがままを受け入れることを拒むのか。
客人(2006/10/26)
現代語では「きゃくじん」だが、古くは「まろうど」「まれびと」と読んだ。つまり稀な人。めったに来ない人。古代では、交通手段はおろか、交通網すらマトモに存在せず、村の敷地が世界の広さだった。だからこそ、村と山(異界)との狭間にある、草場の影から、先祖は我々を見守っているし、山は神域であり、村の敷地であると同時に結界として同祖神や地蔵が境に置かれている(と思う)。
そんな閉塞した社会だからこそ、外界の情報をもつ客人は、異界の使い、つまり神の使いとされた。そんな御使いである旅人に、娘を差し出す風習がある地域もあったが、これは伊達や酔狂ではなく、近親婚を防ぐ為に、外部の血を欲した結果でもある。異邦人は、閉塞し、硬直した社会を打破する存在となりえたわけだ。
黒船のペリーしかり、渡来人しかり。彼らの来訪で、良かれ悪しかれ、社会は変革していった。改善か改悪はさておき、進歩は出来たと言える。小泉純一郎代議士が、マレビトかは分からないが、硬直した自民党を改変させたのは事実だ。現代ならば、北朝鮮の寒村で、先進国からの情報を得るようなものだろうか。現代の客人は、電波という見えない渡り神だが。
かつて、太平洋で遭難した船が、日本に漂着したように。社会にとけ込み、日本人となり、子をなしたとして、彼らは環境を破壊しただろうか。権力者には、財産を吸い上げる環境を破壊された人もいるかも知れないが。人間という名の偽神、人というデミウルゴスが、ニホンザルという社会に外来種を解き放った。差違はなんだろう。
たしかに、混血種を駆除する事で、純血は守られているのかも知れない。しかし、ニホンザルという種、全体にとってみれば、緩やかな死を歩み続けているのではないか。外部の血、硬直した社会に変革をもたらしたマレビトは不要なのか。
外来特定生物。外と内を分けるモノは何か。環境とは何か。どこぞの庭園のように、刈り揃えられ、ゴミ一つ、虫一匹いない空間は自然環境なのか。人間にとって心地よい景観が自然なのか。環境が変われば植生も変わる。変わりゆく環境をねじ曲げて、かつての、特に人間が心地よいとする姿にする事も、歪んだ事なのだろうか?。
単位不足(2006/10/27)
大学の頃、計算したら2単位(一科目)足りなくて、半年留年(セメスター制だったので)した友人がいたが、高校は、先生が組むからなぁ。私は、10単位ぐらい余計に取ってたけなぁ。他学部の講義とか講習クラスの奴でも1単位でてたんで。
さて、昨今話題の、世界史の未履修問題ですが、たしか、私が高校生だった頃から、あったと思う。それが、突然、全国レベルで報道されている異常事態。高校生も教員も、誰一人として利のないことの告発。どうも、陰謀を感じます。
これを取っかかりに、教育委員会と教員組合の解体を狙っているのではないだろうか?。奇しくも、教育基本法の改定が、大看板となった安倍政権で起こった事がまた怪しい。このくらいのインパクトがないと、硬直して石化寸前の教育現場の解体は出来ないだろうしねぇ。程よいパラダイムシフトではないのだろうか。現場で組み立てる時間割だから、さすがの脳味噌メルトダウンしている赤い教員達も言い逃れ出来まい。
あと、全校集会で、講義している生徒がいたけど、あれもなんか言わされてる気がするなぁ。まぁ、どっちにしても、よかれ悪しかれ、現状の学力に到達したのは、いまの時間割だったからこそ。特に理系。 70コマ+試験勉強が入っていたら、他教科の学力一割減ぐらいするんじゃね?。
履修問題、教員の質、学校の体質、色々言われているけど、受験制度にこそ問題あるよね。特に大学。ペーパーテストだけで、審査ってどうなんかな?。学部に入って何を研究したいか、その学部がどんなものかも知らずに大学名で、入りやすい学部を選ぶ。そらぁ、人材の価値減るよねぇ。
少子化で定員割れしてくるとなれば、試験どころか、入って下さいとお願いに回るようになる気も…そうなると、学力低下にさらに拍車が…まぁ、ペーパーテストの学力は、落ちたって良いんだよ別に。もっと基本的な学力、行間や情感を読むとか、論理展開をシッカリ出来るとか、情報検索及び譲歩の比較検討、事案のコアの抽出。これらが出来ないとねぇ。
まぁ、通常は、ペーパーテスト対策をしていると、そこそこ身に付くハズなんだけど、いまや受験は完全なる技術で、思惟の道具として学んでる人は皆無だろうしなぁ。
そんで、56歳で医学部合格したのに、入学拒否。学ぶ意欲、学ぶ自由。それを大学が、教育機関が否定してどうすんだ?。大学そのものも、大学がなぜ存在するのか、目的を見失っているのではないか?。安倍総理、総理権限で、カツ入れなきゃいかんでしょ。高校までは、なんだか義務教育的な目で見ているから、問題になるけど、大学も結構ヒドイ状況になってると思いまス。
脳内モード(2006/10/29)
こういう真面目な事を考えている時は、シナリオを考え始めた時から変化する。と言うので、ちょいと新世黙示録のシナリオを執筆中。そこでも、ふたたび、アンドラスを黒幕に据えているのだけど、ふと、アンドラスって、鴉の頭に、天使の身体。と描写されるんだよね。
で、鴉っていうのは、世界的に、太陽の象徴。八咫ガラスをはじめ、神話に鴉がでるとそれは太陽の象徴である事が多い。で、キリスト教では、太陽を司るのはミカエルだ。アンドラスが堕天したのは、ミカエルに追い落とされたからかもしれない。
鴉の頭と、背には羽根を持つ。ではなく、天使の身体。と記述される事に引っかかりを覚える。穢れなき身体に、小ずるい鴉の頭のせいで堕天したのか。それとも、ミカエルに立場を譲った、許しを得ている太陽鳥なのか。アンドラスの仕事は、不和の種をまく事。これが戦争となったとき、刈り入れが始まる。
太陽という公明さ、寛大さを持っていると考えるならば、アンドラスが不和の種が戦争となり、血の収穫を得る度に、彼が天界に変える機会を失い、嘆きの収穫を続けているのかも知れない。
などと、資料を当たっているウチに、リリスには生後間もない赤ん坊の命運を決める事が出来る能力がある。と書いてある資料を見つけた。DDSNETの鈴木大司教の日記(今風に言うとブログ)に、死神の考察があり『鬼子母神は元来リリスと同様の、子供の魂をさらい自分の子として育てる女魔ではなかったろうか?』と、考察されていた。
これは、イザナミにも当てはまるではないか。死産、乳幼児の死亡率、母体の死亡率、古代にはかにり高かったはずだ。リリスが横取りしたくなるほど可愛い子で、リリスに奪われてしまったけど、あの世でかわいがってくれているだろう。私もあり得る考えた型だと思う。子供をさらうのは、女魔ばかりなのだ。一説には、リリスは神の呪いによって毎日多大な出産をつづけ、毎日100人の子供が死ぬのを見届ける呪いを受けたという。
出産にまつわる悲劇は太古から人類…女性を悩ませてきたのであろう。愛しい我が子を奪われた悲しみ。しかし、リリスもまた、我が子を失う悲しみを知る母である。ならば、手ひどく扱うはずがない。そう考えたのだろうか。
と言う訳で、テレビでデスノートを見た訳ですが、「子供じみてる」と評された理由がちょっと分かりました。サスペンスというには、ロジックが子供じみてますなぁ。少年ジャンプの連載と言う事で、妙に納得しましたけど。コレを世紀の頭脳合戦とか、謎解きと言うにはちょっと。と個人的には思う。
死神のポジショニングも、超常体というか仮にも死「神」であるのに、下級の堕天使のような振る舞いだしなー。造形もなぁ。姿が見えなくて声だけで…このノートは本物なのか。と言う方が私は好きだなぁ。なんか、ダークサイドのガッシュベルつて感じがした次第です。ノートごとに死神おるし、ノートごとに特性違うし。
んー、かなりクリティカルな表現?、ダークサイドなガッシュベルもどきって?
死神(2006/10/30)
元来、死神は、死を司る者ではない。その鎌がしめすように、刈り入れ人である。理不尽な死、ですら、それはその人の定命であり、あらかじめ定められていたことだ。熟した稲穂を刈り取るように、魂を刈り取る。それは、理不尽な終わりでなく、次への種まきの第一歩。
言い方は悪いが、死神はいわゆる小作人であり、生殺与奪の権限が与えられているとは考えにくい。より上位の、神や冥王の使いでしかない。だからこそ、天使もまた死神である。ワルキューレもしかり。
仮にもしデスノートがあるとしたならば、それはすでにあらゆる人物の定めがすでに書き記されている存在であり、白紙で書き加えるものでは無い。と思う。死神は理不尽な死を与えるものではない。ただの刈り入れ係なのだから。
昨日の分で、デスノートは、ダークサイドな設定のガッシュベルでは、と無意味な閃きがあった訳ですが、そういえば、ガッシュのキヨマロも、超天才って設定だったよなぁ。少なくとも、映画版では、ノートごとに死神が存在して、ノートごとに特性があるって…少年誌よね。
時の流れ(2006/10/31)
大人と子供では、時間の流れが違う。中学の三年や高校の三年など、振り返ってみればあっという間だった。だが、在学中は、永遠に続くような毎日だった。それが、終始、絶望的な苦痛と孤独に満ちた一日だったとしたら…まともな神経ならば耐えられるものではない。
したり顔のコメンテーターが「学校生活よりその後の方が長い」「たった数年」「学校なんて小さな世界」と定型文のように無責任に軽く言うのは、何とかして欲しい。
高校になると状況は少し変わるが、中学までは、小学校と学区がおなじで、顔ぶれもほとんど同じ。所属する世界は、学校と家庭しか存在しない。その学校が地獄であったなら、世界が地獄であるのと等しい。その地獄の数年を生きるすべを言わずして、ガンバレ。生きろ。と言うのは、ただの突き離しだと思う。これ以上、何をどうガンバレというのか。
大人だって、所属する世界から外に出る事を頑なに拒絶するというか、所属世界の外は死の世界と思っている人は少なくないだろう。大人でさえ、そうなのに、子供にどうしてそれを認識させるのか。それが問題だ。
イジメを苦にしての自殺の過半数が、中学生までと言うのも、高校二年ぐらいになれば、学校以外の世界を実感出来るからだと思う。最後の山は、高校入学して半年ぐらいだろうか。まぁ、高校は高校でリンチという、さらなるいじめもあったりするのだが、コレは中学の関係性と精神の幼稚さを引きずっている事が多いと思う。
やはり、見せるしかないのだろう。学校行事以外での職場訪問(アメリカなんかだと、子供に仕事ぶりを見せる日があるそーだが)、体験学習としての職場体験とか。
個人的には「戦って死ね!」と思うのだが、別に腕力だけが戦いではない。ガゼルの戦いは、その脚力で逃げる事が戦いだ。自分の戦い方、得意なフィールドを見つける事。それが力になると思う。いじめで自殺を考えて屋上で思いとどまった、人生の師匠は、謀略戦に持ち込み、相手を退学させたという。
メメントモリ。死を直視したからこそ見える命の輝き。それは大悟とは言えずとも、覚醒と言える。その感覚を持った人間は、意外と少ない。誇って良いと思う。高僧の著作を見れば、きっと体感した事と似たような事が記されているハズだ。