1,イリスの気持ちに答える
「ありがとう」
言葉を考える余裕の無かった俺は、わき出る言葉に任せる事にした。イリスは、感謝の言葉を、婉曲な断りと思ったらしい。力ない笑顔を見せると、うつむいた。
ジーン、君の言うとおり、人は不確定な感応力よりも、より確実な言葉を選んだ。だけど、言葉も、意思の疎通の道具としては、まだまだ不完全らしい。今にも逃げ出しそうな、イリスの両肩を掴み、深奥からわき上がる想いを、言葉に変換する。
「ありがとう、こんな俺を好きになってくれて…こんな俺で良いのなら…」
イリスは、黙って抱きついてくる。言葉に出来なかったのかも知れない。嬉しすぎて、困惑しているような温もりが、胸に広がってくる。一人一人は、小さいけれど、積み重なれば、きっとこの宇宙ですら覆い尽くせる。
言葉では足りない。気持ちだけでは伝わらない。伝わらない気持ちを伝えるために、人は言葉を作った。しかし人は、言葉に溺れ、伝えるべき気持ちを失ったのではないか?。ニュータイプとは、その無くした気持ちを取り戻した…いや、言葉と言う道具の先にある、何かを見つけたのかも知れない。
言葉に溺れた人間は、人と隔絶して久しい。伝えることだけに必死で、受け止めることを怠った。だからすれ違う。受け止めよう、悲しみも、憎しみも。
ほんの些細な不満が、憎しみを育て、この世界を紅く染めたのなら、このほんの些細な柔らかな温もりも、世界をおおうことが出来るはずだ。ジーン、君のためにも、君を否定してみせる。ニュータイプ、今は野生化した獣かも知れない。だけど、その真価は、どんな些細なことも感じ取れる繊細さだと、と証明してみせる。
「ケストナー博士が、どんなエンディングを想定していたのか解らないけれど…博士の立てた作戦は、間違いなく成功したみたいね」
ジェーンの顔は、寂しそうでもあり、喜ばしそうでもある、不思議な笑顔だった。
「たぶん、博士は賭けたのだと思うわ。真実を知っても、イリスを、娘を守ってくれる人が現れるのを…良かったわね、イリス。素敵な王子様で」
「ジェーン?」
「さぁ、行きなさい。軍部も、そろそろ突入してくるわ。ここに必要なモノが入ってる。元気でね、イリス」
ジェーンは、安物のボストンバックをイリスに押しつける。表情は穏やかだが、その奥にある決意をくつがえすことは、出来そうにない。彼女が、ここに残って何をするかは、容易に察しがつく。
「イリスを、よろしくね」
「ああ、こちらもドロシィを頼む」
必死で連れ出そうするイリスを押さえつけて、ジェーンが示した、設計図にもない非常用の通路へ向かう。この施設、そしてAZALEA、そしてジェーンそのものがいる限り、バイオドールのプロジェクトは続くだろう。ジェーンは、それを精算するつもりなのだ。
流出したデータや情報がある以上、無意味な気もするが、それでも、バイオドールのプロジェクトは、何年かは停滞するし、技術自体退化するだろう。あとは、俺たちの仕事だ。生き延びて、告発する。この事実を。ジーンやヒューの嘆きを声にしよう。
最後にもう一度、振り返る。ジェーンの姿は無い。ドロシィに乗り込んだのだろうか?。
不意に、ドロシィが手を振った。脳裏で、はにかみながら、小さく手を振る女の子の姿と重なり合う。クルスト博士の隣にいた女の子。
「まさか、君なのか?」
ドロシィがうつむきながら、語り出す。
「私は、あなたを守りたかった。あの時、必死で守ってくれたから、今度は私が守る番。そう思ってたけど、また、私たちのために、いっぱい人が死んだ。あなたの友達をまた奪ってしまった…ごめんなさい…」
泣きじゃくる全長18メートルの10歳ソコソコの女の子。あれから、半年も経っていないのに、こんな事に…
「すまない…謝るのは、俺たち大人だ。戦争を始めた、俺たち、大人の責任だ…」
膨大なデータと、思考を焼き込まれた彼女のしゃべり口は、冷徹なキャリアウーマンのようだった。10歳にも満たないような子が、ただ科学者の娘と言うだけで…
「だが、決めたんだ。この世界を悲しみの青にはしない。憎しみの赤にもしない。穏やかな蒼にしてみせる」
「楽しみにしてます。ドロシィ2。またね」
俺は、ただ、頷くことしか出来なかった。
イリスと俺は、言葉無く、出口へ向かう。突き刺すような陽光が、影を浮かび上がらせる。
見ていろ、もはや、影は影ではない。自分の影に怯えるがいい。
1,外へ出る
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