「機を見た忠臣たちが密かに訪れたのは、お前が四つになったばかりの頃だ。一緒に都に帰れればこんなことにはならなかった。」
 エンリックは声を詰まらせた。
 しかし、状況から見れば無理な話だ。
 人目を忍ぶ、急ぎの旅に女と幼児を連れてはいけない。ましてや戦になるかもしれない。
 おとなしく王座を明け渡すとも思えないシェイデに返り討ちにあう危険性もある。
 その時はティアラこそ、唯一の生き残りだ。
 エンリックが命を落とした場合、ティアラが旗印になる。
 むしろ存在を知られていない分、動かないほうが安全だと考えた。
 結局は、最後の別れとなってしまった。
「フローリアとティアラが二人で見送ってくれた日のことは、今でも昨日のことのように覚えている。」
 
 靄が深く立ち込める中、ほんの数人の者と十年近く過ごした館を出立した。
 何も知らないティアラが母親に抱かれて、言われるまま、父親に挨拶した。
「気をつけていってらっちゃい。おとうちゃま。」
「心よりご幸運をお祈りいたしております。」
 小さな手を振るティアラと、深く頭を下げたフローリア。
 エンリックの記憶に残る、言葉と姿だった。

 都には心ある貴族や騎士達が多くエンリックを待っていた。
 野心家なだけのシェイデに忠誠を誓う者より、エンリックの帰還を待ち望む声が高かったのに反し、これだけ長い時間を必要としたのは何故か。
 一つはエンリックの成長、もう一つはシェイデの残忍な性格だ。
 下手に動いてエンリックの身に危険が及んではいけない。
 シェイデに逆らった者達の末路を思うと、皆慎重にならざるを得なかった。
 エンリックが名乗りを上げたことでシェイデは行き場を失った。
 我先にとエンリックの元へ急ぎ集まる者たちの目には、もはやシェイデは国王ではなかった。
「誰にも首は渡さぬ。」
 シェイデもまた人手にかかることを潔しとせず、自害して果てた。
 それは最後の誇りであっただろう。
 決してシェイデは愚鈍ではなかった。いま少し良識があり、叔父として幼少のエンリックを後見し成長を見守り、支えてくれたなら、どれほど信頼できる人物として重用したことだろうか。
 騒然とする都を一旦落ち着かせてから、フローリアとティアラを迎えに行った時、二人の姿はすでに消えていた。

「人任せにしてはおけないと私が館に出向いた時には遅すぎた…」
 即位式には、何としても二人を同席させたい、と願っていたエンリックは行方を捜し続けた。
 だが、騒乱の最中にどうしても見つからなかった。
 おそらく、フローリアはエンリックの復権を聞き届けて、身を引いた。
 もう流浪の身ではなく、すでに国王となったエンリックに自分は不要だと感じて。
 ティアラは物心ついた時は、もう母と二人修道院で暮らしていた。
 フローリア自身、娘を案じて修道女になることはなかったが、この先ティアラはどうしていただろう。
「本当なら三人で座っているはずだったのに、間に合わないまま……」
 エンリックの視線の先に、花瓶の陰で見落としていたが、フローリアの肖像画が、そこにはあった。
 椅子も三つ用意してある。
 テーブルの上のティーカップも三つ。
 本当にエンリックは在りし日のまま、フローリアを愛し、待ち続けた。
 国王でありながら王妃も側室もいないのは、そのためだ。
 自分には、すでに妻子があるのだから。