ティアラには記憶の底に眠る所だが、エンリックにとってはそうではない。
「私、行きたいですわ。」
 マーガレットを迎え、弟や妹が生まれて、フローリアの話を口に出すことは二人ともしなくなった。
 だが、ティアラが国外に出てしまった後では、二度と訪れることはできない。
 臣下たちは心情はわかるが、賛成しかねた。
 雪解けの時節、道の事情も悪く、気候も移ろいやすい。
 第一、辺境に近い土地であるため、遠いのだ。
 できるなら、直前の慌ただしくなる頃でなく、もっと前に時間を取って欲しかった。
 渋る者達を見てティアラも我儘はいえないと諦めかけた時、許可された。
 生まれた家を一目でもというティアラの懇願には、さすがに心が動く。
 お忍びのため、随員も極力減らし、最短の行程を組んでくれた。
 途中で変事があれば引き返すという条件付きだったが。

 活気に満ちた村々を通り抜け、到着した小さな館は、一番近い家さえ、肉眼では見えなった。
 周囲を塀と茂みと木立に囲まれ、外からでは内側の様子がわからない。
 エンリックがティアラの手を取って、門の中に入る。
 ここからは二人きりでと、馬車と人を待たせる。
 ティアラが思っていたほど荒れていないのは、エンリックが管理をさせているからだ。
 中庭にまわると、どこか見慣れた光景。
 まだ花の咲き揃っていない花壇、植え込み、茂み。
 蔦の絡まっている小さなテラス。
 もっと広かった気がするのは、ティアラが小さかったせいだろうか。
「お父様。井戸がありますでしょう。この裏に。」
「ああ。」
 確かに井戸がある。
 今は使われてないらしく、ふたが乗せてあるが。
「ここで重くて運べもしない水桶をひっくり返したこともあった。」
「お父様がですか。」
「違うよ。ティアラがだ。」
 エンリックが笑った。
 幼い頃はティアラも動き回っていた。
 ローレンス達に比べればおとなしいものだったが。
 裏庭を回ってから、館の中に入る。
 長年使われていない、よそよそしさが漂っている。
 居間、食堂、台所。
 当時を偲ばせる家具が、そのまま残っている。
 王子の住居としては簡素というより、質素すぎる佇まい。
「二階が部屋になっている。」
 エンリックが扉を開いた部屋は、現在の私室に比べたら半分もないだろう。
 余計なものが一つもないようだが、昔はフローリアが手作りした品があちらこちらにあったはずだ。
 子供部屋にするような余分な部屋数もなく、いつも両親とティアラは一緒に過ごしていた。
 少年のエンリックもまた、現在の子供達と同じようにティアラに接していた。
 父親として、というより、人間として未熟だったエンリックは娘と共に成長したといっていい。
 ティアラは庭の見渡せる食堂の窓辺に立ち、外を見つめる。
 ここに椅子があり、その上に幼い自分がいる。
 庭にいる人物に手を振っていて、はずみで落ちた気がする。
「あの時、戸口から飛び込んできてくださったのは、お父様でしたのね。」
 記憶の断片に残る風景。
 確かにティアラは暮らしていた。
 この館で、この庭で、何も知らずに、幸せなまま、日々を送った。
 いつの間にか、父の面影を忘れてしまっていたのは、何故だろう。
 女ばかりの修道院で男性の姿が見えなかったのも一因ではあるが。
 見納めになるだろうと、内も外も、隈なく歩き回った。
「本当にありがとうございました。お父様。」
 父との空白の時間が縮まった気がした。
 エンリックと共有した年月の短さを思う。
 時の流れが止まったままの地を後に、父と娘は都へと向かった。