ティアラが何百、何千という人前に出ることなど、今までにないことだ。
 もし、失態でも演じようものならどうなってしまうだろう。
 さすがに不安の色を隠せないティアラにランドレー夫人は気分を和らげようとしてくれた。
「今のままで大丈夫ですわ。陛下もご一緒ですし、何の心配もありませんわ。」
 エンリックがティアラのドレスの裾を踏まない限り、転ぶこともないだろう。
 第一、行儀や作法をやかましく言うのであれば、ティアラよりもエンリックのほうが問題ありそうだ。
「お父様、お疲れになっていらっしゃるでしょうね。」
 顔を会わせる時間が少なくなった父を頭に浮かべた。
 ティアラはエンリックの健康を、ランドレー夫人は所作を思い、表情を曇らせた。

 愛娘のためならば、どんな手間も苦労も惜しまないエンリックは、今回は、さらに拍車がかかっている。
 父親の愛情と国王の威信。
 この二つが原動力になっている現在、彼の頭の中に怠慢や面倒の文字はない。
 ティアラと過ごす時間が減ってしまったことだけは残念だが、少しの辛抱と諦めるしかなく、多忙な中で音をあげないのは、いっそ見事なものだ。
 悲鳴を上げたい心境なのは臣下達に多い。
 文字通り駆けずり回っているウォレス伯は廊下で注意され、日頃の冷静さはどこへやら、
「歩いている時間があるか!」
 思わず声を荒立て、口論になるところをあやうく止められる一幕もあった。
 エンリックの御世になって以来、大規模な舞踏会の準備はこうして進められていった。
 前日ともなると、殺気立っていた王宮関係者は、
−ここで何かあったら死罪になる
 と、早く明日になることを願った。
 ティアラは部屋で衣装と宝飾品の最終打ち合わせだ。
 晴れの日のために、エンリックが特別に新調させたものばかりで、職人達が腕によりをかけ、精魂込めた品々。
 目の前に並べられ、ティアラはランドレー夫人や侍女達と共に驚嘆し、ため息の連続だ。
 エンリックはこの日も空き時間が取れず、やっとティアラと話ができたのは、もう夕食の時間になっていた。
 ゆっくりと食事をするのも久しぶりで、娘の顔を見るだけでも、エンリックはほころんだ。
 反して、ティアラは表情もすぐれず、食も進まない。
「そのように緊張せずとも、何とかなるから安心しなさい。」
 父親らしくエンリックはティアラを気遣った。
 大仰な支度にティアラは、尚、不安を覚えている。
 取り乱さないだけ、立派だ。
「本当に大丈夫でしょうか。私が舞踏会なんて、失敗でもしたら……」
 とうとう、ティアラは手を止めて、うつむいてしまった。
 もし、席上で落度があったら、エンリックの、ひいては王室の体面に傷がつく。
 奔走してくれた人々の苦労も水泡に帰してしまう。
 ティアラ一人の問題ではない。
「平気だよ。私も似たようなものだ。何と言っても、華やかな行事などほとんどないから。」
 エンリックが、大乗り気で準備万端整えること自体、前代未聞だ。
 ティアラを部屋に送った際、エンリックは娘の額に優しく口付けした。
「今夜はもう何も考えないで、ゆっくりおやすみ。」
 夜が更ける。大掛かりな一日の幕開けまで、あと少しであった。


 夏の緑に彩られたその日は、雲一つなく青い空が王宮の上に広がっている。
 夕刻まで待ちきれない者達で、朝から宮殿中に人が溢れかえりそうだ。
 もっとも貴婦人達はそのような事はしない。
 ギリギリまで念入りに化粧をし、身だしなみを整える。
 おしゃれを楽しめる滅多にない機会を、逃すわけにはいかないのだった。
 当日になって落ち着かないのは、エンリックだ。
 彼の場合、嬉しくてそわそわしているだけだが。