準備に忙殺され、帰宅する暇もろくになかった近臣たちも、さすがに一旦、宮廷から退いた。
 彼らとて着替えなければ、会場となる大広間には入れない。
 ティアラはこういった時でも礼拝を欠かさない。
 彼女にしてみれば、祈ることで自分を冷静に保とうとしている。
 午後を過ぎて、いよいよ時間が差し迫ると、ぞくぞくと招待客が、馬車で集まってきた。
 楽団員達は、楽器の音合わせや、楽譜を丹念にチェックしている。

 時間を見計らって、大広間に通じる扉が、一斉に開かれる。
 ドレスの衣擦れと、足音、話し声。
 大舞踏会の幕は、上がったのである。

 エンリックも今日ばかりは何人かの世話係に支度を手伝ってもらう。
 箱を一つ持って、部屋を出る。
 ティアラは私室でエンリックが迎えに来るのを、立って待っていた。
 とても座っていられないのだ。
 ノックの音が聞こえ、ランドレー夫人が声をかける。
「さあ、陛下のお迎えですわ。ティアラ姫。」
 入った途端、エンリックは息をのんだ。
 毎日見ている愛娘は、これほど美しい少女だったか。
「上出来だ。綺麗だよ。ティアラ・サファイア。とっても。」
 月並みな台詞しか出てこないのは、今の彼の言語能力では、無理ないことかもしれない。
「最後の仕上げだ。これをティアラ・サファイア。」
 持っていた箱の蓋を開ける。
 誰もが目を見張るだろう。
 中に納められていたのは、黄金に輝く宝冠。
 無数とも思われるサファイアが散りばめられている。
「我が王家の女性はサファイアの宝冠を身に着けるのが慣例なのだよ。」
 エンリックが今日までお披露目を延ばしたのは、宝冠の出来上がりを待っていたせいもある。
 フローリアの宝冠に使うはずだった分の宝石をすべて使用させ、作らせた逸品。
 サファイアの宝冠。
 王家の血を継ぐものにとっては特別の意味がある。
 娘の誕生が、どれほどエンリックにとって大きかったか。
 王族の姫の象徴を思い浮かべた彼は、そのまま娘に名付けた。
 −今は何もできない。せめてこの名を贈ろう。−
 本物の宝冠を与えてやれなかったエンリックは名前に託した。
「お前の名前だ。ティアラ・サファイア。」
 箱をランドレー夫人に預け、自分の手でティアラの頭上に載せる。
 この瞬間を、どんなに夢見たことか。
「ほら、ティアラ。せっかくの化粧が台無しになる。」
 声も立てられずに泣いている娘の肩を、エンリックは抱きしめた。
「良くお似合いですわ。姫様。」
 ランドレー夫人も微笑みつつ、涙ぐんでいる。
 修道院育ちのティアラが知る由もないが、貴族であれば誰もが謂れを想像することは容易い。
 まさに、彼女の名は二つで一対でこそ価値がある。
 ティアラは一度泣いてしまったので、ランドレー夫人が手早く直し、宝冠もきちんと載せた。
 エンリックが再び声をかける。
「今頃は、皆待ちくたびれている。」
 ティアラは黙って頷いた。
 何か言葉が出てこない。
 ふらつきそうなティアラは、エンリックに手を取られて、一歩ずつ、大広間に近付く。
 廊下が延々と続くかと思われた。
 大広間に続く部屋。
 貴族達とは違う扉を通る。