まさか、ささやかな外出の波紋が広がったことなど露程も知らぬティアラは、大層機嫌がよく、
「またご一緒してくださいね。」
と、ナッシェル夫人に話している。
エンリックは、いずれ学校や病院の視察はティアラにやらせるつもりもある。
慈善施設への見舞いなどにはうってつけだろう。
「私が行くと大仰になってしまう。」
これはエンリックが国王である以上、仕方ないが。
訪問される側もティアラが顔を出せば喜ぶに違いない。
王女としての義務も果たすことになるし、国民の信頼度も増すというものだ。
サロンを開き、茶話会を催すなどして、貴婦人をまとめるには、ティアラは幼すぎる。
観劇や音楽会など、教養を高める必要がある。
その点では、エンリックは役に立たない。
ナッシェル夫人も家庭的な婦人らしく、遊び歩く性格ではないらしい。
ランドレー夫人によれば、元々、人前に出ることが少なく、子供もいて、殊に夫の子爵が亡くなって以来、家の中に閉じこもりがちだったという。
やはり、貴族の出身でないことで女友達も少ないらしい。
「子爵がご存命の頃は良かったのですけれど。」
夫婦仲も円満で、親族の風当たりの強い彼女を庇って、誠実で無欲な人柄だったという。
「生前に会ってみたかったな。」
「陛下のお話し相手になられたかもしれませんわ。」
レスター候やウォレス伯のように有能ではなかったから、その意味では登用されることは難しかったかもしれない。
ふと、エンリックは邸に置いてきているという子息のことが心配になった。
全員が味方ではない中で母親を取り上げられて心細くはないか。
時期当主であるから、それなりに大切にされているかもしれないが、冷たく扱われていないとはいえない。
出仕の際、同行させても良いとのエンリックの言葉をナッシェル夫人は辞退した。
「礼儀もなっていない子供を連れてくるわけには参りません。」
ティアラも強く勧めた。
「男の子でしょう。元気があって当たり前ですわ。」
ナッシェル夫人は遠慮もあって、そこまで甘えられないと思っているらしい。
何日経っても宮殿に連れてくる気配がない。
「私、会ってみたいですわ。」
ティアラが説得しても夫人は困ったような顔をするばかりだ。
すると娘に弱くて大甘なエンリックは、どうしてもというティアラの願いを無視できない。
「とにかく一度連れてきなさい。」
強い口調で命令されれば、従うしかない。
ナッシェル夫人は忠実な侍女だった。
「親子が長く離れているのはよくない。」
正論である。
ましてエンリックとティアラはずっと別々に暮らしてきた。
実感がこもって当然だ。
数日後、母親に手を引かれて王宮に来た男の子は、
「サミュエル・ナッシェルともうします。陛下と姫様にはお目にかかれまして、光栄にぞんじます。」
つたない口調ながら、ちゃんと頭を下げる。
「しっかりした挨拶のできる良い子ではないか。」
エンリックが感心したように、ナッシェル夫人を見る。
「行き届かないことも多く、ご迷惑をおかけいたすことと思いますと、恐縮です。」
これは思い過ごしだ。
サミュエルは、最初、気後れしていたが、その内慣れてきた。
ティアラに会うと母の陰でもじもじとしていたのは、どうやら気恥ずかしかっただけらしい。
ナッシェル夫人が、お恥ずかしくて、とても、と言っていたのは事実ではないようだ。