他人に感づかれているとも知らず、エンリックは困惑したままであった。
(素直に伝えるしかないか。)
ヘンリー卿の言ではないが、遠回しな表現では通じそうにない。
ただ、いつもティアラかサミュエル、でなければランドレー夫人が必ずいる。
二人きりになる機会がない。
断られるかもしれないものを、人前では言えない。
かといって、ナッシェル夫人を呼び出すこともできず、毎日、顔をあわせているので手紙も渡しづらい。
一度、机に向かったのだが、何と書いてよいかわからず、エンリックはペンを放り出した。
恋文は書けない。洒落た台詞は言えない。八方塞がりだ。
まさしく、現在のエンリックは、奥手の一青年でしかなかった。
ある日の夕刻、とはいうものの、日が長い季節のこと、まだ充分に明るい。
退出したはずのナッシェル夫人が戻ってきた。
控えの間に忘れ物でもしたらしい。
エンリックは思わず、後を追いかけて、部屋の扉をノックする。
絶好の機会だ。
ナッシェル子爵夫人マーガレットは、驚きながらも差しさわりのない挨拶をする。
エンリックの胸の鼓動が高鳴る。
−何と切り出そう。
エンリックが扉の前に立っているから、彼女も帰れない。
今日はサミュエルが邸で待っている。
「陛下?」
ためらいながら呼びかけられ、エンリックも決意した。
「王宮で暮らさないか。」
ナッシェル夫人は思いがけない一言にたじろぐ。
「あの…」
「ここに、私とティアラの元へ来てくれないだろうか。サミュエルも一緒に。家族として迎えたい。」
つい、うつむいてナッシェル夫人は言った。
「お戯れを、陛下。」
「私は本気だ!」
一度だって戯れの恋などしたことがない。そういう性格だ。
「私には子もおります。」
「それは私とて同じだ。ティアラ・サファイアがいる。娘の母になってくれないか。」
エンリックは一度言葉を切る。
「王妃には立てられぬが、妻として大切にする。子爵を忘れられなくても構わぬ。」
ナッシェル夫人の表情が動く。
これには心を動かされたらしい。
尚、エンリックは続けた。
「彼を愛しているのなら、それでも良い。過去の思い出は貴女のものだ。だが、これからの未来を私と分かちてほしい。」
一気に言い終えて、エンリックは目の前の相手が、呆然としているのを見つめる。
即答を望んでいるわけではない。
「考えてみてほしい。返答は急がぬ。私は気が長いから。」
退室しようとして、声の出ない状態のナッシェル夫人を振り返る。
「貴女を愛している。信じてほしい。決して戯れで人を愛したりはしない。」
静かに扉の閉まる音がした。
すっかり、生きた彫像と化してしまったナッシェル夫人は、しばらくの間身じろぎさえできなかった。
頭の中で、今、耳に入ってきた言葉が反芻している。
ようやく我に返り、とにかく部屋の外へ出た。
人が見ていたら、まるで倒れそうな危うい足取りと映ったに違いない。
思いもかけない人物からの、思いも及ばない言葉。
いつからあのように想われていたのだろう。
ティアラが気に入ってくれているので、目をかけてくれているくらいにしか考えていなかった。
第一、フローリアを愛してやまないことは、国中が知っている。