おふみを待っていたのは、柔和な顔をした白髪の老人であった。
 いかにもご隠居という雰囲気が漂っている。
「突然でおどろいたろう。この年寄りの我儘、聞いてもらえるかの。」
 隠居の名は笹野弥兵衛。
 ゆったりとした口調におふみは親しみを覚えた。
「はい。ご隠居様。お世話になります。」
「そうか、そうか。」
 いかにも嬉しそうに頷き、笑い声を立てた。

 かねてより迎える準備をしていたようで、鏡台や櫛、簪も新しく設えてあった。
「明日は縁日でも見ておいで。」
 ときれいな浴衣まで用意してある。
「今度は着物を仕立てよう。いや、娘がいると家の中が華やぐ。」
 部屋に案内しながら、弥兵衛は楽しげである。
 おふみは天にも昇る心地で、
(文之助さんにも報せたい。)
 と思いを馳せるのであった。

 翌日、勧められるまま、新品の浴衣に下駄、巾着を持ちおふみは八幡様に向かった。
 短冊を笹に結ぼうとして、人波に紛れる。
 子供も大人もひしめく中、やっとのことで境内に辿り着く。
 お参りをして、引き返す中、人にぶつかる。
 転びこそしなかったが、下駄が片方脱げてしまった。
 拾おうとして、後ろを振返ると、
「大丈夫。鼻緒は切れてないよ。おふみちゃん。」
 快活な声。
 目鼻立ちのすっきりした若侍。
 片方の下駄をおふみにさしだした。
「はい。」
 呆然とおふみは立ちすくむ。
「おふみちゃん。俺だよ。覚えてない?文之助だよ。」
 忘れるわけがない。
 懐かしい笑顔。
「おふみちゃん?」
「文之助さん!」
 おふみは文之助に抱きついた。
「会いたかった。もう二度と会えないんじゃないかと思ってた。」
「俺は七夕に八幡様に来れば、絶対会えると信じてたよ。」
 人込みを避け、二人で歩き出す。
 おふみは真っ先に弥兵衛の養女になったことを話すと、家まで送ると言ってくれた。
 せっかくの逢瀬。
 すぐには別れたくない。
 弥兵衛にも幼馴染の文之助のことを話したかった。
 道すがら、山ほど話したいことはあるのに、思うように言葉が出てこない。
 家まで辿り着くと、文之助は弥兵衛に挨拶したいと中まで着いて来た。
「おお、帰ったか。文之助、ちゃんとおふみを届けてくれて礼を言う。もう帰っていいぞ。」
「そんな殺生な。笹野様。」
 おふみは二人の会話に目を丸くした。
 見ず知らずの仲ではなさそうだ。
 弥兵衛は文之助が公儀のお役目に就いたばかりの頃の上役なのだ。
 何かと浪人上がりの文之助を引き立ててくれ、今のお役目も弥兵衛の口利きが大きい。
「星川の家を絶やしたくないから養子にしたというのに、一向に嫁をもらう気配がないと思えば、許婚がいるなどとぬかしおってな。」
 文之助が養子に行った星川家は直参旗本。
 浪人ならばいざしらず、町娘のおふみを嫁になど許してくれるはずもなかった。