さて、悔しがったのは、せっかくあと少しというところまで追い詰めた、滝川京之進。
 相槌を打つのに一苦労なのは、平吉とお町。
「しかし、だんなも大変ですね。昨夜は私も叩き起こされましたけど。」
「面目ない。」
 気落ちしている滝川を、
「何もだんなのせいじゃ、ありませんよ。」
 ついつい励ましてやりたくなってしまうのも、お町の姉御肌。
 元より、自分が雪影を庇って逃がしてやったという、良心の傷みも手伝っている。
 雪影を町方の目から隠してやったといえば、江戸っ子の拍手喝采を浴びるのは必定だが、手柄を立てそこなった滝川にしてみれば、ただの盗っ人の片棒担ぎ。
 知れたら馴染みといえど何を言われるか、わかったものじゃない。
 それでもお町が嘘を付いている、なんてことを夢にも疑わないのが、滝川の人の良いところ。
 ひとしきり、愚痴をこぼした後は、性懲りもなく、また雪影の手掛かり捜しに出掛けて行った。
 入れ替わりに入ってきたのは、荷物を背負った助八。
 今の今まで、滝川がいた事を、お町に聞かされ、
「そりゃ、いいとこに来た。今、八丁堀のだんな方、皆、おかんむりだからなあ。特に、滝川のだんなときちゃ、相当なもんでしょうから。」
「当たり前だよ。悔しがってたといったら、もう。」
「違いねえ。」
 店にいた客達、当の滝川の気も知らないで、ちょいと酒の肴につまみ食い。
 滝川がその場にいたら、腸が煮えくり返るような事を、あれやこれやと囃し立てるわ、まくし立てるわ、どこぞで、くしゃみの一つも出ただろう。
 だがそれも、ほんの一時、笑いの種。
 次第に客も引き上げて、一休みしていた助八も、最後になって腰を上げた。
「お町さん、今日はきちんとお代払うよ。今日までの分も含めて、いくらだい?」
「あいよ。」
 お町が奥へ引っ込んで、帳簿で照らし合わせた金額を、助八は巾着袋から、じゃらじゃら銭を取り出し手渡して、いざ帰ろうとした時、お町はぐいと腕を捕まえた。
「あまり無茶するんじゃないよ。でないと滝川のだんなにお縄にされちまうからね。」
 ぎょっとして、助八、うすらとぼけたふりを取り繕って、
「何の事かい。おいらにゃ、さっぱり。」
「誤魔化すんじゃないよ。このお町の目は節穴じゃないんだよ。私も江戸っ子。何もだんなや親分に告げ口しようってんじゃないから、安心おし、弥太郎さん。」
 どうやら、どう足掻いても誤魔化しきれないと堪忍した助八は、
「正体ばれたんじゃ、仕方ねえや。おかみさん、昨夜は世話になった。ろくに礼も言わないで、すまなえな。」 素直に兜をぬいだ。
「礼なんていいんだよ。くれぐれも気をつけな。ま、頑張って小間物商売やってきな。」
「あいよ。言っとくが、さっきのは、昨夜の稼ぎじゃないから誤解しないでおくんな。」
 お町に送り出された助八、心の底からお町に感謝して、「あづま」の暖簾をくぐって、出て行った。
 盗っ人といえども、彼も人の子。
 人の情けは身にしみて、ありがたい。

 さて、助八こと弥太郎も、何も根っからの悪党というわけじゃない。
 元は、小間物問屋、鶴見屋という、一昔前は結構な身代の息子だった。
 それが身を持ち崩したのは、店がお取り潰しになったせいだ。
 彼の父親は真っ当な人間だったが、助八の母に先立たれて以来、魔がさして、ついご禁制の品の抜け荷に手を出した。
 何度となく手を染めている内に、お上の知るところとなり、とうとうお縄になった。
 法によればお取り潰しの上、死罪だが、その前に牢内で亡くなった。
 一時は逆恨みしたものの、いってみれば身から出た錆、自業自得。
 それに不当な利益を得ていただけでなく、今度は悪徳役人とも繋がるはずだったらしいことを知ると、そのせいで何人もの商人達が迷惑を被っていた事までわかってしまった。
 父がそこまで堕落していたのかと思うと、無性に悲しくなった。
 商人は自分の利益も大切だが、人様の役に立つことが、商人の役目ではないか。
 人を苦しめる商人であってはいけないのだ。