CAMERAバカの記(2001.04.20記)

AIRES35-2型が、初めて買ったカメラ。昭和29年12月の冬のボーナス。確か18.000円位だったが、もちろん月賦。これはその当時画期的な注目をあびたLEICA-M3のブライトンラインレームのような白枠を持つトリミングファインダーがついていた。1眼式距離計連動、ビスのない外観、プロクサーなしで50Cmまで接写ができる、青二才がもつカメラとしては申し分のないスペックだった。これをもってずいぶん写し回っていたが間も無く手放してしまった。今考えると惜しいことをしてしまった。(当時M3は18万円だったと思う)

その翌年だったか、映画「ローマの休日」の中で新聞記者がオードリー・ヘップバーンを隠し撮りしたライターカメラが欲しくなり、どこでどう探したか忘れたがこれを何とか求めることが出来た。確かプレスバンというカメラを出していた会社製だった。8mmフィルムを使うのだが当時はそんなフィルムは市販されておらず、16mmフィルムを縦に切って片方のパーフォレーションを送りだす形式だった。隠し撮りをした直後カチッと火をつけて煙草を吸い込む、映画のように格好良くはならなかったし、皿現像してみると腕の悪いせいもあり、人に見せられるような写真ではなかった。

戦後から昭和30年代位の間はカメララッシュの時代で、いろんなカメラが現れた。、アルファベットの文字のほとんどの名前のカメラがあったという話を聞いている。宣伝コピーで「淑女はニコンが好き」というのがあった。おそらくS型時代と思うがもちろん手の届く存在ではなかった。

引伸機は、義兄が昭和初期に使っていたハンザ製の木製で、絞りがなくすりガラスを加えて露光調整をするものだった。ろくな写真は撮れずほとんど職場の合間で撮ったスナップみたいなものが多かったような気がする。

OLYMPUS-WIdeカメラを持たない生活はやはり淋しく、このカメラが出たときに飛びついた。昭和33年だったと思う。当時交換レンズよりも安いカメラとして注目を浴びたものだ。これにはずいぶんお世話になっており今でも手放さずに持っている。ちょうど転勤で鶴岡に行くことになり、月賦の支払いは兄貴に任せていい気なものだった。

Nikomart-EL8年間の鶴岡生活を終え昭和41年に再び新庄に戻ったが、貧乏な結婚生活と子育てでカメラどころではなくなり、OLYMPUS-WIdeで子供の写真などをとっていた。それから15年ほど経って昭和48年、少しばかりだが生活も安定し、再びカメラ熱に火がついた。機種は初めからNikonと決めたが、F2にしょうかどうか散々迷ったあげく、Nikomart-ELにした。理由はカメラから離れてしばらく経っており、使いやすさを優先させた結果だった。このカメラは本当にいいカメラだった。サブカメラとしてはNikomart-FMNikomart-Ftnを求め、これらの交換の繰り返しが続いた。今手元に残っているのはNIKON-F3、とNIKON-FEの2台である。私の一眼レフ遍歴は、最後の機械式といわれたこのNIKON-F3で終わり、オートフォーカスの一眼レフは今でも持っていない。当時のカメラ雑誌は相も変わらず一眼レフの新型の発表ばかりで、一眼レフにはいい加減飽きが来ており、関心はファインダー式に移っていた。