もどる

大蔵村村史(p970)抜粋
(二)小磯国昭元首相の来村と開拓計画
元首相の突然の来村
 終戦直後の大蔵村にとって、もっとも驚異的な出来事といえば、昭和20年9月中旬、つい5ケ月前まで、一国の総理の座にあった小磯国昭が突如来村、開拓計画を提示してまもなく、A級戦犯指名逮捕で取りやめになったということである。これについては、終戦直後の県内の状況を記して定評のある大野六弥著「激動のドラマ山形県の戦後秘話」その他でも取り上げられていて、今では知られていることだが、一般村民にとっても、あとで聞いての「衝撃的」な出来事であった。
旧村史の「元総理大臣を村長に」の記述は、佐藤忠良氏が、多くの関係者から度重ねて聞き取りしたものなので、信憑性が高いものと思われるものである。まず冒頭の部分を引用しよう。

昭和20年9月半ば、残暑の激しい午後のことである。当時一般に多く見られた古い軍服姿の人が2人南山小学校の玄関に立った。応対に出た職員に60年配のがっしりした体つきの人が「小磯」と名のったのでハッとしてその人の顔を改めて見直して驚いた。5ヶ月ほど前まで総理大臣として日本の興亡をになった人の顔は、新聞などでよく知っている。陸軍大将前総理大臣小磯国昭氏のまったく突然の来訪であった。狭い職員室の中で随行者とともに1時間近く休憩され、「有り合わせの唐きびを焼いて差し出したのを、さもうまそうに食べてくださったのが強く印象に残っている」と、当時の校長・押切七郎氏が述懐している。休憩中の話では湯の台、塩台などの地形を見て巡られ、その途中、学校があるので一息つこうと立ち寄られたとのことでだったが、敗戦直後で従前の価値観が大きく転換していたときとはいえ、一国の総理大臣としていわば位人臣を極めた人が、何のためのこの山間へき地をわざわざ歩きまわるのだろうと、氏の帰られたあとの職員室ではしばらくあれこれ推測して話しあったのであった。

この日のことについての後日談だが、柿崎豊三郎氏によると、「その時」急きょ地元青年団関係者らが集められたという。そこで元首相は、しばし、青年達と率直な懇談をしたが、青年団幹部であった柿崎氏もその一員だったという。話し合いの内容はほとんど記憶にないが、一同写真を写し、それは職員室内に提示されてあったものだが、昭和27年2月10日の南山小学校の火災で焼失したのだとのことである。

ちなみに小磯国昭は、明治13年(1880)、旧新新庄藩出身士族で当時栃木県警部小磯進の長男として宇都宮に生まれた。幼児の小磯は父親の勤務の関係で、栃木、東京、島根などを転々とし、上山小学校・山形尋常中学校(現山形東高校)にも在籍した。陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、陸軍省軍務局長、関東軍参謀長、朝鮮総督府、陸軍大将、拓務大臣等を歴任。昭和19年7月、東条内閣退陣のあとをうけて内閣総理大臣に就任、同20年4月辞任した。既に敗戦色濃い状況下で、ソ連、そして中国との和平工作などで難局の打開に努めたが、万策尽きかてての辞職であった。

来村の目的とその後の経緯 元首相は何の目的で突然本村を訪れたのであろうか。それは彼の自伝「葛山鴻爪(かつざんこうそう)」の記述や、清水・小屋家に所蔵されている小磯から先々代小屋十右衛門にあてた3通の書状からも伺い知ることができるが、氏は戦後の食料難に対応、大蔵村を中心とした酪農と開拓を進めるため、事前調査に来たのだった。すなわち前掲「葛山鴻爪」には次のようにきされている。

敗戦亡国の姿になってきたについては、老骨なればとて遊んでいるべきもなし、また遊んで生きていかれる身分でもない。さればとて国民の自活上、食料の増産にでも寄与する以外なし得べきこともないと考え、筆者自ら腰を下ろすべき農村を至急山形県に物色しようと思った。(中略)
視察の結果、筆者が腰を下ろすのに適したと思惟されたのは、東村山郡の山口村と最上郡大蔵村とであった。山口村は水田経営に適すと思われる広面積の耕地が桑畑となっているが、この桑は村内の山の傾斜に移すこともできると思ったのと、村内または隣村の地内に水力発電の見込みがあるのが着眼であり、大蔵村は開墾可能と思われる幾多の台地が荒蕪地として放任され、また水力発電が可能な場所が所々にあるばかりでなく、村内には銅及び亜炭を多産し、かつ塩分濃度の高い滝水が存在する等、開発の見込みが十分であると思われたからである。(中略)
大蔵村は交通に恵まれず自然改善向上のためには、今後実施せねばならぬことが特に多いと思われるので、筆者が腰を下ろすべき所は結局大蔵村であろうと判断したのである。

また、元首相が本村の小屋十右衛門に宛てた書状とは次のようなものである。

拝啓 過般ハ參趨 種々御高配を相煩ハし 特二17日ハ遠路新庄迄御足労相願ひ 加之 難問の調査相願ひ申訳無之候 然る処 終始御厚情御被瀝に接し 衷心感謝此事ニ御座候
此上ながら其節御願申上候件 至急御調査御回報願上度 村山地方よりの通信と睨み合わせ 爾後の処置決定致度所存に御座候 尤も戦争指導者としての小生身柄ニ関してハ目下全然不明に有之 自然村長就任等之儀ハ右決定を待ちて徐に実現方考慮の見込に御座候 此辺をも御含の上御調査被下度願上候
先ハ御礼旁重て御願申上度如此ニ御座候                        敬具
追而将来村長就任此場合に於てハ 現村長及び助役を第一・第二助役此ニ御願可然愚考御高見拝度ものニ御座候
9月22日                              小磯国昭
  小屋十右衛門 様

拝復 逐日向寒の之砌 益々御清康奉慶賀候 降而小生之大蔵村入に関し 村議諸君達御賛成之趣 恐縮此事ニ御座候 果たして御厄介相願すべきや否やハ本月下旬頃 參趨之上決定致度 自然八幡神社裏付近借家の件も其節 実地見分の上に採否を決し度不悪御了知被下度候 
御上京の儀ハ当方都合ハ14日辺之間なれハ在宅喜んで御迎へ可申上候 然るに御繁用中小生に関する問題丈ニての御上京なれハ恐縮ニ候間 寧ろ御辞退申上度存候
  尚本月20日頃迄に左記之件御研究置被下度候 我孫子氏とも御相談被下度候
一、頭脳明晰 思想堅実 体格強健ニシテ将来大蔵村ノ模範農民タラントスル青年2〜3名を物色ノコト
一、年齢は20歳前後ノモノタルコト
一、小磯ノ指導ニ依リ短期間(6ヶ月位)北海道ニ派遣教育ヲ受ケ帰村後小磯ノ命ニ従フモノタルコト
一、被服は自弁ノコト其他ノ経費ハ小磯負担ノコト
右御返事旁当用如此ニ御座候                             敬具
11月8日夜                              小磯国昭
  小屋十右衛門 様

(以上大蔵村村史抜粋)

付記
○  9月11日、東条英機以下39名戦犯指名
   11月19日、小磯国昭戦犯指名、11月23日、巣鴨拘置所に収監、判決  無期懲役、昭和25年70歳で病没す

○「頭脳明晰 思想堅実 体格強健ニシテ将来大蔵村ノ模範農民タラントスル青年2〜3名」は、小屋十右衛門三男重治(当時18歳、前清水郵便局長)、新庄町 黒沢国昭(17歳)、同町 鈴木富雄(18歳)、山口村 伊藤圭三(15歳)、同村 伊藤定雄(16歳)、同村 松田勘助(16歳)の6氏で、元陸軍大佐大堀知武造氏に引率されて11月末北海道に渡り、札幌月寒農場付属月寒学園の聴講生として主に機械化農業を学んで5月に帰村した。

○「小磯農場」のその後。北海道での研修を終えた大堀氏らは本村に帰り暫時の間開拓に挑んだ。
 昭和22年秋 大堀氏と大蔵側の3青年のみとなる。
 昭和23年春 3青年も離農。大堀氏昭和24年春新庄に移り引き揚げ者収容の常葉寮の寮長となる。

以上大蔵村村史より

怒りの宰相小磯国昭より (中村晃著 叢文社)
(P218〜)
・・・落ち着かぬ日々を過ごすうちに国昭は、旧知の人々にむしょうに会いたくなった。あわただしく秘書の松阪に連絡をとらせ、最後の旅に出かけたのが11月15日夜である。天童近郷の山口村がまた国昭の新しい村起こしの適地と考えられるから、その下見というのは名目である。
 天童の旧二見館に腰をすえて、国昭は多くの人に会った。それとなく別れを含めてのことである。
村山道雄知事、大内有恒山形市長、護国神社宮司の田代洗太郎らと・・・。竹馬の友の書店経営の遠藤純平、旅館経営の三上寿松らとも旧交を温めたが、今までになく彼らの気持ちがはずまなかった。それと察した国昭は彼らに問われるまでもなく、戦犯の問題に触れていった。
  (略)
「勝てば官軍、負ければ賊軍。微笑して断頭台の露と消えるか」
  (略)
11月19日、国昭は伊藤儀左衛門の案内で現地を一応視察した。伊藤家の一泊してその翌朝、国昭が新庄へ向かうため天童駅で列車を待つ間、秘書の松坂が山形新聞を読むなり記事を示してこう告げた。
「閣下、いよいよ参りました」
「そうか」(略)
「いかがなされますか」国昭はちらと考えてこう答えた。
「まだ公式の通知を受けたわけではない。新庄の用件だけは済ませて帰ろう」
そのまま国昭は新庄に行き、楢岡新庄市長にも会って此の事実を話し別れを告げたが、司令部命令は急であった。
20日午後、国昭は新庄警察署からこう伝達された。至急上京の上巣鴨プリズン(拘置所)に入所せよと。国昭はそれを了承し、その夜は楢岡の肝いりで戸沢子爵らを混じえ、新庄ホテルで別れの宴が張られた。
21日列車が新庄駅を離れると、天童、山形、上山の各駅のプラットホームに、知人達が待ち受けていて国昭を見送った。(略)
北沢に家に帰ると、陸軍省から既に次のような連絡が入っていた。巣鴨入所日を11月23日午後3時とする。衣服、寝具、手回り品の携行を認めるというものであった。(〜P221 以上)

○第3回目の尋問の時、検事は国昭にこうたずねた。
「世間では貴下を『朝鮮の虎』と呼んでいる。それはどうしたわけか」
国昭は苦笑して答えた。
「私も自分が新聞でそう呼ばれているのを知っている。歴代朝鮮総督中、私がもっとも醜男だった。だから新聞も虎と書いたのでしょう」
検事も婦人記者も声を立てて笑った。(以上 P229)