その折、仁田山には父の旗持で勘助と言う人の家を聞きましたから更に仁田山に出発いたしましたが、途中歩行も捗らず遂に仁田山の川原に行き暮れまして、川原に野宿するの止むない事になりました。実に云うに云われない悲境に陥りました。
 その晩、新庄方面は火事で空一面真っ赤になっている状を眺めながら、まんじりともせず一夜を明かしました。病祖母は自分の病気にも係わらず、子供らは川原では寒かろう、痛かろう、とて懐中より鼻紙を取りだして川原に敷いて呉れましたことなどを記憶して居ります。

一 七月十五日 翌日は野宿した川原を出発して、二枚橋、下野明を経て山崎に行きましたが、ここで小磯おくに様(進様の母)、戸沢おしん様(理右エ門様妻)、武石おさと様(銀治様妻)とご一緒になって山崎の子之助けの宅に泊まりました。

一 七月十六日 この日は山崎を発って金山街道の坂道や及位の塩根峠、御国界の雄勝峠を越えて院内を経て馬場というところに泊りました。只今考えますと、能くもこんな山坂を越えて長い旅路を11歳になる子供を連れて歩くことができたものと思います。
実に一生懸命とは恐ろしいものであります。
 この旅行中、小磯のおくに様が私の母にお話しいたしますには、小磯家では余りに突然の立ち退き故、そのお子さんの金平さん、卯八郎さんを取り残してそのままお立ち退きいたしたそうです。その際捜索は致しましたそうですが、どうしても見当たりません故、止むなくそのままお立ち退きいたしたそうです。実にお困りのご様子が見えまして、私共の連れ参りました僕・清作を、お子供捜索のため一時貸しては下さいませんか、とのお話です。この僕清作は以前には小磯様に居った関係もあり、実にご同情に堪えませんから、つい清作は小磯様の御意通りにすることにいたしましたが、これからは私の病祖母は、母が背負うて旅行を続けねばならい様なこととなりましたので、母も一層難儀なこととなるので御座います。母としては実に困ったことになったので御座います

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