戊申戦役当時家中家族立ち退き状況の一節
(瀬川とゐ子夫人感想実話)      可児友三稿

瀬川夫人は、小山家より瀬川家に嫁したるをもって、ここに掲ぐるは小山家の立ち退きの状況であります。
瀬川夫人、感慨無量の面持ちにて淑やかに話しされたるは、左に一節であります。

一 明治戊申七月十四日、この日は懐かしい土手の内の屋敷を立ち退きたる最初の日であります。
 父八蔵(55歳)、兄下枝(26歳)は早く既に従軍いたしまして、留守宅の家族は、祖母しよ(76歳)、母みす(46歳)、弟銀作(11歳)と私(16歳)とでありました。
 ご承知の通り以前よりお城からのお達しで、戦争のために家族は、立ち騒いではなりませぬ、家財道具を持ち運んではなりませぬ、凡て物静かになさい、とのことで、足軽目付・田沢作兵衛は、火縄筒を携えて家中屋敷を見回りましたのでありますから、一般に何事も取り片付くるなどという事なく、十四日立ち退きの当日まで何れも不安の念に駆られてはありましたが、一般に平常の通りにして居りまして、或る屋敷などでは盆の十四日のこと故「ボタ餅」などを仏前に供えましたお宅も少なくないようでした。
 その日は何となく物騒がしく諸手の官軍引き上げとかで、舟形口の藩隊は引き上げてくる、敵は既に舟形より角沢方面に渉り、更に飛田方面に迂回して来た、との報知もあり、そのうち大砲や鉄砲の音なども頻々と聞こえますから、茲に初めて女子供は、一同屋敷を立ち退くことになりました。

 その時勿論、出立の用意などは更にありません。「わらじ」などを履かず、単衣一枚着の身着のままで草履を履き、私の家族は前にお話ししました通り、祖母は76歳、そのうえ祖母は「しかん」とかいう病身で、手足は立たず歩行もできませず、下僕清作に懐抱させながら、母と私と11歳の弟を連れて、今で言う丁度午後の二時頃、何処を目標ともなく立ち退きましたが、太田の瑞雲院は菩提寺の事でありますから、其処に行きましたが、お寺は非常に混雑でとても居ることができませんから、其処を立ち退きましたが、太田街道は人馬織るが如く物騒で、通行危険でありますから、間道を辿り中山を経て萩野に行きました。

次ページへ