一八月十一日 和田を出発して「ウシマチ(注:村名ならん、文字不明)」に行き、その家に戦死した主人の僕渡部文作が参りました。それは主人が戦死したため家族の居る所に参りましたのでございます。
「ウシマチ」を発って久保田には午後1時頃着きましたが、泊る場所も決定しませんので、その日の夕方まで路傍に立ち通しです。暫して決定したとみえまして「八ッ田」というところに夜十時頃行きましたが、その家の主婦さんは米もなし薪もなし勿論布団などはありません。実に困ったな、という陰言を聞きまして心地悪くございました。
それから「八ッ田」を発って久保田の近傍城表に五泊いたしました。城表を発ちましてから久保田より約二里隔たりたる元町という禅宗の源正寺に四十日間お世話になりました。そこには家族合計約百八十人居りました。
その日その日の炊事は当番をたて滞在中のご婦人方で引き受けたような次第です。

私の病祖母などには布団の代わりに帯を敷かせて寝かせて居ったような状態でしたが、後には秋田様より老人には海藻を入れた寺の幕で作った布団などを呉れましたが、とても塩気を含んでジメジメして寝られたものではなかったそうです。また有り合わせの衣類などを恵まれましたが、或る人は古羽織、或いは袷、綿入れなど各種各様の有り様でしたけれども、立ち退きの当初は、単衣一枚の着の身着のままでありましたから、これでも結構でございました。
その後敵が降伏し戦いが終わりを告げたというので、一同国に帰るという報が参りましたが、その時歓呼のドヨメキが四方に湧き起こり、云うに云われない勇ましい愉快の感じがいたしました。

一 十月一日 帰国のためそこを立ち出でました。その時九条様より旅費として金二両(桜銀八枚)下さいました。小山の家族は横手一泊、湯沢一泊、院内一泊、山崎子之助宅九日間泊り、その後馬喰町吉村忠兵衛方に二年間、即ち焼け跡に小屋が建つまでお世話になっていました。

と、談終わりて大息すること久し。

以上は久保田落行にかかる瀬川とゐ老夫人の直談なるが、これと同様の憂き難難を嘗め、互いに相寄り相扶けつつ、勤王の忠節を全うして、既往現在は勿論将来共この光輝ある歴史を飾ることを得たのは、全く我々郷党の誉れであります。この項終わり。

注意:老夫人の御話中、何月何日何処に泊りました、と云われたのは何等間違いはないと思いますが、何日間滞在いたしました、と話された際の私は、その滞在の日を推断して、何月何日より何月何日まで、と明瞭に書きましたところには、或いは錯誤があるかも知れません。また地名の文字は私の想像で書いたので間違いあるかも知れません。その他誤字脱字等無きを保し難き故御寛宥を願います。


注:原文はカタカナで記されていますが、読みやすさを考え平仮名にした。また一部の漢字や仮名遣い等はワープロ変換に従った。(Nacca)

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